12
夜、私は自分の部屋の床に正座していた。正面には同じように正座の桃香。
只今お姉ちゃんは妹からお説教されています。…最近姉としての威厳が失われつつあるような…。気のせいだと思いたい。
「それで? 何がどうして会長さんと二人っきりでお昼を食べた挙句パーティーのパートナーになっちゃったの?」
「えっと…仕事の都合と…成り行き…かしら?」
「かしら…? じゃないよ! 昨日お姉ちゃんは不用心だって言ったばかりなのに……何もされてないよね?」
「…ええ。もちろん」
手の甲にキスされそうになったのはノーカウントでいいよね? そんなことを考えつつ頷いたら、胡乱げなまなざしで睨まれた。ふくれっ面も可愛いとかうちの妹は本当に天使だなあ…。いつもポニーテールの髪を今は下ろしていて、風呂上がりの為しっとりと艶を増した黒髪は甘い香りを放っている。…本当に、妹で同性でなければ危ういところだ。桃香にはもっと警戒心を持ってもらわなくては。まあ、こんな無防備な姿が見られるのは姉の特権だし、あの男どもには一生拝ませる気なぞないのだが。
「ちょっと、お姉ちゃん、聞いてるの?」
「聞いてるわよ。そんなに心配しなくても、篠谷君は一応紳士だし、好きでもない女子をどうこうしようなんてことはないわよ」
むしろ桃香以外の女子いっさいに興味を持っていないんじゃないだろうか、群がるファンの女の子に対しても優しくはあるがやんわりと拒絶していたし。双璧みたいな女好きとはだいぶ違うと思う。
…そう言えばバカ殿とパーティーで一緒に歩く約束をしたんだっけか…桃香には言わない方がいい気がするけど、当日にばれても怒られそうだな…。あ、でも桃香はまだバカ殿とは会ったことがないはずだから…。
「……お姉ちゃんたら、鈍感すぎるのも考え物だよ…」
考え事をしていたら桃香が呆れた様にため息をつく。なんだか姉妹の立場が逆転している…。
そんなに心配をしなくても、篠谷は桃香の攻略キャラだ。出会いイベントのフラグを折ったとはいえ、篠谷が桃香に恋をして、沢渡程の美少女の存在も目に入らない程一途に執着しているのは変わらないみたいだし、あの粘着質な男の事だから、浮気心を起こす心配もないだろう。
「桃香の考え過ぎよ…第一アイツは……あー、えっと…大人しくて背も小柄な子の方が好みよ。多分」
うっかり篠谷は桃香一筋だと言いそうになった。危ない危ない…。桃香はと言えば、篠谷の好みのタイプには全く興味が無いようで、深々と溜息をつかれた。
「……そうだといいね。じゃあもう、この件についてはいいや」
とりあえずお説教は終了だろうか。正座を崩してもいいか悩みつつ桃香の顔色を窺う。…ん? 『この件』は…? そう言われて、そう言えばもう一つ、桃香に問い詰められる案件があったのを思い出した。むしろ篠谷の事よりこっちの方が大変だ。
「今朝のこと。話してくれる約束だったよね?」
そういや言っちゃったよ。ちゃんと話すって…。緘口令敷かれてるから実はほぼ話せませんって言って通じるかな…。いや、無理か。あんな場面を目撃しておいて、それで引き下がる程うちの妹鈍くないわ。
話すって言っても、何処から話せばよいのやら…。桃香に余計な心配をかけたくない一心で去年の事件の時、全力で桃香には隠し通したからなあ。流石に母親には真実を話さざるを得なかったけど、頼みこんで口止めをし、破られた制服はこっそり処分、怪我は絆創膏で覆って、転んだと言い張った。それでも勘の良い桃香はしばらく何があったのかとしつこく問い詰めてきたが、本当に転んだだけで、何もないと言い張っていたら、そのうち言わなくなった。
今更あの時の事から正直に話せば、絶対に怒るだろうし、それ以前に、この件に首を突っ込んでくる可能性が高過ぎる。これ以上生徒会メンバーと桃香が接触する機会を増やすわけにはいかない。
