~ 六ノ刻 闇祓 ~
山の廃屋へと続く林道の周囲は、今やパトカーや救急車でごった返すちょっとした騒ぎの場となっていた。
騒ぎの中心となったのは、当然のことながら鉈男こと長瀬浩二である。女子高生三人を相手に見境なく鉈を振り回し、さらには巡回中の警察官にまで襲い掛かったのだ。その格好が例の猟奇殺人事件の犯人と酷似していることもまた、騒ぎを大きくした要員の一つであった。
あれだけ探して見つからなかった猟奇殺人犯の確保。その正体が未成年者であるということも相俟って、現場にかけつけた刑事達も難色を示している。
どれほど異常な犯罪であれ、未成年の犯行ともなれば裁くのは難しい。その上、確保された時点での少年は、驚くほどに衰弱していたのだ。それこそ、まるでここ数日間は水しか口にしていなかったかのような、酷いやつれ様だった。そんな体で鉈を振り回し、さらには三人もの女性の命を奪ったとは考え難い。
「しかし、驚きましたねぇ……」
気を失い、救急車に運ばれてゆく浩二の姿を横目に、現場にかけつけた工藤が言った。救急車への付き添いは一人しか認められないため、今は詩織が同行している。
「まさか、あの猟奇殺人事件の犯人が子どもだったなんて……。こりゃ、いよいよ日本の社会も終末に近づいているってことですかね、岡田さん?」
「なんだ、工藤。お前、まさか本当に、あのガリガリの高校生が今回の事件の犯人だったと思ってやがるのか?」
「えっ、違うんですか!? だって、犯人の目撃情報にあったレインコートの男の特徴とぴったり一致しますし、あの子が行方不明になったのだって、事件の起きた日と一致するでしょう? それに、あんな鉈を持ってクラスメイトの女の子を襲うなんて、正気の沙汰じゃあないですよ」
「確かにな。だが、あの小僧が行方不明になったのは、米倉晴美が殺された翌日の朝だぞ。それは、他でもないお前が聞き込みで集めてきた情報だろうが」
「あっ……!」
「それに、今までの被害者はその全員が、首筋を噛み千切られて死亡しているんだ。少なくとも、鉈なんてもんを凶器には使っていない。後は、小僧に襲われたクラスメイトや、それを助けようとした巡査の証言だ。そっちの方も気になるんでな」
そう言いながら、岡田は事件現場より少し離れたガードレールのところに佇む一人の少年に目をやった。
時代錯誤な衣装に脱色したかのような白い肌。梵字の書かれた布を巻きつけた棒を持ち、その瞳は燃える炎のように赤い。現場にいた巡査の話では、鉈を持った高校生を止めたのは他でもないその少年だったそうだ。
暴走した凶悪犯の逮捕に善意ある一般市民が協力する。それだけなら、特に変わった話ではない。珍しいことには違いないが、常識で理解できる範疇のものである。
だが、現場にいた巡査から聞いた話は、岡田の常識をはるかに超えたものだった。
鉈を持った少年が、やつれた顔のままこちらに迫る。ホラー映画のゾンビの如く、その顔にはおよそ人間の意志というものが感じられない。思わず発砲しそうになったものの、それを止めたのは影のような塊と奇妙な格好をした少年だったという。
その後、少年と影は協力して鉈男の動きを封じ、そのまま意識を失わせた。その際に、鉈男の口から乳白色の粘液のようなものが吐き出されたという。それは犬のような形になってこちらを見ていたが、すぐにもとの不定形な物体となり、そのまま煙のようにして昇天してしまったとのことだ。
これが地元の高校生の話なら、単なる冷やかしと一笑にふしていたところだろう。だが、三人の女子高生はもとより、彼女たちと一緒にいた巡査までもが同様の証言をしているのだ。こうなると、全てが作り事であるとは言い難い部分も出てきてしまう。
やはり、真相を知るには話を聞くしかない。そう思った岡田は意を決し、先ほどからガードレールの近くでこちらの様子を窺っている少年、犬崎紅に声をかけた。
「おい、そこのお前。ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「なんだ、刑事さん。悪いが、ここで起きたことは全てあの女子高生とお巡りさんが言っていた通りだ。俺は、そっちに話すようなことは何もない」
「ふん、そうかい。だが、こっちもこの街で起きている猟奇殺人事件が、これで解決したとは思ってないんでね。手掛かりを知ってそうな奴には聞けるだけの話を聞く。これは捜査の常識だ」
「そっちの常識がどうだなんてのは、俺には関係ない。それに、俺の知っている話をしたところで、普通の人間に理解できるとは思えない」
そう言って、紅は廃屋へと続く林道へ独り目を向けた。
間違いない。この先に、自分の追い続けてきた標的がいる。相手の気を探ることはできなかったが、この山に渦巻いている霊気は尋常ではない。
木を隠すのであれば森の中、とはよく言ったものだ。これだけの霊気と、この土地全体に流れ込む陰鬱な気。いかに強大な霊気を持った相手でも、こうも辺りに色々な気が漂っていては、それに混ざって分からなくなってしまう。
だが、そんな逃走劇もここで終了だ。敵は確実にこの山の中にいる。あの後、妙に背丈の低い女子高生から聞いた話からも明らかだ。それが分かっているからこそ、むざむざと逃がしてやるほどお人よしではない。
「あんた達が追っている猟奇殺人事件だが……」
岡田と工藤に背を向けたまま、紅は顔だけを横にして視線を送る。
「たぶん、本当の犯人はこの先にいる。だが、そいつは警察の手に負えるような相手じゃない」
「なんだと?」
「今回の事件の犯人は、あんた達の想像を超えた化け物だ。普通の人間の常識は通用しない。だから……俺みたいなのが行かなきゃならないんだ」
伝えるべき最小限のことは全て伝えた。真実を語ったところで、どの道常人には分かるまい。そう思って歩き出した紅だったが、意外にも岡田はそんな彼を引き止めた。岡田の中に疑問となるものが残っていたことも確かだが、それ以上に、どうみても高校生くらいにしか思えないひ弱な少年に言われたことが気に食わないようだった。
「おい、待てよ。俺はお前がどんな人間だか知らんが、随分と警察を馬鹿にしてくれるじゃねえか。こう見えても、こっちは前科何犯もの凶悪犯どもにワッパをかけてきたことだってあるんだぜ」
