過去編 真梨香 1年の秋 4
※暴力シーンやグロい表現が含まれますので苦手な方は引き返しましょう
風の吹きすさぶ学園の屋上で向かい合う。きょとんと首をかしげる沢渡は特に変わった様子はなく、この春に生徒会で出会ってからずっと見てきた、現実の沢渡のままだ。
ゲームの中ではどちらかというといつの場面でも少し不機嫌そうに眉根を寄せているか、見下すような高笑いをしている立ち絵の印象が強かった。だからなのか、私の中で沢渡はゲームの沢渡とは別人のような気持になっている。
「屋上の鍵が壊れていたなんて存じませんでしたわ。…このような場所でお話だなんて、何の内緒話ですの?」
少し首を傾げて微笑みながら尋ねてくる沢渡。素直で可愛らしい、年相応の少女らしい表情。特待生の不遇に心を痛め、差別改善の為に先頭に立ってくれて、何度も私を助けてくれた。彼女が変わったように、このゲームの世界も変えていけるかもしれない、―そう思えていた。
「…橡圭介が同級生への暴行、傷害および監禁、脅迫により学園上層部預かりの身柄となりました。」
私の言葉に沢渡はあまり驚きを見せない。橡が拘束されたという情報自体は生徒会でも話題になっているのだろう。どちらかというとなぜ私がそれを知り得たのかという表情だ。
「複数の被害者がいて、最後に私を狙ってきたので、その場で取り押さえました。」
「まあ?! だ、大丈夫でしたの?!! 葛城さんにお怪我は??」
沢渡が目を見開いて飛びついてくる。抱き付くように私に怪我がないか確認し、無事を見て取ったのか、ほっとした顔になる。
「ご無事でよかったですわ…。…あまり危ない真似はなさらないでくださいまし」
瞳を潤ませて見上げてくる沢渡は心の底から心配しているように見える。胸の奥に苦いものがこみあげてくる。
「……橡は特待生を拉致し、閉じ込める為に音響室を不正使用していました…。この鍵の貸し出しに協力したのは…あなたですね、沢渡さん」
「わたくしが?」
沢渡の反応は自然で、私は自分の疑いの方が間違いなんじゃないかとすら思えた。けれど、いくつもの事実が私の私情を否定する。
「音響室を使用しての今回の事件が起こったのが、10月3日、10月5日、10月8日、そして文化祭2日目の10月11日と私が襲われた10月21日。これらの日付には最初の3日分はそれぞれバラバラに部活動や文化祭での準備作業を行うクラスの利用申請が出ていました。そして残り2日は当日、生徒会印の押された書類を手に橡やその仲間が鍵を借りに来たそうです」
「申請書に何らかの不正があったのだとして、わたくしがそれを見落としてしまったのは事実としても、それだけで彼らに協力したとまで言われるのは心外ですわ」
「…前半の3日について、最初は正式にそれぞれの部活やクラスの申請書が出ていました。その後、都合により、使用をキャンセルする書類が提出されましたが、キャンセルにはなりませんでした…。教室使用キャンセルの書類が『書き損じ』として処分されたから。それをできたのは、あなただけだわ」
私の指摘に沢渡が初めて反応した。微かに眉が震える程度だったけれど。
「申請をしてキャンセルした生徒側はキャンセルが受理されたと思っているからその日には音響室を利用しない。一方キャンセルは実際には受理されていないから職員室ではその日は音響室が使用されると認識し、鍵を借りに来た生徒が当該する所属部活やクラスを名乗れば鍵を貸し出す。この方法は実際に書類を操作し、不正使用の際に名乗る所属団体を橡たちに教える存在として、あなたがいないと成り立たないわ」
「わたくしが正式なキャンセルの申請を『書き損じ』として処分したという根拠はありますの?」
「…根拠は、私が目の前で見ていたから。……その時は気づかなかったけれど」
夏に書類を紛失する失敗をして以来、私は自分が触れる書類の扱いにはことさらに神経質になっていた。持ち運ぶときは専用のケースに入れ、落とさないように、何についての書類を何枚運んでいるのかを必ず把握するようにした。
「…だから、文化祭の時に特別教室の使用申請をまとめているときも、全部、内容に目を通していたの。ダブルブッキングの書類があって、沢渡さんに分類をお願いしたとき、ブッキングはしてないけど『書き損じ』だと言ってあなたが避けた書類の内容と日付も、覚えてた。あなたがあの時書き損じに混ぜたキャンセルの申請が10月3日と5日、8日、そして使用申請の書類の方で、10月1日と2日、こっちは本当に二重申請になってしまった書き損じ。…でもこれもあなたは橡に与えた。…日付だけ書き足せば正式な書類と変わらない、生徒会印も押された偽造書類の出来上がりになるから」
