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結局、数日たっても手紙の主らしき人物からの接触はなく、私は警戒しつつも日々を過ごしていた。
週末、今日は桃香の部活も休みという事で、朝からお出かけの準備をしている。
実はこれがゲーム序盤の最後の出会いイベントなので、私も一緒に出掛けることにした。
本来は桃香が学園で初めて友達になった香川茱萸と二人で出かけ、出会いイベントに遭遇することになっているのだが、先日のパーティーで仲良くなった胡桃澤嘉穂と2年の白木由美子、錦木奏子も参加することになったので、便乗して私と親友の柿崎由紀も仲間に入れてもらった。更に桃香のクラスメイトの倉田苺も来るらしい。
ゲームデフォルトの予定通りだったらついていく口実が無くて、最悪尾行しないといけなかったので、助かった。
「お姉ちゃん、仕度できた?」
はしゃいだ声を上げて部屋に飛び込んできた桃香は胸元で切り返しのある淡いピンクの花柄のワンピース姿で、トレードマークのポニーテールにはワンピースとお揃いの花柄のシュシュを付けている。動くたびに揺れる裾と髪が軽やかで、春の妖精のようだ。
「桃香はばっちりのようね。私も今終わったところよ」
私はと言えば、柔らかなロング丈のシフォンブラウスに細身のレギンス、腰をベルトで絞ってワンピース風にしている。
元々シンプルな服装が好きなのだけれど、あまりシンプル過ぎて女の子らしさのない恰好になるのも困るので、さじ加減が難しい。
「お姉ちゃん、もっと可愛いの着ればいいのにフリルとかついたやつとか」
「う~ん、あんまりひらひらしたのは私には似合わないと思うのよね」
「それはお姉ちゃんの思い込みだよ。今日はお姉ちゃんの服も見立ててあげるから、もっと可愛い服も買おうね!」
満面の笑みで言われれば頷かざるを得ない。桃香が喜んでくれるならいいか。
駅前で待ち合わせをして電車で二駅ほど移動した繁華街にある大型ショッピングモールにやってきた。普段こういう所へは来ないのか、香川さん、倉田さん、胡桃澤はきょろきょろと珍しそうに周りを見渡している。由紀はこういう所へも頻繁に来ると言っていたし、私たち姉妹や白木さん、錦木さんにとってはホームグラウンドみたいなものだ。
3人はお嬢様だから普段の買い物はもう少しランクが上のお店が並んでいるところへ行くのだろう。
彼女たちの趣味に合うような品物があればいいのだけど。
「あ、あれ可愛い」
私の心配をよそに、倉田さんが雑貨屋の店頭に並んだ小物を指して駆け寄る。引っ張られるように他の子たちも移動し始め、その後は楽しくショッピングをし、会話も弾んだ。私が心配したほどは価値観の違いもなく、特待生の間で人気のファーストフード店に入っても、お嬢様方は美味しそうにハンバーガーを頬張ってくれた。
歩き回ってお腹も満たされると、お喋りに花が咲くのはお嬢様でも庶民でも同じらしく、話題はパーティーの事や今日の買い物、最近の学校での噂など、次から次に際限なく溢れてくる。
「そう言えば、来週2年生に転校生が来るって話、本当なんですか?」
香川さんがふと思い出したように訪ねてきて、私は内心で、来た、と思った。この会話はこの後の出会いイベントの前振りで、実際のゲーム上では『来週2年生に転校生が来るらしいって噂なの』という台詞だったが、メンバーが増えたことで変化したらしい。
「確か中東の小さな国から来るっていう交換留学生でしょ? 手続きの都合で新学期に間に合わなかったとか」
情報通の由紀が噂の転校生の詳細を教えてくれる。けれど、実は私はすでにその転校生の事を知っているのだ。何故ならその転校生こそゲームの中で桃香が出会う攻略キャラの一人だからだ。
ゲームでは香川と休日を楽しんだ桃香はこの後大通りの信号待ちでよろけて危うく車に轢かれそうになる。その車に乗っていたのが噂の転校生で、留学生のシェリモーヤ=アサド=ジャムシード、通称シェリムなのだ。
