過去編 真梨香 1年の春 5
緊急代議会から数日経った日の放課後、集まったデータを手に、私は南校舎3階の理事会役員用の応接室にいた。連絡をお願いした人は、約束を取り付けたと言っていたが、本当に来るか、未だに半信半疑だ。一人応接室のソファに座って、入り口を睨み続けること五分程、体感的には何十分にも感じた時間が経過した頃、応接室の扉が開いて、長身の男性が入ってきた。
「ああ、遅れてしまったようだな」
「いえ、こちらからお願いしてお時間をいただいているので。お呼び立てしてすみません」
三つ揃いのスーツにきっちりと撫でつけた黒髪、鋭い目つき。怜悧に整った容貌は表情に乏しく、余計に冷たい印象を与える。モデル並みの長身と引き締まった体格は成熟した大人の色気を放っている。理事会役員という肩書にしてはひどく若い。『設定』によれば、今年27歳のはずだ。
「…そんなに固くなるな。幸樹から連絡をもらった時には驚いた。…久しぶりだな」
「はい。…烏森さんもお元気そうでなによりです。栗山先生からもお願いしていたとは思いますが、今日のこの面会について伯母様には…」
「言ってない。知ったら色々とうるさいからな。それより、名前で呼んでもらえないか? 従兄妹同士なのだから、もう少し打ち解けてほしい」
無表情に近い顔で打ち解けたいと言われても、全然そんな風には見えないのだが、この男は顔面には出ないが実は感情豊かだ。今も、無表情なのに、期待に満ちた目でこちらを見ている。
烏森杏一郎、私と桃香にとっては父方の従兄に当たる人物だ。
父は母と駆け落ちする前は、名門、烏森家の跡取りだった。母との恋愛を周囲に反対され、家を出て、実家とは縁を切り、母の籍に入った。
杏一郎は父の姉の息子で、父がいなくなった後、烏森唯一の直系男子として、現在は次期当主として会社経営に参加していたり、桜花学園理事会の一画を担っていたりする。
私の担任である栗山幸樹先生とは学生時代からの親友で、今でも仲が良い。
また、烏森の名を伏せ、桜花学園の非常勤講師という一面も持っている。
この烏森杏一郎という男はゲームの中で、攻略キャラ全員のハッピーエンドを見た後ゲームを最初からプレイし直し、特定の条件を満たすことで攻略可能になる、いわゆる隠しキャラと呼ばれる存在だ。
この世界に隠しルートが開くことがあるのかはわからないが、できることなら関わり合いにはなりたくなかった。
「…今のところはまだ…初対面に近いので…」
「そうか…残念だ」
やんわりと断ると、無表情のまま目に見えて落ち込まれた。無駄に罪悪感を刺激されるからやめてほしい。
「今日お時間をいただいたのは、桜花学園の特待生の一人として、理事会の方に待遇内容の変更についてお願いする為です」
「ほう、今の待遇に不満があると?」
「いえ、今までのところは十分すぎるほどのご厚情をいただいており、申し分のない学習環境を提供していただいています」
私は、あくまでも現在の特待生の待遇に不満があるわけではないことを強調したうえで、今回代議会の決定により、特待生がパーティー行事での『学習』に不備をきたす恐れがあること、一般的な桜花学園生徒の礼服の平均的な総額と、今後実施されるパーティーでのドレスコードに最低必要な金額、そこに到達するために特待生にかかる負担がいかに彼らの家庭において重くなるかという事を説明した。
「なるほど。確かに、特待生は我が学園の名声をさらに向上させるために学園の方から招待し、入学してもらっている立場だ。学園生活、行事において、不備があっては困るな」
「はい。そこで、特待生がパーティーに参加するための礼服を、奨学金から『学用品』として購入することを理事会で承認していただきたいのです」
杏一郎はしばらく無言で私が用意したアンケート結果のまとめと、礼服を学用品として購入する場合の限度額、申請手続きに付随する諸々の懸念事項についての対策案などをまとめた資料を見つめながら考え込みはじめた。
怜悧な美貌を見つめながら、私は気づかれないようにこっそりと溜息を吐いた。
