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呼び出されたのは中庭の東屋だった。桜花学園の中庭はその名の通り立派な桜の木が点在し、その合間に四季折々の木々や花壇が配置され、天気の良い昼休みなどは人気のお弁当スポットになっている。
放課後で少し肌寒くなってきている今の時間は、私と待っていた彼女以外の人影はない。
「遅くなってごめんなさい」
「気にしないで。でも…今の時間だとまだ仕事は途中じゃないの?」
錦木さんは参考書を読みながら待っていたらしい。赤線や書き込みのいっぱい入ったそれを閉じるのが見えた。彼女に向かい合うように、その正面のベンチに腰を下ろす。
「仕事が終わるまでなんて、暗くなってしまうわ。少しだけ抜けさせてもらったの。…だからあまり長くは話せないんだけど…」
「構わないわ。そんなに長くはかからないから。……単刀直入に言うと、胡桃澤嘉穂のことなんだけど」
そう言って錦木さんは言葉を切った。その表情は静かで、感情が読み取れない。先刻の階段でのことも、見ようによっては胡桃澤を救ったようにも見えた。彼女は正義感の強い姉御肌な所があるから、栂たちのやり方が受け入れられなかっただけかもしれないけど。
「葛城さんは、彼女の事、どう思ってる?」
探るような視線。暫く迷ったけれど、私は正直な気持ちを話すことにした。
「…嫌いじゃないわ。やることなすことまだ全然幼稚で困った子だと思うけど、手を引いてあげたいと思う程度には」
「そう……。私は正直いけ好かないわ」
錦木さんのきっぱりとした言い方に思わず苦笑いが零れる。嫌いという割には彼女の表情は穏やかだ。
「………あの子、今日私の所に謝りに来たのよ」
「え?!……一人で??!」
先日、少し考えるとは言っていたけど、あの子が自らそう言う行動に出るとは思ってなかった。その前に篠谷辺りに相談しに来るんじゃないかと思って来たら教えてもらうよう言ってたんだけど…。
「いえ、会計の…加賀谷君が付き添いで来てたから、男連れで謝罪とかふざけてんの? って門前払いにしてやったけど」
「あー、それは…もしかすると加賀谷少年が余計な気を回した可能性が高いわね…」
あのマッシュルーム、あとでデコピンして説教しよう。
「…そうじゃないかなとは思ったんだけど、それならそれで、彼女から付き添いを断るべきだったんじゃないかと思って」
「それは…そうかもしれないけど…」
胡桃澤が今、何処へ行くのにも加賀谷と一緒なのは、端的に言ってしまえば、今の彼女には加賀谷以外親しい友人がいないからだ。
昨年の事件以前、胡桃澤の周りには友人を名乗る者が大勢いた。男子が殆どだったらしいが女子も多数いた。昨年の事件の後、彼らは胡桃澤が事件とは別に関わっていた空き教室使用についての不正書類の件で学校側から聞き取り調査をうけた。結果、その殆どが、すべての責任を胡桃澤に被せた上で、彼女から離れて行ってしまったらしい。
胡桃澤の言っていた、最初は友達に頼まれて、という部分も、全員が全員口を揃えて胡桃澤が自分から使わせてやると言ってきたと答えたため、胡桃澤の単独犯行と判断されたのだそうだ。その後、不正にまったく関わっていなかった取り巻きも少しずつ彼女から距離を置くようになり、高等部に入る頃には周囲から誰もいなくなっていた。
高等部で生徒会役員を外されたことで更に1年生の間での彼女の評判は落ち、臆測や噂が飛び交い、外部入学生も胡桃澤には近づいて来ないそうだ。