「話す、とは確かに言ったけど、全部はだめなの。胡桃澤さんたちのプライベートにも深く関わる問題だから。その上で、大まかにで良かったら話すわ」
そう言って、結局は私の事は伏せつつ、胡桃澤と栂の間に内容は言えないが深い確執があること、今朝の件については栂にはきちんと生徒会で注意をしたことだけを教えた。
「私が今話せるのはそれだけ。この問題については本人と…生徒会の人間でどうにかしていくから、桃香は気にしないで」
「……確かに、私は関係がないかもしれないけど…それでもあんなところ見ちゃったら放っておけないし、もしまた同じような事があったらまた絶対に庇いに行っちゃうと思う」
まっすぐな桃香の目に好感を覚えるのと同時に、心配になる。ヒロインの桃香がトラブルに巻き込まれるという事は、何らかのイベントのフラグが立つという事だ。良い方向に進めばいいけれど、もしそれが原因で桃香が誰かに恨まれたり、危害を加えられたりするのだけは許せない。それくらいならいっそ桃香をトラブルの種とは絶対に近づけさせない方がいい。
「……桃香は正義感が強いからそう思うのも無理はないけど…。でも、無茶をしちゃダメ。同じような場面に出くわしたら、まず人を呼びなさい。一人で突っ込んで、あなたが怪我でもしたら、胡桃澤さんだって気に病むわ」
だから、卑怯だと理解しつつ、胡桃澤を引き合いに出す。助けた相手が気に病んでしまうと言えば、優しい桃香はきっと強くは出ない筈だ。予想通り、桃香はしばらく考え込んだ後、黙って頷いてくれた。罪悪感に胸が痛むが、これも桃香の為。幸せ姉妹の学園ライフの為だ。
「さ、それじゃあ今日はもう遅いからお休みなさい」
「…お姉ちゃん……あの………やっぱり何でもない。おやすみなさい」
何か言いたげな桃香がそれを飲み込んで就寝の挨拶に変えるのを、私はそっと見ないふりをした。
翌日、私が感じていた悪い予感は現実のものになった。胡桃澤のロッカーが荒らされ、鍵が壊された挙句中に置いてあった辞書や運動靴などは中庭の噴水に捨てられていた。壊され、ブラブラと揺れるロッカーの扉には『いじめをするような卑怯者は学園から出ていけ』といった罵詈雑言が落書きされていた。書いた犯人にブーメランになって刺さらないんだろうか、これ。
「……誰かこのようないたずらをした人物を目撃しませんでしたか?」
周囲に集まった野次馬に尋ねてみるも、答えはない。実際に見ていないか、見ても、口を噤んでいる可能性が高い。
胡桃澤が去年いじめ事件の加害者側にいたことは事実で、それを糾弾する方が正義だと思われてしまっているなら、それを告げ口する行為は悪に味方するようなものだと思われてしまっているのだろう。
そうなると、目撃証言を引き出すのはほぼ絶望的だ。
当の胡桃澤は唇を噛みしめて、無事だったものやもう使い物にならなくなったものなど、荷物を仕分けてその場を片付けると、何事もなかったかのように立ち上がった。
「…お騒がせしてすみませんでした。…もう大丈夫です」
「胡桃澤さん……」
まっすぐに立って、こちらを見つめ返す彼女を見て、篠谷の言う通り、彼女が変わったのがわかった。今の彼女は多少の事では折れないだろう。それでも…。
「このような行為を甘んじて受け入れる必要はないわ。周りの皆にも聞いてほしいのだけれど、このような卑劣な行いは正義でも何でもありません。彼女は取るべき責任を取った上で、今学園に在籍しています。それを個人が断罪する行為はただの私刑です。今後このような行為を行った者も、それを隠すことに加担した者も同様に逆いじめを行う加害者として追求します」
私の宣言に周囲がざわつく。中には敵意の視線を向けてくる者もいる。気配をたどって視線を巡らせれば、栂まなみとその取り巻きグループが面白くなさそうにこちらの様子を見ているのが目に入った。栂は私と目が合うとすぐに踵を返してその場を立ち去って行った。
