13
翌日の昼休み、私は急ぎの提出書類を手に廊下を早歩きで移動していた。移動しながら枚数を数え、ファイルケースにしまおうとしていたのが良くなかった。途中の空いた窓から吹き込んだ風に、書類が一枚舞い上がってしまったのだ。咄嗟に手を伸ばすが一歩届かず、書類は窓の外にくるくると舞いながら流され、すぐそばの木の枝に引っかかってしまった。すぐそばと言っても窓から手を伸ばして届く距離ではない。
「参ったわね…。」
窓から木の形や枝ぶりを観察する。棒か何かを探してきて突いて落とすか、脚立を取ってきて下から取るか…。そっと辺りを窺う。幸いなことに午後の最初の授業が体育なので、私はジャージを着ていた。
「…誰もいない…わね」
今思えば、魔が差したとしか言いようがなかった。
「よっと…! 取れた!! ……ざっとこんなもんよね」
枝が太くしっかりしていたのも幸いして、私は無事に木の中程の高さに引っかかっていた書類を取り戻すのに成功した。あとはゆっくり下りればいい。
その時聞きなれた間延びした声が足元から聞こえて、驚いて足を滑らせそうになる。
「センパイ、そんなとこで何してんの~?」
見下ろせば木の根元に小林檎宇が立っていた。よりにもよってこんな所を見られるなんて、と顔から血の気が引く音がする。
「えっと…これは…その…」
「ん、ちょっと待ってて」
小林はそういうが早いか、猿のような身のこなしで私のいる枝まで登ってきた。その身軽さに一瞬見惚れてしまうが、すぐに我に返る。
「え? 何で登ってきたの??」
「え~? お昼寝しようとしてたんじゃないの? 俺も一緒にと思って~」
えへ、と首を傾げて笑う小林の口元に除く八重歯をへし折りたい衝動に駆られる。脳内で数を数えながら心を落ち着け、なるべく穏やかに、やんわりと否定の言葉を考えて口にする。
「こんなところで落ち着いて寝られるのは君と野生動物くらいだと思うわよ。…私はこれを取ってただけ。もう降りるところだったの。ここでお昼寝するつもりなら悪いけど先に一度降りて私が降りた後にもう一度登ってもらえる?」
「そうなんだ~。でもせっかくだから一緒にお昼寝して行かない? 俺センパイが落ちないよう掴まえててあげるからさ~」
「この書類届けてお昼を食べて、体育で移動だから時間がないわ。いいから降りなさい」
降りたいと言っているのに、どいてくれない小林にいっそつき落としてやろうかと物騒な考えが浮かぶ。その気配を察したのか、降りようと姿勢を変えた小林が何かに気づいたように唇に指をあて、静かにするようジェスチャーで求めてきた。私も誰かが近付いてくる気配に気づき、息をひそめる。
校舎の方から現れたのは、錦木さん、白木さんと栂まなみだった。
「…こんな人気のない処に連れて来て、どういうつもりなの?」
栂が苛立ったような声で錦木さんたちに詰め寄る。幸い私たちの存在には気づいてないようだ。
「昨日の事よ。体調が悪いなんて嘘でしょう? あなたとその周りが一斉に体調不良だなんて…。この忙しい時期に集団でボイコットだなんて、何を考えてるの?!」
錦木さんが厳しい表情で言い返す。栂は全く悪びれた様子もなく、口元には笑みすら浮かべていた。
「あら、どうせ私たちの仕事なんて帳簿をひたすら打ち込んだり、コピーしたり、プリントをファイルに入れたりの簡単なお仕事だもの。誰がやったって一緒だし、それこそ優秀な副会長様が自分でやればって言うような雑用ばっかり。いじめっ子の保護をしたり、会長や代議会の先輩に色目使う暇があるくらいだもの、副会長が自分で片付ければいいのよ」
「葛城さんは葛城さんのすべき仕事をきっちりこなしてるし、色目とか、誤解だわ! あなたが言う雑用も、執行部員がこなすべき仕事として割り振られているものでしょう? 執行部員が行事の裏方の裏方、事務や雑務が中心のお仕事だなんて最初からわかってたことじゃない!」
