~ 伍ノ刻 傀儡 ~
早朝、けたたましいサイレンの音と共に、雑木林の周りには数台のパトカーが集まってきていた。林の横にある県道には、既に黄色いテープが張られている。日が昇って間もないのか、外はまだどこか薄暗い。東の空が、少しだけ白みを帯びて光っている。
「岡田さん、またですか……」
現場に急行した工藤健吾は、先輩の岡田肇に向かってうんざりしたような口調で言った。
「ああ。これで被害者は三人目だな。これはいよいよ、マズイことになってきたぜ……」
首を噛み千切られ、心臓を抜かれるという例の連続猟奇殺人事件。その事件が、またもや昨晩に起こったのである。被害にあった女性の死体は、林道に投げ捨てられるような形で発見された。
一週間と経たない内に、この小さな町で三人の女性が変死する。誰が考えても明らかに異常な事態だ。
だが、そんな中でも岡田だけは、事件を解決に導く糸口がつかめたような気がしていた。
今回、被害にあったのは、たまたまこの県道を訪れていたカップルだった。夜の間に町を抜けて県外に出ようとしたようだが、その際に事件に巻き込まれたらしい。
生き残った男の証言から、犯人の姿は聞き出すことができた。なんでも薄汚いレインコートに身を包み、長く伸びた前髪で目元までを隠していたらしい。髪の毛に隠された奥の顔まではっきりと見たわけではなかったようだが、これは重要な手掛かりになる。
異常な殺人犯による犠牲者が三人も出れば、町に戒厳令が敷かれても不思議ではない。それまでに、なんとしても犯人を捕らえなければならない。そのためには、生き残った男の証言をより詳しく聞く必要があるだろう。
思い立ったが吉日という。岡田は早速生き残りの男に話を聞きに行こうとしたが、それは現場を取り仕切る制服警官によって止められた。
「おい、なんで止める? 生き残りの男と話をするのに、何か問題でもあるのか?」
「いや、それがですね……。夜明け近くに交番に駆け込んできた例の男なんですが、どうにも証言に妙な部分が目立つんですよ」
「妙な部分?」
「はい。最初は恐ろしさに頭が混乱して変なことを口走っているのかと思いましたが、どうもそういった様子ではなくて……」
そう言って、制服警官は言葉を濁らせた。だが、岡田としてもここで引き下がるわけにはいかない。仮に相手が何らかのパニックを起こしていたとしても、自分の目で確かめるまでは安易に全てを鵜呑みにするわけにもいかないからだ。
生き残りの男が話したことは何なのか。岡田はしつこく食い下がり、その態度に制服警官もとうとう諦めた。馬鹿なことを言っていると思われるかもしれなかったが、ここまでしつこく言われては仕方がない。
「例の男ですけどね。交番に駆け込むなり、化け物が襲ってきたと叫んで止まないんですよ」
「化け物? いったい、その男は何を見たっていうんだ?」
「ええ、それがですね……」
まだ少しの躊躇いがあるのだろうか。制服警官はしぶしぶと言った様子で、岡田に夜明け近く交番に駆け込んできた男の話を言って聞かせた。
制服警官の口から語られた話はこうだ。
夜明け前、悲鳴と共に一人の男が交番に駆け込んでくる。男はかなり取り乱した様子で、しきりに「化け物が出た」と騒いでいた。
男の話によると、その化け物は事件現場にもなった林の近くの県道に現れたらしい。
まず、ドスッという何かが車の天井に落ちたような音がして、彼はすぐさま車を止めた。あまりに大きな音に、助手席で寝ていた彼女まで起きてしまったとのことである。
様子を探るため、男は車の外に出た。木の枝でも落ちてきたのかと思い車の上を見ると、なんとそこには人間がいたのだという。
あまりに理解し難い光景に、男はしばし唖然とした様子でその者を見たそうだ。が、すぐに車の上にいた者は男の姿をとらえ、その脚が横薙ぎに男の頭を蹴り飛ばしたらしい。
突然のことに受け身さえとれず、男はそのまま地面に転がった。そして、薄れ行く意識の中、自分の彼女が車から引きずり出されるところを見たという。