因みに彼の身分は王子様である。篠谷のようにあだ名として呼ばれている訳ではなく、正真正銘、中東のとある小国の第7だか8だかの王子様なのだ。序列からも分かるように王位継承権からは遠いが、遠い異国の、それも一夫多妻制の国の王族の嫁になるなんて、まだ嫁ぎ先が国内な分、小林檎宇の嫁の方がマシである。シェリムのルートは場合によっては砂漠のハレムに攫われるルートもある。…うん、絶対に駄目だ。断固阻止しないと。
今日の出会いフラグをへし折るにはとにもかくにも、桃香の接触事故未遂を防ぐことが重要だ。
店を出て歩くとき、さりげなく桃香の隣をキープする。問題の通りは目の前だ。休日という事もあってかなり混み合っている。信号が赤になり、私たちは立ち止まったが、後続の集団に押されてしまったらしい桃香がよろけてたたらを踏む。
「桃香危ない」
予想通りの展開に慌てることなく私は桃香を支えた。体勢を立て直した桃香がありがとうと言うのを聞いてほっと息をついたとき、私の背中に衝撃が当たる。油断した瞬間だったせいで、私はそのまま道路に踏み出してしまった。激しいブレーキ音がして、間一髪で私の横をすり抜けた黒塗りの車が数メートル先で止まった。
私はと言えば、車をよけようとして、地面にしりもちをついてしまった。手を突いた拍子にアスファルトで擦れた掌がひりひりと痛む。
「お姉ちゃん!!?」
桃香の悲鳴が聞こえ、我に返る。危うく跳ねられるところだった。ゲームでは転んだ桃香の手前で車が止まっていたけど、今のは避けてなかったら完全にアウトな速度だった…。冷汗が背中を伝う。更にこの後の展開を考えると頭痛までしてくる気がした。事故未遂を防げなかったのだから、この後は当然…。
視線を向ければ止まった車から運転手らしき壮年の男性と、若い男が降りてきた。ゆったりとした白い民族衣装にカフィーヤと呼ばれる布を頭に巻いている。浅黒い肌に彫りの深い顔立ち、切れ長の瞳は琥珀色で、カフィーヤの隙間から零れる髪は銀色だ。前世の世界での常識だと遺伝子的にあり得なさそうな組み合わせだが、この世界では有りらしい。すらりとした長身でゆったりと歩み寄ってくる姿は威厳に満ちていて威圧感がある。
「失礼しマス。お怪我はアリませんカ?」
少しアクセントに癖があるが、かなり流暢な日本語で問いかけられ、手を差し伸べられた。無碍にするのも失礼なので手を借りて立ち上がる。
「ああ、掌に傷が…よろしければ私の滞在先で治療を…」
「いえ、大した傷じゃないので結構で…」
発生してしまったとはいえ、イベントを進行させるつもりはないのであたりさわりなく断ろうとしたとき、私の背後に何気なく目をやったシェリムの目が見開かれた。そのまま彼は握っていた私の手をポイッと、ごみのように放り棄てた。
「きゃっ!?」
勢い余って再び地面に掌を擦ってしまう。非常に痛い。流石に文句の一つも言おうとして、振り返ると、シェリムはこちらへ駆け寄ろうとしていた桃香を一心に見つめていた。しまった。
「お姉ちゃん大丈夫!? え!?」
桃香が私に向かって差し出そうとして手を横合いからシェリムが掴んで引き寄せる。ぎゅっと握りしめ、うっとりとした表情で桃香に囁きかけた。
「遥か異国の地でこんな出会いがあるなんて夢のようデス。小鳥サン、どうかお名前を教えて頂けマセんか?」
当の桃香は地面に倒れこんだ私を見て、シェリムを怒りの表情で睨み付けている。上目づかいで睨んでも可愛いだけなので、おそらく逆効果だろうと妙に冷静な頭の端で思った。
自力で立ち上がる私を見て、桃香がシェリムの手を振り払って、駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、怪我、大丈夫?!」
「お姉サン…?! ああ、それは失礼…しまシタ。」
姉という言葉にシェリムが一瞬目を輝かせた後、私を見てあからさまにがっかりした。…悪かったな。似てなくて。というか、似てたらどうするつもりだったんだ。私が桃香にそっくりだったら両手に花にでもするつもりだったのだろうか。
桃香が二人いたら…私もやりたいかもしれない。いや、そうじゃなくて。たとえ私と桃香が双子だったとしても、桃香と他の女を天秤にかけようだなんて、言語道断である。一夫多妻の国だからってこっちがそれを許すと思って貰っちゃ困る。