その日の放課後、生徒会室に行くと、白木さんが心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「……あの、葛城さん、あまり胡桃澤さんをあからさまに庇わない方がいいと思うの。今朝の事、もう広まってるけど、特待生の子たちの間で、葛城さんが内部生に阿っているって噂になり始めていて…。パーティーで篠谷君と組むのも内部生に擦り寄っている証拠だって…」
白木さんの言葉に溜息が出る。
私は立場上特待生や外部生の代表のように扱われていて、副会長として選出された選挙でも支持の多くは特待生や外部生が中心になっていたことは知っている。けれど、そもそも私は内部生に対抗するために生徒会に入ったわけではない。特待生にしろ外部生にしろ、内部生にしろ不当に虐げられる状況を改善するためにこの役職に就いたのだ。
「あの場で胡桃澤さんを守れないのなら、他のどの生徒も守ることはできないし、一部の生徒の支持を受ける為に他を切り捨てる様な副会長職なら私は喜んで捨てるわ」
「そんな…確かに彼女は可哀想かもしれないけれど…葛城さんは私と同じ被害者でしょう? どうして彼女にそんなに肩入れできるの?」
白木さんの言葉にどう話せばいいのかわからず、苦笑いが零れる。
「…確かに私は彼女と…沢渡さんによって危ない目にあわされた。……でも、私は彼女たちを憎めないし、嫌いにもなれないの。…たぶん私は自分で思っているよりもずっと彼女たちに近いから。恋に溺れてしまえば我を見失って、大切だったはずの人間を平気で傷つけるようになってしまう、そういう醜い心が私にもあるから…」
「そんな…葛城さんはいつだって清廉潔白で、優しい、きれいな人だわ!」
私の自嘲を白木さんが強い口調で否定する。その剣幕は普段おとなしい彼女には珍しく、私は驚いてしまった。
「辛くて、苦しくて、誰にも言えなくて、世界中が怖くて仕方なかった私を葛城さんだけが助けてくれた! 抱きしめて、支えてくれて、もう大丈夫だよって言ってくれた!そして本当に悪い人を懲らしめて、安心して通える学園にしてくれた!! 私にとってはあなたはヒーローなの!!」
「白木さん…」
「…あ…! ご、ごめんなさい。つい興奮して……とにかく、葛城さんが皆から悪く言われたりするのは私も我慢ができないから、あまり危ないことはしないでほしいの」
恥ずかしそうに頬を染めて俯く白木さんの頭をそっと撫でる。真剣に心配をしてくれているのが分かるだけに、嬉しいの半分、申し訳ないの半分だ。…私は彼女にそこまで称えられるほど清廉な人間じゃない。どちらかというと、自分の理想の為に妹に恋する男たちの邪魔をしているエゴイストだ。
「心配してくれるのは嬉しい。でも、ヒーローならそれこそ、学園の生徒を誰一人として見捨てられないわ。…彼女も、桜花学園の生徒だもの」
「葛城さん……」
「…私の事なら大丈夫。頼りになる仲間もいるし、支えてくれる人もいる。それよりも、事件の事で、誰かから嫌な事を言われたりされたりしたらすぐに教えて。胡桃澤の状況も危険だけれど、あなたたちも何らかの噂の影響を受ける可能性が高いから」
「……わかったわ…ごめんなさい、おかしなことを言って…」
やっと微笑みを浮かべてくれた白木さんにホッとしていると、錦木さんが生徒会室に入ってきた。そして白木さんの肩に手をかけた私を見てぎょっとする。
「由美子?! 葛城さん、由美子に何を言ったの?!!」
「え?! 奏子、違うの、私が興奮して訳の分からないこと言っちゃって…葛城さんは落ち着かせてくれただけよ。もう大丈夫だから…」