そんな状況で唯一の味方である加賀谷に依存してしまうのはある意味仕方のないことかもしれないけど、そこに籠ってしまったら胡桃澤のせっかく開きかけた目を閉ざしかねない。今はきつくても、彼女は一度一人で世界を見ないといけない。自分が味方だと思い込んでいたものの正体を、自分が敵だと思い傷つけたものの正体を、誰かのフィルターを通してじゃなく、自分の目で見ないことには、彼女は本当の意味で反省できない。
「もう少しだけ、長い目で待ってもらえないかしら? きっとあの子はまたあなたの所に来ると思うの。…今度は一人で」
「…随分買ってるのね。……葛城さんには申し訳ないけど、何度来ても私の答えは変わらないわ」
「………」
「……あの子が今どういう状況にいるのかは分かってはいるのよ。でもまだ、許せるかっていうと、無理。あの子が橡たちに加担しなければ、あんな事は起きなかったし、私も由美子もこんなモノ抱えなくて済んだ」
錦木さんがそっと制服の上から脇腹を抑える。加害者家族が体面と口止めの為に支払ったという高額な治療費のおかげでだいぶ薄くなったと言っていたが、そこには薬で焼かれた痣が残っている。
「お風呂や着替えの度に目について、あいつらの笑い声が聞こえる気がして、最低の気分になるの。あいつらも、あいつらを庇った家族も、あいつらに手を貸した前書記と胡桃澤も、全員同じ苦しみを味わえばいいのにって。いえ、むしろこの手で味わわせてやりたい。あの白い肌を同じように焼いて爛れさせてやりたいって…」
「錦木さん」
暗く淀んだ声音に思わず声をかける。彼女がそれを実行に移すとは思えなかったけれど、その声には本気の怒りと憎悪がこもっていた。私の声で我に返ったようにはっとした錦木さんが苦笑いする。
「…心配しなくても、本当にどうにかしようとは思ってないわ。…でもまだ今はあの子の顔見るといろいろ思い出しちゃうから…。葛城さん、加賀谷君に言って、彼女をできるだけ生徒会室の周りに近付かないようにしてほしいの」
「それは……さっきみたいなことが起こるから?」
「それもあるけど……いえ、単に彼女の顔が見たくないから、と思ってくれて構わないわ。もし不用意に近づいてくるならそれこそ、本当に仕返し、してしまうかもしれないと伝えて頂戴」
茶化すような言い方に違和感を覚える。錦木さんは口で言うほど胡桃澤を恨んでいないと感じるのに、彼女を頑なに拒絶する理由は何だろう。
「あなたは…何を守ろうとしているの?」
「……葛城さんこそ、目につくもの全部に手を差し伸べてたら、いつかその重みで溺れるわよ」
一瞬、錦木さんの目に怒りにも似た感情が揺らめくのが見えた。それは胡桃澤ではなく、私へと向けられているように思えて、虚を突かれる。
「それじゃあ、時間を取らせてごめんなさい。きっと今頃、篠谷会長がヤキモキしてると思うからもう戻った方がいいわ」
その意図を尋ねるよりも早く、錦木さんは立ち上がり、私に背を向ける。その背がこれ以上の追及を拒絶しているように思えて、声がかけられなかった。
「それじゃあ、葛城さん、また明日」
「え…ええ…。また明日」
そのまましばらく立ち去っていく錦木さんの姿が見えなくなるまで、私はその場にじっと座っていた。
「……もう出てきてもいいわよ」
声をかけると、ベンチから少し離れた植込みが揺れて、胡桃澤が立ち上がるのが見えた。膝の辺りが泥で汚れている。
「帰ったんじゃなかったの?」
「車で…桑を待ってて…そしたら駐車場からアンタがこっちに歩いて行くのが見えたから……」