まあ、桃香一筋だと言われてもそう簡単に渡すつもりはないけれど。
「桃香、怪我なら大したことないから。どこかで洗うだけ洗って、絆創膏でも貼っておけば問題ないわ。あちらの車も問題はなさそうだし、もう行きましょう」
シェリムと桃香の間に割り込むように立って、桃香の手を引く。とにかくこれ以上シェリムを桃香に近付けたくない。桃香もシェリムの態度に怒っているようで、しつこく声をかけようとするシェリムを完全に無視して私の手を握ると歩道で待っていた胡桃澤たちの方へ戻っていく。
こっそりと背後を窺えば、シェリムは呆けた表情で只管に桃香だけを見つめている。…面倒なことになった。
結局、私が怪我をしたこともあって、その日はそのまま解散することになった。駅のトイレで掌を丁寧に洗い、近くのドラッグストアで消毒液と包帯を買って簡単に手当てをした。絆創膏でもいいかと思ったが、傷は浅いのに広い範囲で擦ってしまったので、包帯で巻く羽目になったのだ。
「こんな酷い怪我をさせておいてお姉ちゃんをさらに突き飛ばすなんてあの外人さんほんっと失礼よね!」
帰る道々、桃香は頬を膨らませて怒っていた。私もシェリムの態度にイラっとは来たが、私の事で怒ってくれている桃香を見られたのはちょっと嬉しい。ついでに言うと、頬を膨らませてるの、可愛すぎる。
「見た目はちょっと大げさだけど、傷も浅かったし、大丈夫よ」
そう言って不満そうな桃香の頭を撫でようとして気づいた。桃香の髪に付けていたはずのシュシュが無い。髪がサラサラで、シュシュだけでは緩みやすい桃香のポニーテールは、一度、ヘアゴムできつめにひっつめてからシュシュを着けている。その為、シュシュが緩かったのに気付かないまま、ヘアゴムとポニーテールはそのままにシュシュだけをどこかで落としてきてしまったらしい。
「桃香、シュシュがなくなってるわよ」
「え?! うそ~~!! 気に入ってたのに~~~!!!」
膨れ顔から一転、眉を寄せて泣きそうな顔になる桃香。そんな表情も可愛い。
「仕方ないわね。今度新しいの探しに行きましょうか? お揃いなんてどう?」
「お姉ちゃんと? やったぁ! 可愛いの、探そう!」
今度はパッと花が咲くように笑う。桃香の表情はくるくると変わる。溌剌としていて、見ていると、幸せな気持ちになるのだ。攻略対象の男たちが惹かれるのも仕方がない。
今日はっきりしたのは、イベントをヒロインである桃香以外が発生させても攻略対象者は桃香へと惹かれるということだ。シェリムの場合はちょっと極端ではあるが、元々彼はゲーム中でも桃香の事をファム・ファタールだの、愛の天使だのと言って迫ってくる積極的なキャラクターだったので、あれがデフォルトなんだろう。
という事は、他の攻略キャラも多かれ少なかれ、桃香にだけ心惹かれるように運命づけられているのかもしれない。たとえ、フラグを折っても、彼らは桃香に恋をする…。ただ、桃香の選択の先にしか、恋の成就が無いだけで。
「……?…」
なんだろう、胸が痛い…気がする…? 桃香だけを想う彼らから桃香を奪おうとしていることへの罪悪感だろうか。
いや、そんなのはもう今更だ。彼らとの恋愛で苦労したり、苦しんだり、悲しんだりする桃香を、前世で散々見てきたのだ。もう、彼らに関わって苦しむ桃香を見たくない。そして何より、私が桃香を守りたい。……桃香だけは、守ってみせる。
「お姉ちゃん、大丈夫? ぼんやりしてたけど…」
上目づかいに顔を覗きこまれて、我に返る。心配そうな表情の桃香に微笑んで見せる。
「大丈夫よ。どんなのが桃香に似合うか考えてたのよ。前のは花柄だったけど、これから暑くなるし、涼しげなマリンカラーとかどうかしら? それだったら私も着けやすいし」
「マリンカラーかぁ…。お姉ちゃん青とか水色好きだよね」
部屋も青系いっぱいだし、と呟く桃香は名前にも入っている通り、桃色が好きだ。部屋は女の子らしくピンクとレースがうるさ過ぎない程度にあしらわれ、ベッドにはぬいぐるみが並んでいる。
一瞬、数日前の悪夢を思い出してしまい、それを振り払うように努めて明るい声を出した。
