~ 終ノ刻 贖罪 ~
N県警火乃澤署。
岡田肇は署にある喫煙所で、独り煙草をふかしていた。
ここ数日、町を震撼させた猟奇殺人事件は、犯人の変死という形で幕を閉じた。廃屋での戦いが終わった後、とり憑かれていた男が目覚めることはなかったのだ。
男の身元を確認したところ、やはり行方不明となっていた会田幹夫に間違いはなかった。だが、伸び放題に伸びた髪と爪や、口が耳まで裂けた理由を説明できるものはいないだろう。遺体は初美が検案することになったが、さすがの彼女でも原因を突き止めることなどできはしまい。
「こりゃあまた、今日辺り初美ちゃんの自棄酒に付き合わされるのを覚悟しなきゃならんかな」
そんな事を口走りながら、岡田は天井に向かってふっと白い煙を吐いた。
会田幹夫の肉体までもが化け物じみた姿になった理由。それは、彼に憑依した化け物のとり憑き方にあったようだ。
紅の話によると、あれは同化型というタイプの憑依だったらしい。憑依対象の魂と完全に融合してしまうものらしく、切り離す術は基本的に存在しない。だからこそ、紅は化け物と化した会田幹夫の魂そのものをこの世から滅したのだ。それ以外に、あの化け物を止める方法などなかったのである。
紅からこの話を聞いた時は、岡田も思わず講義した。いくら凶悪な犯罪者とて、命まで奪ってよいものではない。そう考えてのことだったが、今では少し考え方も変わっている。
会田幹夫にとり憑いていた化け物は、四国地方では八つ頭という名で恐れられていた。女の心臓を糧として力を蓄え、最大で八本の頭を持つ怪物となる。今回は被害者が三人だったから、化け物の頭も三つしかなかった。つまり、実際には半分以下の力しか取り戻せていなかったのだ。
だが、八本の頭全てが力を取り戻していたならば、さすがの紅も苦戦は免れなかっただろう。それに、川添麻衣や三人目の犠牲者となった女性のことを考えると、やはりあの時に化け物を退治しておいてよかったと思うのだ。
米倉晴美以外の女性は、会田幹夫とは何の関係もない女だった。しいていえば、その外見が米倉晴美に似ていたということくらいだ。
一見して他愛のない共通点に思われるが、実は極めて恐ろしいことでもある。化け物の嗜好が会田幹夫のそれと一体化していたのは言うまでもないが、彼が恋心を抱いていたのは米倉晴美だけである。つまり、意中の標的を仕留めた後は、単に会田幹夫が好むような外見をした女性を狙っていたということになるのだ。
事件の解決が長引けば、米倉晴美に似た雰囲気を持った女性が次々と無差別に襲われていた可能性もある。それに気づいたときは、さすがの岡田もぞっとした。下手をすれば事件は迷宮入りとなり、おまけに伝説の化け物が現代に蘇っていたかもしれないのだ。
「しかし……まったくもって、不可解な事件だったな。昨日の夜に見たものは、本当に現実だったんだろうかね……」
昨晩のことは未だ信じられない部分があるものの、それでもあんなものを目の前で見せ付けられれば信じざるを得ない。残念なのは、自分たち警察が化け物に対して全くの無力だったということである。
どこか煮え切らない気持ちを抱えたまま、岡田は残り僅かになった煙草を灰皿に押し付けた。喫煙所を出るために、その場でスッと立ち上がる。
「おや、岡田君じゃないかね?」
そう言って現れたのは、岡田よりも更に年配の小柄な刑事だった。突然の訪問者に面食らい、岡田は少々驚いた様子でその刑事を見た。
「秤屋さんじゃないですか。詐欺事件のベテランが、俺に何か用ですかい?」
岡田の前に現れたのは、秤屋甚助。主に詐欺事件を中心に解決してきたベテランで、これまでも多くの宗教団体絡みの詐欺事件を扱ってきた男だ。
「いやあ、聞いたよ岡田君。例の猟奇殺人事件、君が解決したってね」
「よしてくださいよ。俺が見つけたのは、変死したホシの体だけです」