「そう…なの…。ならいいけど。葛城さん、栂達が体調悪いから今日の当番は休むそうよ」
今朝の栂のまなざしを思い出す。胡桃澤を庇うことに不満そうな様子は被害者としての恨みから来るものなのか、それとも…。
「困ったわね…今日はパーティー当日に設営担当する業者がくるから私と篠谷君は応対で時間を取られるし、梧桐くんも1年の指導に回ってるから手があかないのに…」
「私たちの当番の分早めに何とか終わらせてそっちへ回るわ」
錦木さんの提案にお礼を言って、作業分担を組み直す。それでも、栂さんのグループは人数がそれなりにいるので、全部は回りきらないかもしれない。また、彼女たちが明日には復帰するという保証もない。
「どうしたものかしら……」
「なになに~?? 真梨センパイお悩みなの~??」
肩にずっしりと重みがかかる。いい加減になれてきそうな自分が嫌だ。目の前でふらふらと揺れるパーカーの袖を掴んで結んでやる。
「あ~! ひっで~!! 手が出ないじゃん~~」
「出せなくしたのよ。そもそも元からあなた手が出てなかったじゃない」
袖を余らせてプラプラ振り回していたのはどこのどいつだ。もぞもぞと結び目を解きながらむくれる小林檎宇から距離を取る。何とか結び目を解いた小林はふたたび袖をプラプラ振り回し始める。
「ちゃんと出す時は出すよ~。センパイと手を繋ぐときとか!」
「そんな時は来ないわよ」
「ええ~~! わかんないじゃん!! パーティーで先輩に『おじょーさんお手をど~ぞ』ってやったり、フォークダンスでペアになったり、肝試しで『小林君、怖いから手を繋いでて』って言われたり、スケート行って転びそうになるセンパイを支えたり、この先あるかもしんないじゃ~ん」
想像が具体的過ぎて何処から突っ込んでいいかわからない。取りあえず、パーティーのやつはまだ諦めてなかったのか。
「あ、あの…小林君、1年はもう会議室の方に集合してる筈だけど…」
白木さんが恐る恐る声をかけてくれなければ、こいつののらりくらりとした会話に延々付き合わされるところだった。危ない。
「本当、何か届け物でもあったの?」
「ちがうよ~、ビーバー先輩が、こっちの人数足りなくなるかもしれないから、手伝いに行けってさ~」
梧桐君はこの事態を予測していたのだろうか。なんにせよ、助かった。小林は態度はアレだが能力面では文句なしに優秀だ。これなら今日の予定も十分に回せそうだ。
「それじゃあ、こっちで資料の準備をやって頂戴。5時に業者が来るからそれまでにおねがい」
「りょーかーい。俺ってばお役立ちちゃんだから~、真梨センパイ、もっと頼って、褒めてくれてもいいよ~」
「……結果次第では褒めてあげるわ」
その後、他の役員や執行部員も来たので、作業を割り振って篠谷と業者との折衝のために打ち合わせをする。準備や計画の遂行は生徒会の仕事だが、当日の会場設営や料理の提供はそれぞれ専門の業者が行う。具体的な交渉や打ち合わせなどは会長と副会長が先頭に立つので、細かい打ち合わせが必要になるのだ。その作業ももう大詰、今日はほぼ最終的な設営作業の確認が主になる。
「それじゃあ、前日の搬入については役員からは私と篠谷君、職員からは木田川先生と栗山先生が立ち合うということで」
「前日の立ち合いはかなり遅くなりますのであなたは結構です。…また僕が送っても構わないというなら別ですが」
「送っていただく必要はありませんし、それを理由にメンバーから外されるのは納得がいきません。前にも言いましたが、あの程度の距離、一人で歩いて帰れます」
「前にも言いましたが、女性を夜に、あんな暗い道を一人で帰らせるなど僕の信条が許しません。送らせないのなら早めに帰ってください」
…何回目だろうこの会話。いい加減送るのを口実にうちに近付こうとかは止めてもらいたいんだけど…。