もちろん、その時は何となく日付が頭に残っていただけだった。被害者の女生徒から聞いた日付がその書類と一致していたことを思い出したのは話を聞いて、家に帰った後だ。そこに気づいても、暫くは沢渡が手違いで処分してしまったキャンセルを何らかの方法で知った橡が音響室を勝手に使用したのだと、そう考えようとしていた。
「書き損じと間違えて正式な書類をうっかり処分してしまったかもしれないと言うのは認めますわ。でもそれだけではわたくしの過失はあっても、わたくしの意図的な協力があったとは言えないのではありません?」
「ええ、そうね。沢渡さんのミスに気づいた誰かが橡に情報を流して、ついでに処分前の書類から1日と2日の使用申請だけ抜き出せば可能でしょうね」
「ええ、まことに遺憾ではありますけれど、生徒会内に不正の協力者がいたとすれば厳正な調査が必要ですわ」
「…もうひとり、橡には協力者がいました。被害にあった女生徒や私を呼び出して、音響室まで誘い込む誘導係が。おそらくは彼女が橡とあなたとの間も繋いでいた。」
沢渡の表情が、はっきりとわかる程に変わった。唇が震え、目を逸らす。
「橡と直接関わると分かる人物が声をかけても特待生は警戒する。だから誘導係は『誰も知らない女生徒』でした。高等部の制服を着た知らない生徒だったので、先輩の誰か、少なくとも自分に害意を抱く人物ではないと油断したそうです」
私の前にも現れた、三つ編みの少女。小柄でおとなしそうな外見をしていたので、他の女生徒は疑いを抱くことなく彼女に呼び出された。だけど、私の呼び出しに『彼女』を使ったのは間違いだった。
「…先ほど、中等部生徒会副会長の胡桃澤嘉穂に高等部生徒会顧問木田川先生と生徒指導の守山先生とで聞き取り調査が行われました。…彼女は罪を認めました」
特待生や高等部からの外部受験性は殆どの場合中等部の人間の顔など知らない。同じ高等部内でも学年が違えば顔を知らないこともあるため、高等部の制服に身を包んでいればそれが中等部の人間だとは思わないだろう。…ただし、胡桃澤の顔を知らなければ、の話だ。私はゲームを通して彼女の顔を知っている。もちろん、多少印象が異なっていたり、変装もしていたのでわかりにくくはあったが、声まではごまかしようがない。疑いを持って見れば気づけない程の差ではなかった。
胡桃澤は沢渡に懐いており、篠谷や加賀谷のルートでは常にタッグを組んで桃香の前に立ちはだかっていた。現在中等部の胡桃澤がこの件に関与する理由に、沢渡が無関係であるはずがなかった。
「……どうして…どうしてこんなことを? 沢渡さんは特待生の為に生徒会から学園を変えていくって取り組んでくれていたのに…何故橡なんかの悪事に協力したの?!」
「嘉穂が…そうですか、それでは言い逃れも通じませんわね。……答えは簡単ですわ」
ふっと肩の力が抜けたように自嘲した沢渡が顔を上げた時、そこに浮かんでいたのは過去に私がゲームで見慣れていた高慢で気位の高い沢渡花梨の笑顔だった。
「あなたたち特待生が嫌いだからですわ」
「特待生の状況改善の為に戦っていたんじゃなかったの?!」
それでもまだ信じられない。彼女を追い詰めているのは自分なのに、沢渡が私の知る現実での柔らかな表情に戻って「冗談ですわ」と言ってくれるんじゃないかと思わずにはいられない。
「あんなもの、所詮は建前ですわ。平等を謳い、不憫な特待生に同情し、手を差し伸べていれば、誰もがわたくしを高潔な人物と褒めてくださるのですもの。高潔で、誰にでも優しく分け隔てない優等生。演じるのなんて簡単でしたわ」
「…全部、演技だっていうの? 私を助けてくれたことも、代議会で先頭に立って意見してくれたことも」
「助けた…? ああ、新入生歓迎パーティーの…もちろん、あなたがあの一件でわたくしを心から信じてくださった時は、愉快でしたわ」
沢渡は真実愉快そうにくすくすと笑っている。
「代議会も、わたくしが先頭に立って意見を言えば、他の方は余計な口出しをしないで下さるし、わたくしが本気で取り組んでいると思ってくださるし、失敗したら慰めてくださるんですもの。こんな楽しいことがありまして?」
「……それも、わざとだったの……どうしてそんな回りくどいこと……」
「高潔で気高い正義のヒーロー」
「……え?」
沢渡の突然の言葉に私は虚を突かれる。そんな私の反応に沢渡はくすりと、笑みをこぼす。現実の沢渡の、優しく見える微笑みを。
「侑李の隣にいる為に、わたくしが目指したかったもの、ですわ」
篠谷の? でもあいつの理想は守ってあげたくなるような可愛いお姫様、というか、桃香の筈だ。なんでヒーローとかが出てきたんだ?