「涼しげだし、気持ちが落ち着くでしょう? 桃香もたまにはイメチェンだと思っていつもと違う色を着けてみたらどうかしら?」
「そんなこと言うんだったらお姉ちゃんこそ、たまにはフリルとかピンクとか着けてみればいいのに」
う~ん…ピンクはさすがにハードル高い気がするな…少しレースが付いてるくらいだったら何とかなるかな…。私の表情から答えを察したのか、桃香が唇を尖らせる。写真にとって永久保存したいくらい可愛い。
「じゃあ、間を取ってマリンカラーでフリル付でどうかしら? 夏に海に行くときなんかにお揃いで着けられるわよ?」
「……仕方ないなー。お姉ちゃんがそこまで言うなら、マリンカラーでお揃いにしてあげる。一緒に着けて写真撮ろうね!」
渋々、という顔をして見せた後、ぱっと全開の笑顔になる桃香を見て、こっちの頬も緩む。その後は帰る道々、どんなシュシュを買うかという話で盛り上がり、なぜか帰り着くころには夏休み前に一緒に水着を買いに行く話まで決まっていた。夏休みはまだ大分先の話なのに。
週明け、掌の傷も早々に塞がり、瘡蓋になる頃、噂の転校生が来るのがどうやら私のクラスらしいと知り、絶望的な気分になる。桃香に夢中だった分、私の顔は忘れていてくれないかとか、日本人は桃香以外みんな同じに見えるとかだといいのにとか思ったりしたが、そんなに都合よくいくはずもなく、LHRで教室に入ってきたシェリムはものの数秒で私を見つけて、目を丸くした。
「貴女は…先日の…」
一瞬とぼけてみようかとも思ったけど、去年篠谷に同じことをしてネチネチと言われた事を思い出し、自重する。その代り、目を逸らして、関わりたくないアピールを全開にしてみる。
結局、担任がシェリムを紹介している間、彼の視線は私に注がれ、私は顔を背けて机の傷なんぞを数えてみたりして、ついでにクラスの女子の視線は美貌で王子様という肩書も背負った転入生に釘づけだった。
LHRが終わった瞬間、転入生に群がる女子を盾にして教室を飛び出す。始業ギリギリまでどこかで時間稼ぎをしようと踏み出した瞬間、肩を掴まれた。振り返ればニコニコと愛想の良いシェリム。どうやってか、群がる女子をすり抜けてきたらしい。
「待ってくだサイ。先日は失礼しまシタ。改めてお詫びをしたいのデスが、よろしいでしょうカ?」
よろしくナイので離してくだサイ。思わず脳内でシェリムの口調を真似してしまう。さてどうしようか? シェリムの狙いはお詫びと称して私から桃香の情報を引き出そうという所だろう。その証拠に、お詫びと言いつつ、彼の態度に反省の色は皆無である。
「先日の事でしたら気にしないでください。見ての通り掌も擦り傷程度ですし」
「それは良かっタ。あの可愛らしい人のお姉サンにもしものことがあったラ、あの美しい顔に影が射してしまう所でシタ」
にこにこと無邪気に見える笑顔をしているが、言っていることは、要するに桃香の姉じゃなければどうなっても気にしなかったということである。こういうキャラだと知ってはいても、実際にそういうことを言われると腹が立つ。
「それにしても、貴女とここで会えたノハ、運命に違いありまセン」
シェリムがそう言って私の手を掴み頬を染めて目を潤ませる。周囲できゃああっ! と女生徒が叫ぶのが聞こえる。…うん、お前はまず日本語の前に空気を読むことから覚えろ! ついでに言うと、怪我した手を力任せに握りしめるな!!
私はその手を無理矢理振りほどく。
「悪いけど、運命とかそういうものは信じない主義なの。お詫びもいらないし、あなたと今後必要以上に親しくなるつもりもないから。留学で来たのなら、しっかり勉強だけして帰って頂戴」
「何を怒っているのデスか?」
本気でわかっていないという顔で首を傾げるシェリムにイラっとくる。怪我をさせて申し訳ないなんて欠片も思っていないのに、桃香に近付くためだけに姉の私に形だけの謝罪をしようという態度があからさま過ぎるのだ。それで怒らない人間がいたら見てみたい。
「…ひょっとシテ、あなたハ……」
シェリムが何かに気づいたように私の表情を窺ってくる。怒りの理由に気づいた…?