「あんたも分からない人だな、刑事さん。今度の相手は、まともに手錠なんかかけられる奴じゃない」
「へえ、そうかよ。だがな、俺だって腐っても警官だ。目の前に犯人がいると聞いて、みすみすガキに手柄をやるほどお人よしじゃねえ」
「だったら、好きにするがいいさ。俺の仕事の邪魔をしないのなら、それでいい」
相変わらず愛想の欠片もない口調で紅は言い放つ。その態度に岡田は思わず眉根を寄せたが、ここは怒りをぶつけても仕方ない。
初美の言った口避け女という言葉。三人目の被害者の彼氏が言っていた化け物のこと。そして、三人の女子高生と現場にいた巡査が口にしていた、奇妙な力を使うという少年。
およそ馬鹿らしい、非現実的な発言ではあった。が、それでも岡田は刑事として、真相を突き止めないわけにはいかないと思っていた。そこに待っているものが、人間か否かは関係ない。真実が目の前に転がっているというのに、それを黙って見逃すのは刑事としての責任を放棄することになる。
林道に入ることを渋る工藤を強引に引き連れて、紅と共に廃屋を目指そうとする岡田。これから先、鬼が出るか蛇が出るか。それは行ってみなければ分からない。
だが、岡田がそこまで決意した時、彼らを後ろから呼び止める声がした。見ると、先ほど救急車で運ばれて行った、鉈男の級友たちが立っている。
「お願いです……。私たちも行かせてください……」
そう言って岡田に頼んだのは、他でもない照瑠だった。その後ろには、やはり同じようにしてせがむ亜衣の姿もある。一見して彼女たちは二人の刑事に頼んでいるように見えたが、その視線は彼らではなく、さらにその先にいる紅へと向けられていた。
「悪いが、これは遊びじゃない。命が惜しかったら、余計な首は突っ込まないことだ」
突き放すような口調で、紅は照瑠に言い放つ。が、照瑠もただでは引き下がらない。負けじと紅に食い下がる。
「そうかもしれない……。けど、それでも、このまま何も分からずに、明日から普通の生活に戻れって言われたって……そんなの無理よ! クラスメイトが行方不明になって、次に会ったときは鉈を振り回して襲ってきて……その上、最後はあんなもの見せられたんだから! 私たちにだって、知る権利があるわ!!」
「そうは言っても、お前たちは自分で自分の身を守る術さえないんだろう? 下手をすると、火傷じゃすまない。本当に命を落とすことになるぞ」
紅の赤い瞳がさらに赤く染まった気がした。凄むような口調で言い放つも、照瑠たちもまた怯まない。
「まあ、危ないって事は百も承知だけどね」
照瑠の横で、今度はやけに甲高い声が響く。嶋本亜衣だ。
「でも、この林道は道があるようでないようなもんだから、一度歩いた人じゃないと迷っちゃう可能性もあるよ。だから、連れて行っても損はしないと思うけどな」
我ながら、上手いことを言うと亜衣は思った。
確かに林道は熊笹で覆われ、一見して獣道の類にしか見えない。だが、実際に入ってみれば人の足によってしっかりと踏み固められた後があり、それを頼りに進めば廃屋には必ずたどり着けるのだ。
照瑠と亜衣が、紅と一緒に事の最後を見届けたい理由。それは、巻き込まれた者として真実を知りたいということに他ならなかった。亜衣の場合はその上で、自分が事件の種を撒いたのではないかという罪悪感もある。故に、二人して引き下がるわけにはいかなかったのだ。
この少女たちは、放っておけば勝手に後をつけかねない。そう判断したのか、紅は渋々と二人が同行することを許可した。
敵の本陣へ、その標的をむざむざと入れる。普通に考えれば危険極まりない行為だが、それは同行させる二人の刑事にしても同じことだ。どちらにせよ、対峙するべき相手は人間ではない。無力であるという点は、刑事も少女も変わりない。
それに、敵の狙いが巫女の血を引く少女とわかっている以上、自らその側を離れることも気が引けた。よくよく考えれば、敵の尖兵は鉈男と貸した長瀬浩二だけとは限らないのだ。新たな尖兵を送り込まれた場合、今の自分には少女達を守る術がない。
「まあ、どちらにせよ危険が全て去ったわけではないか……。だったら、俺の側に置いておいた方が安全とも言えるな……」
それは紅の本心から出た言葉だった。尖兵を倒され、敵も自分がここに来ているのに気づいたことだろう。ならば、夜明けを待っていては逃げられてしまう可能性もある。
選択の余地はなかった。
突いて来い、とだけ伝えると、紅は目の前の道を塞ぐ熊笹を掻き分けて林道へと入っていった。亜衣と照瑠もそれに続く。道から外れたら注意をするようにだけ亜衣に伝え、後ろの守りは二人の刑事に任せた。
体と草がかすれるたびに、ザワザワという音が森に響いた。風もなく、湿った空気が森の中を支配している今、草を掻き分ける音もやけに大きく響く。
「ねえ……」
林道に入ってからは、誰もが始終無言のままだった。が、それでも沈黙に耐え切れなくなったのだろう。紅の後ろに続く照瑠がたまらず彼に声をかけた。
「今回の事件の真相、あなたは知っているのよね」
「ああ、そうだ。少なくとも、後ろにいる警察官なんかよりはよっぽどな」
後方から岡田のにらみつけるような視線を感じたが、紅はあえて無視した。
「だが、それを知ってどうする? 下手に踏み込めば、もう後戻りはできないぞ?」
「そんなの……一緒に行くって言った時から、覚悟はできてるわ」
確かにそれはもっともな話だと紅は思った。少なくとも、自分に都合の悪いことからすぐに逃げ出そうとする同世代の人間とは違っている。肝っ玉が据わっているのか、それとも好奇心が強いだけなのか。
まあ、そんなことはどうでもよい。問題は、廃屋につくまでにいかにして事の経緯を手短に話すかである。
「さて……。それじゃあ、何から話したものかってところだが……」
「まず、あなたが何者なのかってのが気になるんだけど」
「長くなるぞ……」
余計な説明は、この際省きたい。そんな紅の意図が伝わったのか、照瑠もそれ以上は何も突っ込まなかった。それよりも、何か他に良い聞き方はないかと考える。
「それじゃあ、この事件の犯人について教えてくれる? 長瀬君をあんなにしたやつって、いったい何者なの?」
「それは、俺も興味があるな」
後ろから岡田が口を挟んだ。刑事として、やはり事件の核心には興味があるのだろう。
「それなら、結論から話そう。今回の事件の犯人は、四国に伝わる伝説の化け物だ」