本当のことを話しても信じてもらえないだろう。そう思った岡田は適当にはぐらかそうとしたが、秤屋は何かを探るような視線をこちらに向けてくる。
「まあ、そう謙遜することもあるまい。今回の犯人は、何でも物凄い化け物だったそうじゃないか」
「まあ、化け物ってのは確かですがね……」
「検案を受け持った女医さんが、わけが分からないとぼやいていたよ。まあ、世の中には人間の科学なんてもんじゃ説明がつかないような事もあるからね」
懐から煙草を取り出して、秤屋もそれに火をつける。最近の若者が愛用するライトやメンソールではなく、昔ながらのハイライトだ。
「なあ。岡田君」
口に含んだ煙を思わせぶりに吐きながら秤屋が尋ねた。
「今回の事件で、君は妙なものを見たんじゃないのかね?」
「妙なもの?」
「そうだ。およそ、まともな人間の頭では理解することのできない、もう一つの世界を垣間見たんじゃないかと思ってね」
その言葉を聞いた岡田の表情が、にわかに険しくなった。
秤屋の担当は、主に詐欺などの知能犯相手である。今回の殺人事件は岡田と工藤が中心となって操作を行っており、秤屋に細かな情報が行くということは考えにくい。
ならば、秤屋はどこで今回の事件の情報を得たのか。それ以前に、なぜ自分が奇妙な体験をしたことを知っているのか。温厚そうな顔の裏に隠された何かを感じ取り、岡田は思わず顔をしかめた。
「秤屋さん。あんた、何を知っているんですか?」
「いや、申し訳ない。おかしなことを聞いてしまったようだが、気にせんでくれ。君の部下が、事件が終わった後に妙な話を同僚にしていたのを耳にしてね。少々気になったので、私も聞かせてもらったんだよ」
「工藤……! あの、おしゃべりめ!!」
「まあ、そう言うな。工藤巡査部長の話なんぞ、他の人間は半信半疑にしか聞いちゃいない」
立ち昇る煙の奥で、秤屋が再び探るような視線を送ってきた。
「で、どうなんだい? 今回の事件で、君も何か妙なものを見たんじゃないのかね?」
「ええ……。まあ、見たっていやあ見たことになるんですかね。もっとも、俺は今でも自分の頭がおかしくなったんじゃないかって思ってますけどね」
「それが普通の人間の感覚だよ。私も、昔はそうだった……」
「昔は?」
どこか遠くを見つめるような目で、秤屋は煙草の煙をふかしながら呟いた。
今回の事件と秤屋の昔話に何か関係があるのか。秤屋の意図が今ひとつ分からない岡田であったが、ここは黙って老刑事の話に耳を傾けることにする。
「私は主に詐欺事件の担当として、宗教がらみの犯罪に多く関わってきた。それは、君も知っているだろう?」
「ええ。主に、ご老人の信仰心を利用した催眠商法や霊感商法、マルチ商法なんかの中でも、特に悪辣なものを相手にしてきたと」
「そうだ。私が相手にしてきた連中のほとんどは、神だの霊だの仏だのといったものを利用して私腹を肥やすようなやつらばかりだった。だが、刑事として何年もそんな輩を相手に仕事をしているとね、たまに大穴を引いてしまうこともあるんだよ」
「大穴?」
「ああ。宗教関係の話を持ち出して詐欺を働く連中は、その殆どが嘘っぱちの教祖様だ。だがな、そんな奴らの中に混ざって、たまに本物が紛れ込んでいることがあるんだよ」
「本物……ですかい?」
秤屋の言った言葉の意味が判らずに、岡田は思わず聞き返した。宗教関係の詐欺事件など、所詮は似非教祖が自分の私利私欲のために他人の信仰心を利用しているに過ぎない。ならば、秤屋の言う本物とは何か。まさか、本当に神仏に通ずる力を持った人間が違法な行為で金を儲けていたとでも言うのだろうか。
「私が過去に扱ってきた事件の犯人の中には、明らかに本物の力を持っている人間が存在した。およそ信じられんことだが、奴らは神だの霊だのといった我々の理解を超えたものと通じ、その力で人々を不幸に陥れることを生業としていた」