「カイチョーまたやってる~。真梨センパイ、嫌なら俺も一緒に送るよ~」
「小林君は寮の門限があるでしょう」
「ん~、でもさ、男と二人っきりで帰るのは妹ちゃんが怒っちゃうんでしょ? じゃあ、俺とカイチョー二人と一緒に3人なら怒られないんじゃね?」
途中でいつものように割り込んできた小林が、名案を思いついたという顔で顔を輝かせる。いや、全然名案じゃないし。むしろ妹に近付く害虫二匹を家まで連れていくとかどんな罰ゲームだ。
「二人とも、送ってもらわなくて結構よ。…わかりました。前日は先に上がらせてもらいます。…それでいいでしょう?」
篠谷に言い負けたようで気に食わないが、この二人に家までついて来られるよりはいい。ため息混じりにそう言うと、二人とも少し残念そうな顔をした。…そんなに妹に近付きたいのか。…させないけど。
「それより、小林君頼んでいた資料はできた?」
「はいこれ~。ところで真梨センパイ、こっちの書類だけど、ここの計算間違ってない~?」
「え? 本当だわ。えっと…これは作成は……」
「あ、私です…ごめんなさい。すぐに直すわ」
白木さんが申し訳なさそうに駆け寄ってきた。栂たちの休みの分も取り返そうと仕事を抱え込み過ぎているのかもしれない。
「いいよ、俺資料作り終わったし、こっちで直しとくよ~。シロ先輩、そっちの書類もまだの分だよね。俺半分引き受けるよ~」
小林がそう言って白木さんの机から未処理の束を持っていく。半分と言いながら、8割がた持って行ってしまっているが、彼なりの親切なのだろう。実際仕事に関して小林は文句のつけようがないほど優秀だ。研修からこっちに回してくれた梧桐君の采配には感謝しないといけない。
「そんな、小林君、あの、私の仕事だから大丈夫よ」
「気にしなくてい~よ~。このぐらい軽いからさ~」
「…小林君、仕事はともかく、先輩なのだから言葉遣いを改めなさい。白木さんに失礼でしょ」
「は~い…。シロ先輩、ごめんなさい」
子供っぽい仕草でぺこりと頭を下げる小林は素直で、見ている分には微笑ましい。もうちょっと図体が小さくて、あの派手なファッションでなければ可愛らしいだろうに…。そんなことを考えていたら、小林の姿が一瞬誰かと重なったように見えた。
「…ん?」
しかし曖昧な影は一瞬で消え、目の前にいるのはいつも通り、図体はデカくて、髪も服装も派手で道化じみた、いつもの小林がいるだけだった。
「葛城さん、ごめんなさい…私の仕事が遅いばっかりに…」
白木さんが申し訳なさそうに肩を落とすのを、気にしないでと首を振る。
「元々栂さんたちの分を多めに引き受けちゃっていたでしょう? 私の割り振りが甘かったの」
「でも…自分から引き受けるって言ったのに…」
「大丈夫。小林君もあれで優秀みたいだから。ちゃんとやってくれるわ。それじゃあそろそろ業者の人が来るから、会長と出てくるわね。最終の決裁が必要な書類はそれぞれの机に。事前チェックの者は香川さんに種類を確認してもらって、遅くなるようだったら会議室の梧桐君に確認後、先に解散していて頂戴」
そう言って私はまだしょんぼりとしている白木さんの肩をポンと叩いて、生徒会室を後にした。篠谷は先に業者を迎えに出ているはずだ。私は出来上がったばかりの資料の束を抱えて、廊下を急いだ。
小走りになってしまっていた所為か、角を曲がったところで反対側から歩いてきた人物とぶつかりそうになる。
「きゃっ!? ごめんなさい! ……吉嶺先輩?!」
3年の代議会副議長、吉嶺橘平だった。長めの緩い癖っ毛をハーフアップにした長身の男は、よろけそうになった私を咄嗟に支えると、いつもの底の見えない微笑みを浮かべた。
「やあ、葛城さん。この時期は生徒会はほんと忙しそうだね」