「こっそり後を付けて盗み聞き? お行儀が悪いんじゃない? お嬢様」
「う、うるさいわね! 仕事サボってるんじゃないかと思って注意しようと追いかけてきただけよ! ……そしたら…錦木先輩がいて…」
「出るに出られなくなった、と」
胡桃澤が泣きそうな顔で頷く。謝罪を拒絶されたこと、先刻の栂からの仕打ち、今、聞こえてしまったのだろう、錦木さんの言葉…。今まで彼女が過保護な保護者たちによって目隠しされてきたもの、見るべきだったものに直面して、激しく動揺しているのが分かる。
「……傷って…酷いのかな……」
「かなり良い治療を受けられたそうだから、だいぶ薄くはなってるらしいけど、それでも痣は残ってしまってるそうよ。肌の温度が上がったりすれば、かなり色が濃く見えてしまうときもあるらしいし…」
女性の肌に傷が残ることが、どれほど辛いかは、胡桃澤も嫌というほど知っているはずだ。その所為で彼女は一番最初の婚約話を破棄されたのだから。
「……どうすれば償えるかな……っ…く……」
胡桃澤の大きな瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちる。しばらく黙ってそれを見守る。その涙は彼女が本当の意味で罪の意識を持った証しだから。今はちゃんと受け止めて、泣くべきだと思った。
しばらく時間が過ぎて、やっと泣き止んだ胡桃澤は、真っ赤になった目元をハンカチで拭うと恥ずかしそうに俯いた。
「…桑には、言わないで。きっとまた変な気を回すから」
「でしょうね。あの坊やはあなたをよちよち歩きの幼子か何かと勘違いしてるみたいだから」
「そこまで酷くは……多分…ないと思う……多分だけど」
加賀谷少年の空回りっぷりについてはあれに直接指導するとして…。
「…で? これからどうする? 謝罪は拒否され、今後生徒会にも近づかないようにしてほしいと要望も出され、償おうにも接触の道は閉ざされちゃったわけだけど?」
無言で考え込む胡桃澤。流石に今ここですぐに答えを出すのは難しいかもしれない。それに私の方もそろそろ時間切れだ。
「まあ、少し頭を冷やして、一人で考えてみることね。加賀谷少年やあなたのお父様にも頼らないで、一人で、見て、聞いて、考えて答えを出してみなさい。」
「あ、アンタに言われなくても、私は一人で平気よ!」
「それは違うわよ」
私の言葉に胡桃澤がきょとんと首をかしげる。
「アンタ今一人で考えろって言ったじゃない!」
「一人で考えないといけないことと、一人でも平気だというのは違うわよ。あなたが自分のやったことについてどう反省して償うかはあなた一人で考えるべき問題だけど、傍に誰かがいてくれることやそのありがたみは忘れちゃいけないものよ。傍に誰かがいるから耐えられることも、頑張れることもある」
だから、加賀谷にはできるだけ手は貸さず、彼女の傍で見守る立場を貫いてほしいんだけど、我慢できずに手を差し出しちゃうんだろうなあ…。
「あなたは一人じゃないし、これからもっとたくさんの人を見つけていける筈よ。あなたの肩書や家柄、容姿だけに擦り寄ってきたお友達モドキとは違う、本当の意味で対等に付き合える相手を。そして、自分を支えてくれて、自分も相手を支えたいと思える大切な人を」
「アンタには……いるの? そんな風に支え合う相手」
「……いるわよ」
胡桃澤は少し目を逸らし、言いにくそうにもごもごと呟く。
「…それって……もしかして…ユウ…」
「妹よ」
「…え?」