白木さんが声を荒げる。そのまま栂に詰め寄ろうとするのを錦木さんが手で制した。そのまま栂に向き直る。静かで低めの声は、冷静で、落ち着いていた。
「栂さん、葛城さんへの不満はともかく、あなたのサボりで由美子が昨日大変だったのよ。誰でもできる仕事だからって、一人で全部できるわけじゃないことぐらい考えればわかるんじゃない?」
…私への不満は置いておくあたり、そんな気はしてたけど、私は錦木さんにあまり好かれていないらしい。彼女に何かした覚えはないんだけど、気づかないところで何か気に障ることをしてしまっていたのかもしれない。地味にへこむ。
一方栂は白木さんをちらりと見たが、やはりその顔に反省とかいった感情は見えない。むしろ感情の抜け落ちたような、冷めきった表情に見えた。
「…むかつく」
「何ですって?!」
低く剣呑な声に錦木さんたちが思わずと言った感じで問い返す。栂は無表情のまま、腕を組み胸を反らす。
「前から思ってたけど、あなたたち二人、執行部員の中でも贔屓されてるからって調子に乗ってない? 頭の出来だって私とそう変わらないのに、私が雑用押し付けられてる間、まとめ役みたいな顔して役員と喋っててさあ、私たちの作業を上から目線であーだこーだって言ってくるし、幹部気取りでムカついてたのよね」
嘲りを含んだ口調に絡みつくような悪意が形になって見えるような気がした。その態度に気圧されたように白木さんが一歩後ずさる。錦木さんはそんな彼女を背に庇うように、逆に一歩前へ出た。
「調子になんて…」
「私たちはそんなつもりはないわ。ただ、執行部員の仕事がうまく回るようにって…」
「そうやって仕切ろうとする所が幹部気取りだっていうのよ。たかだが去年の事件で他の子より被害者らしく怪我もしたから役員の同情買ってるだけじゃない。脅されて怖い思いしたのはアンタたちだけじゃないっての。あーあ、こんな事なら私も痕が残る程酷い怪我を負わされたって言えばよかったわ」
あまりの暴言に錦木さんが手を振り上げる。止めようと声をかけるより先に、枝が大きく揺れて、背後にいた温もりが消失する。
「そっこまでだよ~!」
揺れた枝から落ちそうになって慌ててしがみついている間に、枝から勢いを付けて飛び降りたらしい小林が錦木さんの腕を掴んで止めるのが見えた。
「な!?? あんた誰よ!!」
「小林君?!!」
「へへ~。正義の味方参上~! ってか~んじ?」
三者三様に小林の登場に驚いている。私も驚いた。…っていうかいきなり飛び降りるとかやめてほしい。枝を揺らされて、危うく私は落ちるところだった。何とか枝にしがみついた姿勢から起き上ると、こちらを振り返った白木さんと目が合った。彼女の目が零れ落ちそうなほど見開かれる。
「葛城さん?!」
「…は、はあい」
間の悪い見つかり方に引きつった笑顔で手を振ってみる。栂が今度こそギョッとした表情になる。…まあ、聞かれちゃまずいことを言ったって自覚はあるんだな。
さすがに枝にしがみついたままの状態じゃ恰好がつかないし、話もできないので、降りる間ちょっと待ってもらう。小林が『受け止めるから飛び降りなよ~』などと言っていたが、丁重にお断りさせてもらった。だってもし受け止めきれずに潰れたりされたら女の子としてはショックじゃないか。ただでさえ身長あって筋肉もそれなりに付けてる分重いのに。
「……副会長の趣味が盗み聞きだなんてガッカリです。…それともこんな場所で1年生と逢引ですか? すごいですね。とても真似できません」
私が木を降りている間に落ち着いたのか、開き直ったのか、栂は蔑みと苛立ちを露わに嫌味をぶつけてきた。盗み聞きをするつもりはなかったが、結果として聞いてしまった物は仕方がないので、それについてはこちらも何も言えないが、後半にだけは全力で突っ込ませてもらいたい。
「逢引ではないわよ。枝に引っかかった書類を取ってたら小林君が偶然通りかかって手伝いに登ってきてくれただけよ」