女性とみれば口説き文句が日常会話の吉嶺も、去年の取引以降、私に対してはそう言った態度を見せなくなった。今のところはただの生徒会副会長と代議会副議長という立場上の付き合いのみにおさまっている。
まあ、だからと言ってこの男のチャラい振る舞いや言動に慣れたかと言えば全くそんなことは無く。今でもできるだけ関わり合いになりたくない男ナンバーツーである。ちなみにナンバーワンはダントツで現剣道部主将だが。
「吉嶺先輩、すみません、急いでいたもので」
「ああ、でも気を付けないと、転んで怪我でもしたら大変だよ。…そう言えば、パーティーの事、聞いたよ。意外な組み合わせだよね、君はどっちかと言えば篠谷みたいなタイプは嫌いだろう?」
「先輩程じゃないですけど。…まあ、私にも色々都合がありまして。…そう言えば吉嶺先輩、今年はパートナーの申請が出てませんけど、大勢連れ歩くにしろ、一人くらいは登録した方が良かったんじゃないですか? 郁子野先輩みたいに卒業されてしまった方を招待する場合は別途申請が必要ですよ」
吉嶺の取り巻きの女性たちの中で、一見遊びと割り切っているように見えて、その実彼にもっとも依存しているのが昨年卒業し、今は桜花の大学部に通う郁子野ゆかり先輩だ。彼女は吉嶺ルートで桃香のライバルとして、二人の関係にひびを入れ、その恋路を引っ掻き回すが、最後は泣く泣く吉嶺を諦め、二人の前から去っていく。その後どうなったかはゲーム中では語られていない。
「ああ…今年は面倒くさくなって申請してなかった…。ゆかりは来ないし、他の子も登録なしで全員平等ならその方がいいってさ」
「わあ、最低な理由ですね。他の2,3年男子に刺されないように気を付けてくださいね」
思わず棒読みになる。むしろ刺されればいいのに、という蔑みの視線を投げれば、なぜか嬉しそうに微笑まれた。え、なに気持ち悪い。
「まあ、気を付けるよ。君こそ篠谷ファンに気を付けないと、結構過激な子がいるからね」
一番過激な子はいなくなってしまいましたけどね…。
……もし、沢渡が学園に残っていたら、胡桃澤と互いに支え合ったりしただろうか。彼女達両方の手を取る未来もあっただろうか。そんなことを考えながら歩いていて気付く。
「……吉嶺先輩、何でついてきてるんです?」
さっきの角で反対側から歩いてきたってことは、そのまま私と反対方向へ行こうとしてたんじゃないのだろうか。にもかかわらず、吉嶺は私の隣を悠然と歩いている。
「ちょうどいいから少し話でもと思ってさ。…今、学園内の勢力図がどうなっているか、知りたくないかい?」
「内部生と外部生、特待生のバランスが崩れつつあるっていうのは感じています。…先輩も噂を聞いたんですよね? どんな話になっていましたか?」
「んー、胡桃澤のお嬢ちゃんが沢渡のお嬢ちゃんと結託して特待生とその代表である君を脅迫、場合によっては暴行も加えて怪我をさせた。そのほかにも二人で役員権限を悪用した不正を数々犯して、今胡桃澤のお嬢ちゃんが学園に残ってるのは親が理事会に顔が効くからだって言うのが一番勢いがある噂みたいだよ」
「それは…真実とは異なります」
事実をなぞっているようで大きく偏った内容は胡桃澤と沢渡に非難を集中させている。主犯だった橡圭介の名前が挙がっていないのはどういうわけだろうか。
「そうなんだよね。俺と石榴はそれなりの伝手があるからあの事件の真相についてもほぼ正確な情報は掴んでたんだけど、あまりにも聞いてた話と今回の噂にズレを感じる。…誰かが意図的に噂を流してるんじゃないかな」
「だとしても、誰が…?」
「さあ…? ともかく噂によって特待生は被害者側として徹底的に彼女を断罪すべきって意見が出てるし、外部生もどっちかっていうとそっちより。内部生は…下手に胡桃澤を庇えば自分たちも同類扱いされるから口を噤んでるって感じかな」
