第67話 撤兵
孔丘が落ちた。
その知らせに馗国攻めの総指揮をしていた将軍は愕然とした。
──まさか春国が動くとは・・
彼の、いや、礼国の人間にとって春国の存在は完全に慮外であった。
礼国から見た春国は、圧せば折れるような国であり、はっきり言って腰抜けの集まりであった。
此度の馗国侵攻でも、馗国東部が礼国の支配下となれば春国も文国同様不利益を被るにも関わらず、彼らは座して何もしない者であり続けた。
その臆病者が、自分たちの首都を陥落させたという。これに驚かぬ礼国人はおらぬであろう。
──やはり小細工などするべきではなかったのだ。
将軍は思う。
因循たる春国を動かしたのは、鬼才養嘉で間違いない。しかし、それはあくまで切っ掛けに過ぎない。
萩家軍の存在。
──あれこそが春国の僅かな残り火のような闘争心に榾をくべたのだ。
緒戦を制することができたのは萩家の裏切りがあってこそで、補給が滞っても問題がないのも、萩家のお陰であるから、その点に関しては感謝している。
しかし、萩家がいなければ春国は傍観していただろうし、文国が春国を焚き付ける策を思いつくこともなかったであろうと思われた。
萩家の抱き込みを主張したのは宰相を中心とした一派であり、彼らの発言力は強く、それを覆すだけの意見も出なかったため、策は採用された。
将軍としては決定に従うのは当然の事としても、戦場以外のやり取りが、勝敗に直結しそうなことに不安を感じてた。こちらが有利になる調略があるなら、逆もまたしかりと思えたのだ。
──盤上の遊びのような事をするから、同じようにひっくり返される。
早い話、将軍は今回の侵攻作戦を、端から気に入らなかった。
さはさりながら、今は恨み言を唱えても仕方がないのも事実。
将軍は佐官以上を集め、緊急の軍議を開いた。
「三日前の時点で、春国軍は孔丘を三千で占拠。文国軍はゆっくりと北上し、これは帰還するものと見られる。味方は亜丘に四千で拠っているが、千程度では奪還できる兵力差ではないし、なにより士気が下がっているようだ」
「王族の方々は?」
「陛下は今は亜丘におられるが、何人かは行方が知れぬ。春国軍に捕まった可能性が高い」
「こちらでの戦闘継続は不可能でしょう」
「当たり前だ。春国が増援を出すかも知れず、文国も再編成して北部を取りに来る虞もある」
「撤退戦ですが、ゆっくりしていると馗国にも知られることとなりましょう。そうなれば帰さぬように食らい付いてくるかと」
「かといって急いで戻ろうと敵に後ろを向けても同じ事だ」
「ここは春の親戚に殿を任せては如何でしょう」
「なるほど、我等が退けば連中に居場所はなくなる。礼国に来たければ追撃を凌げということか」
「いや、当てにすべきではない。今はまとまっているが、敗北となれば分裂したり離反するものが出る可能性もあるだろう。殿のような要所は人任せにせんほうがよい」
急いで国に戻る必要はあったが、気を付けなければ撤退時に痛撃を受けるかも知れず、そうなると首都奪還戦も厳しくなるゆえ、如何にそれを回避するかで皆は頭を悩ませた。
そんなとき、萩家軍から敵基地を奇襲するため作戦に参加できないとの連絡が来た。
──どういうことか?
