第92話 肚を据える
段昂なる謳軍の諜報員より情報が来た。
それによると──。
今現在、呂国にて諜報活動を行っている者は彼一人で、他は後越国と馗国の関係、湯国経由で運ばれたと思われる兵糧の詳細を調べるため、後越以南にいるのだという。
「単独行動を許されるほどの者が・・」
潘会は──。
続く、こうも簡単に籠絡されるとは──、を口にする事を控えた。
泡易の魔性は、潘会自身も知るところである。羞恥や屈辱の共感に似た、名状しがたい気持ちが、彼に言葉を飲み込ませた。
「なんにせよ、呂は謳軍の視野の外側にいるという事だ」
潘会は思考を戻す。
ひとつ懸念することがあるとすれば、段昂が二重諜報を行っている可能性だ。もっとも、今のところ、それらしき結果も兆候もない。
呂の森に埋伏している後越軍など、丁度いい情報だが、洩れた気配はない。
「だが、油断は禁物だ」
潘会は段昂でさえ気付かぬよう、密やかに影の如く動くことを決めた。
「兵が少ないように見えますが、何かありましたか?」
「敵の輜重を発見したので、それで百名ほど出ているところです」
于鏡の問いに、担当者で、この軍の副官でもある男は答えた。
于鏡は呂軍を警戒する軍と呼延吹軍、二つが上手く連携できるように事前の打ち合わせに来ていた。
彼が陣に到着し幕舎に案内されるまでの間、ざっと観察して気になったので尋ねたのだ。
「敵は馗国軍の可能性があるはず。彼らの輜重隊が精強なのはご存じでしょう。百では少なすぎます」
于鏡は危機感を呈して言葉にした。
「御尤も──。それが発見した部隊は連絡にあった百名規模ではなく、四十人程だったようで、こちらも騎兵を二十入れた編制で出しました。故に数としては問題ないかと──。また、一人二人を捕らえれば良いという指示でしたので、過度なぶつかり合いには発展しないとみております」
副官の男は、于鏡の心を宥めるように穏やかに語った。
物腰の柔らかさから、他の部隊との、この手のやり取りは熟練なのかも知れないとの想像をさそった。
──ならば、問題ないとするか・・
そもそも、役割としたら遊撃隊である呼延吹軍に任せてよい話であり、手柄欲しさに先走った感が否めない案件である。しかし、これから連携しようというのに、枝葉をつついて関係性を悪くしたくないという思いも、于鏡にはあった。
斯様にして于鏡が一定の納得と妥協を持ったとき、にわかに外が騒がしくなった。
「おや、なんでしょう?」
副官はスタスタと幕舎の外に向かう。
これを切っ掛けに、一旦話を終わらせようという意図かも知れない。
于鏡も彼にあわせて外に出てみる。
そこにいたのは敗走してきた兵達であった。
「な、何があった!?」
副官の男は駆け寄って兵に問う。
「隊長がやられました──。騎兵は全滅──、歩兵は十九死亡、負傷は多数です──」
応じた者も浅いが複数の傷を受けていた。
「敵の数は? 多かったのか?」
「いえ──、数は四十程──、情報に間違いはありません。ただ、異常に強く──、為す術なく蹴散らされました」
「馬鹿な・・」
副官は兵の言葉を受け入れられずに困惑していた。
「すまん、私は遊撃隊の者だ。確認したいのだが、その部隊は輜重隊で間違いないのだな?」
「はい、確かに荷車を引いておりました」
于鏡に兵が返す。
「敵に騎馬がいたと思うが、覚えていることはあるか?」
「はい──。指揮官と他二騎、二騎は女で、それも異常な強さで──、逃げる味方の騎兵もあっという間に討たれました」
「わかった。御苦労」
兵をねぎらうと于鏡は副官の方を向き。
「件の輜重隊については、我等、遊撃隊が受け持つ」
異議を認めぬ目で言った。
鍾棋は感心をもって敵陣を眺めていた。
彼から見て、胴州を囲んでからの謳軍の動きは完璧に近いものだった。
鍾棋は知らぬが、知らずとも、これが喬太后の采配と理解した。
生粋の軍人であり、長らく隠棲していた鍾棋には要人の評など縁遠いことであった。彼がそれに触れたのは、呂国から来た居攸という男の語りからだ。
かの男は各国の情勢から為政者の実績、人となり、関係する出来事についてよく知っていた。
見てきたわけではないのだから、それは仄聞でしかないはずだ。
しかしながら、独自の取捨選択があるのか。
話を聞く限り、正しく記録された歴史書のような整合性を感じさせるもので、事実に届いている印象を受けた。
無論そこには、居攸が能弁家であった事もあるだろう。
ともあれ、鍾棋が持つに至った喬太后という人物像をひと言で表せば・・
──適宜の人。
包囲から兵糧攻めではなく、即、攻城を選択する判断。
それはひょっとしたら誰かの献策かも知れないが、以て是とする意思決定力は、喬太后その人に違いないと鍾棋は思った。
「であればこそ、間隙が生じる」
盤上の勝負であれば最善手を指せば勝ちであろうが、実際は複雑だ。時として最善が、過った結果を招くこともある。
ましてや、その最善が予測されているならば・・
ワァッ──。
喊声と共に謳軍の攻撃が再開された。
「さて──、その為にはしっかり守らねばならんな。面倒な事だ」
のんびりとした口調だったが、後越軍は苦闘を強いられていた。
謳軍は近衛を除く四千が輪番で攻め掛けてくる。
対する後越の城に残るは千三百、数の不利は敵の想定などより甚だしいのだ。
しかしそれを悟らせるわけにはいかない。二千三百の兵による奮闘と思わせる。
そして程良く疲れを見せたとき・・
「最善の一手を打ってくる──、それまでの辛抱だな」
鍾棋は溜息が出るのを打ち消すように言葉を放った。




