第70話 勿怪
帰還途中で手痛い敗北を喫した礼国軍が態勢を整える前に、春国軍三千は首都孔丘から立ち去った。
亜丘にほぼ無傷の四千の兵がいたが、孔丘陥落からの一連の出来事で王族高官たちの意気は大いに下がり、攻めることより守ることを望んだ。またそれらの心理は将兵にも伝染し、彼らにも二の足を踏ませた。
結果、春国軍はなんら障害なく国境を越えた。
礼国はその後、北は文国、南は春国からの本格的な侵攻を受け、領土の幾らかを失った。また春国からは、捕らえられた王族との交換という形でも、町や村の支配権を奪われた。
散散な有様となった礼国は、今や風前の灯火と見られた。
しかし、そんな礼国に対して援助を申し出る国があらわれた──。
「フッハハハ──」
養静の笑い声が響く。
もたらされた報告を聞いてのことだが、同じく聞いた他の者達は唖然呆然として、とてもじゃないが笑える心境ではなかった。
「これも、将軍の計算にあった事かな?」
養静は少し笑いを抑えて、弟に尋ねた。
「まさか──。このような話になるとは思いも寄りませんでした・・」
養嘉は言って、弱く首を振った。
「ハハハッ──、音に聞こえし養嘉将軍を以てしても予測できなんだか。これは愉快、愉快」
養静は再び大きく笑った。
彼は、ひとしきり笑うと、呼吸を整えて──。
「皆の者、これが馗国だ。げにまっこと恐ろしき国よ」
先程までの笑声が嘘であったかのように、色のない声で言った。
これには養嘉以下、群臣たちも頷かざるを得なかった。
養静の言葉の意味は──。
困窮した礼国に救いの手を差し伸べた国というのが、事もあろうに礼国によって侵攻を受け、つい先日まで激しい戦いを繰り広げていた国であり、互いに恨み辛みを持つ者。
即ち、馗国それ自身であったのだ。
──自分たちを侵略しようとした者に援助をするとは、如何なる心理であるか?
知った者は等しく馗国の心胆を疑った。
「将軍。萩家はどうなるかな?」
養静は弟に問う。
「はぁ──。こうなりますと、おそらくは何らかの形で存続させるものかと・・」
養嘉は首を捻りながら答える。
「そうよな」
養静も同意見のようだ。
「陛下。これは新たな火種になるのではないでしょうか。敵から援助を受けるとなれば、礼国の心が却って憎悪に染まることもあるかと」
群臣の一人が言う。
助けられた事に恩を感じることもあれば、逆に恨みを持つこともある。特に国という大きな主語に於いては、そのような名状しがたい歪みが生じる場合が間間あった。
「春国に関しても同じことが言えるかと。かの国にとって萩家は自分たちの立場を脅かす存在であったはず。此度の戦いで彼らが一掃される事を望んでもいたでしょう」
別の者も言う。
春国が馗国に含むところがあるとすれば、それは萩家で間違いない。
裏切ったあげく、それでも家を存続させるならば、馗国が春国に対して何か意図するところがあるのではないか、と考えられても仕方がない。それは将来の禍根となるとの見通しである。
馗国は礼国を援助し萩家を存続することで、買う必要のない恨みを、あえて積極的に求めているような格好であった。
これに養静は。
「馗国は恨みなど、露ほどにもおそれてはおらんのよ・・」
そう静かに言った。
一拍おいて彼は続ける。
「彼らは利があれば拾い、無ければ捨てる、全ての判断の根底に損得が絡んでおる。無論それは、我等とて同じでもあるが、馗国のそれは徹底している。今回の事でも、礼が大きく力を弱め、春が飛躍した。我等もそれなりに益を得た。彼らは自国の東部の均衡を保ちたかったのであろう。礼と春が結ぶことはあり得ない、文ともそうだ。だが、文と春ならば協力するかも知れん。そこでクサビとしての礼に力を貸す・・」
聞いた誰かが。
「それでは我等の邪魔も厭わないという事でしょうか」
やや憤った声で言う。
「そうよ──、たとえ恨まれてもな。そればかりではないぞ──。我等は馗国に恩を売るつもりだったが、ここに来て、馗国は礼国の恨みを自ら引き受けた。これは逆に我等の方が恩を売られてはいまいか?」
養静の言葉に皆は身震いした。
「確かに陛下の仰る通りです。春国を巻き込んでまで恨みを分散させた我等を、どこか見透かしたようでもあります。まるで、要らぬならその恨みを譲渡してくれと言わんばかりです」
養嘉が賛同し、続けて。
「しかし恩に着せたという態度は決して取りますまい。それどころか、こちらの協力に感謝するとして、驚くほど大量の貢ぎ物などを持ってきそうです」
そう推測を語った。
聞いた養静は、また笑って。
「受け取れば余所から妬まれ、受け取らねば将兵が不満を募らせることになるか。まるで手玉に取られているようでシャクであるが、そのような反感さえ、馗国にとっては計算のうちかも知れん」
そう言った。
「まぁ、貢ぎ物には返礼品という形でこちらも誠意を見せれば、周囲からの嫉みは回避できましょう」
養嘉も言う。
「フフッ──。そして文国と馗国の絆は更に深まるか・・」
養静は弱く笑いながら言った。
腹積もりがどうであれ、友好を深める姿は両国の民、とりわけ文国民にとっては好意的に映るはずで、そのような国民感情は、時として王権さえ凌ぐ力を持つことがあった。
それは群臣たちにも理解できることで、彼らは馗国の底知れぬ姿に気付き、言葉を失った。
「だから私は言うのよ。馗国に比べれば、謳や礼など恐るるに足りんと・・」
文国の高官たちの中には馗国のことを侮る者もいたが、この時よりその認識は改められた。