「にわかには、ちょっと信じがたい話ですね」
「無論、そう思うのが普通だ。だが、その力を目の当たりにすれば、否が応でも認めざるを得ない。そういった力を持つ者に対し、警察の力など極めて無力であるということにね」
それだけ言うと、秤屋の口から溜息と共に白い煙が吐き出された。手にした煙草の灰を落としながら、秤屋はさらに話を続ける。
「まあ、それでも世の中ってやつは、なかなかどうして上手くできているものでな。妙な力を使って犯罪に手を染める者がいれば、必ず抑止力ってのが働くようにできているらしい」
「抑止力?」
「そうだ。詳しく話せば長くなるが、この署へ配属される以前にいた場所で、私は大穴を引き当ててしまったことがあってな。最初は単なる詐欺事件だと思っていたが、ついには人が変死する惨事になってしまった。事が大きくなったために署の人間が総出で捜査に当たったが、殺人の証拠はおろか、詐欺の証拠さえ見つからない。どうにも八方塞になったとき、私の前に、その抑止力が現れたのだよ」
「そいつはまた、随分と興味深い話ですな。で、その抑止力ってやつはどんな人間なんです?」
「それは、君が一番良く知っているのではないかね? 今回の事件を解決するに当たって、君もその抑止力に会ったのではないか?」
秤屋が、またも探るような視線を送ってきた。昨晩出会った犬崎紅という少年の姿を思い出し、岡田は躊躇いながらも首を縦に振っていた。
この老刑事は、事件の裏で動いていたものについて何か知っている。昨晩のことは夢と思って忘れてしまえば気が楽にはなるだろう。が、それではどこか納得のいかない部分が残ってしまう。自分の関わった事件に関してしこりを残したまま終えるのは、岡田にとっても不満なことだった。
「俺が見たのは、妙な術を使う高校生くらいのガキでしたよ。変に古めかしい服を着て、札みたいな布でぐるぐる巻きにされた刀を持っていやがった。目が赤くて、外人みたいな髪の色をしていましたね」
「なるほどね。まあ、私が会った事のある人物とは似ても似つかんが、恐らくは同じようなことを生業にしている人間だろう。我々では手を出すことのできない、向こう側の世界の住人を相手にしている連中だ」
「向こう側の世界ですか。それは、あの世って考えればいいんですかね?」
「まあ、大雑把な言い方をすれば、それで間違いはないだろうね。ただ、それ以上に、私は彼らから聞いた言葉が印象に残っているんだ」
「言葉、ですか……。そいつはいったい、どんなものなんで?」
そう尋ねる岡田に向かって、秤屋は煙草の先を押しつぶしながらにやりと笑った。まるで、この言葉を言いたかったがために、岡田に話を持ちかけたと言わんばかりの表情だ。
「彼らは私にこう告げたよ。心病みし者が向こう側の世界にふれた時、病みは闇となり現実を侵食する、とね……」
「ヤミがヤミになる? なんかの謎かけですかい?」
「いや、そんな難しい話じゃない。何かの原因で心が病んでしまった者、荒んでしまった者が、向こう側の世界の住人と関わりを持つ。そうすると、心の病は闇となって現実の世界にあふれ出てくる。呪いだとか祟りだとか……そういったものの原因は、殆どが人間の心がもたらすものだ。そういうことだよ」
「なるほど。確かにそいつは言い得て妙だ」
ここにきて、岡田は始めて秤屋の話に納得したように相槌を打った。
犯罪者になるものは、生まれながらにして犯罪者だったわけではない。ただ、人生を送る中で何かを間違え、その結果生まれた歪んだ心が人間を犯罪に駆り立てるのだ。
罪を憎んで人を憎まず。なかなか難しいことではあるが、犯罪というものに向き合うためには必要な考えである。そして、呪いや祟りなどといったものに関しても、それは当てはまる部分があるのだろう。