「それで? 男の言っていた妙な事ってのは、いったい何なんだ?」
制服警官の話を聞いていた岡田が、少々苛立った口調で聞いた。今の話を聞く限り、妙な点はせいぜい一つしかない。猟奇殺人事件の犯人が、車の上に降ってきたという話である。
だが、ことの核心はそこにないようで、制服警官はさらに話を続けた。
「まあ、その程度であれば私も気にはしませんでしたけどね。本題はこれからなんですよ、岡田警部」
「どういうことだ?」
「はい。交番に逃げ込んできた男なんですが、車の上に降ってきたのは、口が耳まで裂けた化け物だったって言うんですよ。見た目は薄汚い雨合羽を着た人間みたいだったと言ってましたがね。車の上から自分を見下ろしていた金色の目は、絶対に人間のものじゃないってね」
「それで?」
口が耳まで裂けた化け物という言葉を聞き、岡田の背中に冷たいものが走る。最初の被害者である米倉晴美の検案を行った、芹沢初美の言葉が頭をよぎったからだ。
初美はあの時、犯人は口裂け女だと言っていた。無論、冗談のつもりだったのだろうが、それでも制服警官の話を聞いてよい気分はしない。まさか、今回の事件の犯人は、本当に口裂け女だとでも言うのだろうか。
「まあ、所詮は気が動転した男が見間違えたんだろうと思いますよ。いくらなんでも化け物が犯人だなんて、そんなことがあるわけないじゃありませんか」
「ああ、そうだな……。たぶん、何かの見間違いだろう」
そう言って話を締めくくった岡田だったが、内心は嫌な感覚が抜けなくて仕方がなかった。
この事件は、既に自分たちのような者が扱うには手に余る事態にまで発展してしまっているのではないか。確証はなかったが、岡田にはそう思えて仕方がなかったのである。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その日の学校は、全ての部活を休止するという形で終えることになった。例の連続猟奇殺人事件の被害者が、ついに三人にも上ったためだ。生徒たちには集団下校の指示が下され、下校時の校門は人で溢れ返っている。
「はぁ……。集団下校なんて、小学生の時以来だよ。まあ、殺人犯がこの辺りをうろついているとなれば、それも已む無しか……」
寄り道ができないことに、亜衣があからさまな不満をこぼす。が、それが単なる強がりでしかないことを照瑠は知っていた。
昨日、鉈男に襲われたことは、結局警察に届けずじまいであった。あまりに恐ろしくて気が動転していたということもあるが、何より鉈男の正体が問題だった。
暗がりではっきりと見たわけではないが、あれば確かに長瀬浩二だった。学校を長らく無断欠席しているバスケットボール部員で、行方不明になっているとの噂もある。
そんな彼が、唐突に自分達の前に現れたのだ。それも、明らかな殺意を持ってこちらを追いかける者として。
連続する猟奇殺人事件と、鉈を持ってこちらを追いかけてきた男子生徒。それを警察に伝えたら、どのようなことになるか。結果は照瑠のような高校生でも予想がつく。
――――長瀬浩二は猟奇殺人事件の犯人として扱われる。
照瑠は浩二とさして親しいわけでもなかったが、それでもクラスメイトではある。詩織に至っては言うまでもあるまい。自分の好きな人が殺人者など、断じて認めたくないに違いない。
だが、それ以上に気になるのは亜衣の態度だ。昨日、鉈男の正体が浩二だと分かったときから、彼女の様子は変だった。もしかすると、浩二の豹変に関して何か知っているのか。
確信はない。しかし、あまりにいつもと違う友人の態度に、照瑠は思い切ってカマをかけることにした。一度、呼吸を整えると、横を歩く亜衣にゆっくりと切り出す。
「ねえ……」
返事はない。まるで、何を言われるのかを分かっているかのように、亜衣はじっと照瑠の言葉を待っている。もっとも、同時に「頼むから何も聞かないでほしい」と言わんばかりのオーラを全身から発しているのも事実だが。
