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まだ書き直し範囲です。
「ダメ―――――――――!!!」
叫び声と共に突き飛ばした少年がそのまま背後の池に転がり落ちる。腕に抱きしめた『妹』は一瞬呆然としたものの、すぐにはっとして叫んだ。
「ゆうくん?!!」
その声で『私』は我に返る。頭は割れるように痛い。流れ込んできた記憶や情報、知識がぐるぐると脳みそを引っ掻き回しているようだった。できることならそのまま意識を手離してしまいたい。
それでも目の前で子供が溺れているのを見過ごすわけにはいかなかった。ましてや突き落したのは自分である。
ふらつきながら池に飛び込む。『妹』のさらなる悲鳴が響いたが、構わず水の中を進む。入ってみればその池はお腹ぐらいまでの深さしかない。充分に足が着くはずだがもがいて暴れる子供は上手く立てないでいるようだった。
「落ち着け! 『ボク』につかまれ!!」
自分の口から出る声や言葉に違和感を感じる。『ボク』って誰だっけ? こんな声、してたっけ…? 『私』は……いったい…。
散漫になる思考を振り払ってもがく子供の腕を掴み、引き寄せる。抱きしめて落ち着かせ、ゆっくりと立ち上がるよう促す。やっとのことで自力で立ち上がった子供は恥ずかしさと混乱からか涙ぐんでいる。その手を引いて岸まで歩いて上がらせる。暴れたせいで底の泥を跳ね上げ、頭から被ってしまった少年は白い服も金色の髪も泥まみれだ。水が鼻や口に入ってしまったのか苦しげに咳き込んでいる。
「怪我はない?」
尋ねながらポケットからハンカチを出して絞る。水が沁みてしまっているが泥は付いていない。硬く絞って少年の顔や髪を拭う。質問への返事はないので、手や足を触って確認する。どこにも怪我は無いようだった。
「…良かった…」
ホッとして顔が緩む。自分が突き落したとはいえ、怪我をさせるつもりなんてなかった。ただ『妹』から『彼』を引き離さなくちゃいけないって思ったから…。
……? 『妹』って…誰だっけ…? 『私』は一人っ子だったはず……いや、違う…『桃香』は『ボク』の妹だ…。
緊張が緩んだとたん、頭痛と混乱がぶり返す。『妹』や『両親』との記憶、『ボク』の思い出……それとは別の、『私』の記憶…。
「……何で…?」
目の前の少年の言葉に顔を上げる。碧色の大きな瞳に自分の姿が映っている。男の子のような短い髪、吊り上がった気の強そうな瞳…およそ記憶にある『私』とは別の顔…けれど、それが『自分』の顔なのだと分かってしまう。この顔を鏡で見た記憶も自分の中にあるのだ。ごちゃ混ぜの二つの記憶が『私』の中にある。
『私』は…『ボク』だ…。
「何で…助けてくれたの…?」
少年の言葉に、混乱する意識の中でも、答えるべき言葉が一つしか浮かばなかった。『ボク』は…
「『私』は……」
言葉は掠れ、意識が遠退く。視界の端で、『妹』の『桃香』が離れたところにいた両親を連れて戻ってくるのが見えて、『私』は意識を失った。
雀の声に起こされ、私は目を覚ました。視界には可愛い妹が可愛いパジャマ姿で私に可愛くしがみついて眠っている。そういえば昨晩は久々に一緒に眠ったんだっけ。寝る前に正座でお説教をされたけれど。
曰く、たとえ同級生の気遣いであっても男子の車に二人きりで同乗して帰ってくるのは互いの外聞の為にも良くないと言うような内容だった。一応、運転手もいたから二人きりではないと言ってみたが、お金持ちの家の車に置いて、運転手なんて空気みたいな存在だからあてにはならないと論破されてしまった。…言われてみれば車の中であんだけ喧嘩してたのに、われ関せずの態度だった。そう言うと、なぜか呆れたような声で、「それを喧嘩だと思ってるのはお姉ちゃんだけだよ」と言われた。どういう意味だろうか。私の言葉なんて軽くあしらわれているってことだろうか? そう言えば最近口喧嘩の最中楽しそうに見えるときがあるんだよな、あの男。