「妹。今年桜花に入学したから、あなたと同学年。かっわいいわよー? 目に入れても痛くないんじゃないかしら? いいえ、痛くてもうれしいわ」
「……何それ」
私の言い方に胡桃澤がドン引きしたという表情を浮かべる。本音なのに。
「もちろん、他にも私にとって支えになってるなって人はいっぱいいるし、私も皆を支えられたらって思ってる。ついでに言うと、支えたいって人の中に、あなたも入ってるわよ?」
「は?! 何でよ! 私はアンタの敵でしょ!?」
「敵だなんて思ってないもの。できの悪いお馬鹿な後輩くらいには思ってるわよ」
「褒めてない!」
「まだ褒められるところが少ないんだもの。褒められるような子になったらちゃんと頭撫で撫でしてあげるわよ」
「いらないわよ!!」
きゃんきゃんと吠え始めた胡桃澤にさっきまでの悲壮感がなくなっている。この分なら、きっと大丈夫だろう。
「さ、今日はもう遅くなるから帰りなさい。加賀谷君はまだ仕事があるから、運転手さんに言って先に家に帰るのよ」
「もうこんな時間!? アンタ仕事途中じゃないの?! 侑李先輩に迷惑じゃない!!」
「あー、今頃きっと猛吹雪ね。それじゃあ私は戻るけど、あなたは駐車場まで一人で帰れる? もう寄り道も盗み聞きもしないでまっすぐ帰るのよ?」
「わかってるわよ! っていうか盗み聞きしたくてしたんじゃないって言ったでしょ!!」
真っ赤な顔をした胡桃澤にぐいぐい背中を押されて、私はその場を後にした。
生徒会室に戻ると、戻りが遅くなったことで篠谷からは安定の嫌味を頂戴したが、気分が良かったので、口答えはいつもの半分に抑えられた。その代り、加賀谷にはしっかりとデコピンとお説教をした。
「君はしばらく胡桃澤関連で前に出るの禁止。相手は赤ん坊でもなければあなたの子供でもないのよ」
「けど、先輩…」
「その代り、彼女の方から相談して来たり、頼ってきたときは、真剣に考えてあげなさい。今はそれで充分よ」
「……僕に相談…してくれるでしょうか?」
不安げな表情をのぞかせる加賀谷。事件の事を彼女から知らされることなく、目隠しをされていたのは彼も同じだ。
「頼りにされたいと思ってるならなおのこと、君自身がちゃんと自立しないと駄目よ。なんでも胡桃澤さん中心に考えるんじゃなくて、ちゃんと自分の目と意思で物を見なさい」
そう言ってマッシュルームをくしゃくしゃにかき混ぜてやると、加賀谷少年は身を捩って抵抗した。
「やめてください! 先輩こそ僕を子ども扱いしてるじゃないですか!」
「そりゃあ、今のところ君はまだまだ子供だもの。相応の扱いをして欲しけりゃ頑張って成長することね」
「ぐ…そのうち絶対見返して見せますから!」
「あはは、加賀谷君は負けず嫌いなんだね。葛城さんを追い抜くのは大変だよ~。」
梧桐君も一緒になって加賀谷少年いじりを始める。顔を赤らめて怒る加賀谷少年は毛を逆立ててフーフー唸る猫のようで面白い。書記の香川さんだけが、止めようかどうしようかでおろおろしている。
「皆さん、書類も木田川先生に一通り確認してもらいましたが不備はなさそうだという事で、今日はもう上がりましょう。片づけてくださ…何してるんです?」
そこへ職員室に行っていた篠谷が戻ってきて、じゃれあっている私たちに極寒の視線を投げかけてきた。どうやら、可愛い後輩がいじめられてると思ったらしい。…ちょっとしたコミュニケーションなのに…。
篠谷は加賀谷に過保護すぎるんじゃない? ちょっとくらいからかわれることに耐性つけて置いた方が加賀谷少年の精神的な成長につながると思うよ?