「幼い頃から侑李とは家同士の付き合いもあって、親しくしていました。小さい頃から彼は優しくて、優雅で、わたくしの理想の王子様でしたわ。わたくしはお姫様、侑李は王子様でお伽噺のように幸せな結婚がしたいなどと夢見ておりました。……けれど、ある時から、侑李は変わりました」
桃香との出会いが篠谷を変えた…。おままごとじみた結婚の約束を夢見て、理想の王子でいる為に外面を磨いて、誰もが認める品行方正な優等生に育った…。
「…強く、凛々しくなければ認めてもらえない、そう言って心身ともに鍛え始めたり、正義の味方になって誰にでも平等に優しくなれるようになりたいと、それまで接触しようとはしていなかった使用人の子供や一般家庭の子供とも遊んだりするようになりましたわ」
……? なんだか思っていたのと方向性が違うような気もするけれど、桃香の姉の私に力で排除されたからそういう風になってしまったのかもしれない。…となると私は悪の女幹部だろうか? 緊迫した場面の筈なのだが、少し意識がそれる。
「そんな侑李の傍にいるためには、相手の出自を貶したり、見下すようなことはできませんでした…。どんなに不愉快でも、汚らわしいと思っても、笑顔で、平等に接して差し上げなくては、侑李の隣にはいられなかったのですわ」
「そこまでして…篠谷、くんのことを想っていたのなら、どうして…好意を否定したの?」
付き合えばいいと言った私に、そんな関係ではない、幼馴染以上の気持ちはないと言いながらも篠谷に恋しているのはバレバレで、いっそのこと二人がくっついてくれればとあれこれ画策もしたのに。
「…叶わないと知りながら想いを告げるなど、そのような負け戦、わたくしには耐えられませんもの。……本当に、わたくしあなたが嫌いですわ、葛城真梨香。わたくしから大事なものを奪っていったくせに、目の前でそれを放り投げ、拾えとばかりに唆す、わたくしの屈辱があなたにわかりまして?」
「……どういうこと…?」
「この期に及んでもまだわからないと仰るの? 侑李の心を奪っていったくせに。わたくしがどれほど切望しても手に入らなかったものを簡単に奪っていって、欠片ほども興味を示さずにわたくしの目の前で放り出す。下流の庶民の分際で…これほどの恥辱はございませんわ」
私が篠谷の心を…?! 何か勘違いをされている。篠谷の心を奪ったのは桃香だ。可愛くて可憐で純粋なお姫様。あの子の為に篠谷はヒーローを目指した。…今も目指しているのかもしれない。……沢渡はおそらく桃香の存在を知らない。篠谷が昔私たちに会った時の事をほとんど話していないと言っていた。池で溺れた篠谷を私が助けたという事だけ…それだけを聞いた沢渡は篠谷が出会った初恋の相手を私だと誤解してしまったのだ。
「沢渡さん、それは……」
誤解だと言おうとして言葉を止める。今ここで、沢渡の誤解を解いたら…次は桃香が狙われる…? 桃香が篠谷に興味を示さなかったとしても、それすらもが沢渡の憎悪をかきたててしまうと言うなら、誤解は誤解のままに、この場で沢渡と決着をつけるしかないという事になる。
「……私が篠谷君の心を奪ったとして、あんな子供の頃の思い出や約束が何だって言うの? ずっと篠谷君に寄り添って彼の為に変わろうとしていたのは沢渡さんでしょう? それが偽りの同情心だったとしても、本気で演じきることだってできたはずだわ。橡なんかの企みに手を貸さず、優しい生徒会書記のまま、騙し続けてくれることだってできたはずでしょう?!」
たとえ私が憎かったんだとしても、特待生の待遇改善を本気で実現する気がなかったのだとしても、橡のような稚拙で杜撰な計画に手を貸さなければ、篠谷の傍にいて、その心を振り向かせることもできたかもしれないのに。
「…あなたは過去、侑李の心を奪っただけではありませんわ。わたくしが必至で気持ちを抑え、やっとの思いで手に入れた、侑李の隣、共に戦う同志と言う地位すらも奪おうとしている…それだけは…許せませんでしたの」