…小さい頃はまだ可愛げがあったのに。
ムカつく顔を思い浮かべた途端、先ほどまで見ていた夢を思い出した。正確には夢と言うよりは過去の記憶なのだが。
あの日、突然前世の記憶を思い出してしまった私は溺れる篠谷侑李を助けた後、そのまま気を失った。気が付くと病院で、三日三晩高熱にうなされていたのだと告げられた。
意識を取り戻した私を待っていたのは母と桃香の盛大なお説教だった。よそ様の子供を池に突き落とすような乱暴な娘に育てた覚えはないと拳骨で頭をぐりぐりと締め上げられ、桃香からは「お友達にいじわるするお姉ちゃんなんか嫌い!」と泣かれた。愛娘へのプロポーズを未遂で防がれた父親だけは後からこっそり「よくやった」と言ってきたけれど。
退院したのち、篠谷の家に一度だけ、謝罪とお見舞いに行ったが、使用人の女性に門前払いをされてしまった。大事な一人息子を危険な目に会わされたご両親は激怒していて、親子ともども会いたくないと言っている、と告げられた。お見舞いの花もお菓子も突き返されて、それ以来、高校で再会するまでは連絡を取ることもなかったのだ。
病院で目を覚ました時には私の記憶の混乱も治まっていて、私は突然思い出した前世らしき記憶も、それまで生きてきた『葛城真梨香』としての記憶もどちらも自分のものだと認めざるを得なくなっていた。鏡で自分の顔を見ても違和感は感じない、母親の柚子や父親の椿を見ても、自分の両親だと感じられる。大好きな桃香は確かに自分の妹だ。
……それでも事実を受け入れるには時間がかかったけれど………。
今では桃香の事が世界で一番大事だ。前世でプレイしたゲームの中で、たくさん泣いていた桃香。あんな運命にだけは絶対にさせない。
「…ぅん…? おねえ…ちゃん…?」
サラサラの黒髪を撫でていたら桃香が目を覚ました。寝ぼけ眼を手の甲でこする仕草が幼くて、とんでもなく可愛い。
「おはよう、桃香。私はご飯の用意してくるから、もう少し寝てても大丈夫よ」
そう言ってベッドを降りると、桃香がとろんとした目つきのままついてくる。
「手伝う…」
私のパジャマの裾を掴んでついてくる様子は子供の頃、何処へ行くのも私にくっついて離れなかった時と同じで、思わず抱きしめる。ああ、天使がここにいる。
そうして私は姉妹水入らずで朝の支度にとりかかったのだった。
二人で登校していると、自転車に乗った生徒会庶務の梧桐宗太君が後ろから追いついてきた。
「おはよう。二人とも早いね」
「梧桐君こそ。生徒会のミーティングにしてもちょっと早いんじゃない? 私は桃香の朝練に合わせてるのだけれど」
「仲良いなあ。僕は朝早く来て教室で少し予習するのが日課なんだ。家だと兄弟がうるさくて集中できないから」
特待生の梧桐君の家は上にお兄さんが一人、下に弟が3人いるらしい。お兄さんはすでに社会人だが、下の弟たちの学費の事も考えて、負担の少ない特待生枠で桜花学園に入ってきたのだそうだ。努力家で勤勉な彼は実は学年トップの頭脳の持ち主だ。ちなみに次席は私と篠谷で争っている。昨年度の学年末では篠谷に惜敗を喫したので、次の中間テストでは巻き返しを図りたいところだ。
「梧桐君の所も仲がよさそうだわ」
「男兄弟なんてむさ苦しいし煩いだけだよ」
世間話を交わしながら、朝練に向かう妹を見送り、教室に向かうと言う梧桐君と別れ、図書館へと来た。早朝にもかかわらず、司書のおばちゃんが出迎えてくれた。聞けば寮の方に住み込みで働いている用務員さんとご夫婦なのだそうで、旦那さんが早番の時は一緒に出勤してくるらしい。蔵書の整理や修繕などをしながら過ごしているが、時々私みたいな生徒が早くから来ることもあるので、事前に予定を確認していれば開けてくれるそうだ。