その日の帰り、なぜか篠谷に待ち伏せされた。
「何してるんです? 篠谷会長」
「今日は色々とあって帰りが遅くなりました。送っていきますから乗ってください」
「送るんだったら香川さんの方が…」
「彼女は自分の家の車で帰りました。役員の中で徒歩で通学しているのはあなたぐらいです。梧桐君は自転車ですし」
徒歩で通っているのは徒歩で通える距離だからだ。一度、沢渡のリムジンで送ってもらった事はあるが、うちの家の前の道ではそんな長くて大きな車がUターンするスペースはない。そう言って断ろうと思ったが、意外なことに篠谷家の車はコンパクトな国産車だった。篠谷の両親が燃費に優れ小回りの利く車がお気に入りだとかで、普段の外出には国産車を使っているのだそうだ。
「……以前にも言いましたが、私は送っていただく必要は全くないのですが…?」
「…以前にも言いましたが、僕に送られるのはお嫌ですか?」
お嫌ですよ…とはもちろん以前にも言ってはいない。今回も言えない。パターン的に逃げても車でそのままついて来られそうで面倒くさいので、仕方なくお言葉に甘えることにした。
「…送っていただいたとしてもまた妹が外に出てくるとは限りませんよ?」
一応釘をさしておく。そう何度も桃香の部屋着姿を拝めると思わないで頂きたい。今日はメールで遅くなる旨も伝えたし、部屋で待っているようにと約束したから大丈夫なはずだ。多分。
「そうですね。今日はゆっくり話せるといいんですが」
「いや、だから会わせませんって…」
何やら勝手な事を言っている粘着王子に小声でこっそり突っ込む。幸い聞かれてはないようだ。
エスコートでもするかのような手つきで後部座席に案内され、隣に篠谷が乗り込んでくる。肩が触れそうな距離に少し戸惑う。出発してから数十秒は無言だったが先に口を開いたのは篠谷だった。
「…あの小林檎宇という1年生とはどういうお知合いですか? 随分と懐かれていましたけれど」
「小林君…懐かれたって言うんですかね? あれ。…入学式に迷子の小猫を助けて遅れそうになっていたので、新入生の案内係りのところまで連れていっただけですよ」
「それだけにしては懐かれ過ぎでは? ……名前で呼んでいましたし」
終わったと思っていた話をぶり返された。思わず半眼で睨みかえしてしまう。
「名前については何度言っても『お姉さん』だなんて呼ぶから妥協した末の話です。本意ではありません。そもそも篠谷会長にそんな事を言われる筋合いはないと思うのですが…?」
「……筋合いがあれば口を出しても構わないと?」
「あれば、どうぞ。でも今のところないでしょう?」
すげなく言い返せばなぜか悔しそうな表情で顔を逸らされた。なぜそんなに名前にこだわるのかがわからない。ただ、そんなに意地になって呼びたいとか言われるとこっちとしては意地でも呼ばれたくなくなる。
「……あなたを名前で呼べないのであれば、妹さんの方を『桃香さん』と名前で呼ぶしかなくなりますね…」
ぽつりと呟かれた篠谷の言葉にはっとする。篠谷の狙いは初めから桃香を名前で呼ぶことだったのか!
「桃香は会長と昔遊んだ事も覚えていないくらいなので、いきなり見ず知らずの人から名前で呼ばれたら混乱します! そもそも桃香を呼ぶ必要性なんてないじゃないですか!! 用もないのに人の妹を名前で呼ばないでください!」
「ないとは限らないでしょう? これから親しくなるかもしれませんし」
意味深な笑みを浮かべながら言われ、脳裏を桃香とこいつのラブイベントスチルがスライドショーで流れ出す。『桃香さん』が『桃香』に変わり、甘く蕩ける様な呼び声が次第に狂気と愛憎を含んだ響きに変わり、壊れた人形のようになってしまった桃香を愛おしげに抱きしめるバッドエンドスチルが脳内で再生される。
「駄目です! 許しません!! 桃香に妙なちょっかいかけたらいくら篠谷会長でも許しません!!」
「姉妹どちらも『葛城さん』では区別がつかないでしょう? あなたが名前で呼ばれるのが嫌だと仰るなら妹さんの方を名前で呼ぶしかないじゃないですか?」
「それくらいなら私の方を名前で呼んでください! 篠谷会長とはなんだかんだで付き合いは長いので!!」
言ってしまってから、失言に気づいたが、遅かった。目の前にはしてやったりという極上の笑顔を浮かべる似非紳士。
「そうですね、やはりあまり親しくない妹さんを名前で呼ぶのは気が引けます。その点、あなたとは同じ生徒会の役員同士です。互いの協力体制をアピールするうえでも親しく振舞うのは大切ですよね? 真梨香さん」
かろうじてさん付けだが、妙に色気たっぷりに呼ばれて脳みそが沸騰しそうになる。くっそ、本当に声だけは好みなんだよ! むーかーつーくー!!