他人を呪い殺してやりたいと思うほどの強い憎しみを抱いたり、神の祟りを受けるほどの罪を平気で犯したりしてしまう裏には、荒みきった人間の心というものが関係しているのだ。
「なあ、岡田君……」
吸殻を灰皿の奥に始末しながら、煙草を吸い終えた秤屋がゆっくりと立ち上がる。
「私は時々恐ろしくなるんだよ。この国は、昔と比べても酷く病んでいる状態にある。その病んだ心が闇になって表に溢れ出て来たとき、誰にも止められないような恐ろしい事態が起こるのではないのかとね」
「国が病んでいる? まあ、確かに最近のガキどもを見れば、そいつも頷けるってもんですがね」
「いや、子どもだけじゃないよ、岡田君。神や仏なんかと人間が一緒に暮らしていたのは、とうに忘れ去られた過去の話だ。今の日本、子どもはおろか大人たちまで神だの霊だのといったものに対しての信心を失ってしまっている。向こう側の世界のものに対する畏怖だの尊敬だのといったものを、とっくの昔に失念してしまっているんだよ」
「そう言われりゃあ、確かにそうかもしれませんね。俺がガキの頃は、悪いことをしても神様はちゃんと見ているとか、仏様の罰が当たる、なんて婆ちゃんから言われたもんだが……今時の若い人間は、そんな話なんぞ鼻で笑い飛ばしちまうでしょうからね」
「その通りだよ。神をも恐れぬ人間が病んだ心で欲望のままに動いた時……今回のような事件がたくさん起きるんじゃあないのかね? 私は、それだけが不安でたまらん……」
そう言うと、秤屋は背広の皺を軽く直すような仕草をして、岡田を残し部屋を後にした。喫煙所に独り残された岡田は、しばし秤屋の言ったことを頭の中で反芻してみる。
今回の猟奇殺人事件の犯人は、会田幹夫という大学生だった。ストーカー行為で警察から厳重注意を受けていたような人物で、紅の話では盗掘紛いのことをして化け物の封印を解いたらしい。
自分の欲望に忠実な反面、モラルなど欠片も持ち合わせていないような現代の若者の一例だ。それが太古の昔より封じられていた忌まわしき存在に触れた結果、現代に古の呪を解き放つことになった。
悪霊の呪いや祟りなどは、過去の人間が生み出した妄想に過ぎないといわれている。しかし、本当にそうだろうか。
神仏や霊魂などといったものに畏敬の念を抱いていた時代には、今回のような形で闇が表に現れることは少なかったに違いない。それは、太古の昔から今に至るまで会田幹夫にとり憑いた化け物が封印されていたことからも窺える。
だが、秤屋の話していた通り、現代の社会はそういったものに対する信心をほとんど失ってしまっている状態だ。加えて現代人が心に抱えている病もまた、昔とは比べ物にならないほど大きいのではないだろうか。
誰もが心に病を抱え、それが闇へと変わってあふれ出す可能性のある時代。秤屋の言っていたことを思い出しながら、岡田は妙な後味の悪さを覚えて喫煙所を後にした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
九条神社。
照瑠の家でもあるその場所で、犬崎紅は九条穂高を前にしていた。
「このたびは、娘の命まで救っていただいたようで……。私が不甲斐ないばかりに、随分とご迷惑をおかけしたようです」
「いや、それを言うなら俺も同じだ。そもそも、トラブルを持ち込んだのはこちらの方だからな。あまり感謝されても困る」
「そう言っていただけると、こちらとしても助かります」
「当然のことを言ったまでだ。今回の件、あんた達はただ巻き込まれただけだからな」
そう言いながら、紅は鎖状に繋がれた古い勾玉を取り出した。暗緑色の勾玉が、合わせて八個繋げられている。会田幹夫が山中の祠から奪った、八つ頭を封印していたものだ。