「私と妹サンに嫉妬しているのデスか?!」
…………私はシェリムを外国人だと思っていたのだけれど、どうやら奴は宇宙人だったらしい。例え言葉が通じても永遠に分かり合える気がしない。精神的1万光年以上の隔たりを感じつつ、私はそれ以上のコミュニケーションを放棄した。
すなわち、シェリムに背を向けて、そのままダッシュでその場を後にしたのである。廊下は走っちゃいけない? 知ってる!
全速力で逃げた先は教職員の準備室が並ぶ一角だった。特に目的があったわけではなく、人の少ない場所を探したらここに着いただけだ。
「ふぅ……」
壁にもたれて一息つく。始業ギリギリまでこの辺で時間をつぶして、残りの時間はあいつのことは徹底的に無視しよう。日本語流暢なのに会話が通じないとか対処のしようがない。桃香には噂の転校生が訪ねて来たら全力で逃げるようメールしておこう。
そう考えて携帯を出した途端メールが着信して、驚いて落としそうになる。見ると、クラスメイトの由紀からだった。
『王子はクラスの女子に案内されて校内を見に行ったよ。今のところ君の妹が1年にいることは知られてないし、彼女たちも多分言わないんじゃないかな? ライバルの居場所に自分たちで案内するとは思えないし。一応、妹さんには気を付けるよう言った方がいいよ』
ありがたい情報にホッと息をつく。桃香へのメールも済ませ、取りあえず、時間つぶしにそこらを歩き回るか、と足を踏み出した時、後ろから、淡々としているのにどこか驚いたような、低い声が聞こえた。
「真梨香? こんなところで何をしているんだ?」
いきなりだったので、驚いて軽くビクッとしてしまった。振り返れば、従兄で、ゲーム中では隠し攻略キャラだった、烏森杏一郎が教材片手にこちらへ歩いてくるところだった。
そう言えばあっち側に古典の教員の準備室があるんだっけ。ってことは、杏一郎は今は理事会役員の烏森杏一郎ではなくて、古典の非常勤講師、鵜飼杏一郎として接しないといけないってことか。
「鵜飼先生、授業の移動ですか?始業までまだ時間があると思いますけど?」
そう言うと、杏一郎の表情が微かに、本当に微かに曇った。雰囲気を顔文字で表すなら、しょんぼり顔だ。……何となく言いたいことは伝わった。私は表情を引き締め、子供に言い聞かせるように、答えた。
「鵜飼先生、人気がないとはいえ、学園の廊下です。礼節は弁えさせてください」
二人きりの時は名前で呼ぶと約束させられてはいるが、いつだれが通るとも知れない廊下は二人きりとは言えないだろう。従兄とはいえ、親同士はほぼ絶縁状態で、こうして普通に会話していることも、互いの家族には内緒である。その上名前で呼び合ってるなどと誰かに聞かれでもしたら、あらぬ誤解しか生まない。
「そうか…」
だからそうやって無表情にしょんぼりするの止めてほしい。罪悪感で胸が痛むから。図体のでかい大人の男感満載の見た目なのに、子犬の幻見えるから。
「ま…葛城は、誰か先生へ質問か?」
教官準備室の並びに来ているのだから普通はそんな用事があるのだろうけど、今の私は単に厄介ごとから逃げて来ただけなので、質問をしようにも教材も何もない。
「いえ、ただの通りすがりです」
正直に答えると、杏一郎が無表情のまま首を傾げた。そのまま、疑問符を浮かべているので、仕方なく、軽く状況を相談してみる。今のところ杏一郎は桃香と接点がないし、隠しキャラという事もあって、ルートが開かない可能性が高い。なので、少しだけ安心して相談ができた。
「今日うちのクラスに転入生が来たんですけど…」
「ああ、交換留学生とか言う…」
「はい、先日街でちょっとトラブルになった相手で、できるだけ関わり合いになりたくなくて逃げてるところなんです。始業には間に合うように戻るつもりなんですけど…」