「…ところで真梨香さん、小林君の事に話を戻しますけど、…真梨香さん? 聞いてますか? 真梨香さん」
「……ここぞとばかりに連呼しないでください。…小林君がどうかしましたか?」
半ばやさぐれた気分で答える。
「彼はあなたの家を知っていたようですが、教えた覚えは?」
「もちろんありませんよ? 知っていたって…そんなはずはないと思いますけど」
「けれど、今日の研修会のあと、送るの送らないの話をしていた時に言っていたじゃないですか、『あの辺夜は危ないから』と。どうして寮生の彼がこの辺りの様子に詳しいんですか?」
「さあ? 実家が近いとか、出歩いたことがあるとか…?」
と言いかけて気付いた。はっとした私に篠谷が頷く。
「この辺りが夜に街灯が少なかったり、公園が暗がりが多いことは知っていたとしても、この辺りにあなたの家があることは知るはずがないんです」
つまり小林は私がこの辺りに住んでいてなおかつこの辺の治安が夜はあまり良くないことまで知っているという事になる。
「家の近所で彼に会ったことは…?」
「ないですよ。…あんな派手な身なりと体格と髪の色と顔の人間、会ったらふつう忘れません」
その上、篠谷は知らないが、小林の実家はヤの字のつく裏稼業の家系だ。親しくお付き合いなどする機会があるはずがない。
「う~ん…なんかの偶然とか言葉の綾で言っただけとかじゃないですか? あの子わりと普段から適当な事言ってますし…」
「…そんな風に楽観的に構えているから余計に心配になるんですよ」
確かに妙ではあるけれど、それだけで小林を疑うわけにもいかない。妹に近付く害虫候補ではあるが、妹に近付きさえしなければ悪い奴ではないのだ。そう思いながら気にしなくていいのではと伝えると、ぐっと手を掴まれ、間近から見つめられた。
「前にも言ったかもしれませんが、僕はあなたの信頼に、まだ足りていませんか? こうしてあなたの心配をすることも、あなたにとっては迷惑でしょうか?」
至近距離で見つめられると、いくらいけ好かないと思っていても、心臓が跳ねる。イケメンのどアップは心臓に悪いんだってば。私は目を逸らし、そっと身を乗り出すように近づいていた篠谷の体を押し返す。
「私も前にも言ったけれど、会長…篠谷君の事は信頼しているし、会長としても優秀だと尊敬もしてる。…ただ…プライベートにまであまり踏み込んでほしくないと言うか…」
ぶっちゃけ妹に近付かないでほしいって言うか…。後半の本音を喉の奥に引っ込めつつ、言葉を返せば、押し返していた方の手も掴まれ、さらに追い詰められる。後部座席のドアが背中に当たる。
「…僕はあなたが思っているよりずっと諦めが悪いんです」
諦めが悪いのは充分すぎるくらい存じ上げています。という本音も喉の奥で飲み込んだ。近い近い。何だっていうんだ。桃香の事に関してならば、その諦めの悪さはさっさと捨ててほしい。
「今回の事で、色々考えました。…真梨香さん、僕は…」
狭い車内で追い詰められ、互いの距離がゼロになりそうなまで近づいたとき、車が家の前まで来ていたことに気づいた。いつの間にか止まっている。
「お姉ちゃん!!」
車の音が聞こえたのか、桃香が玄関から飛び出してくるのが見えて、一気に頭が冷める。気が付くと、篠谷を押しのけて、車から出ていた。
桃香はゆったりとした部屋着のパーカーにフレアスカート、レギンスと言ういでたちだ。細くて華奢な足のラインがまる出しである。すぐさま駆け寄って篠谷の目から隠すように飛びついた。
「桃香、部屋で待っていてって言ったでしょう?」
今日も天井知らずの可愛さをまき散らす我が妹を男の目になぞ晒したくない一心で、注意をすると、なぜか逆に怒った目を向けられた。
「お姉ちゃん、送ってもらうならちゃんと言ってくれなきゃ。家の前に知らない車が止まってるし、中々誰も出てこないから気になるに決まってるでしょ?」
どうやら数分前から家の前には着いていたらしい。元々大した距離はなかったのに、話し込んでしまっていて気付かなかった。
「会長さん…えっと、篠谷先輩も、姉を送っていただいてありがとうございました」
私の肩越しに篠谷に挨拶をする桃香。気のせいか笑顔なのに少し怒っているように見える…?
