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「『鏡幻閣』ねぇ……」
道路の突き当たり、例の旅館の入口の前に佇んで、あたしはポカンと門を見上げていた。
ちなみに「鏡幻閣」というのは、どうやらこの旅館の名称らしい。草書体でそう書かれた、門と同じぐらい重厚な雰囲気の看板が、門の庇の上にかかっている。
しかしどれだけ記憶の引き出しを開けてみても、「鏡幻閣」という名称に心当たりはない。ということは、あたしの元いた世界にはやはりこんな旅館なかったということなのだろう。例のトンデモ仮説が真実だとして、の話だが……。
「ミサキちゃん、こっちだよ」
おばあちゃんの声に、あたしはふと我に返った。見ればおばあちゃんは、すでに旅館の敷地内に入っている。
「あ、はいはい」
ひとつ深呼吸をすると、あたしもその門をくぐった。
それにしても、自分の祖母が他人の祖母であるというこの状況も、思えば寂しいもんである。さっきおばあちゃんは「2人の時は他人行儀な呼び方しなくていい」と言った。しかしよく考えてみれば、それって他人の目がある時は、おばあちゃんをサキの祖母として扱わなければならないということではないか。その証拠に今おばあちゃんは、あたしのことを「ミサキ」ではなく「ミサキちゃん」と呼んだ。どこで誰に聞かれているかわからないからそうしたのだろうが、やっぱり少し残念な気がする。
さて、そのおばあちゃんは、あたしが中に入ったのを確認すると歩き出した。ただし、門から建物の入り口につづく石畳ではなく、門を入ったすぐを左に折れる砂利道を。
内心疑問符を浮かべたまま着いて行くと、あたしたちが歩く砂利道は、しばらく行くと右に進むように作られていることに気付いた。道なりに歩いていると、先程門から見えていた建物が進行方向斜め右に再び見えてくる。なるほど、どうやらこの砂利道は、あの石畳や松に囲まれた建物の玄関をぐるりと回り込む為に作られたらしい。
「で、おばあち――じゃなかった、おばあさん。これからどこに行くんですか?」
あたしの投げた問いかけに、おばあちゃんはあたしの方を振り返ると答えた。
「自宅だよ。この旅館の後ろ側に建っていてね」
ほら、と再び前を向いたおばあちゃんの視線を辿ると、確かに先程の日本家屋の後方に平屋建ての建物が見える。
「あれが自宅……」
ということは、手前の日本家屋が旅館ということか。しかしあたしから見れば、自宅と思しき建物も旅館と遜色ないぐらい純和風に見える。同じ敷地内に建てる都合上、周辺の雰囲気をブチ壊しにしないよう配慮がなされたということか……。
そんなことを取りとめもなく考えているうちに、あたしたちはその自宅に辿り着いていた。
「ただいま。今帰ったよ」
引き戸を開けながら言うおばあちゃん。そして視線だけであたしに「お入り」と合図する。
「お、お邪魔しまーす……」
おばあちゃんの促しに、あたしはおっかなびっくり玄関に足を踏み入れる。まるでそれを待っていたかのように、建物の右奥からトテトテという軽い足音が聞こえてきた。
「いらっしゃぁい。待ってたよぉ、ミサキちゃん」
足音の主は思った通りサキだった。彼女は一緒に帰ってきた祖母には目もくれず、あたしの方だけを見てニコニコしている。
――サキには充分注意するんだ――
ふと先程のおばあちゃんの言葉が蘇る。おばあちゃんがサキに対して何らかの警戒心を抱いているのは明らかだが、今のサキの様子を見る限り、彼女の方にもおばあちゃんに対して、何か思うところがあるのかもしれない。もっとも、単なるあたしの考え過ぎの可能性は否定できないが。
サキは靴下のまま玄関土間に下りてくると、あたしの手を引っ張る。チラリと横のおばあちゃんを見ると苦い顔をしているが、サキはまったく眼中にない様子だ。
「さぁさぁ、みんな待ってるよぉ。ミサキちゃんも早くはやくぅ」
「わ、わかったから靴ぐらい脱がせて」
「うんっ」
無邪気に頷くと、彼女はパッとあたしの手を離した。引っ張られて前のめりになっていた所に急に手を離されたものだから、あたしはあやうくバランスを崩すところだった。無邪気って恐ろしい……。
なんとかこけずに踏みとどまると、あたしは靴を脱いだ。それと同時に再びサキに手を引っ張られて、あたしは彼女の家に上がり込む。おばあちゃんが完全放置なのが気になるが、なんとなく今のあたしには、サキに対して抵抗の余地はないように思えた。
ご機嫌で鼻歌なんぞ歌いながら歩く彼女に、あたしは尋ねてみた。
「で、どこに連れてこうっての? てゆーかみんなは?」
「んー? あたしの部屋だよぉ。リビングにしようかと思ったんだけどぉ、神宮寺くんが『できれば人目につかないところがいい』って言うからぁ。うちって昼間はあたし一人だからぁ、リビングでも問題ないんだけどねぇ」
「そう……」
あたしは神宮寺の言葉を訝しんだ。人目につかない所がいいって、一体ヤツは何をしようとしてるのか。
――いや、あたしはヤツが何をしようとしてるのかは知っている。昼休みに打診されたからだ。しかしここは学校ではなく、更に今のサキの話からも確認できたが、この家には昼間彼女以外は誰もいないらしい。それがわかってもなお人目につかない場所を望むとは、それほど他人に――特に大人に、だろうか――聞かれることを警戒しているとしか思えない。つまり、情報が漏れることを過敏なまでに意識しないといけない計画を立ててるというのか……?