「四国ぅ? また、なんでそんな場所なんだ?」
「刑事さんがそう思うのも、無理はないだろうな。だが、俺はそいつを四国から追ってここまで来たんだ」
東北と四国。あまりに接点のない話に、岡田だけでなく紅以外の全員が怪訝そうな顔をしていた。しかし、そんな周囲の反応などお構いなしに、紅は淡々とした口調で話を続けた。
「四国には、イザナギ流と呼ばれる神道の一派がある。そこには古来から伝わる化け物の伝説があるんだ」
「イザナギ流? それって、古事記に出てきたイザナギとイザナミのこと?」
胸の近くまで熊笹に埋まりながら、亜衣が紅に向かって尋ねた。
「そっちの小さい奴は、少しは詳しいみたいだな。イザナギってのは、日本神話の中でも最も古い神の一つ。当然、それを信仰する流派もまた、長い歴史を持っている」
「で、そのナントカ流ってやつが、今回の事件と何か関係があんのか?」
岡田が少々苛立った様子で叫ぶ。彼にしてみれば、さっさと犯人を知りたいという欲求の方が強い。小難しい神話の話など、この際どうでもよい。
「まあ、そう慌てるな、刑事さん。そのイザナギ流に伝わる化け物なんだが、そいつの封印がされている場所をかぎつけた奴がいてな。郷土史だか民俗学の研究だのなんだのと言って村の爺さんや婆さんを騙し、こともあろうか封印を解いてしまった」
「じゃ、じゃあ、それで化け物が蘇ったっていうの!?」
「ああ。その化け物は封印を解いた奴に憑依して、そのまま意識を乗っ取った。もっとも、憑依したといっても、憑いた人間の心まで完全に消せるわけじゃないんだが……」
そう言いながら、紅は次に話す内容を照瑠達にどう伝えれば良いのか考えた。
彼の知る限り、憑依というものは大まかに分けて二つの種類が存在する。
一つは、憑依対象となるものと完全に一体化する同化型。魂その者が悪霊と同化してしまい、その影響は憑依対象の肉体にまで現れる。極めて危険な状態で、症状が進行すると二度と元には戻らない。
もう一つは、憑依対象の魂を半ば強引に封じ込めてしまう乗っ取り型。一般的に憑依現象という場合、こちらのケースの方が圧倒的に多い。憑依対象の魂を強引に封じ込め、代わりに全ての主導権を霊が握ってしまうというものだ。一見して同化型よりも強力に思われがちだが、実はそれほど強い憑依ではない。
乗っ取り型の場合、本来の魂を封じ込めながら自分で肉体の操作もしなければならない。当然、霊魂にかかる負荷も大きく、そう自由に動かせるわけではない。
同化型が魂のレベルで一つになってゆくのに対し、乗っ取り型は車の助手席から運転手の邪魔をして強引にハンドルを奪っているような状態だ。当然、細やかな動きなどできるはずもなく、見境なく暴れる、うわ言を口にするなどといった、奇行に走る程度が限界である。強力な力を持った霊であれば話は別だが、それでも同化型よりはるかに効率の悪い操り方だ。
「今回の化け物の場合……」
慎重に言葉を選びながら、紅は話を続ける。
「封印を解いたやつに憑いたのは、相手の魂と同化するタイプだ。そういった霊は憑依対象の魂と完全に一体化し、最終的にその主導権を乗っ取ってしまう。だが、霊の方も憑依対象者の魂の影響を受け、その思考パターンやら好き嫌いやらが行動に反映されることになる。四国からわざわざ東北まで戻ってきたのも、封印を解いた奴の帰る先がこの町だったからに他ならない」
「ふうん……。動物の帰巣本能みたいね」
「まあ、そういう認識で構わないだろうな。殺された女性にしても、とり憑かれた奴の趣味に合った人間を、化け物が無意識に選んで襲っていた可能性がある。もしくは、とり憑かれた奴が以前から気にかけていた女を狙っていた、とかな」
「おい、それは……」
そこまで聞いて、今度は岡田が口を挟んだ。先ほどの疑心暗鬼な態度は影を潜め、何かを確かめるような口調で聞いてくる。
四国に出かけていた火乃澤町出身の人間で、郷土史の研究をしていた者。最初の被害者である米倉晴美の関係者で、現在も行方不明になっている人間。その全てに当てはまる者が、たった一人だけ存在する。
「その封印を解いた奴ってのは……もしかして、会田幹夫とかいう名前じゃねえのか?」
「さあな。名前までは聞いていない。だが、それも化け物がとり憑いた奴に会えば分かることさ」
執拗に絡みついてくる熊笹を掻き分けながら、紅は歩を止めることなく言った。その言葉に少々がっかりした様子の岡田だったが、すぐに気を取り直して紅達の後に続く。ここまで来たら、犯人の顔など自分の目で確かめればよい。
「とり憑いた奴の記憶につられてこの町まで来た化け物は、自分の獲物となる人間を探し始めた。しかも、そんな時に格好のカモが化け物の隠れ家に現れた」
「あっ、もしかして!!」
突然、亜衣が甲高い声を上げて叫んだ。
「そのカモって……もしかして、長瀬君のこと?」
「正解だ。偶然もあるんだろうが、化け物の隠れ家になっていた廃屋に、わざわざ足を踏み入れた物好きな連中がいた。それを上手く利用して、化け物は長瀬とかいう男を自分の傀儡にしたんだ」
「傀儡?」
「低級な動物霊を自分の支配下におき、それを人に無理やり憑依させることで作り出す操り人形さ。大した力は持っていないが、簡単な命令だけなら実行することができる。なにしろ、この山は色々な動物たちの霊で溢れているみたいだからな。手駒にする低級霊には事欠かないってわけだ」
「なるほどな。その傀儡とやらを使って、化け物は捜査の撹乱を試みたってわけか?」
ここに来て、岡田もようやく納得するような素振りを見せた。真犯人は自らの手駒として動物霊を憑依させた高校生を利用し、似たような格好をさせて町をうろつかせたのだろう。
およそ非現実的な解釈だが、紅の言っていることを要約するとそのようなことになる。化け物と聞いて洋画に登場するモンスターのようなものを思い浮かべていたが、なかなかどうして知能も働くようだ。
だが、それでも疑問は残る。
そもそも化け物は、なぜ撹乱を目的とした傀儡に三人の女子高生を襲わせたのか。そして、傀儡の裏で動いていた化け物の、真の狙いはなんなのか。それを聞き出さないまでは、全てを理解したとはいえないようだ。