「…地位…私を次期副会長候補に推す一派がいるという話の事? そんなものは…」
「橡君たちが襲ったのはそんなあなたの支持者の中でも特に熱心な方々ですわ。わたくしでは特待生の待遇を変えられない。わたくしを引きずり落として、あなたを生徒会のトップに近い位置に据える。彼女たちがその為に次期生徒会役員選挙の選挙管理委員会に特待生を立候補させようと画策していたことはご存じ? ご存じなかったとしても、既にことは動き始めております。わたくしはこれ以上あなたにわたくしのものを奪わせませんわ」
沢渡は笑顔のまま、瞳に憎悪を燃え立たせている。半ば狂気をはらんだその表情に気圧されて、少しだけ後ずさる。その顔はゲームの中で桃香に殺意を示した時の表情そのものだった。彼女をこのままにしたら、この殺意と狂気が桃香に向かうのだ。
私は心を決めるしかなかった。沢渡をこの学園というゲーム盤から退場させる。その為なら、悪辣な卑怯者になってもいい。
「…沢渡さん、どちらにせよもうおしまいよ…。あなたと胡桃澤も橡たちの協力者として学園上層部に訴え…」
ポケットに入れた手が空の感触に戸惑う。沢渡が私の表情に楽しそうに口角を歪めて微笑む。その手が何かをつまんで見せる。
「お探しのボイスレコーダーはこちらかしら?」
「…さっき抱き付いてきたとき……深窓のご令嬢がスリの真似事だなんて世も末ね」
背中を冷汗がつたう。焦りが表情に出てしまったのだろう。沢渡の顔は益々楽しげに綻んでいる。
「学年でもトップを争う優等生が盗聴の真似事をなさるご時世ですもの。このくらいの自衛はたしなみですわ。けれど…あなたの様子から察しますと、先ほどの嘉穂が全てを話したというのは嘘ですわね。あなたはわたくしから証言を引き出すために嘘を仰ったのですわね。…酷いですわ」
沢渡は心から傷ついたというように切なげな表情を浮かべて見せる。
「…全て、ではなかったかもしれないわ。少なくとも自分が誘導係だったことは認めている。あなたとの関わりは私が証言する。…大人しく従って」
「それではあなたの口を塞いで、嘉穂には橡に脅されたと言わせますわ」
そう言って懐に飛び込んできた沢渡の手が何かを握っていてそれが突き出されるのを紙一重で避ける。視線の先でバチリと青白い火花が散った。
「…物騒なもの持ってるのね」
「護身用ですわ。でもちゃんと押し当てて気絶させるのって難しいんですのね」
沢渡の手の中に黒光りするスタンガン。避けつつ奪い取って反撃に使うか、とにかく手から落とさせるか迷う。
「気絶させてどうするの? 私の口を塞ぐとか言っていたけれど…」
「そのままの意味ですわ。葛城さんは理由不明の自殺をなさるのですわ。わたくしは呼び出されて屋上の手前まで来たけれど、鍵がかかっていると思って屋上へは出なかった。誰にも悩みを相談できなかったあなたはここで一人寂しく命を絶った。…発見は明日くらいがよろしいかしら?」
「自殺する理由なんて私にはないわ…」
「理由など、残されたものが勝手に想像してくださいますわ。何でしたら適当な理由を作って遺書を代筆して差し上げてもよろしくてよ」
行っている内容は狂気じみているのに表情が冷静で優しいいつもの沢渡のままなのが恐ろしい。力や体術で言えば私の方が圧倒的に有利なはずなのに、今の沢渡は何をするかわからないからうかつに近づけない。一定の距離を保ちながら、隙を伺う。
「この場で私を殺して一時的に罪を逃れても、それはまやかしでしかないわ。あなたはあなたの罪から逃げられない。ついでに言うと、スタンガンなんて奇襲でしか使えないような武器で私を倒せると思わない方がいいわ。格闘技では私の方が圧倒的有利よ」
「存じ上げておりますわ。葛城さんがお強いこと。女子がいたとはいえ橡君たち5人を無傷で取り押さえたのですもの。か弱いわたくしにはとても太刀打ちはできませんわ」
「そう思うんだったら、大人しく…」
「そんなお強いあなたに呼ばれて、わたくしが何の準備もしていないとお思いですの?」