もしそれが本当なら、この噂で得をしているのは少数派でありながら強気の発言ができるようになった特待生という事になる。けれど、それなら橡たち主犯だって内部生だったのだから、噂の中で名前が上がらないのはおかしい。むしろ橡たちが極端な内部生優遇主義者だったことを絡めればより特待生有利な噂に仕立てることだって可能だろう。
この噂によって、印象をもっとも貶められるのは、事件の中枢にいたと思われながら、親の保護で学園に居残っているとされた胡桃澤のみだ。事件を知らないものが噂だけで彼女を断罪し始めたら、いくら気丈な彼女でも、学園にはいられなくなるだろう。彼女が耐えると言っても、彼女を大切に想う父親は転校を進めるに違いない。
…この噂を流した人間の意図がそこにあるのだとしたら、胡桃澤個人を何らかの理由で激しく恨んでいる人間がいることになる。もちろん、いじめ被害者の誰かが、すべての恨みを一人で学園に残っている胡桃澤にぶつけた可能性も高いけれど…。
「とにかく、今のところ流れは胡桃澤のお嬢ちゃんに不利な状況に傾いている。何と言っても噂っていうのはそうそう止める手がないからね。乗せられてる奴らが飽きるのが先か、お嬢ちゃんが耐えきれずに逃げるのが先か、って状況だと思うよ」
「……吉嶺先輩はどうしてそんな話を私に?」
「んー? 君がどうするのかが見てみたいから。俺としてはあのお嬢ちゃんひとり学園からいなくなったところで、特に問題はないし、分かりやすい悪者を一致団結して退治したって気分になれば、内部生も外部生も仮初の連帯感で結ばれる。あとはそれを維持して本物に仕立てればいい…」
吉嶺の言葉に無言で足を止めた私を、数歩先で彼が振り返る。その人を喰ったような微笑みに、こちらも微笑みを返して、一瞬で間合いを詰めると、その頬に遠心力を利かせた平手打ちをお見舞いした。
乾いた音が響いたが、吉嶺は避けるでもなくたたらを踏み、赤くなった頬を抑える。その顔には楽しそうな笑みが浮かんでいる。うん、殴られるってわかってて言ったんだとしたら、なおのこと気持ち悪い。
「胡桃澤一人を犠牲にして嘘っぱちの平和を手に入れるくらいなら学園を二分して争わせた方がマシです」
内部生と外部生が協調して欲しいとは思っていたが、たった一人をいじめて得られる平和など、その子がいなくなれば次のスケープゴートが選ばれるだけだ。そうやって弱い者を一人一人切り捨てていくような団結など、求めてはいない。
「でもさ、もう噂は広がって、流した本人さえ止められないだろう所まで来てる。特待生は恰好の敵ができ、内部生は保身のために彼女の排斥に動くだろう。…どうやって止める?」
涼しい顔で現実を突きつけてくるこの男をもう一度、今度は拳で殴りたい。けれど、吉嶺の言う通り、一度流れ出した噂は嘘も本当も飲み込んで肥大しながら膨れ上がっていく雪玉みたいなものだ。そう簡単に砕いてなかったことにはできない。
「……そうやって高みの見物ぶるのは楽しいですか? 吉嶺先輩ってほんっとうに性格いけ好かないですね」
「ああ、なんせ俺は君の事が大っ嫌いだからね。君がその賢しい頭で知恵を絞りに絞ってもがいているのを見るのが楽しくてたまらないね」
去年のお互いに大嫌い宣言以降、吉嶺は私に対してよく、こういう言い回しをするようになった。正直なのは結構だが、お互い様なんだからもうちょっと内心に秘めておけよと思う。仕事上、最低限のお愛想は必要だろ。
「奇遇ですね。私も吉嶺先輩の事が大嫌いなので、先輩を楽しませるために動く気はさらさらありません。期待通りの結果にならなくてもクレームとかつけないでくださいね」
今のところ、劇的な解決策が思いついたわけではないが、苦労していると見せれば相手が喜ぶと知ってそれを悟らせるつもりはなく、私は精一杯の余裕の微笑みで答えた。