1
学校に着き、生徒会室へ向かう。入学式の行われる講堂のセッティングは昨日までに完了しており、今日は本番前の機材の最終チェックが主な準備である。余裕を見て早めに来たはずだったけど、生徒会室には先客がいた。
「…げ。」
「……開口一番がそれですか?ちょっとあんまりじゃないですか?葛城さん」
思わず眉間にしわを寄せて呻いてしまった私に、同じように眉間にしわを寄せたのは金髪碧眼のやたらとキラキラしい容貌の男子生徒だった。
桜花学園高等部生徒会長、篠谷侑李。容姿端麗、成績優秀、品行方正、温厚篤実、まさしく絵にかいたような王子様だ。セレブ学校な桜花学園でもトップクラスのお金持ち。日仏ハーフと英露ハーフの両親を持つ彼は4分の1だけが日本人の血という多国籍な遺伝子で構成されている。
輝くハニーブロンドの金髪は緩く癖があり、柔らかく波打っている。澄んだ湖水のような碧の瞳は長いまつげに縁どられ、一見やさしげだが、どこか人を寄せ付けない冷たさを感じさせる。白く滑らかな頬にはそばかすひとつ浮いていない。すらりとした長身に、桜花学園の白のブレザーをすっきりと着こなして立つ姿はまさしく完璧な王子様そのものだ。
ゲームの中での桃香の攻略対象。
そして、私が6歳の時に出会いフラグを折るために池に突き落とした、かつての少年である。
高等部の入学式で声をかけられたときは、絶対お礼参りだと思った。学園中庭にある池にでも沈められるんじゃないかと冷や冷やした。池には沈められなかったが、私が最初覚えていないふりをすると、笑顔のまま不機嫌になるという妙技を見せた挙句、思い出したと認めて謝罪するまでネチネチと嫌味と皮肉のオンパレードに付き合わされた。こいつのこの粘着質な性質を知っていたはずなのに甘く見ていた。
篠谷侑李は表向きは完璧超人な王子様だが、その実かなりの腹黒で粘着質、王道の恋愛ルートに入れば桃香の事をひたすら甘やかして優しく愛してくれるが、その一方でファンの女の子への冷たすぎる仕打ちが原因で桃香がいじめにあう遠因になったり、ほかの男子への嫉妬から桃香をあの手この手で自分に縛り付け、束縛し、バッドルートでは監禁なんてエンディングもあるくらいのヤンデレ王子なのだ。
他のどの攻略キャラに桃香が恋に落ちてもギリギリ何とか許せる…可能性がないでもないような気がうっすらしなくもないが、こいつだけはだめだ。生理的にも受け付けない。
桜花学園に高等部から特待生で入学した私は最初のクラス編成でこの男と一緒になった。覚悟はしていたものの、その後も、あふれ出る嫌悪が隠し切れず、クラスが別れた今でも、生徒会の仕事で一緒になるたびに、顔に出てしまう。向こうも向こうで池に突き落としたことを未だに根に持っている節があるので、表面上は穏やかな口調だが、言葉の端々に嫌味や皮肉を織り交ぜてくる。
こうなってくるとこっちもついつい受けて立ってしまうものだから、1年の半ばには犬猿の仲としてある意味名物コンビ扱いされ、生徒会の会長と副会長となった今でもそれは続いている。
「ただでさえ怖い顔立ちをしているのに、そんな表情をしていては新入生に怯えられてしまいますよ」
釣り目でキツイ顔で悪かったな。
「いえいえ、美貌の王子様が隣にいたのでは私なんて霞んでしまって目にもとまりませんよ。きっと」
中身は残念王子だけどな。
お互いに笑顔でにらみ合う。半径3メートル離れた定点カメラから見ればさぞ仲良さそうに談笑して見えるだろうが、実際の会話内容はブリザードを伴っている。
不毛な嫌味の応酬は、執行部役員と顧問の教師が来るまで続いた。
講堂で機材のチェックをしている途中、ワイヤレスマイクが一本電池切れを起こした。予備の電池がその場になかったことから急きょ備品室に取りに行くことになり、私が行くことになった。