先日借りて読み終わった本を返却すると、書架を見て回る。最近読んでいるのは時事問題を扱ったノンフィクションだった。何冊か手に取って、パラパラとめくっては戻す。中々ピンとくるものがないな、と歩き回ってると、上の方の棚に面白そうなタイトルが見えた。周りを見るが踏み台が近くに無い。背伸びして手を伸ばせばギリギリ届きそうな気がして、そのまま手を伸ばしてみる。
「…あと…ちょっ…」
もう少しで届きそうな高さに、諦めきれずプルプル震えながら爪先立ちしていると、背後に人の気配がした。ひょい、と伸びた手が私の取ろうとしていた本を軽々と手に取る。振り返ると赤みを帯びた黒髪を片目が隠れるようなアシンメトリにカットした青年がパーカーの袖をプラプラさせながら立っていた。
「真梨センパイ、こんなの読んでんの~」
間延びした喋り方でペラペラと本のページをめくっている。私が読もうとしていたのに、横取りされてしまった。思わず恨みがましい目つきで睨んでしまう。視線に気づいた小林檎宇はへらっと笑って本を差し出してきた。
「はい。無理に取ろうとすると頭に落ちてきちゃいそうだったから取ってあげただけだよ~」
邪気のない顔で告げられ、気恥ずかしさに頬が熱くなる。見てたんなら声くらいかけて欲しかった。必死で背伸びしてるところを見られてたなんて…。もうちょっと登場が遅かったらピョンピョン飛び跳ねてしまっていたかもしれない。それはさすがに先輩としての威厳が失われそうだ。
「……あ、ありがとう。小林くんはどうしてここに?」
「俺~? 司書のおばちゃんと仲良くなったから、入れてもらった~。用務員のおじちゃんとも仲良いんだ。あの人でしょ? 入学式の日に子猫ちゃん預かってくれたの」
意外な人脈に驚いた以上に、小林が早朝の図書館にわざわざ入れてもらうほど本好きだという事に驚く。ゲームでは授業はサボるは先生のいう事は聞かないわの不良タイプだったのに。聞いた話では今現実の小林は授業にも真面目に出ているし、先生のいう事もちゃんと聞く。服装と髪の色や髪型以外はごく真面目な生徒だと言う。
何が彼をそんなに変えてしまったのだろう。もちろん、悪い変化ではないようなので、桃香にさえ近づかないでくれれば更正する分には大歓迎なのだが。
「でも朝から真梨センパイに会えるなんて、ちょ~ラッキ~。ね、この後生徒会のミーティングだよね? 1年も出ていい?」
本来なら1年生は仕事を覚えるまでは放課後に研修を兼ねての作業のみで、新入生歓迎パーティーの後から本格的な執行部の仕事が始まる。今朝の早朝ミーティングも2、3年の執行部員と、役員、1年からは役員である加賀谷桑と香川茱萸だけが出席予定だった。手伝いの手が増えるのは助かるが、一から教えながらというのが大丈夫かなと不安にはなる。
「簡単な書類整理とかなら…手伝ってもらえると助かるけど…」
「じゃあ、き~まりっ! いこいこ!」
承諾の返事にぱっと破顔した小林に手を引かれる。はしゃぐ様子は図体の割に子供のようで、にかっと笑う口元から覗く八重歯が幼さを強調する。
「あの…一緒に行くのは構わないけれど、手は離して頂戴」
「え~、やだよ~」
いや、このままの状態で司書のおばちゃんの所に行くとか何の拷問だよ。小林に取ってもらった本はありがたく借りて帰るつもりだけど、だからと言って彼と手を繋ぐ理由はない。ぶんぶんと振りほどこうともがいてみても、びくともしない。痛くはないのでそんなに強い力で掴まれてる気はしないのに、全く振りほどけないのだ。
「はーなーしーてー!」
「い~や~で~すぅ~!!」