「え~、俺は逢引でもいいけど~」
「君は黙ってて」
小林が話をややこしくしようとするので下がらせる。
「ともかく、偶然とはいえ聞いてしまった以上は放っておけないわ。栂さん、あなたが昨日仕事を休んだのは体調云々というよりは、私への不満があったから、ということで間違いないかしら?」
「不満を持たれてるって自覚があるんなら、どうして自分の立場も考えずに内部生のご機嫌取りのような真似をするんですか? 胡桃澤を庇ったって、内部生ですら彼女を見捨ててるんだから、なんの得にもなりませんよ」
「損得を考えて彼女を助けたわけじゃないわ。今の彼女にあの仕打ちは行き過ぎだと判断したから口を挟ませてもらっただけよ」
立場というなら、それこそ、あの場で胡桃澤を助けるのは彼女の友人(私はそのつもりだ)として、生徒会の副会長として、正しい行いだったと信じている。それに…。
「胡桃澤さんが内部生に見捨てられているというなら、彼女を庇う事は内部生へのご機嫌取りにはならないわ。栂さん、あなたの言うことは矛盾しているんじゃないかしら?」
「そ…それは、結果的に得にならないってだけで、胡桃澤と親しかった加賀谷君や篠谷会長へのご機嫌取りのつもりに見えるって言ったんです。胡桃澤の親は学園理事会にも顔が効くっていうし、葛城さんが代議会の双璧にも気に入られていたりするのだって、色仕掛けで籠絡してるって…」
「私がご機嫌取りをしているつもりはないし、双璧二人に至っては嫌われるような行いしかしていないと断言できるわね。…あなたの言い方だと、誰かにそう言われたみたいに聞こえるわ。そう言う噂があるのだとして、それはただの噂よ。」
むしろ彼らの恋路を邪魔しまくっている上に、物理的にも痛い目にしかあわせていない。それが媚びていることになり、それが原因で彼らが私を気に入るとしたら、彼らは全員極度の被虐趣味に違いない。
「ともかく、私への不満が原因だというなら、ボイコットなんて手段ではなく、直接言いに来て頂戴。直接は言いにくいというなら梧桐君を通してでもいいから」
小林のおかげで仕事は何とかなったが、だからと言ってこのまま栂のボイコットを許容するわけにもいかない。それが私個人への不平不満ならなおさらだ。
「それともう一つ、栂さん、あなたは私や他の役員がここにいる白木さん、錦木さんに同情から依怙贔屓をしているって言うけれど、それは違うわ。私たちは彼女たちの実務能力や熱意、人柄を信頼して仕事を任せています。去年の事は関係ないわ」
「…関係ないわけないでしょ。実務能力の差とかあんな雑用で私やその二人にたいした差がつくわけないじゃない」
「それはどうかな~」
険しい表情を崩さない栂に、横から小林が場違いなほどのんびりした口調で口を挟んできた。栂が眉を吊り上げて小林を睨み付けるが、当の小林は気にした風もなく泰然と構えている。
「確かに執行部の仕事って雑用ばかりだし、実際昨日俺があんたの代わりにやった仕事だって、ほんの2、3日仕事しただけの俺でもできちゃうくらい楽勝だった。仕事の速さとか正確さなら俺の方がシロ先輩よりも上だと思っちゃうくらいだったけど~」
小林がいったん言葉を切って栂を見下ろす。切れ長の目が鋭さを増し、迫力に押されたように栂の足が一歩後ずさる。
「シロ先輩の書類の作り方、提出先の傾向とかしっかりしてて、どういう表現で書けば理事会のじーさんに通じやすいとか、職員室での通りがいいとか、代議会や生徒への説明はこうしたらわかりやすいとか、すっげえ細かくやってて、俺や他の奴らの書類も総括してまとめるときそういう所ちゃんと見てるし、教えてくれる。単に仕事が速くて正確なだけなら俺の方が優秀だけど、シロ先輩はちゃんと先輩なんだ、俺より長く執行部にいる分努力して勉強して俺より上にいるんだって思ったよ」