「化け物が撹乱しようと思っていたのは、警察なんかよりも、むしろ俺みたいな人間の方さ。霊的な現象でおかしくなった者を野に放って、追跡の目をごまかそうとしたんだろう」
「まったく、口の減らねえガキだぜ。日本警察は、お前が考えているほど役立たずじゃねえぞ」
「別に、そっちの仕事を悪く言ったつもりはない。ただ、化け物の優先順位が違っただけだ」
岡田が気を悪くしたのを悟ったのか、紅が付け加えるようにして言った。もっとも、口調があまりにぶっきらぼうなため、ほとんどフォローになっていない。
「でも、なんでその化け物は、そんな回りくどいことをしたんだい?」
今まで紅の話を聞いていただけの工藤が、ここにきて始めて口を開いた。もっとも、彼の言いたいこともわからないでもない。
化け物がとり憑いた人間が本当に噛み付くだけで人を殺せるのだとしたら、その力は相当なものだろう。警察はもとより、紅の存在とて恐れるほどのものではないと思うのだ。
「化け物が傀儡を用意した本当の理由か……」
先ほどまではかなりの早足で歩いていた紅が、急にゆっくりとした足取りになって呟いた。
「その一番の理由は……そこにいる女だ」
突然、ピタリと足をとめ、すかさず後ろを振り返る紅。彼の指差すその先には、熊笹を鬱陶しそうに掻き分けている照瑠の姿があった。
「へっ……? わ、わたし……!?」
「ああ、そうだ。化け物はこの土地に入る前に、土地を守っていた結界を破壊した。人間の体の中に入っていれば、そういったものに触れることも可能だからな」
「そうなんだ。でも、どうして……?」
「化け物が結界を壊したのは、単にこの土地に陰の気が流れやすい状況を作るためだろうな。陰の気が溢れれば、それだけ奴の霊気を探ることは難しくなる」
「なるほど。要するに、カモフラージュってやつね」
「ああ。だが、奴にとって心配だったのは、その結界を張った人間が未だ土地の中に残っているかもしれないことだった。それだけの強い力を持った者なら、自分を封印する可能性もあるからな」
「じゃあ、長瀬君に動物霊を憑依させて、私を襲わせたのは……」
「当然、お前が結界を作った人間の子孫だったからだ。最初は様子だけ見ていたみたいだが、自分を封じるだけの力がないと分かると、さっさと始末する方向に出た。憂いは早目に断っておきたいってのが奴の本心だったんだろうし、最悪、傀儡が負けたとしても、失うものは少ないからな」
「そ、そうだったんだ……」
紅の話を聞き、照瑠は今まで自分が巫女としての修行をさせてもらえなかったことを改めて悔やんだ。父の意向であり母の遺言でもあったが、それでも自分に力があれば、長瀬浩二をもっと早く救うことができたのではないか。
自分に流れる血筋のせいで、亜衣や詩織まで危険に晒した。その現実が、照瑠の胸を容赦なく締め付ける。
ところが、そんな彼女の気持ちとは反対に、紅は再び熊笹を掻き分けながら歩き出した。先と変わらぬ調子で話を続けるその姿は、まるで照瑠には何の罪もないと言っているかのようだ。
「まあ、そのことはお前が気に病む必要はないさ。お前が狙われることは、俺もある程度は予測していたからな。だから、もしものことを考えて……ちょっと見張りをつけておいた」
「見張り? もしかして、さっき出てきた、あの黒い塊のこと?」
「そうだ。その気になれば、他人を呪い殺せるくらいに強力なやつだぞ、あれは」
「呪い殺すって……冗談じゃないわよ、それ……」
二度に渡って自分を助けた黒い犬のような影の姿を思い出す。あれは偶然などではなく必然だったのだ。知らずの内に巻き込まれていた照瑠だったが、知らずの内に守られてもいた。もっとも、行動を影から見張られていたことを考えると、あまり良い気持ちがしないのも確かだが。
「傀儡が倒されたことで、奴は俺の存在を改めて認識したはずだ。本当だったら俺だけで始末をしたいところだったが、傀儡が一人とは限らないからな。だったら、むしろ俺の側にいてくれた方が何かと守りやすい。敵の巣穴にわざわざ同行を許したのは、そういった理由もある」
なるほど、確かにその通りだろうと照瑠は思った。長瀬のような傀儡が他にいた場合、照瑠を放置して戦いに赴くわけにもいかないだろう。だが、照瑠だけを守っていても、それでは何の解決にもならない。その間にも化け物は、自分好みの女性を次々と手にかけてゆくに違いない。
「これで、大まかな話はおしまいだ。後は俺が奴を始末すれば、この事件は全て解決する。その後の処理は、後ろにいる刑事さんたちに任せるぜ」
「おいおい。俺たちは、何もお前の後始末をするために同行してるんじゃないんだからな。あくまで、犯人逮捕のために仕方なく……」
「ここに入る前にも言ったはずだぞ。今回の相手は、手錠をかけられるようなものじゃないってな。とり憑かれた奴を捕まえたところで、化け物を倒さなければ終わりはない」
「まあ、お前の言っていることが全部本当だったなら、そういうことになるんだろうがな」
「それはすぐに分かる。何度も言うようだが、くれぐれも邪魔だけはしないでくれ」
岡田の言葉には何ら耳を貸さず、紅はひたすらに熊笹の葉をかき分けて進む。もう話すことはないとばかりに、それ以上は何も口にせず黙々と歩き続けた。
再び熊笹を掻き分ける音だけが森に響く。辺りはすっかり暗くなり、木々に覆われた道の数メートル先もよく見えない。
本当に、このまま進んで目的の廃屋にたどり着けるのか。道案内をするなどと言ってはみたものの、実は既に逃れようのない闇の中に捕らわれてしまっているのではないか。
亜衣がそんな不安を覚えたその時、熊笹を掻き分ける音が急に止んだ。湿った空気が生暖かい風となって吹きつけ、思わず背筋に嫌な感じを覚える。
それは、あの肝試しの時にも感じた不穏な空気。霊感などほとんど無い人間にも感じられるほどの、極めて強い陰の気配。そしてなによりも、自分たちが目的の場所に到着したという印に他ならなかった。
「ここか……」
藪を抜け、目の前に現れた廃屋をにらみつけながら、紅は一言だけ呟いた。たったそれだけの一言ではあったものの、その場にいる全員に緊張が走る。
紅の全身から発せられる、殺気とも受け取れそうな異様な気。今までの無口で無表情な印象とはうって変わり、目つきまでもが殺伐としたそれに変わっている。