沢渡の後ろ、屋上へのドアから黒いスーツを着た体格のいい男が二人出てくるのが見えた。
「ご紹介しますわ。わたくしのSPの蝋梅と運転手の無患子ですわ。わたくしの言う事は何でも聞いてくれる優秀な僕ですの」
確かに優秀そうだ。主に格闘技の技量的な意味で。
「何でもっていうのは殺人も含まれるのかしら? 本来の雇い主は沢渡のご当主でしょうに」
「お給料はお父様からですけれど、彼らはわたくしにすべてを捧げてくれているのですわ。…すべて、ね」
沢渡が傍らに立った蝋梅だか無患子だか(正直見分けがつかない)の顎を動物でも撫でるようにくすぐる。色めいた仕草に彼女が彼らに支払った報酬が想像がつく。眉をひそめた私に非難されたと感じたのか、沢渡の眉が吊り上がる。
「その上から目線の憐れみが不愉快ですわ。…そうですわね、葛城さんは校内で見知らぬ暴漢に凌辱され、失意の自殺、というのはいかがです? その高潔な顔が苦痛に歪み汚辱にまみれるのが見たくなりましたわ」
黒服二人が隙のない動きで距離を詰めてくる。掴まったら力ではかなわない。じりじりと後ずさりながら、反撃の糸口を探す。
「…反撃、というより、ここはいったん逃げた方がいいかしら?」
屋上から校舎内へ逃げれば流石に追っては来られないだろう。ただ、出口は黒服二人と沢渡の向こうだ。じりじりと後ずさるふりをしながら、出口への活路を探す。
「…沢渡さん、本当に、私を殺すつもり?」
「ええ、本気ですわ」
「そんなに私が憎かった?」
「ええ。…憎らしくて、恨めしくて、わたくしからすべてを奪って、わたくしにできないことを易々とやってのけて、…所詮わたくしの慈愛も正義もまがい物でしかないのに! あなたが本物のヒーローになってしまったら、もう誰もわたくしを顧みてはくれなくなるのに! あなたさえ現れなければ、わたくしでさえ自分がまがい物だなんて気づかずに済んだのに!! 侑李の傍で、本物のヒーローみたいな気持ちで、ずっと傍にいられたのに!! あなたが気づかせなければ、それだけでわたくしは満足できていたのに!!!」
沢渡の憎しみと殺意の嘆きは悲痛な響きを帯びて高くなっていく。言葉は違えど、ゲームの中で桃香へと向けられた憎悪によく似た、悲しみと狂気の悲鳴。
「…そっか…。沢渡さん、私はあなたの事嫌いじゃない…いえ、多分好きだわ。だってあなたは真梨香と同じだもの」
ゲームの中で、想い人の好みに合わせて自分を殺し続けて壊れてしまった葛城真梨香。篠谷の傍にいる為にまがい物の正義を演じ続けて、心を歪めてしまった沢渡花梨。
桃香の恋敵という役割を与えられて生まれた私たちの本質は多分似たようなものなのかもしれない。私が本来の真梨香とは違うものになってしまわなければ、桃香の選ぶ道によってはこうして憎悪と狂気に囚われていたのは私だったのだから。
「だから…もうこれ以上はやめましょう? あなたのその憎しみはあなた自身を滅ぼすわ」
「もう…手遅れですわ」
沢渡の顔が泣いているような笑っているような、ひどく歪んだ表情を浮かべる。私は黒服と沢渡の間、出口までのわずかな隙間めがけて走り出した。掴まえようと伸びてくる太い腕をかいくぐり、駆け抜けたと思った瞬間、激痛と共に靡いた髪を掴まれ引き倒された。コンクリートの地べたに押さえつけられ、二人のうち一人が両腕を抑え、もう一人が馬乗りになってきた。
「同じというなら…あなたもわたくしと同じところまで、堕ちてきてくださいな。穢され、すべてを奪われて、それでも同じことが言えるか、試して差し上げますわ」
ブラウスが引き裂かれ、ボタンが弾け飛んだ。嫌悪感と恐怖に叫び声が喉で凍り付いた。
「―――――――――!!」
その時だった。屋上と校舎内を繋ぐドアが激しく開け放たれ、篠谷と梧桐君、そして何人かの警備員と生徒会顧問の木田川先生が飛び出してきたのだ。突然の事に私を抑え込んでいた黒服の力が緩んだ。その隙に咄嗟に馬乗りの男の急所に蹴りを、悶絶する男の下から逃れもう一人の腕も振りほどくと顔面を蹴り飛ばした。黒服二人はあっという間に警備員によって取り押さえられた。