「そ…んなの…私だって…」
「できるって? 書類作りや資料整理を単なる雑用呼ばわりして楽しくないからとか真梨センパイが気に食わないからとか個人的な理由で仕事を放り出しちゃうアンタにそんな努力とか気遣いが? 俺はそうは思わないけど~」
小林の言葉に栂の表情が歪む。小林からそんな風に評価されているとは思ってもみなかったのか、白木さんも目を丸くしている。私も、小林が仕事をしながらそんな風に感じていたことに驚きを隠せないでいる。チャラけた態度の裏で、そんなまっとうな事考えてたのか。
「去年がどうとか知らない俺でもそれくらいわかるんだから、長く一緒にいるカイチョーや真梨センパイやビーバー先輩がシロ先輩たちを頼りにするの、当たり前じゃん。それを贔屓がどうとかって、意味わかんないんだけど~?」
「う、うるさいわね! 去年の事を知らないアンタにどうこう言われる筋合いなんてないわよ! 私は去年内部生の過激派に脅迫を受けたのよ! 怖い思いをしたの!! それなのに、さっさと敵に尻尾を振って助かったみたいに言われて、意地張って怪我しただけの向こう見ず二人だけが可哀想だって言われてて、役員には贔屓されてて、おまけに加害者の胡桃澤は平気な顔して学校来てるし、副会長は被害者代表の癖に自ら胡桃澤を庇うし、なんであいつの所為で私が注意されなきゃいけないのよ!?」
小林の言葉に栂が激高し、溜まりに溜まっていたらしい鬱憤を吐き出すかのように一気にまくし立ててきた。劣等感、妬み、恨み、苛立ちと焦りがないまぜになった叫びは何故か空しく響いた。
確かに、栂も脅されて怖い思いをしたのだろう。抵抗をせずに恭順を示して助かったというのは彼女なりの危機回避の為のやむを得ない手段だったのかもしれない。だからといって、抵抗の末に怪我を負った白木さんや錦木さんを貶める様な言い方には違和感しか感じなかった。
「……悪いけど、私は怪我の事で同情されたいなんて欠片も思ってないわ。あの事件の事を興味本位で根掘り葉掘り尋ねられるのも不愉快だし、そんなものを理由に贔屓されているなんて感じたら速攻で執行部なんて辞めてるわ」
私と同じ違和感を感じていたらしい錦木さんが苦々しい声でぽつりと呟く。白木さんも、恐る恐るといった様子で一歩踏み出した。
「私も…事件の事は出来るならもう忘れたい。なかったことにはできないけど、もう、振り返るのはやめたい…。そして本当に私たちみたいな目に会う子が出ない学園にしたい」
「だったらそれこそ、加害者を全員追い出して、内部生への見せしめにするべきよ。特待生に手出しはしない方が身のためだってね。内部生さえ大人しくなれば学園は平和になるんだから」
この栂の考えには全く共感できない。内部生の全員が橡のような奴らではないし、外部生のすべてが内部生よりも優れているわけでも優しい平和主義者なわけでもない。
一方が他方を支配しているような平和は全然平和とは言えない。内部生も、外部生、特待生も、お互いに認め合い、頼り合えるようになって初めて、本当の意味で平和と感じられるんじゃないだろうか。
「内部生なんて、プライドばかり高くて、バカの集まりだもの、優秀な外部生やその中でも特に優秀な特待生が躾てやんないと煩く吠えたり噛みついたりしてくるんだもの。胡桃澤を徹底的に糾弾して学外に追い出せば、他の内部生だって、態度を改めるわよ」
先ほどから違和感というか既視感を感じていた理由がやっとわかった。栂は橡とそっくりなのだ。立場や性別が真逆なので気づかなかったが、度を越した選民志向と、高いプライド、敵認識した相手をひたすらこき下ろす姿勢も、橡と重なる。
「それなのに、葛城さんが胡桃澤を庇ったりするから台無しよ! 白木さんだって、錦木さんだって、本当はあの子が憎くてたまらない癖に!! 案外ロッカーの嫌がらせだって、その二人の仕業じゃないの? なんてったって、私と違って怪我まで負ったんだもの、胡桃澤への恨みは人一倍でしょ?!」