廃屋を前にした紅の変化に、照瑠や亜衣だけでなく岡田たちも言葉が出なかった。気を飲まれるとでもいうのだろうか。これから戦場に赴く傭兵のような、空気全体を振るわせる気を全身から放っている。これは本当に、たかが高校生くらいとしか思えない少年の出しているものなのだろうか。
「お、おい……」
前科何犯の凶悪犯を相手にしてきた岡田でさえ、かろうじてそう口にするのが精一杯だった。紅はそんな岡田の方を少しだけ見ると、すぐに背中に背負っていた布袋を下ろして道具を取り出し始める。
袋の中から現れたのは、四本の棒と奇妙な縄だ。縄には紙垂と呼ばれる稲妻状の白い紙がついており、神社の注連縄を連想させる。
残りの人間を取り囲むようにして取り出した棒を地面に突き刺すと、紅はそれに先ほどの紙垂がついた縄を結びつけた。調度、正方形を描くようにして、自分以外の人間を縄の中に囲んでゆく。
「こいつはいったい何のつもりだ? まさか、化け物のとり憑いた凶悪犯に、悪魔祓いの儀式でも仕掛けるつもりか?」
「半分は正解だが、半分はハズレだ。これは、あんた達を守る結界だよ」
「結界だぁ?」
「そうだ。何度も言うようだが……俺たちが対峙しようとしている相手は、銃なんかで倒せる相手じゃない」
「だから、結界で身を守るってか? しかしなあ……。こんな棒切れと縄で、本当に御守になるのかよ」
どう見ても簡素な作りにしか見えない結界を見て、岡田は半信半疑な口調で紅に言った。きょうび、詐欺紛いの信仰宗教団体でさえ、もう少しまともな代物を持っている。だが、紅が取り出した結界を張るための道具は、どう考えても子どもの自主制作物の域を出ないものだ。これで身を守れると言われても、にわかには信じがたいものがある。
ところが、そんな岡田の心を読んだかのようにして、棒に縄を結び付けていた紅はふっと顔を上げた。血のように赤い瞳で見つめられ、岡田は思わず身構えてしまう。
「まあ、そこの刑事さんが信じられないのも無理はない。だが、こういったものに大事なのは、どんな形をしているかよりも、誰が作ったかだ。力の無い奴がいかに立派な道具を用いたところで、それは結局のところ偽物でしかない」
「だったら、お前にはその力があるってのか? こんな縄と棒切れに、魔法だか呪いだかを込めるだけのものが」
「ああ。それと……」
全ての準備が整ったのか、紅は近くにおいてあった白布を巻きつけた棒を手に立ち上がった。その視線はまっすぐに、闇の中に佇む廃屋へと向けられている。
「言い忘れたが、この結界で防げるのは化け物の気だけだ。物理的な攻撃は防げないから、俺が化け物を肉体から完全に引きずり出すまでは、各自で用心を怠らないでくれ」
「なっ……。完璧な壁じゃねえのかよ!?」
「無理を言うな。結界は万能のバリアじゃない。あくまで、霊の攻撃から人間を守るためのものだ」
「霊の攻撃ねぇ……。まあ、実際に幽霊が人間を傷つけられるってんなら、話は分かるがな」
霊の攻撃を防ぐための結界。オカルトなどではよく用いられる設定だが、そんなものが果たして凶悪犯に効果があるのか。紅の説明には納得できる部分もあったものの、やはり岡田には信じがたい部分の方が多い。
お化けや幽霊といったものが、生きている人間を攻撃する。それはポルターガイストのような現象なのか、それとも祟りのように相手を呪い殺すためのものなのか。どちらにせよ、非科学的なことには違いない。
「なんだ? まだ、信じられないって顔をしているな」
結界の効果について怪訝そうな顔をしている岡田に気づいたのか、紅は視線だけを後ろに移して言った。
「言っておくが、幽霊の類はあんた達が考えているような物理的な攻撃は仕掛けてこない。とり憑いている人間の体を使えば話は別だが、幽霊そのものが生きている人間に傷をつけることなんて出来はしない」
「だったら、どうやって攻撃するんだ? やっぱ、呪いかなんかを使うのか?」
「それに近いものだな。奴らは人間の体を傷つけない代わりに、その魂を直接蝕むんだ。俺たちは霊傷なんて呼んでるがな。その結果、攻撃を受けた人間は衰弱し、あまりに酷い時は急死することもある」
できるだけ言葉を選びながら紅は説明した。神や霊の話に詳しくない者を相手にする場合、専門用語を使っても分からないからだ。
それでも岡田や工藤は怪訝そうな表情をしていたが、照瑠や亜衣は紅の言葉をうまく飲み込んだようだった。
「なるほどね。その霊の攻撃から守ってくれるのが、この結界ってことなんだ」
「そうだ。そこの小さい女の方が、刑事さんたちよりも理解が早いようだな」
「小さい女って……なんか、ムカつく言い方だなあ」
「事実を言ったまでだ。それに、これ以上は無駄なおしゃべりをしている暇も無い」
憤慨する亜衣を他所に、紅は再び廃屋へと視線を移した。
暗く禍々しい気を放つ朽ち果てた家。その奥に潜むものと戦うには、まずは相手を中からいぶりださねばならない。迂闊に相手の陣地へと踏み込めば、取り返しのつかない失態を犯すことにもなる。
(やはり、まずは外に相手を引っ張り出すしかないか)
紅がそう考えると同時に、彼の後ろにある影が細長く伸びた。月明かりでさえほとんど差し込まない森の中だというのに、影の様子ははっきりと分かった。紅の影が、夜の闇よりも暗く濃い色をしていたからだ。
人型をしていた黒い影が、徐々に別の形へと姿を変えてゆく。影の表面がゆらゆらと揺れだし、音も無く地面から起き上がる。
「あれは……!?」
黒い不定形な塊となった影を見て、照瑠が思わず声を上げた。あの影は、長瀬浩二にとり憑いていた動物霊を祓った時にも現れたものだ。
どろどろと黒い闇の部分を流動的に動かしながら、やがて影は巨大な犬の姿へと形を変えた。夜の闇よりさらに深い漆黒の巨体に、金色に輝く目玉を備えた影の犬。
既に一度は姿を見ていた照瑠や亜衣だが、改めてその姿に畏怖の念を覚えた。ましてや、初めて見る岡田や工藤は言葉さえ失って立ち尽くしている。
「いくぞ、黒影。まずは、やつを廃屋から引きずり出す」
正面の廃屋をにらみつけたまま紅が影に命じた。黒影というのは、どうやらあの犬のような姿をした影の名前らしい。
紅の言葉に頷く代わりに、黒影が低くうなって答える。そのまま首を持ち上げて上を向くと、まるで地獄の底から湧き上がってきたかのような恐ろしい声で咆哮する。
――――グオォォォォッ!!