講堂を出て、本校舎の裏手にある機材管理倉庫棟に向かう。セレブ校で、大型の行事などではかなり大量の機材を使う桜花学園では消耗品も含めた備品関係を収めるためだけの棟が存在する。
備品管理室はその通称倉庫棟と呼ばれる建物にあり、一定以上の権限を持つ者かその権限を持つ者に委任状を託された者だけが出入りを許されている。
生徒会の中では副会長以上にしか権限がなく、急ぎだったので委任状を用意するより私が来た方が早いということになった。篠谷会長は現場の指揮もあるし、設営済みとはいえ細々とした力仕事には男手があった方がいい。
倉庫棟へ向かう途中、不穏な気配を感じて、足を止めた。本校舎の渡り廊下、今日は使用予定のない特別教室棟へ向かうための場所に、誰かがいる。
そっと気配を殺して近づく。嫌な予感がする。今朝、桃香には十分に言い含めたはずだ。だが、ゲーム中で強制シナリオとして発生するものはそう簡単には防げないのかもしれない。ただ、桃香の迷子イベントが起こる渡り廊下は1年校舎と部室棟を繋ぐ方で、こことは反対方向の筈なんだが…。
物陰からのぞき込むと、そこにいたのは桃香ではなかった。見知らぬ女子生徒―おそらく新入生だろう―と、数人の男子生徒―こちらはタイの色から2年生だとわかる―。どうやら素行のよくない一部のあほボンボンが新入生相手においたをしているようだ。妹ではなかったことで、とりあえず落ち着き、深呼吸を一つ。いかにも偶然通りかかった風を装って、彼らに近づいた。
「そこで何しているの?」
「はぁ?! …ってふ、副会長!!?」
私の姿を見た男子生徒は動揺と狼狽を隠し切れない顔で青褪める。
「新入生は今各クラスの教室へ向かっている時間でしょう? 急がないと遅刻扱いになるわよ」
あくまでも冷静に。けれど彼らの動きには注意を払って。
「い、今ちょうどこの子が迷ってたんで案内しようと思ってたところなんです!」
「そうそう、俺たち先輩にあたるんで、後輩とは仲良くしたいな~なんて…」
「そう、親切なのはよいことね。ちょうど私は一年校舎に向かうところだったの。ご一緒してもいいかしら?」
そういって、口角を意識的に吊り上げれば、篠谷辺りからは恐怖の女狐顔と揶揄されそうな悪人顔の出来上がりだ。
「あ、いえ、俺たちちょっと急いでたんで、副会長が案内してくれるなら安心です! なあ?」
「あ、ああ、すみませんがあとはよろしくお願いします!!」
あほボンボンどもはそういうとそそくさと立ち去って行った。ふっと気を抜いて、目の前の新入生に向き直った時、どこからともなく拍手が響いた。
「お姉さんすごいね~!! 正義の味方みたいだ~~~!!」
そんな言葉と共に、上から少年が降ってきた。どこから降ってきたのか見回してみると、特別教室棟の傍らに生えた大きな木―種類は知らない―から降りてきたようだ。
そんなところで何していた。と思っていると、制服の懐が膨らんでいて、中から鳴き声と共に子猫が飛び出してきた。察するに木から降りられなくなった子猫を助けるために木に登っていたところ、さっきの連中が来て様子を窺っていたということか。
「いや~、かっこよかったな~さっきの~」
「……あなたも新入生でしょう? 教室に行かなくちゃだめよ」
記憶にあるエピソードとは内容も発生場所も違うが、この少年が入学式初日に、桃香が校内で迷子になった挙句に出会う攻略キャラの一人、小林檎宇。
桃香の同級生で間延びした喋り方が特徴の不思議ちゃん系キャラだ。入学初日からブレザーの制服を見事に着崩し、中にパーカーを着こんでいる。その袖は萌え袖を通り越して手を完全に隠した挙句余りが指より先に垂れ下がっている。いい歳をした高校生男子がやっていいものじゃないと思う。