「それこそ言いがかりだわ。私たちは胡桃澤に手なんか出さないわよ」
栂の言葉にカチンときたらしい錦木さんが怒って再び彼女に詰め寄ろうとする。それを引き止めたのは、白木さんだった。
「く、胡桃澤さんは…確かに私たちを騙して空き教室へ連れて行ったけど、この間、ちゃんとそのことを謝りに来てくれたわ」
「え?! 何それ私聞いてないわよ!」
白木さんの言葉に錦木さんが驚きの声を上げる。白木さんが申し訳なさそうに錦木さんに手を合わせた。
「ごめんなさい。奏子、前に彼女を追いかえしたって言ってたから、聞いたら怒るかなって思って…」
「それは…だって由美子はまだあの子に会うのが怖いって言ってたから……!」
錦木さんの言葉で、彼女が胡桃澤を追い返していた理由の一端が見えた気がした。彼女は白木さんが胡桃澤に会えば、事件の記憶がフラッシュバックしてしまうと考えたのだろう。だから胡桃澤を追い返し、わざときついことを言って、白木さんを含めた自分たちに近づかせまいとしていた…。全ては白木さんを守るためだったんだ。
「…本当はまだ少し怖いわ。……でも、一人であんな風に迫害を受けているときに、ひょっとしたらあのロッカーの悪戯をした犯人かもしれない私の所にきて、真摯に頭を下げてくれた…きっとすごく怖かったと思う」
白木さんがその時のことを思い返すように目を伏せる。その手がかすかに震えているのを見て、錦木さんがその手を握る。白木さんが顔を上げるのを見返して、頷く錦木さんの表情は穏やかだ。
白木さんもそれに頷きを返して、栂へと向き直った。
「いくら過去に間違いを犯したからって、今の胡桃澤さんを見ていたら、あんな風にロッカーをめちゃくちゃにされて、学校を出て行けなんて言われていいとは思えないの」
「…な…なによ、まるで私がやったみたいに言わないで! ロッカーのやつは誰がやったか知らないわよ! でも事件の事を聞いて胡桃澤を許せないって皆が思ってるからああなったんだし、結局は自業自得よ!!」
栂は怯んだような様子で更に一歩下がる。それでも口調だけは変わらず強気だ。学園中が胡桃澤の敵にまわっているという状況は彼女にとって追い風だと思っているのだろうか…。
「…そうね。ロッカーの件はあなたじゃなくても、誰でも可能性があるし、あれを天誅だと思ってやっているならやった本人は正義のつもりなのでしょうね」
自分でも驚くくらい、冷たい声が出た。栂の表情が引きつるのが見える。去年の事件では彼女も被害にあったうちの一人だ、けれど、その事実を盾に、償おうとしている胡桃澤を追い詰め、大衆に攻撃させ、自分は傍観者に回るというなら、今度は彼女自身が加害者に成り下がってしまっている。直接手を下していないというなら、去年の胡桃澤と同じ。胡桃澤への明確な悪意がある分、よりたちが悪い。
「でも、あれは決して正義ではないわ。分かりやすい悪役の登場に大勢で石を投げつけるのが楽しくて夢中になってるだけよ。ちょっと状況が変われば手のひらを返したように胡桃澤を擁護し始めて、今度は彼女を貶める噂を流した人間をターゲットにするかもしれない……そうは思わない?」
一歩踏み出し、栂の顔を間近で見つめると、彼女は青褪めて目を逸らした。
「私は別に…ただちょっと仲の良い子何人かに話しただけだもの…広めたのはあの子たちよ。私は悪くないわ!」
「でも、あなたが最初にその話をしなければ、胡桃澤が見知らぬ大勢から嫌がらせを受けることはなかったんじゃないかしら?」
「私は内緒だって言ったもの! それなのに面白がって吹聴して、胡桃澤が主犯だなんて言い出したのだって、あいつらが私の話をいい加減にしか聞いてなかったからよ! 嫌がらせだって、胡桃澤を見かけて私に声かけるよう煽ってきたのもあの子たちだもの、廊下であの子を突き飛ばしたのだって私じゃないのに、私が指示したみたいな顔して笑ってたのも、全部全部あいつらが面白がって煽ってきた所為よ! 私が悪いんじゃないわ!! 全部あの子たちが勝手にやったのよ!!」