「昨日の長瀬君のことだけど、何か隠していることがあるんじゃないの?」
「そ、それは……」
「ここ最近、たまに様子が変なことがあったじゃない。それも、長瀬君が学校を休み始めてから」
「うん……」
やはり亜衣は、何か秘密を抱えている。だが、それを自分の口から言いたくないのか、なかなか照瑠の思ったように口を割らない。
これ以上は我慢の限界だ。思い切って、単刀直入に尋ねてしまうか。そう思った照瑠だったが、沈黙を破ったのは意外にも詩織だった。
「ねえ、嶋本さん。もう、正直に話した方がいいわよ。これ以上騒ぎが大きくなっちゃったら、私たちの手には負えないもの……」
「手には負えないって……どういうことよ!?」
「実はね……」
重苦しい表情のまま、詩織は照瑠に先週の木曜日にあったことを話し始めた。
あの日、詩織は亜衣に誘われ、街外れの山にある廃屋へと肝試しに行った。心霊スポット巡りなど興味はなかったが、浩二が参加すると聞いて行く決意を固めたのだ。
だが、遊園地のお化け屋敷探索などとは違い、廃屋探検は彼女に恐怖しか抱かせなかった。森の奥まで累々と続くペットセメタリーの山と、今にも崩れんばかりの木造家屋。それだけでも十分に恐ろしかったが、なんと浩二は廃屋の中まで探索を試みた。
その後、浩二の悪戯に驚かされる形で探索を終えたものの、悪戯にしては不審な点も残っていた。そして、肝試しが終わったその翌日、浩二は学校に来なくなったのである。
「はぁ……。亜衣……あなた、あれだけ止めなさいって言ったのに、結局肝試しをやったわけ!? そんな場所に遊び半分で行くから、おかしなことに巻き込まれるんじゃない!!」
「ご、ごめん……。でも、本当は廃屋の外だけ見て終わりにするつもりだったんだよ。それが、まさかこんなことになるなんて……」
「言い訳は聞かないわよ。それよりも、今は長瀬君をどうするか。そっちの方が問題よ」
長瀬浩二はワルを気取ってはいたものの、決して自分から他人を傷つけるような男ではない。増してや、猟奇殺人を犯すような異常者でもない。少なくとも、照瑠の知っている限りはであるが。
浩二の様子がおかしくなったのは、廃屋から出てきた時からだという。詩織の言葉を信じるならば、その時から何か嫌な空気が漂っていたらしい。
実家が神社であるだけに、照瑠も神や霊といったものの力は信じている方であった。だが、それでも、憑き物によって殺人者へと変貌した者の話など聞いたこともない。祟りで命を落とすなどという話は耳にしたこともあったが、それは憑いた相手を殺すものであって、憑いた相手を狂気に走らせるものではない。
もっとも、今はそんなことを考えるよりも、浩二の行方を捜して正気に戻すことの方が先決に思われた。もしも浩二が悪霊の仕業で殺人を繰り返しているだとしても、警察はそんな話を信じないに違いない。なんとかして正気に戻してやりたいが、それにはあまりにも情報が少なすぎた。
「長瀬君がおかしくなったのが廃屋に行ってからなんだったら、全ての元凶はその建物にあるってわけね」
「うん。でも、どうすれば長瀬君を元に戻せるかなんて、分からないよ」
「そうね……。せめて、何かヒントにでもなるものがあれば……」
そう言って、照瑠も思わず腕を組んで考えた。父であれば何かを知っているかもしれないと思ったが、すぐにその考えは頭の中で打ち消される。
自分の父親はお飾りの神主に過ぎない。それは父も認めているところであり、九条神社で神事を執り行うのは巫女である母の役割だった。そんな母も照瑠が幼い頃に他界してしまい、今の九条神社は本来の体を成していない。ここに至って、照瑠は自分に巫女としての修行をさせなかった父を恨んだ。
神霊に関わりその世界に足を踏み入れることは、確かに大きな危険を伴う。が、それでもクラスの友達を助けることができるのであれば、力を持て余していることは罪にも思えた。