ヘアマニキュアだろうか、赤みのある黒髪をアシンメトリにカットしている。切れ長の瞳は右側が前髪で隠れていて、ゲゲ●の鬼●郎みたいだ。言動や服装は幼いのに、身長は190近い。攻略キャラの中でも1,2を争う高身長の持ち主だ。
一見すると目つきは鋭いわ服装はアレだわで怖そうに見えるのだが、笑うと八重歯が見えて幼い印象になる。
「ん~? あ、そうだった。もうこんな時間だね。じゃあお姉さんこの子よろしく」
そう言って不思議ちゃんは抱いていた猫を私に押し付けてきた。
「え? ちょ…!!」
慌てて抱きなおすと、子猫は腕の中でみーみーと鳴いた。可愛いが、このままにはできない。仕方がない、用務員のおじさんに帰りまで預かってもらおう。首輪があるから飼い主もどこか学園の近所に住んでいるのだろう。
一年校舎の入り口に着くと、受付や案内でざわつく一年校舎入口は結構な人数がいた。その中にとびぬけてでかい上に悪い意味で目立つ服装の男を従えて入ってしまった所為で、注目の的になってしまった。人だかりの中に桃香もいる。
「あ、お姉ちゃん!」
私を見つけて笑顔で駆け寄ってくる桃香は本当にひたすらにこの上なく可愛い。私の後ろにいた不思議ちゃんがさっそく身を乗り出してきた。
「あれ、お姉さんの妹ちゃん~? 可愛いね~。ちっさくて子猫ちゃんみたい」
妹は確かにかわいいが、近寄るな。あれは私の嫁だ。ついでに言うと私はお前の姉ちゃんじゃない。義姉さんにもなる予定はない。さりげなく不思議ちゃんと桃香の間に立つ。そんなことをしても私の頭越しに妹が見えてしまっているだろうということはわかってるけど、何となく。
駆け寄ってきた桃香は私の後ろに立つ馬鹿でかい男と隣に立つ小柄な少女にきょとんとして目で問いかけてくる。ああ、その表情可愛い。ゲーム画面ならスクショしてる。人目がなければ抱きしめたい愛くるしさだ。
「桃香、この子たち、あなたと同じクラスの筈だから、3人一緒に教室へ行ってくれるかしら?」
そういって迷子二人を引き渡す。攻略キャラと桃香を一緒に行動させるのは正直気には食わないが、これからの学校生活でそうも言ってられない時の方が断然に多い。ましてや不思議ちゃんこと小林君は桃香のクラスメイトでもある。ゲーム中での「迷ったところを不良に絡まれ、助けられる。」というイベントでのインパクトある出会いよりは地味な出会いエピソードになっただけましだと思おう。
それともう一つ。
「桃香、新入生用の桜のリボン飾り、曲がってるわ。直してあげる。あなたたちは受付に新しいリボンがあるから着けてきなさい」
新入生は入学式の今日、胸に在校生が手作りしたリボンでできた桜の飾りを着ける。ゲームの中で桃香は不良に絡まれた時にリボンを落として汚してしまうのだが、助けに入った小林君が自分の綺麗なリボンと交換してくれる。桃香はそのリボンを入学式の記念に大切に取って置く。それがこの小林 檎宇と桃香の花の絆フラグになるのだ。
今回は桃香は迷子にもならなかったのでリボン交換イベントは発生しなかった。何故かリボンをしていなかった小林君と、おそらく桃香と同じようにリボンを落としてしまったのだろう少女には受付にある予備のリボンを着けさせる。
これで花の絆発生を防げていたらいいんだけど…。やっぱりメニュー画面無しは難易度高いなあ。
「それじゃあ、私は用があるからこれで」
偶然とはいえ余分な時間を使ってしまった。急いで電池の予備を持って戻らないとあの粘着男にネチネチ嫌味言われる。
私は急いで美品倉庫へ走り、電池を多少余分に確保して講堂へ戻ったが、やたらと時間に細かい粘着男は私が出てから戻るまでの時間を計っていたらしく、神々しい笑顔で式の準備中嫌味を言われ続けた。くっそう。腹立つ!