手負いの狼が何頭も集まって吼えているかのような轟音。あまりの音に、空気が震えて木々を揺らした。思わず耳を塞いでしまう照瑠達だが、それでも全く効果はない。鼓膜など簡単に通り抜け、心の底に直接声が響き渡る。これが本当に、この世のモノではないモノが発する声なのだろうか。
否、この世のモノでないからこそ、ここまで恐ろしい声が出せるのだろう。自分の耳を押さえつつも、照瑠は改めて黒影と呼ばれた影の存在に畏怖の念を覚えた。
山一つ震えさせんばかりの咆哮がやみ、辺りは再び静寂に包まれる。それに呼応するようにして、廃屋の扉が唐突に開け放たれる。
「来たか……」
闇の奥から現れたモノをにらみつけ、紅は懐から細長い白布を取り出した。傀儡にされていた長瀬浩二の動きを封じた、あの梵字が書かれた布だ。
布を握る手に自然に力がこもるのを感じた。これから戦うのは傀儡のような操り人形ではない。古来より封じられし、人知を超えた古の化け物なのだ。
「だぁぁれぇぇぞぉぉ……」
廃屋の中から現れたモノが、地の底から響いてくるような不気味な声で言った。その姿を見た紅以外の全員が、思わず恐怖に顔をひきつらせる。
廃屋から現れたのは、古びたレインコートを着た人間だった。いや、正確には人の形をしたものと言った方がよいだろう。
髪は伸び放題に伸び、耳まで裂けた口からは異様に発達した犬歯が顔をのぞかせている。二つの瞳は淀んだ金色に染まり、両手の爪は猛禽類のそれのように鋭く伸びている。
「な、なんなの、あれ……」
廃屋から現れたモノの姿を見て、照瑠が思わず口にした。外見こそ人間に似ているが、あんな姿をした人間など見たこともない。なによりも、全身から放たれる禍々しい気がそれを物語っている。
あれはもう、既に人間ではない。人間の形をかろうじてとどめている、全く異質で別なものだ。そう、あれはまさしく……。
――――化け物だ。
結界の中にいる全員が同じことを感じていた。照瑠や亜衣は勿論のこと、岡田や工藤までがその場の空気に完全に飲まれてしまっている。拳銃を抜くことさえ忘れ、ただ現れた化け物を凝視しているだけだ。
「だぁぁれぇぇぞぉぉ……じゃぁぁまぁぁすぅぅるぅぅ……」
再び化け物が吼えた。
「我のぉぉぉ……我のぉぉぉ復活をぉぉぉ……邪魔するはぁぁぁぁ……誰ぞぉぉ……」
暗闇の中に光る金色の目が紅をとらえた。手にした布を構えて身構える紅だが、化け物の方が一瞬だけ速かった。
腰を屈め、獲物に襲い掛かる虎のように、化け物は大地を蹴って宙を舞った。鋭い爪を振り上げて、真上から引き裂かんと紅を狙う。
爪が空を切る鋭い音がして、紅は自分の背に冷たいものが走るのを感じた。
あのまま同じ場所に立っていたら、今頃自分は頭を引き裂かれていたことだろう。この土地に来る前に話こそ聞いていたが、やはり手強い相手に違いない。戦いが長引けば、それだけ不利になるということは明白だ。
「悪いが、互いに生身でやり合うつもりはない。さっさとその体から出てもらうぞ」
迫り来る爪の攻撃を紙一重のところでかわしながら、紅は手にした布の先を化け物の首筋目掛けて投げつけた。布が生き物のように宙を舞い、意思を持っているかのようにして絡みつく。
動きを封じられ、化け物は布を引きちぎろうと力任せに暴れた。が、対する紅も、布の自らの腕に巻きつけるようにしてしっかりと握り締める。単純な力では化け物の方が圧倒的に上であるにも関わらず、紅の放った布はいっこうに切れる様子がない。
「無駄だ。そいつは力では切れない」
そう言って、紅は隣で待機していた黒影に目配せをする。すると、待っていたとばかりに息を吸い込み、黒影は化け物に向かって再び咆哮した。
咆哮と共に、黒影の口から青白い何かが吐き出される。一見して炎のようにも見えるが、それにしては随分と粘性が高そうな塊だった。
「ぐぅぅぅぎぃぃぃぃっ!!」
化け物が首に巻きついた布を握り締めて奇声を上げた。黒影が吐き出した青白い塊は化け物の体にぶつかり、瞬く間にその全身を包み込んだ。火の粉のようなものが盛んに出ていることからして、やはりあれは炎のようなものらしい。
「なっ……! あいつ、容疑者を焼き殺す気か!?」
化け物の体が青白い炎に包まれたところで、岡田がようやく我に返って叫んだ。ここまで紅についてきたのは、猟奇殺人事件の真犯人を逮捕するためだ。それを殺されてしまっては、岡田としては本末転倒である。
ところが、そんな岡田の腕を引き、銃を抜こうとした彼の行動を制した者がいた。
「待って下さい、刑事さん」
九条照瑠だ。
「あの炎……化け物の体を包んでいるだけです」
「なんだって!?」
「よく見てください。燃えているように見えますけど、レインコートも髪の毛も、まったく焼けていませんよ」
「そ、そういや、そうだな……」
言われてみれば、確かにそうだった。炎のようなものに包まれてはいるものの、化け物の体そのものはまったく燃えていない。よくよく見ると、首に巻きついた布もまた燃えてはいなかった。
が、それでも化け物が炎に苦しんでいるのは確かなようで、やがてがっくりと膝を突いて大地に倒れこんだ。体を包んでいた炎も消え、まったく動き出す様子は無い。
これで全て終わったのか。そう思った照瑠達であったが、紅の目から緊張の色は失われていなかった。
次の瞬間、化け物の口から青白い粘液のようなものが溢れ出した。傀儡となった長瀬浩二を倒した時に見た、乳白色の物体ではない。