そこまで考えた時、前を歩くサキが立ち止まった。彼女は左側にあるドアを押し開けると、中に向かって
「お待たせぇ。ミサキちゃん来たよぉ」
と声をかける。おそらくここが彼女の自室なのだろう。あたしは恐る恐るドアから中を覗き込んだ。
予想通りというか何というか、サキの自室はかなり女の子らしいものだった。淡いピンクに赤の小花が散った壁紙と、その壁紙の地の色に合わせたピンクの毛足の長い絨毯。部屋の左奥には、白地に小花柄のカバーのかかった枕と掛け布団の乗ったベッドがあり、その足元の方には姿見なんぞが置いてある。部屋の中の目を惹く家具の内、女の子らしさと無縁なのは勉強用と思われるデスクだが、デスクの上のランプにも花柄のシェードがかかっているので、デスクも女の子らしさと無縁とは言い切れない。
他にも本棚、幅広のワードローブ、ローテーブルなど様々な物が置かれており、部屋は綺麗に片付けられているのに、なぜかごちゃっとした印象を受ける。その部屋の中に、先に着いてた3人がまるで調度品のように収まっていた。もっとも、男2人はどことなく居心地が悪そうだが……。
「さ、ミサキちゃん。入って入ってぇ」
ドアを開けた状態で、サキがあたしに向かって手招きをする。あたしは言われるままに、その部屋に足を踏み入れた。
「遅かったな、神楽谷。何してたんだ?」
デスクの椅子に腰かけていた神宮寺が、そう尋ねてくる。
「何してたって、まぁ……色々よ」
ローテーブルの奥側に座るリョージと対面になる位置に居場所を確保しながら、あたしは答えた。答えをはぐらかしたのは当然だろう。本当のことなど言えるはずもない。
「それじゃああたしぃ、飲物とか持ってくるねぇ。コーヒーと紅茶があるけどぉ、みんなどっちがいいかなぁ?」
サキの言葉に、あたしたちは口々に飲みたい物を言っていった。リョージを除いた全員が紅茶と言ったので、リョージがちょっぴり肩身が狭そうだが、それは気にしないことにする。
サキが飲物の準備に出て行ったところで、あたしは先程からの疑問を口にした。
「で、神宮寺。わざわざ学校じゃなくて人の家に押しかけて、なおかつ人目を気にするってのはどういうことよ? 昼間の話なら学校じゃマズいってのはわからなくもないけど、人の家にまで来て他人の目を気にするってのは、ちょっと度が過ぎると思うんだけど?」
「なんだミサキ、昼間の話って?」
そう口をはさんだのはリョージだ。ヤツの後ろ、ベッドにちょこんと腰かけているアカリも同様の疑問を抱いているらしい。
神宮寺はアカリ、リョージ、そして最後にあたしを見て口を開く。
「まぁ待て。神楽谷の疑問も弦木や御子紫の疑問も、頼城が戻ってきたら全部説明するから」
仕方なしにあたしたちはサキが戻ってくるのを待つ。
それから数分、ドアをノックする音がしたので開けに行くと、4人分のティーカップと1人分のコーヒーカップ、それからお菓子の盛られた皿をお盆に乗せて、サキが入ってきた。お菓子の皿をローテーブルの中央に置き、それぞれが希望の飲物を手にして、最後にサキがあたしとリョージの間に腰を下ろしたところで、神宮寺が再び口を開いた。
「さて、それじゃ頼城も戻ってきたところで、会議を始めるか。
昨日は頼城が休みだったので、最初に昨日の会議のおさらいをしておこう。神楽谷、昨日の会議の議事録はあるか? あったら頼城に渡してやってくれ」
「え、あ、ちょっと待って」
言われてあたしは、鞄の中からルーズリーフ用紙の袋を取り出す。授業で使った用紙はルーズリーフバインダーに挟んでいるが、議事録はそれと一緒にならないよう、あえて用紙の袋に戻すようにしているのだ。確か昨日の議事録は袋の一番後ろに入れたはず……と思って袋をひっくり返してみると、案の定そこには文字の書かれた用紙が入っている。
あたしはそれを取り出してサキに渡しかけたのだが、ふと気になって再び自分の手元に戻すと目を通した。そこに書かれた文字はあたしの筆跡だが、とある1ヶ所に書いた記憶のない文言が見られる。
「文化祭企画:神楽谷案採用」
確かに昼間神宮寺に言われた通り、あたしの企画は採用になっている。しかもそれをここに記しているのは、間違いなくあたし自身だ。あたしは改めて、自分の記憶と過去の事実が異なっていることを認識させられた。