「いえ、こちらこそ、家の前で話し込んでしまったようで、ご心配をおかけしました」
「お仕事の話とか色々大変なんだとは思いますけど…近所の方に誤解されるといけないので、次から気を付けてくださいね?」
心なしか桃香の篠谷への対応が冷たい気がする…? いや、まあそれはそれで万々歳なんだけど…??
疑問に思いながら振り返ると、篠谷と目が合った。先刻までの妙な雰囲気を思い出して顔が少し熱くなる。さっきの篠谷は明らかに様子がおかしかったけど、大丈夫だろうか?
「…それでは真梨香さん、今日はお疲れ様でした。また明日からもよろしくお願いします。」
篠谷の言葉に腕の中で桃香がピクリと震えたような気がしたが、一瞬の事なので気のせいかもしれない。今はとにかく妹のかわいい私服姿を篠谷の目に触れさせないことの方が重要だ。
「はい、篠谷会長もお疲れ様でした。今日は送っていただいてありがとうございました」
言外にとっとと帰れビームを出しながら言うと、篠谷は意外にもそれ以上桃香にちょっかいをかけることなく帰って行った。
「? 何だあいつ…??」
「………お姉ちゃん」
何となく見送っていた私に腕の中のマイエンジェルがなぜか普段よりもトーンの低い声で呼びかけてきた。見下ろせば、天上の花も霞むような笑顔が、特大の青筋マークと共に見上げてきていた。……あれ?
「な、ん、で、篠谷先輩にいきなり名前で呼ばれるようになってるの?」
「…え? でも前に送ってもらった時も確か…」
「あの時は私に対して話す時に同じ葛城だから区別をつけるための呼び方だったでしょ? 今のはお姉ちゃんへの呼びかけで、しかもなんだか親しげだった!」
ほっぺたをむうっと膨らませてぎゅうぎゅう抱き付いてくる天使が可愛すぎて昇天しそうなんですが。えっと…これはひょっとしてヤキモチなのか…? だとしたら、どっちに…?
「名前についてはそれこそ桃香と区別をつける為に仕方なくああ呼んでもらうことになっただけよ。…桃香は、名前で呼ばれたかった?」
「ううん、篠谷先輩のことは良く知らないし、名前で呼ばれたら困っちゃうと思うけど、別にお姉ちゃんの事も葛城のままでよかったのに。苗字のままでもどっちを呼んでるかなんてすぐわかるんだから」
そうなの? 私は葛城で呼ばれたらどっちにでも返事しちゃいそうだけど。私が困惑していると、桃香は更にぎゅうぎゅうとしがみついてきた。正直ちょっと苦しい。でも幸せだ。
「お姉ちゃんは気づかなくていいの。…いや、ちょっとは気づいて警戒してもらった方がいいかも?」
「……桃香サン…? 何のお話かしら…??」
「だいたい、私はお姉ちゃんとしか呼べないのに、他の人は名前で呼べるなんてずるい…」
「も、桃香さーん、そろそろ腰がサバ折りされそうなんデスけどー」
何やら人の腰を締め上げながらぶつぶつと呟いている天使に、恐る恐る声をかけると、はっとして離してくれた。この現代社会でコルセットを締め上げられる女性の痛みを味わうとは思わなかった。
「ところでなんかぶつぶつ言ってたけど…」
「何でもないよ。お姉ちゃん。それより今日はお姉ちゃんの好きな白身魚の煮つけだよ」
何か巧みに誤魔化された気がするけど、笑顔が蕩けるように可愛かったので、まあ、いいか。そのまま私は桃香に手を引かれて家の玄関をくぐった。