パーカーの袖越しに伝わる温もりに恥ずかしさと焦りが募る。司書のおばちゃんは優しくていい人なのだが、噂話好きなのがたまに傷なのだ。妙な誤解をされて噂になったりしたら、それが桃香に伝わったりして誤解されたら軽く死ねる。他の誰に何と思われようと、桃香にだけは誤解されたくない。
「…っ…痛っ!」
「え? センパイだいじょ~…づっ!!?」
ちょっと弱々しい声を出して痛みを訴えた私を振り返った小林の足を思いっきり踏みつける。痛みに呻きながら蹲った小林から力が抜けた隙に手を振りほどいた。
「ちょっ…センパイひどいよ~」
「離せって言っているのに離さないからよ」
ふんっと鼻息も荒く見下ろせば、相当痛かったのか涙目で見上げられた。上目づかいで訴えてくる様子は大型犬のように見えなくもないが、油断はいけない。こいつは躾のできていない駄犬だ。
「今度からは私が手を離せと言ったらちゃんと離しなさい。あと、背中に伸し掛かってくるのも禁止。重いんだから、潰れちゃうでしょ?」
「……前は潰れなかったのに~」
「? 何か言った?」
ぼそっと何か呟かれたが聞こえなかった。聞き返すと小林は何でもないと唇を尖らせた。そういえば昨日篠谷がこの子の事で気になることを言っていたっけ。
「そういえば、小林君、昨日篠谷会長が言っていたんだけど、君、私の家を知ってるの?」
「カイチョーが? ……耳ざといな…」
またしても何か小声で呟かれて、首をかしげると、何かこちらを見上げながら少し考える様な表情になった。
「……真梨センパイのおうち、正確な場所は知らないけど、大体の場所は知ってる。西町のコンビニの近くでしょ?」
「何で知ってるのよ?」
「………見かけたこと、あったから…?」
何故に疑問形なんだよ。いきなり歯切れの悪くなった会話に疑念が頭をもたげる。まさか、桃香の家をこっそり調べてるとかじゃないよな? 桃香の口から小林の話題は殆ど出ないので油断していたけれど、クラスメイトなので、教室で会話することもあるだろう。私の知らないところで桃香への好感度を上げてしまっていて、家を調べて、姉である私にも桃香目当てで近づいたとか…?
「……なんかよくわかんないけど、多分お姉さん誤解してるよね?」
「お姉さんとか呼ぶな!」
「……やっぱ思い出さないし」
さっきから度々聞こえない声でぼそぼそ呟く小林にいら立ちが募る。
「言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
「………じゃあ、言うけど~。………お姉さ…じゃなかった、真梨センパイ」
「な、何よ?」
急に真剣な顔で見上げられて、どきりとする。普段がふざけている所為で忘れがちだが、この子も顔は人形のように整っているのだ。私は内心の動揺を悟られないように、胸を張り、腕を組んでふんぞり返って見せる。すると小林はにへらっと子供のような笑顔を浮かべてみせた。
「……もうちょいで、見えそう。この体勢、意外と絶景かも~」
「!!!」
さっき踏んだのと反対の足も踏み抜いてやる。
「さいっっってい!」
そのまま痛みに呻く小林を置き去りに、私は図書館を後にした。やっぱり、あいつが桃香に近付くのは絶対に阻止しよう。そうしよう。
怒りも治まらぬまま生徒会室のドアを開けると、こちらはなんだかご機嫌な様子の篠谷が会長の椅子に座って仕事を始めていた。
「おはようございます、真梨香さん。どうしました? 今朝はなんだかご機嫌が麗しくない様子ですね?」
「……たった今不機嫌の要因がもう一つ増えました。…いえ、何でもありません」
そういや昨日なんだかんだで名前で呼ばれることになったんだった。今思い出しても迂闊だったと思うけど、本気で昨日の今日で名前呼びしてくるとも思ってなかった。売り言葉に買い言葉的な言い争いだったと思っていたんだけど…。