青とも緑ともとれる、不気味な色をした奇妙な物体。明らかに長瀬浩二の時とは違う。もっと禍々しく、忌まわしい力を秘めたものだ。
腐臭さえ漂ってくるような気がして、照瑠は思わず口元を手で覆って後ずさった。その間にも吐き出された物体は宙へと舞い上がり、すぐに何かの形を作ってゆく。
「な、なんだ、ありゃあ……」
物体が集まってできたものを見て、岡田が呆然とした様子で呟いた。それはこの世のものとしては、余りに奇妙で奇怪な姿をしていたからだ。
頭部と思しき部分は大地に倒れている化け物と全く同じ姿をしている。が、奇怪なのはそれだけではない。
化け物と同じ形をした頭部は、なんと三つもあったのだ。頭こそ人間のそれに酷似しているが、首から下は蛇のような身体になっている。それは倒れている化け物の身体から生えているようで、それぞれがゆらゆらと揺れながら、紅に襲い掛からんと隙を狙っていた。
「来るぞ、黒影!!」
紅がそう叫ぶと同時に、蛇の化け物の頭が一斉に襲い掛かってきた。左右に散開するような形で、紅と黒影はそれを避ける。
布を解いてしまっている暇などなかった。
敵の一撃をかわした紅は、その手に握られた棒の柄に初めて右手をかけた。梵字の書かれた白布で、幾重にも封印が施された切り札ともいえる存在。その柄をつかんで引き抜くと同時に、白銀の刃が姿を現す。
「あれ……刀だったんだ……」
紅の手に握られたものを見て、亜衣がどこか感心した様子で呟いた。布を巻かれていて分からなかったが、棒のように見えたのは日本刀だったらしい。柄はもとより鞘の部分まで厳重に封印が施され、一見しただけではただの棒にしか見えなかったのである。
むき出しになっていた鍔の部分を見て気づきそうなものだが、それでもやはり無理だろう。高校生ほどにしか見えない少年が日本刀を持ち歩いているなど、どこの誰が予想できるだろうか。
「これで決着をつける。闇薙の太刀の力、その身で味わえ!!」
紅が叫ぶと同時に、刀の刀身からどす黒い何かが噴き出した。空気とも水ともつかないそれは、触手のようにあちこちに伸びては蠢いている。まるで、刀身から黒いミミズが何匹も生えているかのような光景だ。
だが、その黒いミミズ達は、紅が刃を構えたところで一斉に直列した。刀身を保護するかのようにして、どす黒い気が次々と集まってゆく。
紅が刀を振りかぶり、それに気づいた化け物もまた牙をむいて襲い掛かった。特大のスイカほどもあろうかという頭が紅の横をかすめるが、それだけだ。ぎりぎりのところで攻撃をかわし、紅は黒い気で覆われた刀身を躊躇うことなく化け物の首筋に叩きつける。
何かが焼けるような音がして、首を斬られた化け物が恐ろしいうなり声を上げた。白銀の刀身自体は化け物を傷つけることができないが、それを覆う黒い気が直接化け物を蝕んでいるのだ。
首の一つに一撃を加えられたことで、残る二本の首が紅に襲い掛かった。が、その攻撃が当たるよりも早く、今度は黒影が首の一つに噛みついた。
二本の首に立て続けに傷を負わされ、のた打ち回るようにして暴れまわる化け物。それぞれが独立して生えているように見えるが、芯の部分では一緒らしい。一つの首が傷を負えば、全ての首が痛みを共有しているようだった。
紅の刀が化け物の身体を切り刻み、黒影の牙が幾度と無く化け物に食い込む。なんとか振り払って次なる攻撃に移ろうとするも、今度は黒影が例の青白い炎を吐いて牽制する。一つ一つは小さな傷だが、それらは確実に化け物の力を奪いつつあった。
「す、すごい……。まるで、映画みたいだ……」
化け物と戦う紅と黒影の姿を見て、工藤が食い入るような視線を送りながら言った。このまま行けば、化け物が倒されるのも時間の問題だろう。より戦いを間近で見たいという好奇心からか、工藤はつい結界を張っている杭の側まで足を踏み出してしまった。
結界の中にいれば、霊的な攻撃から身を守ることができる。それは確かに正しいことだが、霊から狙われなくなるわけではない。
紅と化け物の戦う場において、工藤の行動はあまりにも軽率だった。彼の動きに気づいた化け物は、三本の首のうちの一本を工藤の方へと傾ける。金色の目が工藤をにらみつけ、裂けた口がさらに大きく三日月形に歪んだような気がした。
「ひっ……」
悲鳴を上げ、我に返った時は既に遅かった。
化け物の首は工藤を狙い、その牙をむき出しにして襲い掛かってきたのだ。結界の中にいれば手を出せないとはいえ、これには工藤も驚いて、思わず尻餅をついてしまう。
ガタッという音がして、工藤は自分の手が何かに触れていることに気がついた。ふと見ると、そこには紅が結界を張る際に打ち込んだ杭がある。どうやら尻餅をついた時に、無意識に手をかけて倒してしまったらしい。
結界が破壊された。その事実を知った工藤の顔が、みるみる青ざめてゆく。これではあの化け物に、無防備な体を晒しているのと一緒だ。
「うわぁぁぁっ! く、来るなぁぁぁっ!!」
鈍い金色に輝く瞳に見つめられ、思わず工藤は叫んでしまう。ところが、そんな彼に構うことなく、化け物の首は本当の標的を見つけてにやりと薄笑いを浮かべた。
裂けた口が大きく開かれ獰猛な犬歯が姿を現す。その牙が求める本当の獲物は、工藤や岡田、亜衣などではない。
「えっ……!?」
気づいた時には化け物の頭が間近に迫っていた。あまりのことに、照瑠は何もできず目を伏せる。化け物の凶暴な牙が肉に食い込み、あの巨大な口で身を裂かれると思うと体が震えた。
(もう駄目だ!!)