「迷惑をかけてしまった代わりと言ってはなんだが、こいつを渡しておこうと思う。この家のご先祖様が作った賽の結界よりも力は落ちるが……分割して八卦の陣を張るのに使えば、それなりに陰の気が流れ込むのを防ぐことはできるはずだ。陣を張るのは、俺の方でやっておこう」
「それは、それは……。さぞかし貴重なものでしょうに、申し訳ない限りです」
紅からの思いがけない申し出に、穂高は改めて頭を下げた。照瑠の力を完全なものにするには、それなりの時間が必要だ。その間、少しでも土地に流れ込む陰の気が弱められるのであれば、これほど助かることはない。
「それじゃあ、俺はこれで失礼させてもらうぞ。手配しておいた人間は、明日か明後日にはここを訪れるだろう」
布を巻いた刀と古ぼけた皮袋を手に、紅はそれだけ言って立ち上がった。全ての仕事が終わった今、この土地に残る理由は何も無い。
ところが、そんな紅の考えとは反対に、穂高は今まさに立ち去ろうとする紅を引き止めた。この期に及んでまだ用があるのかと、紅は怪訝そうな顔をして穂高を見つめる。
「何だ? まだ、俺に何か用があるのか?」
「ええ。娘の話を聞いたところ、あなたは随分と強い力をお持ちのようですね。私事で申し訳ないのですが……一つ、私からも仕事を頼まれていただけないでしょうか?」
「そういうことか……。だが、引き受けるかどうかは仕事の内容と報酬次第だな。割に合わない仕事なら、残念だが他を当たってもらうことになる」
「それは、こちらも承知しています。ですが、私にも引けない理由というものがあるのです」
笑顔の裏に、確かな決意を秘めた表情だった。そんな穂高の顔を見て、紅は仕方なく席に戻る。仕事の内容が何かは分からないものの、目の前の男が強い意志を持って頼み込んでいることだけは確かだ。
「それじゃあ、あんたが言う仕事の内容を聞かせてもらおうか?」
「はい。私があなたにお願いしたいこと。それは……娘の照瑠に関係することです」
「この神社の後継者になる、あの巫女か」
「ええ、そうですよ。あなたも向こう側の世界に通じる人間ならご存知でしょう。力を持った者が一度でも向こう側の世界に触れれば、その世界の住人とも互いに引き寄せあう関係になるということ……。そして、力の使い方を十分に分からない者が闇に触れた場合、自らもまた闇に飲まれてしまう危険があることを……」
「ああ……。それは、俺も嫌というほど知っている……」
向こう側の世界に触れる力を持った者は、一度でもその世界に足を踏み入れれば逃れることはできない。それは、闇を相手に戦いを続ける紅自身が最もよく知ることだった。
人間の心というものは、本人が思っている以上に弱く脆いものだ。九条照瑠は次代の巫女として十分な素質を持っているようだが、あくまでそれは素質でしかない。
この土地に流れ込む多くの穢れ。それに晒され続けたとき、果たして彼女が自らの心を保ち続けることができるであろうか。
目に見えぬ心の闇というものは、人間の想像をはるかに超えた底知れぬ深さを持っている。最初は針の先ほどしかない淀みかもしれないが、それは時をかけて徐々に醸成されてゆく。時計の秒針が進むよりも短く、本人さえも気づかないような速度でゆっくりと、しかし確実に心を蝕んでゆくのだ。そして、病みが闇として溢れたとき、人は自らの力でそれを止める術を持たないのである。
互いに沈黙したまま、時間だけが過ぎていった。
穂高の言いたいことは紅にも分かる。娘が闇に引き込まれぬよう、巫女としての力を完全なものとするまで守って欲しいということだろう。この土地を守る神社の神主として、そしてなによりも父親として、それは至極当然の感情だ。
赤い瞳を閉じたまま、紅は何も口にすることなく考えた。自分が闇と戦うことを決意した理由。それを今一度思い出しながら、やがてゆっくりと目を開く。
「そちらの言いたいことは分かった。あんたの娘が巫女の修行を終えるまで、陰の気や穢れと共にやってくる闇から守る。それで構わないか?」