口に出してみると、何とも情けない状況である。しかし、事を荒立てずにあの勘違い男を黙らせる方法が今のところ思いついていないのだ。どこかで一度落ち着いて対シェリムの撃退作戦を考えないと…。そんなことを考えていたら、ぽん、と頭に大きくて温かいものが乗せられた。見上げると杏一郎が無表情に私の頭を撫でている。
「あの…鵜飼先生……?」
「行くところがないなら、俺のところに来るか?」
「……はい??」
まるで捨て猫でも拾うかのような台詞に唖然とする私に、杏一郎はどうする、と目で問いかけてくる。どうするってそりゃあ…。
コトリ、と目の前にマグカップが置かれる。ほのかに湯気を立てるそれはミルク入りのカフェオレで、砂糖は無しだ。目の前の男は逆にミルク無しで砂糖を2,3個入れている。…入れ過ぎだと思う、それ。
古典講師の教科準備室には他の講師は今はいない。担任を持っているような先生はLHRの後、職員室の方へ行くことが多いため、この時間帯にはあまりいないのだそうだ。いなくて助かったというべきか、いてくれた方がマシだったと思うべきか、今、この場には私と杏一郎だけしかいない。
最初は断るつもりだったのだ。名前を呼ばれるのと同様、人気のない教官室に二人きりになるなど、誰かに知られたらたちまち校内に出鱈目な噂が飛び交うだろう。けれど、杏一郎が無表情に、頼って欲しい光線を放つものだから、絆されてしまったのだ。
私は本来桃香や胡桃澤のような小動物タイプに弱いのだけど、この男は長身で可愛げからは程遠い見た目をしているのに、なぜか小動物系のイメージが付きまとう。しかも無意識だから性質が悪い。
「先生が生徒を依怙贔屓しちゃダメなんですよ?」
依怙贔屓されてしまっている身としては言いづらいが、言わねばならない。講師が準備室で生徒個人に茶を振舞うのは行きすぎだと思うのだ。今後は控えてもらわないと…。例えば桃香とも従兄妹として接する機会が訪れた時に同じようにされて、桃香が誤解されたら困る。非常勤とはいえ、鵜飼杏一郎先生は女生徒の人気が高いのだから。
「従妹の面倒を見て何が悪い」
「学園内では自重してくださいというお話です。私たちが従兄妹だという事も、いらない噂や憶測を生みます。伯母様に知られたら、厄介でしょう?」
杏一郎も自分の母親は苦手なのか、こう言うとだいたいは引き下がってくれる。
ゲームの中でも、桃香との付き合い始めは、周囲にも母親にも内緒の秘密の恋だった。伯母の烏森梅香は桃香と杏一郎の交際に反対はしない。むしろ積極的に進めて、桃香を烏森家の嫁として迎え入れようとするのだが、その条件として、桃香に今の家族と縁を切るよう強要したり、桃香が母の柚子を思わせるような言動を取ると、ヒステリーを起こして桃香に折檻しようとしたりするのだ。
なので、私は桃香を絶対に伯母に会わせないようにすると心に決めているし、自分自身も会いたくない。従兄として親しくしたいという杏一郎とこうして話をしたりするのも、互いの家族に秘密には絶対にばれないようにすることと、桃香を巻き込まないことが条件だ。
「……そう言って、学外で会うのも断るじゃないか…」
「どこで誰が見ているかわかりませんから」
…そんな悲しそうな雰囲気だしたって、こればっかりは絆されないぞ。伯母も怖いが、身近な学園の女子の嫉妬も怖いのだ。じっと、無表情に見つめられ、居心地が悪い。その視線が、ある一点で止まる。
「真梨香…ひとつ聞いてもいいか?」
「…なんでしょう?」
「その手はどうした? さっき言っていたトラブルと何か関係があるのか?」
杏一郎が険しい顔になって私の掌のみつめる。傷が浅く、もう乾いたこともあって今日は包帯はもうしていない。その代り、赤黒い瘡蓋がいくつも掌にできているのだ。
「あ、いえこれは少し前に派手に転びました。自分の不注意です」
咄嗟に嘘をついてしまった。何となく、杏一郎の表情が怖かったからだ、別に怪我の原因がシェリムだと知ったところで何があるというわけもないはずなのだが、直感的に話してはいけないと感じたので、私はそのまま怪我は一人で転んだ際のもので、誰とも関わりがないと強調した。杏一郎は何となく何か言いたそうにしていたが、結局は「そうか…」とだけ言って信じてくれた。