そうこうするうちに入学式の準備は一応、滞りなく進み、教師、在校生代表、来賓も揃って、新入生を迎えることとなった。
「次に、在校生を代表いたしまして、桜花学園高等部生徒会会長、篠谷侑李からの祝辞」
式は順調に進み、生徒会長の挨拶になった。予想はしていたが、粘着王子が壇上に上がって表向き用の笑顔を見せると、新入生はもちろん、在校生からも溜息や感嘆の声が聞こえた。
新入生の乙女諸君、気を付けなさいよ~君らが今きゃあきゃあ言ってる王子様はブリザードスマイルが必殺技の粘着ストーカー予備軍なんだぞ~。顔には出さないように心の中だけで忠告してみる。
…壇上の篠谷と目が合った。何にも悪口とか考えてませんよ?って顔で笑い返しておく。ほんのわずかだが、スピーチを噛んだのが分かった。ざまあみろ。
入学式が無事に終わり、生徒会と在校生による講堂機材の片付けも終わった。入学式会場内の大量のパイプ椅子は端の方に集められ、この後は業者が運搬用トラックに積んで倉庫棟とは別の学園所有の倉庫に収納するそうだ。
その日の仕事を終え、生徒会室に再度集合する。入学式は終わったとはいえ、暫くは色んなオリエンテーリングや部活動説明会、新入生歓迎会などの行事が続く。明日以降のスケジュールや作業分担を確認して、今日は解散だ。
「会長も副会長も今日はお疲れ様でした!」
「会長のスピーチ、最高でした!!」
執行部の面々の言葉に篠谷の顔が少しだけひきつった。なかなか面白い。
「そうね。特に『これからの君たちの学園生活が、、輝かしいものであるように…』の絶妙な溜め具合が情感がこもってたわね」
そういって噛んだところをあたかも演出だと受け取ったかのように褒めてやると、更にいい顔になった。言い返そうにも周囲の子たちも私に同意して『素晴らしい』『素晴らしい』と褒めるものだから、それもできないでいるようだ。本人が失敗した自覚があるのに褒められるのはさぞ恥ずかしかろう。ふはははは。
「さて、それじゃあ今日は解散。明日も遅れないようにね」
粘着男をやり込めて、清々しい気持ちで解散を告げ、鞄を手に生徒会室を出た。
だがしかし、さすがは粘着王子、何故か私の横に並び、一緒に歩く構えである。しまった、からかいすぎたか。っていうか何で付いてくるんだ。解散って言ったんだから帰れよ。
「昇降口はそちらではありませんよ」
今日不思議ちゃんに押し付けられた子猫を迎えに用務員室へ向かう私に、粘着王子が声をかけてくる。
「ちょっと寄るところがありまして。篠谷会長はどちらまで?」
「…僕は生徒会室の鍵を職員室に返すように顧問の木田川先生から頼まれました。…時間も遅いですし、良かったらこの後送りますよ」
中身はどうあれ紳士的な外面を崩さない王子様らしい発言だ。しかし全力で遠慮したい。私は早く帰って妹と今日は仕事で来られなかった母と3人で桃香の入学祝をするのだ。粘着男の嫌味と皮肉をBGMに帰宅するような被虐的な趣味はない。
「いえ、自宅はそれほど距離もありませんし、大丈夫です」
「あなたのような女性でも、襲い掛かろうなんて哀れな嗜好の持ち主がいないとも限りませんし。僕としても我が校の生徒会の副会長が帰宅途中に傷害罪で逮捕なんて嫌ですから」
それはあれか、私のような女を襲う痴漢は趣味の悪い可愛そうな脳みその持ち主で、しかも私に返り討ちにされて被害者になる前提か?!