「…そんな…どうしてここが…?!」
言い逃れできない状況を、他ならぬ篠谷に見られたことに、沢渡は蒼白になって立ち尽くしている。私も同じ疑問を抱いていた。今日この場所に沢渡を呼び出したのは誰にも話していない。沢渡もそれは同様だったろう。そして鍵がかかっていると思われているこの屋上に偶然通りかかる可能性も低い。
「……以前から、花梨の様子がおかしかったので、生徒会を抜け出した時、梧桐君に後をつけてもらいました。そうしたら、校舎内には立ち入り禁止の筈の運転手とボディガードが屋上への階段を上って行ったと連絡を受けたので警備員を呼んで、駆け付けたんです。…間に合って、良かった」
篠谷が引き裂かれたブラウスを隠すように私の肩に自分のブレザーを着せかけながら沢渡を静かに見つめる。その表情には失望と怒りが浮かんでいる。
「…胡桃澤嘉穂が橡圭介たちの暴行事件への共犯を認め、あなたの指示だったことを証言しました。加えてこの場での同級生への暴行未遂についての現行犯です。いったん指導室へ連行ののち、指導職員による事情の調査、ご両親への連絡と理事会での審問を行います。……こんなことになるなんて、残念です」
それだけ告げると篠谷は沢渡から目を逸らした。まるで見るのも嫌だというような態度に、思わず手が出ていた。気が付くと篠谷を殴り飛ばしていたのだ。しりもちをついた篠谷が赤く腫れた頬を抑えて目を丸くしている。その間抜け面に着せかけられたブレザーを脱いで叩きつける。
「以前から沢渡の様子に気づいていたなら、何でもっと早くに声をかけなかったの! 誰よりも長く傍にいたくせに、彼女の気持ちを知ろうともしないで!! あなたになら、あなただけには彼女を止められたのに! 間に合ってなんかいないじゃない!! 間に合うって言うのは……間に合うって言うのは沢渡がこんなことをしでかす前に止めてから言いなさい!!」
半分は自分への憤りだった。誤解とはいえ私の存在や行動が沢渡を追い詰めた。ゲームとは違う優しい沢渡の態度に安心して、沢渡がそう変わるまでの気持ちや本当の心の内を知ろうとしなかった。八つ当たりだと分かっていても、篠谷を責めずにはおれなかった。
「葛城さん…わかりましたから、せめてこれは着ていてください。」
よろめきながらも立ち上がりブレザーを差し出してくる篠谷の手を払うと、沢渡の前に歩み寄った。沢渡は俯き、すべてを諦めたように立ち尽くしている。虚ろで力の抜けた瞳が正面に立った私に焦点を合わせる。
「…なんですの? 言っておきますけれど謝罪などしませんわ。わたくし、後悔などしておりませんし、今でも邪魔が入ってあなたを穢せなかったことを残念だとしか思えておりませんの。せめて侑李がもう少し遅く来ていたら最高の場面をお見せできましたのに…犯される真っ最中のあなたの姿を…」
乾いた音が沢渡の頬で弾けた。平手打ちされた沢渡は呆然とし、ゆっくりと頬に手を当てる。腫れた頬が赤く染まる頃になってやっと何をされたか理解したようだ。虚ろだった瞳に怒りと言う光が宿る。
「何をなさいますの?!」
繰り出された平手を無言で受ける。平手そのものは軽すぎるほどの力だったけれど、鋭く整えられた爪が頬を切ったらしく、ピリッと痛んだ。沢渡は自分の指先に付いた私の血に怯んだように後ずさる。その手を掴んで逃げることを許さず、もう一度頬を打つと、掴んだ手を頬の傷に押し付けた。暴れる華奢な体を抑えて、その掌に血を擦り付ける。沢渡は熱湯に手を押し付けられたかのように暴れた。
「謝罪はいらない。私も謝らないから。あなたは白木さんたち特待生に直接ではないけれど生涯残る傷をつけた。彼女たちは傷痕を見るたびにその時の恐怖と、苦痛と屈辱を思い出してしまうから。だから、あなたにも忘れさせない。あなたはあなた自身の選択で、自身の手を血で汚したのだと、思い知ってちょうだい」