無表情なのに感情豊かで生真面目だが少し天然という設定のこの男は、鵜飼杏一郎という偽名で非常勤講師として桃香の前に現れる。隠しルートは夏休みの集中講座イベントの発生によって開き、杏一郎の正体を知らない桃香は教師と生徒として出会い、惹かれあうというストーリーだ。
彼自身は人柄も良く、大人で、包容力もある好人物だと思う。けれど、彼の母、私から見て伯母に当たる烏森梅香が難物なのだ。
実の弟である私の父、葛城椿、旧姓烏森椿に異常な執着を持っている梅香は母、葛城柚子と椿の恋愛を邪魔し続け、高校時代一度は彼らを別れさせるのに成功した人物だ。結局、椿は烏森家を捨て、柚子の籍に入って結婚した。
その椿が事故で死ぬと、梅香は通夜の席に乗り込んできて父の遺体を無理やり引き取った挙句、烏森家の墓へ入れてしまう。その上、父の忘れ形見である娘をも母から奪おうとしたのだ。
結局、母が私たちを手放すことは無く、再び葛城と烏森は絶縁状態になっていたのだが…。
「…話は一応分かった。行事規範の可決と内容については先日報告を受けたばかりだが、確かに特待生と一般生徒の間では意識的な隔たりが問題になってしまうようだな。代議会の活動はあくまでも生徒の自主性によるものだから決定を覆すことはできないが、特待生への援助の拡大については検討の余地があるだろう」
「よろしくお願いします」
資料を読み終えた杏一郎の言葉に慌てて意識を戻す。
「理事会のご老公たちは奨学金を税金対策の慈善事業だと考えているから、うまく言いくるめれば承認をもらうのは難しくはない。この件は俺がたしかに預かった」
前向きな返答に肩の力が抜ける。
「ありがとうございます」
「そう何度も頭を下げる必要はない。他ならぬ従妹殿の頼みだからな。無碍にはしないさ」
従妹の頼みと言っても今日までほぼ絶縁状態だった相手だ。本来なら突っぱねられても文句は言えない。
それでも話を聞いてくれ、確約とまではいかないまでも、前向きな返事をくれた。その事に口からは素直な感謝の言葉が滑り出て、頬も少し緩んでいるのが自分でもわかる。そんな私を見て、烏森は懐かしそうな顔をした。
「真梨香は柚子さん似だと思っていたが、そういう顔をすると椿さんの面影があるな」
思いもかけない言葉に虚を突かれる。あまりにも自然に名前を呼び捨てにされたことも、全く似ていない父に似ていると言われたことも、何処から突っ込んでいいのかわからない。
「えっと…。私の顔に父の要素はほぼ無いと思うのですが…」
「顔の造作自体は柚子さんそっくりだ。しかし、ふとした表情が椿さんに似ている。…親子だな」
相変わらず無表情に淡々と言っているが、どこか嬉しそうなのは、私の中に父の影を見出したからなのか。ただあんまりじっと見つめられるのは居心地が悪い。
「あ…えっと、今日はお話を聞いていただいてありがとうございました。それじゃあ、私は…」
「真梨香はこの後は何か予定があるのか?」
失礼します、と続けようとしたところを遮られた。この後は帰宅するだけだが、正直にそれを告げるにはどうも雰囲気がよくない。
「…帰って、夕飯の支度が…」
「そうか、残念だ」
何が残念なのかは聞かない方がいい。落ち込んで見える無表情にちくちくと胸が痛む。烏森家の人間と関わるのはこれっきりしておきたいのだ。
「せめて…連絡先を交換しないか? 今回のように何かあった時には助けになりたい」
どうやら杏一郎は従妹との繋がりに、歳の離れた妹ができた気持ちになっているみたいだ。そう考えると無碍にするのも可哀想な気がしてくる。今も表情は全く変わらないのに、眼だけが期待に満ちているのが見て取れる。
「………母に知られたら、きっと怒られると思いますし、伯母様も、私の事は良くは思っていらっしゃらないと思うので…」
伯母が父の娘である私と桃香を引き取ろうとしたのは事実だが、父によく似た桃香と違って母によく似た私については母への仕返しのつもりで引き取ると言いだしたにすぎない。ゲーム中で桃香だけに異常な執着を見せ、姉の存在はガン無視だったのがその証拠だと思う。
「それじゃあ、母親にはお互い秘密でもいい。真梨香たちの近況はずっと気になっていた。俺で助けになることなら頼って貰いたい」
真摯な言葉に心が揺れそうになる。杏一郎を通じて烏森家の動向を探れるかもしれないという打算的な思惑も脳裏をかすめる。