そういえば、昨日の事で思い出した。
「篠谷会長、昨日は送っていただいてありがとうございました。でもやっぱり大した距離もないし、今度からは送っていただく必要はありませんので」
やんわりと送ってもらう事への断りを申し入れると、篠谷のまとう空気が少し冷え冷えとしたものになる。
桃香目当てとはいえ、親切で送ってもらっておいて、こんな事を言うのは失礼なのかもしれないが、桃香の言う通り、二人で車に乗ってご近所に誤解されるのも、車に乗るところを他の生徒に見られて誤解の上いらぬ嫉妬を浴びるのも不本意だ。
なにより、あの二人きりの気づまりな沈黙と、その後の口喧嘩にしかならない会話は不毛の一言に尽きる。
「夜までの居残りで女性を一人で帰らせるなんて許される行為ではないと僕は思うのですが?」
「うちは自分の身は自分で守れと言うのが母の教えですので」
「学友と車で一緒に帰るくらい構わないと思うのですが?」
「歩ける距離なら歩けと言うのが武道の師匠の教えでして」
「…なるほど、でしたら徒歩でならお送りしても構いませんね?」
「……篠谷家の嫡男に方角も違うのに歩かせたりしたらファンの女生徒に闇討ちされそうなんですが」
送られた方が危険が増すってどういうことだよ。そうやって送るの送らなくて結構だのの押し問答をしていると、間延びした声が割り込んできた。
「じゃあ俺も真梨センパイを送りたい~」
背中に重量がのしかかり、不毛な会話をさらに混乱させる奴が現れた。視界でぶらぶら揺れるパーカの袖を結んで手が出ないようにさせてやりたい。
「小林君、背中に伸し掛かるのは禁止と言ったはずよ。離れなさい」
「そうですよ。女性に対して不用意に抱き着くのは失礼です。離れなさい」
「嫌がってる女の子にしつこく一緒に帰ろ~って言うのはしつれ~じゃないの~?」
真理ではあるが、お前が言うな。
「真梨香さんは不用心な上自覚が薄いので放ってはおけないだけですよ。…見知らぬ男に家まで付け回されてる可能性もありますし」
「へ~、そんなのいるんだ~。こっわ~い。ところで何でいきなり真梨センパイの事名前で呼んでんの~? 昨日までは『葛城さん』って呼んでたのに~??」
「『僕たちの事情』なので君にお教えする必要はありませんね。それより君は何をしに来たんですか? 1年生の執行部員は放課後だけで結構ですよ?」
「お手伝いですよ~真梨センパイからも『助かるわ』ってお願いされたし~」
「…ほう…ここに来る前にお二人でそんな話を…?……ちなみにどちらで?」
「え~?? 『俺たちのジジョー』って奴だから教えな~い!」
…人の頭越しに意味不明の喧嘩するの止めて欲しいんだけど。やっぱりこの二人は相性が良くないみたいだ。仕事とかはできるだけ組ませない方がいいかもしれないな。
そんなことを考えながら睨みあう二人の隙間をくぐって自分の机に向かう。小林には処理済み書類の中でファイリングする分を整理してもらおう。あとは使い終わった資料の片付けと…。
そんなことを考えながら作業を分類していたら、梧桐君や他の生徒会役員、執行部員も登校してきた。全員揃ったところで現在の進捗状況を確認、各自書類作成や資料整理に別れる。
「小林君はこの書類を分類してファイリング、それが終わったらこの資料を隣の資料室に片付けてきてほしいの。やり方は…白木さん、お願いできるかしら?」
「ええ、小林君…ね。2年の白木由美子です。よろしくね。今の時期は特に忙しいから、手伝ってくれて助かるわ」
白木さんが書類の束を手に小林を作業机まで案内するのを見送ると、私は自分の仕事へと戻った。
「白木さんの足を引っ張らなきゃいいけど…」