そうこうするうちに時間になったので、カフェオレのお礼を言って立ち上がる。
「また、来い。時間つぶしでも、鬼ごっこの隠れ先でも構わない。ついでに古典の質問も受け付ける」
「そうですね。次に逃げてくるときは古典の教材を持ってきます」
そう言って、準備室を出る。ああ言ったものの、あまり頻繁に杏一郎を頼るのは得策じゃないだろう。無表情な割に感情駄々漏れなあの男はきっと歳の離れた従妹を可愛がる気持ちを隠せないだろう。しかしはたから見たら他人の、それも生徒を甘やかしている駄目な講師の図になってしまう。杏一郎の為にも、それは良くないと思うのだ。
周囲に誰もいないことを確認して廊下に出ると、始業ギリギリの教室へ急いだ。
その日は結局休憩時間の度に教室を出て中庭や図書室へと身を隠したりして過ごした。昼休みは生徒会室に立てこもった。その間、桃香もうまく隠れていたらしく、シェリムは結局、私の妹が同じ学園の1年生であるという有力情報は得られずじまいだったらしい。
放課後、生徒会に向かうため、荷物を片付けていると、目の前にキラキラした微笑みのシェリムが立った。悪いけど、その手の笑顔は篠谷で見慣れている。強いて言うなら篠谷の笑顔は胡散臭いが、シェリムの笑顔は裏が無さ過ぎてイラっと来るという程度の違いだ。
「マリカ=カツラギ、私の気を引きタイのはわかりマスが、そろそろ大人シク謝罪を受け取ってくれませンカ?」
どうやら彼の中では私はシェリムの気を引くために逃げ回り、謝罪を受け入れるのを先延ばしにしていることになっているらしい。意味が分からない。
「謝罪ならもういりませんと何度も申し上げたはずです。私はこれから生徒会の仕事がありますので失礼します」
相手をするのも馬鹿馬鹿しいので、そのままシェリムの横をすり抜け、教室を出る。
「妹サンによろしくお伝えくだサイ。すぐに会いに行きマスと」
絶対に伝えるものか! 会いにも来るんじゃない!!
苛立ちも露わにドスドス歩いていたら、前方から胡桃澤嘉穂が飛びついてきた。
「ちょっと!! こないだのバカ外人が転入してきたってホント?! しかもアンタのクラスって…!! 何もされてないでしょうね?!」
言い方はアレだがどうやら心配で来てくれたらしい。思わず小柄な体をぎゅうぎゅうに抱きしめてしまう。
「何もされてないし、強いて言うなら不愉快な会話をさせられただけだけど、胡桃澤さんが心配してくれるなんて思わなかったわ」
「な!!? べべべ別にそんなんじゃないわよ!! 単に…単にあの外人の態度がムカついただけで、ああ、アンタの事が心配とかそんなんじゃないったら!!」
「はいはい、ツンデレツンデレ」
暴れるのを抑え込んでしばらくぎゅうぎゅうしていたらささくれた気持ちが落ち着いた。可愛い女の子って偉大だなあ。
「とにかく、ありがとう。胡桃澤さん」
気が済んだところで解放してあげて、そう言うと、すごく不満そうな顔で指を突き付けられた。人を指さしちゃいけないって前にも言ったような気がするんだけど。
「それ、やめてよ」
「え…?」
「その、『胡桃澤さん』って呼ぶの。もう白木先輩も錦木先輩も『嘉穂ちゃん』とか『嘉穂』って呼んでるし、アンタの妹だって下の名前で呼んでくるのに、アンタだけ余所余所しい呼び方、すんじゃないわよ」
口を尖らせ、拗ねたような口調で言う胡桃澤は何というか萌えの塊で。ついもう一回抱きしめたくなる。けれどそれをやると心身ともに小動物な彼女は警戒心でしばらく近付いて来なくなるかもしれないので、我慢した。
「そうね、ありがとう、嘉穂」
そう呼ぶと、嘉穂は首まで真っ赤になって消え入りそうな声で、こう言った。
「それでいいのよ………真梨香」
私が我慢できずに、もう一度彼女を抱きつぶしたのは、言うまでもない。
嘉穂ちゃんにテンプレなツンデレ台詞を言わせたい症候群