困った時の神頼み。およそ神社の娘が考えることではないが、今の照瑠達は八方塞な状態だ。神でも仏でも、なんでもいいから力を貸してほしい。そんな気分なのである。
「行こう……!」
突然、スッと前に出るようにして、詩織が照瑠達の先頭に立った。
「あの廃屋に……行こう……。もしかしたら、長瀬君を正気に戻すヒントが見つかるかもしれない」
「ほ、本気なの!? 昨日、あんなことがあったばかりじゃない!!」
「でも、このまま長瀬君を放ってはおけないもの。警察だって、幽霊だの祟りだのって話は信じてくれないだろうし、やっぱり私たちが行くしかない!」
これが、あの大人しく引っ込み思案な詩織だろうか。恋愛は時として人を変えると言うが、まさかここまでとは思わなかった。
眼鏡とお下げが似合う優等生。照瑠は詩織に対してそんなイメージしか持っていなかったが、なかなかどうして度胸がある。同時に、好きな人のためにここまで熱くなれる詩織のことを、少し羨ましくも感じていた。
「みんなが行かないなら、私一人でも行くわ。だから、九条さんも嶋本さんも、無理しなくていいわよ」
「でも、相手はこっちのことなんてお構いなしかもよ。昨日だって、長瀬君は本気で私たちを殺そうとしていたみたいだし……」
「それでも行く。その結果、長瀬君に殺されても……私は本望だもの」
背を向けたまま話す詩織の言葉に、照瑠と亜衣は思わず顔を見合わせた。
好きな人になら殺されても幸せという考え。今時珍しいほどの純愛だが、同時に狂気へと転落する可能性も秘めた愛情である。部活で汗を流す姿を木の陰から見守るくらいなら良いが、暴走すればストーカーになりかねない。
詩織はこれほどまでに危ない面を持っていた人物だったのか。今まで知らなかった一面を知り少々引いてしまった照瑠ではあるが、それでも同じ部活の友人である。このまま放っておくわけにも行かないし、それは浩二に対しても同様だ。彼をあのまま殺人犯として警察に差し出すなど、間違ってもやってはいけないことだと思った。
「私も行くわ。昨日のこともあるし、ここまで知っちゃたら自分だけ逃げるのも気が引けるもの」
「私もだよ。元はと言えば、私が肝試しに誘ったりしたのが悪かったんだもんね」
「みんな……。ありがとう……」
そう言って振り返った詩織の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。それを見た照瑠は心の中で安堵の溜息をつき、詩織に向かって微笑み返す。
ああ、やっぱり詩織は詩織のままだ。大人しくて、引っ込み思案で、それから少しだけ泣き虫で。部活で初めて会った時と、根っこの部分は何も変わっていない。そんな詩織が好きな人のためにここまで積極的に動こうとしているのだ。これはますます、放っておくわけにはいかなくなってしまった。
日が落ちるまでは、まだ時間がある。夜になる前に、せめて何かのヒントをつかみたい。そう考えた照瑠達は、山の廃屋目指して歩き出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
照瑠達が林道の入口にたどり着いたとき、時刻は既に五時半を回っていた。ここから廃屋に向かったとして、到着するのは六時の少し前といったところだろう。それから暗くなる前に廃屋の探索を済ませるとなると、時間は殆ど残されていない。
―――――必ず三人一緒に行動すること。
―――――危険なことがおきたら、一目散に逃げること。
探索に際しての約束事を確認し、三人の少女は林道の入口に向かって対峙する。全てを解く鍵はこの奥にある。確証はないが、そう思えてならないのだ。
「行こう……」
震える声で、先頭に立っている詩織が言った。ここに来る前までは気丈な一面を見せた彼女も、やはり本心では怖がっているのだろう。口に出してはみたものの、なかなか最初の一歩を踏み出せない。