そんな私の呟きは十数分後には覆されるのだった。
いくつかの書類を職員室に届け、生徒会室に戻ると、驚きの光景が広がっていた。資料室での片付けを命じていたはずの小林檎宇がパソコンの置かれた執行部員の机に座ってキーボードを高速でブラインドタッチしていたのだ。
周りにいる2、3年の執行部も唖然と言った様子でそれを見守っている。
「……何してるの?」
「あ、真梨センパーイ!」
パソコン扱うときはさすがに袖はまくっているらしい。細く、長い指が目にもとまらぬ速さでリズミカルに動いている。…いや、問題はそこじゃなく。
「いやあ、すごいね、彼。資料の片付け速攻で終わらせちゃったから書類作成を教えてたんだけど、あっという間に覚えちゃって…。この分だと、作業予定を前倒しできそうだよ」
梧桐君は出来上がった書類を書記の香川さんとチェックしている。その量を見ても、作成済みの書類がすでに結構な枚数になっているのが分かる。白木さんと錦木さんが処理済みの書類をファイリングしている。錦木さんは私と目が合うと、軽く会釈をして書類に視線を戻す。白木さんが何枚かの書類を持って駆け寄ってきた。私の決裁が必要な分だろう。受け取ってチェックする間にも、小林の手は高速で動いて新たな書類を打ち込んでいる。
「小林君ってそんなに優秀だったの?」
思わず零れた言葉に、当の小林がえ~? と首をかしげる。
「習った通りに作るだけだし、簡単じゃん? 俺、こういうの得意だし~」
「…小林はあれで、学年上位の成績なんですよ」
私の隣にいた加賀谷が更に信じられないことをのたまった。小林はサボり魔の不良じゃなかったの? 私の驚愕に満ちた表情に何を思ったのか加賀谷が親切に説明してくれる。
「見た目と言動がああなんで、先生たちの評価は厳しいんですけど、去年ぐらいから授業にも真面目に出るようになって、途端に成績が一足飛びに伸びて中学最後の学年末では首席でしたよ。…見た目は逆に去年くらいから派手さがエスカレートしましたけど」
えーっと、それは誰の話? むしろ見た目は私の記憶通りなんだけど。中身が伴わないよ? 私の知るゲームの小林と、現実の小林が違いすぎて混乱する。いったい何が彼を変えたって言うんだ? このままだと彼のルートやフラグはどうなってしまうのだろう…。
混乱をきたしつつも、口には出せないので、そのまま自分の席に着く。目の前には予定していた書類の束に数枚の追加。とにかく今はゲームの小林ルートの問題は後回しにしなくちゃいけない。
心を落ち着けて、仕事に集中する。
「すごい1年が入って来ましたね」
白木さんが感嘆の溜息をつきながら小林から渡された書類を分類して私の所に持ってくる。
「チェック済みですけど、ミスも全然ないんです。書式も見やすいし、彼一人で2、3人前に働いてくれてます」
たしかに、小林が作った書類は正確で、ミスもない。
……もし、小林がゲームと違って真面目な優等生になったとしたら…その上で桃香と恋をしたら………いや、こいつの家の問題がある限り、賛成はやっぱりできない。駆け落ちエンドで桃香と会えなくなるのも嫌だ。
…まったく仕事に集中できていない。このままでは私の方がミスをしそうだ。
「…気になりますか? 彼の事が」
篠谷の低い声に視線をそちらに向けると、思いがけず真剣な表情を向けられ面食らう。いつもは胡散臭い笑みを絶やさないくせに、そんな表情をされると本当に人形のようだ。ゾクリと背筋に冷汗がつたう。
「……先ほどから書類よりも彼の方が気になる様子でしたね? 手がほとんど動いていませんでしたよ?」
「…すみません。仕事に集中します」
最初の質問には答えず、目の前の書類に視線を落とす。けれどそれで誤魔化される篠谷じゃない。
「…気にしていたことは否定しないのですね」