「いやはや……こちらが皆まで言う必要はなかったようですね。あなたが聡明な方で、私もほっとしましたよ」
「こっちも、伊達にこの仕事をしているわけではないからな」
「いや、まったくですね。では、交渉成立とゆきたいところですが……お仕事の報酬に関しては、後払いにさせていただけませんか? なにぶん、こんな田舎町の神社なもので……まとまったものは何も……」
「いや、それはいい……」
穂高が報酬について話し終わる前に、紅はその言葉を強い口調で遮った。あまりに意外な申し出に、さすがの穂高も眼鏡の向こうで目を丸くしている。
除霊や退魔といった形のないものを扱っているとはいえ、仕事は仕事である。そこにはしかるべき報酬が発生するはずなのだが、紅はそれを断った。
穂高からすれば、紅は照瑠とさほど年齢も変わらない少年である。しかし、その歳で一人前に仕事をこなせるということが、逆に紅が紛れもない一流の退魔師であることを物語っていた。そんな彼が無報酬で仕事をするなど、普通では考えられない話である。
「本当に、報酬はよろしいのですか? こちらとしては助かりますが……それでは、あなたが困るのでは?」
「構わないと言っている。俺にとって、あんたの仕事を引き受けるのは個人的な理由があるからだ」
「個人的な理由ですか……。まあ、それに関しては、私も立ち入った話はしないでおきましょう」
「賢明な判断だな。あんた、お飾りの神主にしておくには勿体無いぜ」
自分が照瑠を守るという仕事を引き受けた理由。それは紅自身の過去に対する贖罪でしかない。
生まれながらに強い力を持ちつつも、その力を正しく操る術を知らず、最後は闇に飲まれて人でさえなくなった。そんな人間を知っているだけに、紅にとっては照瑠のことが他人事のように思えなかった。
初めて闇と対峙したあの時、自分はあまりにも無力だった。助けたい者を助けることもできず、ただ翻弄されるだけだった。
いくら悔やんでも償いきれない過去の記憶。紅の心の中にだけ刻まれた、忘れたくても忘れられない大きな傷跡。照瑠を守ることでその咎が少しでも軽くなるのであれば、紅にそれを拒む理由は無い。
人は、誰にも明かせない心の暗部を持っている。今はまだ、それを語ることはないだろう。だが、過去の行いに対して贖罪をせねばならないのは確かだ。自分が向こう側の世界で戦うことを決意した理由は、過去の罪を清算するためでもある。
「それじゃあ、俺はこれで失礼するぞ。しばらくは、この街に滞在することになるだろうからな。できればどこか、空いている土地を紹介してくれると助かるが……」
「それは構いませんよ。私としては、この家の空き部屋を使っていただいても構わないのですが……」
「いや、それは遠慮しておこう。あんた達のような表の世界にも通じている人間とは違って、俺は根っからの外法使いだ」
「外法……ですか? つかぬ事をお聞きしますが……あなたはもしや、憑きもの筋の関係者で?」
外法。それは、仏教や神道といった宗教の教えから外れた、言わば禁忌の法とされるものである。東洋の呪術や西洋の黒魔術など、一般的に見て人道に外れた闇の力というわけだ。ほとんどは他者に害をなすためだけに用いられるが、同時にその力は極めて強い。自在に操ることができれば、それは一転して魔を祓う力ともなる。
毒を持って毒を制す。その諺の示す通り、闇には闇をぶつけて祓う者がいる。穂高も噂に聞くだけであったが、まさか目の前の少年がそうだとは。娘の照瑠も生まれながらにして強い力を持っていたが、この少年の潜在能力も底知れぬものがあるのではないか。
「俺の出身は四国だ。四国で憑きもの筋といえば、向こう側の世界に詳しい人間なら見当もつくだろう?」
「なるほど。あなたの家系は犬神筋というわけですね」
