第89話 いがみ
──俺は何をやっているのか?
自問の答えは明瞭だ。
──国を裏切っている。
その自覚は段昂とてあった。あったが、それでも抗いきれぬものだった。
屋敷を訪ね、小間使いに封書を渡す。
いつしかそうなった。無駄なやり取りをする時間が惜しい段昂にとって、それは自然な事であった。情報の説明などしてる暇があるなら、一秒でも長く泡易を見ていたかった。
彼女に語りかけ、声を聞き、微笑む。
すると、泡易も解顔を返してくれる。
至福の時だ。
泡易の艶笑は言わずもがな。普段の冷淡で不満げな顔、髪、息づかい、手指の造形さえ何だか美しく見える。
──どうかしている。
そんな事はあり得ないと頭ではわかっている。たぶん普通なはずだとも思う。
なのに、段昂には泡易の全てが最上に感じられた。
それはまるで幼子が母親か、それに準ずる者に抱く絶対的な安心感のように、段昂は彼女の存在を全肯定していた。
──堕ちている。
甘い底なしの沼に浸かりながら、段昂は独り、内観していた。
少数による襲撃だった。
──返り討ちにしてやる!
只の賊徒だが、尚史が鬱憤を晴らすのには丁度良かった。
彼は先の礼国との戦い際に臨時の輸送隊に出向となったが、謳国への対応という形で未だ部隊は解散しておらず、依然として荷車を押す仕事に従事していた。
「迎撃!!」
隊長の声が響くが、それよりも前に尚史は駆け出していた。
──俺を舐めるなよ!
輜重だと侮ったであろう賊に対して怒りを込める。
「俺は歩兵隊だぁ!」
気合いを入れながら敵の集団に突っ込み、勢いのまま一人を槍で突き刺す。
すぐさま別の敵が反撃を仕掛けるが。
〔 鱗茎剥捨 〕
尚史はスキルを使い攻撃を大きく往なし、相手の体勢を崩した。すかさず槍を突き出して仕留める。
──賊などに俺が後れを取るはずがない。
その性情にやや問題があるとしても、尚史は並の兵よりかは上の実力を持つ。ましてや、大して訓練などしていないだろう賊徒の一人や二人、相手にするのは造作もない事だった。
輸送隊の抵抗が予想を超えていたのだろう。
賊は早早と逃げに転じた。
「逃がすかぁぁあ!」
尚史は敵に対して執拗に槍を向けた。その様相は鬼気迫るものがあり──。
「深追いするな」
隊長の声が聞こえたにも関わらず、彼は足を止めなかった。
──敵を討って、歩兵隊に戻るんだ!
尚史は、自分が十分に戦えることをアピールしようと躍起になっていたのだ。彼が賊を背後から突き殺したところで。
「おい、いい加減にしろ、戻れ!」
声が飛び、尚史は追撃をやめた。
──三人か。まずまずだな。
尚史は戦果として、それを認識した。
しかしながら、尚史の期待とは裏腹に、彼の行動は上官にはあまり良い印象を与えなかった。
それは軍でなくとも、指揮者の指示に逆らう動きは組織という集合体にとって見過ごせない事であり、一部の例外を除き、良い評価がなされることはない。
そんなことは考えるまでもなく分かりそうなものだったが、尚史はどこか意図して、その現実から目を背けるようにしていた。それは現在の境遇を、尚史が受け入れられずにいることの裏返しでもあった。
然りとて、尚史一人の心を酌み取って考えてやるほど、皆が優しく余裕のあるわけでもない。
他の者も、それぞれ今の状況に不満を抱えているのだ。
そういう観点から、尚史はやはり傲慢で、彼は自分一人が可哀相だと思い、自身の不幸のみを嘆く、悲しい者だった。
尚史が賊に追い縋ったのは、これが初めてではない。
彼のくどい行為は何度かなされたが、その標的となった賊の一人が生き残り、尚史を含む輸送隊を大いに恨んだ。
その者は復讐を為すため、反乱軍に輸送隊のことを知らせた。反乱軍とて物資を欲しているはずで、きっと強奪に動くに違いないと踏んだのだ。
しかしどういうわけか反乱軍が動くことはなく、復讐者は落胆し、湯国を離れ東に流れた。
後越攻めの謳国軍第二陣が編制された頃。
謳国の軍営に、後越に向かう輸送部隊の情報がもたらされた。