「もしや、孔丘が落ちたのを知ったのではありませんか?」
「いや、それならその情報を手土産に馗国に降伏すれば済む話だ」
「罠──。ならば、こんな意味不明なことはしないか・・」
「萩家が本気なのか、これが策略なのかわからんが、これで我等のとる道は決まったのではないか」
「全速で逃げるということですか?」
「まて、どういうことだ?」
「たとえ何かの罠でも、即逃げる事でそれを回避できるのではないか。本気ならば、萩家軍の存在が馗国の注意を引いてくれるから、我等が逃げたとしても、馗国は何か策があるのではと勘ぐって動かぬかも知れぬ。という事だ」
「ああ──。消えた萩家軍と撤退する我等を関連づけて追わぬということか・・」
「たしかに挟撃でも待ってそうではあるな」
「しかしそうなると、我等が萩家を見捨てたような形になりませんか」
「国を失えばそれどころではあるまい」
「この期に及んでは、どのみち急ぐしかない。たとえ薄情だと言われてもな・・」
礼国軍は即座に撤収する事を決めた。
顔家軍が直接仕掛けてくることはなくなった。
彼らは呼延吹軍ではなく、謳国軍の本隊の方へちょっかいを出すようになった。
そこで呼延吹軍は歩兵だけ本隊の戦いに参加させ、騎馬だけで顔家軍の騎兵を牽制することを始めた。数の不利はあったが、激しいぶつかり合いは向こうも避けるようで、百騎だけでも十分事足りた。
「果たして、呼延吹様を恐れているようですね」
「漸く自分の戦いを掴んだというのに、こうも戦いを避けられると、焦燥を禁じ得ません」
于鏡の言葉に、弱く首を振って呼延吹は応えた。
「此方の土俵には乗りたくないと敵が思っているならば、それは既に我等が自分の戦いをしているということです。はっきりとした成果は見えずとも、上出来の戦いと言っていいでしょう」
于鏡はそのように言った。
「なるほど──。私はまだまだ若輩のようです」
「はい──。ですが、それはこれから幾らでも成長できるということです」
「そうだといいです」
と、呼延吹は返したが、それでも焦りはあった。
彼女は新たなスキルを得たが、それだけであの剣と槍の女に勝てるとは思っていない。もっと経験を積んで技を磨き上げたいと考えていた。
今、戦局は謳国軍が優勢に進めている。
このまま行けば、敵は戦線を後退させなければならなくなる。いや、勢いがつけば一気に坎門まで迫れるかも知れない。
だからこそだ──。
馗国側が、この局面をひっくり返すために、あの精兵部隊を投入してくる可能性がある。
呼延吹はそう考え、気持ちが焦れていたのだ。
この日、呼延吹は顔家軍を完全に抑え込み、その間に謳国軍は馗国軍を大きく押し込んだ。
翌日──。
馗国軍はその姿を消していた。
戦線の維持を困難とみて、夜中に後退したと思われた。
謳国軍としては待ちに待った展開だ。敵の迎撃態勢が整わぬうちに坎門まで侵攻する。将軍以下、皆が等しく思っていた。
しかし──。
本国からの知らせに、彼らは困惑した。
『国王陛下登霞』
登霞とは霞となって天に昇るの意。即ち、謳国の王が死んだという報である。
亡くなった王は呼延吹のすぐ下の弟で、即位以来病に罹り長く臥せっていた。
王になった者は、当然の事ながら史書に名を刻まれる。
しかしそれは、功績を残した者は称えられ、そうでない者は蔑まれるという理不尽な舞台の見世物になることであり、名を残した者は、そこから逃れる術を持たない。
ある意味、歴史とは彼らにとっての牢獄であり、如何に美名を残せるかが重要になってくる。
上級武官たちの中には、王の事を幼い頃から知る者達も多く。
彼らは此度の侵攻に於いて。
──王の在位の内に馗国の一部を手に入れたい。
という思いを持っていた。
王が幽界にて恥を掻かず済むよう、後世心ない侮辱を受けぬよう、王の業績を残したかったのだ。
しかれども、そのどこか健気な願いは叶わぬこととなった。
では侵攻軍としてどうするのか。
この判断は難しかった。
国は、喬太后がいるのでその機能が失われる事はない。このまま侵攻を続けても、それ自体は問題が無いと思われた。
しかしながら、隣の文国や湯国を見るに、世継ぎをめぐって乱が起きたという事実があり。次の国王候補である呼延鼓はまだ子供で、幼君を認めぬといった声も予測された。
これらを鑑み、将軍は、大佐二名と呼延吹、そこに特佐であり王家とも関わりの深い于鏡を加えて五人で話し合った上で、今後の方針について決を採った──。
謳国軍は、敵のいなくなった戦場を背にして、ゆっくりと帰国の途に就いた。