結局、ひたすらに注がれる眼差しに耐えきれず、折れたのは私の方だった。
「……それじゃあ、伯母様方には内密ということなら」
「そうか」
渋々答えると、表情も口調も素っ気ないのに、盛大に尻尾を振っている犬の幻影が見えた気がした。
「あ、でも、学内で会ったときは『鵜飼先生』と呼ぶので、私の事も苗字で呼んでください。他の生徒や先生方にいらぬ誤解を受けますので」
振っていたしっぽがシュンと垂れた様に見えたのは気のせいだ。そもそもしっぽ自体幻影だ。
「……善処しよう。その代り、二人でいるときは名前で呼んでもらえないだろうか」
その代りの条件がおかしい気もするけれど、今後二人きりになる機会がそうそうあるとも思えなかったので、了承することにした。
「わかりました。…からす……杏一郎さん」
「…ああ。真梨香、これからよろしく、だな」
一瞬苗字で呼びそうになり、悲しげな眼をされたので、恐る恐る名前を呼べば、満足そうに、今度こそ表情に出して微笑まれた。ここまでが彫像のような無表情だっただけにうっかり見とれてしまい、次の動作への反応が遅れた。
低く落ち着いた声で名前を呼ばれ、引き寄せられ、更には頭を撫でられた。
一つ一つでも強烈なのにコンボで決められて顔に熱がのぼる。恋愛対象じゃなくてもイケメンに触れられて照れないわけじゃない。それどころか免疫はあんまりないのだから、不用意に触れないでほしい。
「そ、外では本当に、気を付けてくださいね。それではもう失礼します!」
そのまま逃げるように応接室を飛び出した。階段を駆け下り、生徒会室に飛び込むと、間の悪いことに沢渡と篠谷がいた。
「葛城さん?! どうしましたの??!」
「顔が赤いですが熱でもあるんですか?」
「!!? ごめんなさい、なんでもないです!」
しまった、もう帰っていると思って油断した。真っ赤になっているだろう顔を見られた恥ずかしさに、生徒会室も飛び出して、給湯室へ逃げる。設置されている冷蔵庫に買い置きしてあったアイスコーヒーの缶を取り出して頬に当てると、熱も冷め、段々と落ち着いてきた。
ひとまず当初の目的は達成できたし、杏一郎はあれでいて多忙な人間なので、そんなに遭遇する機会もないだろう。外では講師と生徒として接してくれると言ってくれたし、今日のような接近はまずない。いや、無いようにする。
距離さえ保っていられれば、こんなに動揺することもないだろう。
そんなことをつらつら考えながら缶コーヒーで顔を冷やしていると、篠谷がやってきた。
「こんな所にいたんですか? 急に来て急に飛び出していくから心配しましたよ」
「あ、すみません。もう大丈夫です。落ち着きました。沢渡さんは?」
「花梨も心配していました。…今日は例の理事会役員との交渉だったのでしょう? もしかして駄目だったのですか?」
気づかわしげな顔に、二人が心配して残ってくれていたのだと気付く。
「いえ、とりあえず、理事会で前向きに検討してもらえるそうです。篠谷君も、いろいろ協力してくれてありがとうございました」
「…僕は大したことはしてないです。アンケートの集計と礼服購入費用の見積もりを出したくらいで」
「それでも充分に助かりました。沢渡さんと会長、五葉松先輩にも改めてお礼を言わないといけませんね」
生徒会室に戻ろうと篠谷の横を通り抜けようとして、腕を掴まれた。見上げるとひどく真剣な表情で、見つめ返された。
「…役員の方に何かされたわけじゃ…ないですよね?」
「…何もないわよ。変な疑いは相手にも私にも失礼だわ。緊張していたから、交渉が終わって気が緩んだだけよ」
実際勘ぐられるほどの事はされてない。名前で呼ばれたことと、頭を撫でられたことくらいだが、もちろんそんなことを正直に教える必要もない。
少し間が空いた私の返事をどう思ったのか分からない。普段のどう見ても怒ってる眩しい笑顔すら消えて、剣呑な雰囲気をたたえた碧の双眸は鋭い刃のようだ。
「あなたの持つ理事会へのコネ、とやらも話しては貰えないんですね」
「最初に申し上げた通り、事情があるので相手の事も、相手との繋がりについても、お教えできません」