「ああ、そうだ。俺は犬崎紅。闇を用いて闇を祓う、赫の一族の末裔さ」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
連日の霧雨が嘘のように、その日の空は遠くまで澄んで晴れ渡っていた。
早いもので、あの廃屋での出来事から、既に一週間が経過しようとしていた。火乃澤町を震撼させた猟奇殺人事件は犯人の変死という形で終わりを向かえ、照瑠の通う学校にも再び平穏な空気が訪れていた。
八つ頭の傀儡とされた長瀬浩二は、数日の入院の後に無事退院した。警察は彼の錯乱した原因を、長らく猟奇殺人犯に監禁されていた精神的ショックであるとして片付けた。本当は違うのだが、何はともあれ傷害や殺人の罪に問われなかったのは救いだろう。
ちなみに、浩二の付き添いで病院まで同行した詩織は、その後も毎日彼のお見舞いに出かけていたらしい。この一件がきっかけで、二人の仲も少しは進んだところまでいったとか。おかげで文芸部の既刊誌に載せる原稿の入稿が締め切り寸前になってしまったが、友達の恋愛を応援したい照瑠としては、そんなことは些細なことだった。
再び戻ってきた平凡な日常。窓から注ぎ込む眩い朝日は教室を優しく照らしている。
「おはよう、照瑠!!」
手にした学生鞄を机の上に放り出し、嶋本亜衣が照瑠の顔を覗き込んだ。こういう時の亜衣は、何かしら妙なことを企んでいることが多い。もしくは、何か新しい都市伝説の話題でも仕入れてきた時のそれだ。
朝から頭が痛くなりそうな照瑠だったが、ここは友達である。話だけでも聞いてあげようと、照瑠も苦笑しながら耳を貸す。
「どうしたの、亜衣? また、何か妙な噂でもつかんできた?」
「ふっふっふ……。今日は、いつもの都市伝説とは一味違いますよ、照瑠殿」
「なんか、随分と勿体ぶった言い方ね。まさか、また肝試しでも企んでいるんじゃないでしょうね?」
「そんなんじゃないよ。実はねえ……」
意味深な含み笑いをしながら照瑠の前の席に座る亜衣。が、彼女がそこまで言った時、無情にも始業のチャイムが鳴り響いた。ホームルームの時間となり、担任が教室に入ってくる。残念だが、どうやらここで時間切れらしい。
生徒達が着席したことを確認し、担任が慣れた手つきで出席をとってゆく。退院した浩二も含め、今日は久しぶりに欠席者がいない。
普段なら、ここで担任からの連絡があって終わるホームルーム。しかし、その日のホームルームは少しだけ勝手が違っていた。
「突然だが、今日は君達に転入生を紹介する」
担任の教師から発せられた言葉に、にわかに教室がざわつき始める。照瑠と亜衣も例外ではなく、担任そっちのけで話を始める。
「ねえ、亜衣。この時期に転入生って、いったいどんな人だろうね」
「ふっふっふ……。実は、私は先に知っちゃったんだけどね。さっき言おうとしてたのは、そのことだよ」
「そうなんだ。で、どんな人?」
「それがねえ……。私達も、既に知っている人なんだよね……」
亜衣がそこまで言った時、担任の教師の声が教室に響いた。転入生が入ってくるので、まずは静かにしろということらしい。
教室にいる全員の目が、手前のドアに集中する。ガラッという音がして扉が開き、学生服を着た少年が姿を現す。
「なんだ、あの髪……。外国人か?」
「嘘! ちょっと、かなりのイケメンじゃん!!」
教室に入ってきた少年を前に、生徒達はそれぞれが好き勝手に感想を言い合った。あまり浮世離れした少年の容姿に、皆驚きを隠せない様子だ。
だが、そんな生徒達の中でも一際驚きを隠せないでいたのは、なにを隠そう照瑠自身に他ならなかった。白金色の髪と真紅の瞳。それは照瑠にとって、忘れようにも忘れられないものだったからだ。
「犬崎紅です。よろしくお願いします」
慣れない敬語を使うことに多少の躊躇いを見せながら、少年は生徒達に向かって軽く一礼をした。