自然と拳に力が入り、体が硬直してゆくのを感じる。このままでは、あの化け物に食い殺される。そう思った照瑠だったが、果たして彼女の首筋を化け物が食い千切ることは無かった。
何の痛みも感じないことを不審に思い、照瑠はそっと目を開けた。が、すぐに何が起きたのかを理解し、その手が自然と口を覆う。
「あ……ああ……」
化け物の首は、確かに照瑠の頭の目と鼻の先にあった。しかし、その牙は照瑠の首筋などではなく、彼女と化け物の間に入った別の者の肩口に食い込んでいたのだ。
「……大丈夫か?」
左肩を化け物に噛み付かせたまま紅が照瑠に尋ねた。その口調には、既に先ほどの余裕は無い。顔には苦悶の表情を浮かべ、明らかに危険な状態ということが分かる。
「ったく……。不用意に動いて……相手を刺激すんじゃねえよ……素人が……」
結界を壊した工藤に向けて、紅は冷ややかな視線を送った。相手が年上であろうと、警察の人間であろうと関係ない。彼の軽率な行動が照瑠を危険に晒したことには違いないからだ。
本当ならば、ここで説教の一つでもしてやりたい。そう思った紅だったが、余裕が無いのは明らかだった。
化け物に噛まれた左肩から、徐々に力が抜けてゆくのが感じられる。このままでは、いずれは魂を食らいつくされて死んでしまう。
手段を選んでいる暇などなかった。残る二本の首は、黒影が相手をしてくれている。ならば、自分の肩に食らいついた首ごと、まとめて化け物に止めを刺すしかない。
「悪いな、化け物……。だが、巫女の魂を貴様の薄汚い毒牙にかけるわけには……いかないんでな!!」
かろうじて力の入る右腕に全神経を集中させ、紅は手にした刀を化け物の首筋に突き刺した。地獄の底から鳴り響くような雄叫びを上げ、化け物の口が紅の肩から外れる。が、それでも紅は手にした刀を放さない。そのまま三枚に卸すかのようにして、化け物の首に沿って刃を押し込んだ。
刀身を覆うどす黒い気が、化け物の体を切り裂いて侵食する。霊的な存在でも痛みは感じるのか、化け物は我を忘れて苦しみ、のたうち回った。
「これで終わらせるぞ……。離れろ、黒影!!」
化け物の体に刃を突き刺したまま、紅は黒影を後退させた。切り裂かれた首は既に動かず、残る二本の首も痛みに悶えて暴れまわっているだけだ。
勝敗は誰が見ても明らかだった。化け物の体を貫くようにして飛び出た刀の先を、紅はそのまま地面に突き立てる。そして、自らも刀の柄から手を離すと、震える左手を鼓舞して胸の前で組んだ。
「滅……」
胸の前で奇妙な印を結び、呟くようにして紅が唱えた。刀身を覆っていたどす黒い気は、再びミミズのようになって広がってゆく。
「何、あれ……。ど、どうなってるの……?」
刀からあふれ出たミミズのような触手を目にし、亜衣が畏敬の念を込めた様子で言った。漆黒の触手は化け物の体に絡みつくようにして、徐々にその自由を奪ってゆく。触手に絡め取られた部分は、やがて吸い込まれて黒い気と一つになってゆく。
封印などという言葉で表すには、それは明らかに異質で禍々しいものだった。あれは封じているのではない。化け物を、その魂から刀が飲み込んでいるのだ。しいていえば、喰らっていると表現した方が正しいだろう。あの刀は化け物の気を貪欲なまでに欲し、魂の欠片も残さず喰らい尽くそうとしている。
このままでは危険であると判断したのか、残る二本の首は逃げの体勢に入った。それを見た黒影が再び青白い炎を吐き、首の動きを封じ込める。逃走に失敗した首達に、もはや残された手段は存在していなかった。
「おぉぉぉのぉぉぉれぇぇぇっ……!!」
全てを黒い気に飲み込まれる直前、最後に残された首が恨みを込めて叫んだ。が、それもすぐさま闇の中に取り込まれ、やがて漆黒の触手達は刀の中に戻ってゆく。
「終わったか……」
化け物が飲み込まれた刀を手にし、紅がそっと呟いた。転がっていた鞘を拾い、刀身を静かに収めてゆく。
カチッという音がして、化け物を飲み込んだ刀は再び紅の持つ鞘に納まった。黒影も彼の後ろに回り、地面に吸い込まれるようにして形を崩してゆく。犬の形は既に無く、紅の影として何事もなかったかのように納まっている。
全ては終わった。古の封印を解かれし化け物は、紅の手によって闇の中へと葬られたのだ。二度と抜け出せぬ、無限回廊の如き深淵の奥底に飲み込まれて。
とり憑かれていた男の首に巻きついている布を取り、紅はそれを素早く懐にしまった。だが、その途端、まるでなにかに倒されたかのようにして力なく膝を突く。
「ど、どうしたの……!?」
突然の事に、何が起きたのかは分からなかった。照瑠は思わず紅に駆け寄り、不安げな表情でその顔を覗き込む。
「少し……魂を削られすぎた……。まあ、なんとか動くことはできるだろう……」
「魂を削られたって……それ、大丈夫なの!?」
「左肩の辺りから、少し力が入らないくらいだな。普通に動く分には、たぶん問題は無い」
「左肩って……もしかして、あの時の……」
化け物の攻撃から紅が自分を庇った時のことを思い出し、照瑠はそっと紅の肩に触れた。結界が壊れたのは自分のせいではない。とはいえ、紅が自分を庇って要らぬ怪我をしたのは明らかだ。
巻き込まれた形ではあったものの、それでも照瑠は紅の事が心配だった。本来であれば、自分のような神に仕えるべき家系の人間が解決する事件。それを一人で解決しただけでなく、照瑠自身をも守ってくれたのだ。これでは責任を感じない方がおかしいというものである。
「あの……本当に大丈夫ですか……?」
化け物に噛まれたと思しき部分に手を当てたまま、照瑠は再び紅に問いかけた。本人にしてみれば、それは無意識の行動だったのかもしれない。しかし、紅はそんな照瑠の手を取ると、それをそっと退けて立ち上がる。
「お前の父親が言っていた通りだな。自覚は無いが、大した力を持っているようだ」
先ほどの様子が嘘のように、紅は何ら問題がないといった口調で照瑠に言った。その言葉の意味が分からずに、照瑠はしばし呆然とした状態で立ち尽くす。もっとも、そこにいる全員が分からなかったわけではなく、亜衣だけは感心した表情で照瑠を指差す。
「出た!照瑠の十八番、神の右手!!」
「えっ……!?」
そう言われ、思わず自分の手をまじまじと見つめる照瑠。
ヒーリング。手をかざすだけで相手の悪いところを治す、一種の超能力である。亜衣は神の右手などと言っていたが、自分には本当に不思議な力が秘められているのだろうか。何も意識せず触れただけだったが、紅の霊傷を自分の右手が回復させたというのだろうか。
(まさか……ねぇ……)
改めて自分の手を見つめてみるが、変わったところは何も無い。巫女として仕事をしていた祖母や母には不思議な力があったと聞くが、それは修行をして身につけたものだ。何の修行もしていない自分に、そんな力があるとは信じられなかった。
「さあ、山を降りるぞ。こんなところに、いつまでも長居する意味はない」
結界を張る道具を片付けながら、紅が残りの者たちに向かって告げる。火乃澤町を震撼させた恐怖の猟奇殺人事件は、これにて一応の決着を見た。