やんわり断ろうとしていたこちらの笑顔がひきつる。この粘着男、送るとか言いつつさっきの仕返ししてるだけだな?!
「もし襲われたとしてもちゃんと正当防衛が成立するよう気を付けますから気にしないでください。あ、私が用があるのこっちなんで失礼します」
足早に用務員室への分岐点を曲がった私の背中に、粘着王子の声が追撃をかけてきた。
「正門に車を回しておきます」
行かないって言ってんだろ!私は用務員室に駆け込んで、子猫を受け取ると、その足で裏門へダッシュした。
そうして裏門を出た私を、粘着王子がにこやかに待ち伏せていた。しまった!私としたことが単純な釣りに引っかかった!!!
「やあ、葛城さん。偶然ですね。せっかくですから家まで送りますよ」
白々し過ぎていっそ潔い。数分前自分が言ったセリフ思い出してみろ。
この分だと無視して通り過ぎてもついてくるに違いない。こいつの魂胆は読めてる。家まで送るついでに妹の桃香とちょっとでも顔を合わせるチャンスがないかと考えているんだろう。
去年の不本意な再会以来、時々この男からさりげない会話に織り交ぜては『妹さんは元気ですか?』だの『僕の事、覚えていますかね。誰かさんと違って薄情な人ではないからきっと覚えてくれていると思うんですけど』だの情報を聞き出すそぶりを見せていたので間違いない。粘着ストーカー怖い。
ちなみに、妹には昔一緒に遊んだ外人の子供と再会したなどという話はしていないし、妹の方でもその頃のことが話題に上ることもないから、おそらく桃香は忘れているだろう。
実際のゲームの中でも、桃香が篠谷との過去を思い出すのはシナリオ終盤になってからだから。
あれ…? そういえばゲームスタート後の桃香とこいつの再会イベントって確か……。
重大な事を思い出しかけた時、胸に抱えていたバスケットからみー!と鳴き声がした。
「おや、その子は?」
バスケットには柔らかなタオルが敷かれ、子猫がくるまっている。
「今日新入生の子が木に登って降りられなくなっているのを助けたの。毛並みもいいし、首輪もしているからこのあたりの飼い猫だと思う。時間がなかったから、今日のところはうちで預かって、飼い主を探すわ」
「なるほど。そういうことなら僕も協力しますよ。家に着いたら写真をメールで送ってください。知り合いや学生たちにも回して、知っている者がいないか探しましょう」
バスケットの中でタオルにくるまって眠っている子猫のかわいさには流石のブリザードスマイルも雪解けするらしい。こっちが驚くくらい柔らかな笑みを浮かべて子猫を起こさないようにそっとひと撫ですると、何かに気づいたようにその首輪を指さした。
「葛城さん、これは」
「あ」
子猫の首輪に挟まるようにして、新入生が着ける桜のリボン飾りが絡まっていた。
そっと外す。制服に止めるためのピンが付いていないし、端の方が破れているので木の上で暴れるかしてリボン飾りが敗れてしまい、そのまま首輪に挟まってしまったのだろう。これがさらに解けて子猫の首にでも巻き付いたら危ない。
私はそっとそれを外すと制服のポケットに入れた。
「子猫も入学したかったんですかね~?」
子猫をのぞき込みながらそんな冗談を言ってみたが、反応はなかった。せめて何か突っ込んでほしい。ボケを拾われないのは結構傷つくんだぞ。そう思いながら振り返ると何故か篠谷は足を止めていた。なんだか呆けた顔をしていたので、声をかけるとはっとして追いついてくる。……?