「………だ、そうだけど? どうなの?」
「…え………」
私の視線が栂の後方に注がれていることに気づいた栂の顔が青いを通り越して真っ白になった。壊れたオルゴールの人形のようにぎこちない動きで振り返る。そこにはいつも栂と行動を共にしていた少女たちが立っていた。その表情は冷たく、蔑みに満ちている。
「あ…こ…れは…」
「栂さんってそう言う人だったんだー」
「人の所為にして言い逃れなんてサイテー」
「別にこっちが聞き出したわけじゃないのに、『これ内緒だけど、去年私いじめにあって~』って自慢話でもするかのように話してきたの自分じゃん」
「そうそう、初めは自分でいじめられたとか言うの痛い子だと思って引いてたけど、他の被害者がいるとか本当っぽかったから、みんなで味方してあげてたのに」
「あ…ちが……」
栂が言い訳をしようとするよりも早く、少女たちは口々に私に対して、栂がすべて自分から話を振ってきたこと、胡桃澤への嫌がらせを主導したのも彼女であること、自分たちは嫌だったけど、栂が無理やり扇動したことなどを訴え始めた。
こうなってくるともう収拾がつきそうもない。私は少女たちに向かって、精一杯、穏やかで優しい副会長の仮面をかぶって微笑んだ。
「皆さんの主張はわかりました。…皆さんが栂さんを思いやって彼女を守ろうとしていたこと、信じます。これからもみんなで仲良く生徒会執行部に貢献してくれることを期待しても構いませんよね?」
皆で仲良く、の部分を強調して告げれば、少女たちは戸惑ったように栂をちらちらと窺う仕草をする。そんな彼女たちの様子に気づかないふりをして、更に意識して口角を上げる。脳内イメージとしては篠谷の似非王子スマイルだが、私がやるのではせいぜい狐スマイルだろうけれど。
「誰にでも口が滑ってしまう事はあります。大事なのはこれから互いに気を付けていくことです。同じ失敗を繰り返さないことです。大丈夫、ここでの話はこの場にいる者だけのこととします。篠谷君や加賀谷君たちには言いませんし、みんなが説得してくれたおかげで栂さんもこれからは生徒会の意向に積極的に協力してくれるようになったと伝えます」
意訳すると篠谷や加賀谷にうまくとりなしてやるから、今後は互いに監視し合って余計な事をしないように、そうすればこの騒ぎについては不問にするというようなことだ。いかにも悪巧みが似合うと言われる狐顔の所為で、意訳は正確に伝わったらしく、栂も周囲の少女たちも少し青褪めながらぶんぶんと音がしそうな勢いで頷いてくれた。
とりあえずこれで、表向きは少女たちが栂をどうこうするという事はないだろう。栂は居づらいかもしれないがしばらくは自身の保身のためにも執行部に残らざるを得なくなったし、少女たちも同様だ。そして、彼女達からの胡桃澤への直接の嫌がらせは止まるだろう。
あとは、噂に影響されて攻撃行動に走っている一部の学生たちをどう収束させるか…。
「……白木さん、錦木さん、今はもう時間がないから、放課後、少し早目に生徒会に来てもらってもいいかしら?」
「…構わないけど、由美子をおかしなことに巻き込まないでくれるなら」
「奏子。私は大丈夫よ。何でも言って頂戴ね」
「俺も、なんかよくわかんないけど俺も手伝うよ~」
今、考えていることは上手くいくかどうかはわからない、どちらかというと分の悪い賭けだ。この際、篠谷と加賀谷も巻き込んで、梧桐君にも協力してもらおう。彼らの協力があれば、何とかなるかもしれない。
私は栂達に向けた以上の、女狐スマイルをして見せた。
「ちょっと、新入生歓迎パーティーに、余興を一幕追加しようかと思って」
この後、真梨香さんは結局お昼を食べ損ねます。空腹で体育は…辛いな…。