「…僕はあなたにとって信頼に値しないと?」
掴まれた腕に力がこもる。痛みに顔をしかめれば、はっとしたように手が離れた。
「…篠谷君の生徒会役員としての姿勢は信頼しているし、あなたが人の秘密を吹聴したりする人じゃないことも分かっているわ。でも、これは私だけの問題じゃないの。万が一表沙汰になれば私の大切な人が傷つくかもしれないから。……ごめんなさい」
無言で俯いた篠谷を置いて、私は生徒会室に戻った。
引いてくれてよかった。事が桃香にも関係あると知ったらきっと彼は引かなかっただろう。桃香の為に周りのすべてを壊すような彼の愛し方は、桃香の為だけじゃなく、彼自身にもしてほしくない。
「葛城さん、大丈夫でしたか?」
生徒会室では沢渡が待っていてくれた。今度は落ち着いて、交渉がうまくいったことを伝えると、沢渡もホッとしたように胸を撫で下ろした。
「よかったですわ」
花がほころぶような笑顔に胸がきゅんとなる。こんなに可愛くて性格も良くて、健気な子が傍にいるのに、何で篠谷は思い出の中の桃香しか見えないのだろう。もちろん桃香は可愛くて優しい天使のような子だけれど、篠谷の中の桃香は思い出に上書きされ続けた幻想に過ぎないのに。本当の桃香の魅力を知らないまま、傍にいる花からも目をそむけたまま、来年、桃香に近付いてくるのだろうか。
「沢渡さんにしとけばいいのに」
「…え?」
口を突いて出た言葉は沢渡に聞こえてしまったらしい。こてん、と首を傾げられる。
「あ、ごめん。篠谷君と沢渡さんがお似合いだから付き合っちゃえばいいのにって、思っただけなの」
「……」
無言で俯かれて余計な口出しだったと焦っていたら、いつものにこやかな顔で笑われた。
「よくそう言われるんですのよ。でもわたくしと侑李は幼馴染なだけで、そういった気持ちはございませんの」
意外な言葉が帰ってきて、驚く。てっきり沢渡は篠谷への好意をはっきり口にするタイプだと思っていた。少なくともゲーム中では篠谷の事を好きな相手だと言って憚らなかった。現世ではそこまであからさまではないものの、篠谷への視線は他の男子への視線と違っているように見える。少なくとも、ただの幼馴染というには視線に含まれる熱量が多いと思うのだけど。
あまり詮索するのも良くないかとその場はそれ以上は追及せず、お互いに帰り支度を始めた。暫くすると篠谷も帰ってきたので、帰りの挨拶を交わして生徒会室を後にした。
翌日、菅原会長と五葉松先輩にも交渉結果の報告をし、お礼を言った。代議会の内容を教えてくれたのも、その後の情報収集にも、親身になって協力してくれた。他にも協力をしてくれた特待生の子たちや仲良くなった執行部メンバーなど、一人一人にお礼を言って回った。彼らの協力がなければ、杏一郎のコネを使っても理事会役員へ話を通してもらえるだけの資料は揃えられなかっただろう。
そうしてしばらく経った頃、特待生の各家庭に奨学金使用範囲についての新しい要項が配布された。通達は事務課を通して、内部生や一般入学性にはほぼ知られない形で、特待生はパーティー行事への参加が可能になったことを知った。
大々的な告知を行わなかったのは、内部生に知られて、贔屓だなんだと騒がれるのを防ぐためだろう。
実際、学内で行われるパーティー行事はそんなに多くない。新入生歓迎パーティーが終わっているので今年度はあとクリスマスと予餞会くらいだ。それまではあまり騒がず、一之宮の目を欺いておいた方が得策だろう。こちらが手を打ったと知られたら、また何か仕掛けてくるかもしれない。
こうしてまたいつも通りの日常が戻ってきた。生徒会で書類整理に従事し、学内の情報を収集する。
変わったことと言えば、執行部研修が始まって1か月が過ぎたころ、橡をはじめとする一部の一年生が執行部をやめていった。彼らと入れ替わるようにして、梧桐君ら特待生のグループが数人執行部入りした。
そしてこの頃から、沢渡との会話が少なくなっていった。執行部が軌道に乗り、彼女自身の仕事が忙しくなった所為でもある。だからというわけではなかったが、私はこの時の変化をそこまで気にしてはいなかった。
乙女ゲーと言えば隠しキャラ、やっと出せましたー。
次回はちょっと季節が進みます。