「会長、もうこの辺までで大丈夫ですよ」
「家まで送ります。むしろこの辺りが一番街灯も少なくて危ないじゃないですか」
「会長はご存じないかもしれませんが、私、中学までは剣道もやっていたので、そこそこ腕はたつんです。もちろん、加害者にもなったりしませんから本当に大丈夫ですよ」
だからそろそろ帰ってほしい。
「……僕に送られるのがそんなにお嫌ですか?」
お嫌ですよ。と言えたらどんなにいいだろう。しかし、妹を垣間見るためとはいえ、女子に夜道を一人で歩かせないようにという気遣いを無碍にするのは気が引けた。
そうこうするうちに、家が見えてきた。
「あれ、妹さんじゃないですか?」
「え?!!」
なんで外に出ているのだ桃香よ! 最悪のタイミングで私を出迎えに出てきたらしい桃香は私たちを見つけて目を丸くすると、そのまま駆け寄ってきた。
つっかけサンダルの音がカポカポと間の抜けた音を響かせる。いつもはポニーテールの髪も下ろして、ゆったりとしたニットと柔らかな襞の広がるフレアスカートだ。プライベートの、それも部屋着に近い服装は可愛いのだが、いかんせん無防備で、男の目に晒すなどもったいない。それをよりにも寄ってこの男に見られる羽目になるなんて。そんな姿は家族であるお姉ちゃんだけに見せろください。
くっそ篠谷め、ちょっとでも桃香にいやらしい視線を送ったら殺す。そう思って篠谷の様子を窺うと、なぜか篠谷は不機嫌そうな顔を一瞬だけしたかと思うといつも通りの微笑に戻った。
なんか様子が変だな…。それに……。
「お姉ちゃん! 遅いから心配しちゃった。えっと…」
桃香の目が困惑気味に会長と私の間を往復する。対する私も困惑、というより混乱していた。ついさっき思い出したのだが、ゲームシナリオではこの二人の出会い…というか再会イベントは共通ルートで入学式の翌週に催される生徒会主催の新入生歓迎会が舞台だったはずだ。私が初対面イベントで邪魔をしたことが影響しているのだろうか?
言葉を発せないでいる私の前で、篠谷はさらに予想外の行動に出た。
「…初めまして。僕は葛城 真梨香さんと一緒に生徒会で役員を務めさせていただいています、篠谷 侑李と申します。妹さんのお話はかねがねお姉さんから窺っていました」
「今日壇上でスピーチされてた生徒会長さんですよね! いつも姉がお世話になってます」
「いえ、こちらこそ、真梨香さんにはいつも助けられています」
私の知っているシナリオでは、二人の再会は来週の新入生歓迎会、立食形式のパーティーで、篠谷は桃香の前に現れて、開口一番に『久しぶりだね。お姫様』とのたまう筈だった。それに対する桃香の返事が3択の選択肢になっていて、好感度を左右するポイントになっているのだ。
どういうことだろうか?会長は桃香の事を覚えている。常日頃からあの時の話題を振ってくるのだから、忘れている訳はない。
つまり、覚えているのにあえて知らないふりをしているのだ。
「…桃香、寒いから先に中に入ってて、それとこの子も一緒に連れて行ってくれる?」
子猫の入ったバスケットを渡し、先に家の中に入らせる。
「え? これ、子猫…?! どうしたの??!」
「詳しいことは後で話すから。私ちょっと会長に明日のことで確認があるから」
そういうと桃香は素直に頷いてバスケットをそっと抱いて家の中へ入って行った。私はそれを見送ってから、篠谷に向き直る。
「なんでさっき桃香に言わなかったんですか? 『久しぶり』って」
昔一緒に遊んだ事がある。そのことを篠谷も私も覚えているし、篠谷は私がそれを覚えていることも知っている。なのにあえて桃香に対してだけ、初対面のふりをしたのは何のたくらみがあるんだろう。