「……ちょっと意外だったので驚いただけです。会長こそ仕事に集中してください」
「僕はあなたと違って手も動かしていますので。…珍しいですよね、あなたが男性の事を気にかけるのは」
実際篠谷は書類の処理が速い。こうして話している間も手はよどみなく動き、おそらくだがミスもない。一緒に仕事するようになって知ったが、こと実務能力については生徒会長として十分すぎるほど優秀なのだ。
「…別に、本当にただ驚いただけです」
「……そうですか? ………まあ、そういうことにしておきましょう。あ、葛城さん、こちらの書類、確認をお願いします」
篠谷はまだ何か言いたげだったが、仕事が押していることもあり、それ以上はないも言わず、手元に視線を戻していった。私も溜息を一つ付いてから今度こそ仕事に集中した。
朝の仕事が終わり、役員同士で放課後の予定を確認するミーティングのあと、授業の為教室のある本校舎へ向かう。
「ねー、真梨センパイ、俺わりとお役立ちだったんじゃない~? 明日からも来ていい~??」
何故か私たちが生徒会室から出てくるのを待っていた小林がついてきた。先に教室に行くよう言ったのに。
「…それは…来てもらえたら助かるけれど…」
「他の執行部員1年も早く通常活動に参加したいという者は多くいます。小林君だけ特別扱いすると執行部内の反発を招くでしょう」
篠谷の言葉に小林はむーっと膨れてみせる。…高校生にもなってそういう表情が似合うのはどうかと思う。
「1年の執行部員はこれから仕事を覚える必要があります、が、新入生歓迎パーティーが終わるまでは役員も初心者の指導に割く時間があまりないんです」
「俺もう仕事覚えたんだからいいじゃん~」
「他の生徒への示しというものがあります」
「真梨センパーイ! カイチョーが俺の事仲間外れにしよーとする~」
飛びつこうとしてくる小林をよけながら歩く。だいぶ動きが読めるようになってきた。
「まあ、会長が言うんだったらしょうがないわね。どうしても手が必要だったりしたらお願いするかもしれないけれど、新歓パーティーが終わるまでは放課後の研修会で頑張ってちょうだい」
目の前で駄々っ子のように振り回されるパーカーの袖を見ながら言えば、文字通りのふくれっ面で拗ね始めた。面倒くさい子だな。
「…だって、けんしゅーかいって真梨センパイじゃなくてそこのビーバー先輩と加賀谷がせんせーで、真梨センパイ一緒に仕事しないんでしょ~?」
「先輩に対して妙なあだ名をつけるんじゃないわよ。梧桐君に失礼でしょう?」
「ああ、僕は気にしてないから大丈夫だよ。友達にもよく言われるんだ。ビーバーに似てるって。それに先輩ってつけてくれてるし」
おおらかに笑う梧桐君の懐の深さをほかの男性陣は見習ってほしい。今の生徒会で一番の人格者は梧桐君だと思う。
「とにかく、小林君は放課後は他の1年生と一緒に研修。優秀なのはわかったから、まずは基礎をしっかり頑張ってちょうだい。他の執行部員と連携を作るのも、今の1年生のお仕事よ」
「う~~。真梨センパイがそう言うなら、頑張る~」
本当に、何で小林はこんなに私に懐いているんだろう? 全く心当たりがない。唯一の接点と言えばやっぱり桃香のクラスメイトだという事くらいなので、おそらくは将を射るための馬だと思われているのだろうけど…。
本校舎に入ったところで、生徒たちがざわついているのに気が付いた。嫌な予感がして、騒ぎの中心を探す。その時、凛と響く声が聞こえて、背筋がゾワッと総毛だった。
「桃香?!」
声のした方へ走ると、そこには廊下に膝をついた状態で座り込むの胡桃澤と数人の女生徒がいた。中心にいるのは執行部2年の栂まなみだ。そして彼女たちと胡桃澤の間に立って栂を睨み付けているのは妹の桃香だった。