沢渡の白い手には私の血がこびりついている。逃げようと暴れるその手を強く掴んだまま、引き裂かれたブラウスの間、心臓の真上に押し当てた。
「そしてこれがあなたが手にかけようとした命」
鼓動が掌越しに沢渡に伝わる。代わりに私の胸には沢渡の震えが伝わってくる。
「あなたは人の手を借りて私を殺そうとしたけれど、たとえ人の手を借りても、人を殺すってことはこの中の心臓をこの手で掴んで握りつぶすのと同じよ。柔らかく脈打つ肉を握って、血が噴き出して、ゆっくりとその働きを止める瞬間を想像して。血と脂が手に纏わりついて、血管が最後の最後にぴくぴくと痙攣して、最後の鼓動を刻む…」
我ながらグロい表現をしたと思う。沢渡の震えが一層大きくなり、顔色は篠谷に見られた時よりも悪くなってしまったかもしれない。それでも、瞳にちゃんと意志の光がある。
沢渡はおそらく学園を出ていくことになるだろう。警察沙汰になるかどうかは怪しいが、これだけの事件を起こした以上、学園が彼女を留め置くとは思えない。学園と言う舞台から退場した彼女がどうなるのかわからない。ただ、すべてを諦めたような、すべてを放棄するような生き方はしてほしくなかった。自分の罪の責任も背負って、それでもちゃんと生きてほしかった。
「その感触を味わって一生頭から離れなくなってでも、また私を殺したいと思ったのなら、今度はちゃんと正々堂々勝負しに来て。誰の手も借りないで、沢渡一人の手で、私を殺しに来て」
「…いいんですの? そんなことを言って、わたくしが体を鍛えて、武道の達人になって帰ってきても知りませんわよ?」
いや、それは多分無いだろう。沢渡は鍛えても筋肉は付きづらいだろうし、運動神経はお世辞にも良くない。思わず苦笑が零れる。
「そこまで強くなるようだったら手合わせをこちらからお願いするかもね。…私も、忘れないわ。あなたを追い詰めたこと。止められなかったこと。あなたの居場所を奪ったこと」
「わたくしがあなたに無様に負けたことなんてすぐに忘れて下さらない? …覚えているのはわたくしだけで充分ですわ」
そう言うと、沢渡は警備員に先導されて、連行されていった。
「……葛城さん…」
「…篠谷君、さっきはごめんなさい。半分は八つ当たりよ。…でも、あなたの上着は借りないわ」
沢渡を見送って立っていた私に声をかけてきた篠谷にそれだけ言うと、警備員の一人が差し出した上着に袖を通した。
「半分は八つ当たりだけど、半分は本気。…彼女の気持ち、本当に気付かなかったの?」
「……」
無言が返ってきて、溜息をつく。本当に桃香しか目に入らないのかこの残念王子め。
「強くてかっこいいヒーローには程遠いわね。そんなんじゃ全然まだまだ、絶対に認めてなんかあげないわ」
「……え?」
「悔しかったら、私に認められるくらいの男になってちょうだい」
もしそうなったとしても、そう簡単に桃香を渡すつもりはないけれど。
「……それと、助けに来てくれて、ありがとう。梧桐君も」
実際篠谷たちが来てくれなければ、危ない所だったのは事実だ。改めて二人に頭を下げると梧桐君はあわてたようにオタオタと手を振った。
「そんな! 僕なんて助けを呼ぶしかできなかったし、本当に役に立たなくて…」
「そんなことない。助かったわ。……篠谷君も」
「……いえ、無事で…その…」
思いっきり殴ってしまったから、素直にお礼を受け入れられないのはわかるけど、あからさまに目を逸らされるのはちょっと腹が立つんだけど。
「ちょっと、人がお礼を言ってるときくらいこっちを見なさいよ。失礼じゃないかしら?」
「……あんまり近くから見上げないでください。……上着の合わせから…見えます」
言われて自分の胸元に目を落とすと、きわどいラインで谷間が見えている。慌てて胸元を掻き合せて篠谷を睨んだ。
「よくもまあこんな状況でそんなところに目が行きますね。品行方正な生徒会会計の王子様が聞いてあきれるわ」