「相手が僕を覚えていない以上、初対面も同然です。久しぶりなんて言ったら相手を混乱させてしまうでしょう?」
篠谷はしれっとそんなことを言ったが、ゲームシナリオではそのセリフで桃香を大いに困惑させていたのだ。
表面上だけとらえるなら、篠谷の桃香に対する好感度がゲームスタートの本来の数値より低いせいだと言えなくもない。むしろこのために私は出会いフラグを折ったのだから。
けれど、普段の篠谷の言動からすると、妹への興味関心はむしろゲーム中のシナリオ序盤より高いような気もする。いったいどうなってるんだろう。あー、こういう時こそメニュー画面のパラメーター確認できればいいのにって思うよ。ほんと。
それに桃香を混乱させないようにっていうことは結局桃香の事はすごく気を使ってるってことだ。
「……私の時は思い出すまでネチネチ言ったくせに…」
再会直後の嫌味マシンガンを思い出して、ぽろっと不満をこぼすと、篠谷は片眉をあげておや、という顔をした。
「あなたの場合は、立場が違うでしょう。言うなればあなたは加害者で僕は被害者だったわけですから。それに、あなた再会した時点で、覚えていたでしょう?」
「あれだけネチネチいわれりゃ思い出さざるを得ないでしょ」
「…いえ、思い出したのではなく、あなたは覚えていた。…むしろ忘れられなかったんじゃないですか? 僕の事」
「素晴らしい自意識の高さですね。いっそのこと会長が私に突き落とされた池で本当は足が付くのにも関わらず溺れかけた挙句私に助け起こされたってところだけピンポイントで桃香に思い出させましょうか?」
「……冗談ですよ」
気持ちの悪い冗談はやめてほしい。本気でぞわってするから。鳥肌とか立つから。この忙しい時期に風邪でも引いたらどうしてくれる。
半眼で睨み付けると篠谷はきまり悪そうに咳払いをし、目をそらした。
「……だけが忘れられなかったなんて不公平じゃないですか…」
「え? 今何か言いました?」
春先の強風で篠谷の呟きがよく聞こえなかった。心なしか耳が赤い気がするけど、さっき溺れた話蒸し返したりしたからかな。問い返すと篠谷は別に、と首を振った。
「それじゃあ、僕は帰ります。明日のオリエンテーリングでは葛城副会長の名演を期待していますよ」
ぐっ!嫌なこと思い出させやがった!
明日予定されている新入生向けのオリエンテーリングだが、午前中は教師が中心に学習カリキュラムの説明。午後が生徒会主催での校内の年間行事と生徒自治組織についての説明会なのだ。司会進行、私。
人前で話すの緊張するんだよなあ…。くっそプレッシャーかけてきやがって。
「今日の会長の名演の足元にも及ばないと思います。あまり期待しないでください」
せめてもの仕返しとばかりにそう返すと、笑顔で睨まれた。こちらも笑顔で睨み返す。暫く寒々しい笑顔のにらめっこが続いたが、先にこらえきれなくなったのは私の方だった。
「へくしっ!」
ふいに出てしまったくしゃみに篠谷がはっとする。
「すみません、引き留めてしまいましたね。僕はもう帰ります。家の中に入って早く温まってください。くれぐれも風邪などひかないように」
「あ、はい」
背中を押されるように家へ向き直させられる。慌てて家へ向かうが、最後にこれだけは言っておかないといけない。私は玄関を入る直前、こちらへ背を向けた会長に向かって、声をかけた。
「篠谷会長、今日は送ってくださってありがとうございました。会長こそ風邪ひかないように急いで帰って早く寝てくださいね」
言うだけ言ってドアを閉めたので、その向こうで篠谷がどんな顔で振り返ったのかは知る由もない。