「どう考えても今のは不可抗力でしょう? そもそも僕の着せた上着をわざわざ脱いで見せつけてきたのはあなたでしょう!? 品行方正が聞いてあきれるはこちらの台詞です!!」
その後は結局普段みたいな嫌味の応酬が続き、梧桐君と木田川先生に止められるまで罵り合ったのだった。
それから1週間の調査期間を経て、橡以下5名の退学処分が決まった。被害者の女生徒とその家族は警察への被害届は断念したらしい。その代り、慰謝料などの交渉には学園理事会から良心的な弁護士を手配され、公正な話し合いがもたれているということだ。
橡圭介は首謀者だったこともあって、橡家を勘当されたそうだ。
沢渡は表向きは病気療養の為の転校、という事になった。この辺は彼らの家の力関係とか色々な裏事情が絡むらしいが、沢渡は遠方の全寮制の女学院に行くことが決まったそうだ。昔の修道院並に規則が厳しいことで有名なその学院に入るという事は実質的な幽閉とか島流し的なものらしく、沢渡家当主は娘に自ら厳正な処分を下したとも言えるが、家名に傷をつけそうになった娘を隔離して臭いものに蓋をしようとしただけともいえる。
どちらにせよ、沢渡が立ち直るにしても、私への復讐を果たしに来るにしても、その学院にいる間はそう簡単には会いには来られないだろう。少なくとも、桃香との2年間の学園生活の間は、彼女に桃香の事を知られなくて済む。そのあとの事は…またその時に考えよう。桃香と篠谷がくっつきさえしなければ最終的には問題ないだろうし。
いつか沢渡と、若気の至りでちょっと殺し合っちゃったよね、とか笑ってお酒でも飲める日が来るといいんだけれど…。
橡が処分され、沢渡がひっそりと学園を去り、胡桃澤はいくつかの不正行為を中等部でも個人的な理由から行っていたことが判明し、密かに厳重注意と高等部での生徒会役員からの除名が宣告された。中等部の生徒会副会長としての仕事は期間満了まで務めさせることになったのは、こちらも彼女の家の力関係だそうだ。大人の世界って汚いな。
そして、橡の事件以降、一部の内部生と外部生、特待生の軋轢は大きく表面化し、力関係の均衡と相互の相談や意見調整の為と言う名目で、代議会や生徒会の人員構成の大幅な見直しが図られた。結果、代議会メンバーの半数が外部、特待生から選ばれ、生徒会にも、特待生か外部生から役員を出した方がバランスがいいという意見が多数出て、私が次期副会長として、その推薦を受けることになった。
名実ともに沢渡の場所を奪うことに、罪悪感がないと言えば嘘になるけど、彼女に遠慮してその職を放棄することはただの自己満足にしかならないとも思ったので、推薦を受けることにした。沢渡が座るはずだった生徒会副会長の席、この席を私は私の為に奪い取った。彼女を追い詰め、最終的には陥れ、ゲーム盤から彼女を排除したのだ。
全ては私が桃香を守るため。私のエゴの為だ。だからこそ、私はこの職分をできうる限り誠実に、学園の為に全うしよう。そう、決めた。
「葛城さん、新生徒会役員就任式の原稿、ちゃんと頭に入ってますか? 外部出身の生徒会副会長なんて初めてなんですから、最初が肝心ですよ?」
「篠谷会長こそ、女生徒が見とれて話を半分も聞いてくれないからって、スピーチの手を抜いたら嫉妬に狂った男子生徒から悪評を立てられまくりますからお気をつけてくださいね?」
篠谷とは相変わらず嫌味が日常会話になっている。梧桐君などはブリザードが始まったと言っては速攻で避難するようになった。止めてよ。粘着王子ヒートアップさせると長いんだから。
顧問の木田川先生の声でやっと睨み合いを止めた私たちは、新しい一歩の為のステージに踏み出した。
ひとまず過去編終了です。長くてすみませんでした。
改稿のお知らせ(2014年6月21日)
まことに勝手ながら、次回以降の本編について大幅な書き直しをすることにしました。
詳しい理由というか弁明については活動報告にてざっくりとさせていただきますのでよろしければご参照ください。