このままでは、いずれ日が落ちてしまう。そうなれば、廃屋の探索は中止せざるを得ない。それぞれが足を踏み出せず、もどかしい気持ちのまま時間だけが過ぎてゆく。
だが、その静寂は、突如として響いた草を掻き分けるような音によってかき消された。思わず音のする方に顔を向けると、そこには古びたレインコートを着た男が立っている。手にはしっかりと鉈を持ち、その目は真っ直ぐにこちらをとらえていた。
「な、長瀬君!?」
そう、詩織が叫んだ時には既に遅かった。
低い獣のようなうなり声を上げながら、長瀬浩二は手にした鉈を振り上げてこちらに向かってきた。こうなった以上、もう探索をするどころではない。
「やめてよ、長瀬君! お願いだから、目を覚まして!!」
鉈を振り回しながら迫る浩二から逃げながらも、詩織は懸命に叫び続ける。だが、その言葉さえまるで通じていないようで、浩二は執拗に三人の後を追ってくる。
ここにきて、照瑠は詩織や亜衣と一緒に廃墟の探索へ行くことを申し出たのを後悔した。浩二が憑かれたのが山の廃屋だとすれば、そこは正に敵の本拠地とも言える場所だ。そんな場所に、何の準備もしないまま迂闊にも足を踏み入れてしまったのである。
自分の浅はかさ、軽率さが恨めしかった。詩織の気持ちは分からないでもなかったが、やはり強引にでも引き止めるべきだった。それこそ、お飾りの神主であっても父についてきてもらえばよかったのかもしれない。
そんな事を考えている内にも、浩二と照瑠達の距離は見る間に縮まりつつあった。浩二がバスケットで鍛えているのは知っていたが、それにしても速すぎる。これでは昨日とまるで一緒だ。このまま追いつかれ、今度こそ鉈で頭を叩き割られてしまう。
「うぉぉぉぉっ……」
焦点の定まらない目をしたまま、浩二の手にした鉈が振り下ろされた。彼と照瑠達の距離は目と鼻の先だ。
このままでは殺される。
そう思った照瑠はとっさに振り向くと、振り下ろされた鉈の一撃を学生鞄で受け止めた。ずしっという重たい感触がして、鞄を握る手を思わず下げそうになる。が、ここで力を抜けば、次にかち割られるのは自分の頭だ。
「このっ!!」
鞄に食い込んだ鉈を浩二が引き抜いたその隙に、照瑠は彼のすねを力の限り蹴り飛ばした。思わぬ反撃を受け、浩二がしばし後ずさる。しかし、すぐに何事もなかったかのようにして体勢を整えると、再び鉈を振りかざして向かってきた。
今度こそ、本当にもう駄目だ。そう思い覚悟を決めた照瑠だったが、救いの神というものは存在しているようである。彼女たちのいる道の向こうから、淡い光と共に自転車のペダルをこぐ音が近づいてきた。
(巡回中の警察官だ!!)
それに気づいたのは亜衣が最初だった。慌ててその側へと駆け寄ると、早口でまくし立てながら袖を引っ張っている。
「お、お巡りさん! と、友達が……急におかしくなっちゃったの!!」
「えっ! いったいどういうことかね!?」
「いいから早く来てよ! このままじゃ、私たち殺されちゃう!!」
とにかく早く来いと言わんばかりの口調でまくし立て、亜衣は巡回中の制服警官を半ば強引に自転車から引き摺り下ろした。始めはしぶしぶ降りた様子では合ったが、それは目の前に現れた浩二の姿を見て一変した。
薄汚れたレインコートを身にまとい、妙にやつれた長身の男。そんな者が、下校中と思しき三人の女子高生に向かって鉈を振り回しているのだ。
「と、止まれ! 止まらんと撃つぞ!!」
交番勤務の警察官は、普段はそう簡単に拳銃を抜くことはない。が、近くに同僚もいない今、とりあえずは相手の動きを止めて少女たちの安全を確保せねばならない。
そう考えての行動だったが、鉈を持った男は全く意に介さない様子でこちらに近づいてきた。
「止まれと言っているだろう! これは脅しではないぞ!!」
こうなれば、威嚇射撃も已む無しか。そう思い引き金に手をかけたが、それは先ほど彼を自転車から引き摺り下ろした亜衣の手によって止められた。
「駄目だよ、お巡りさん! あれは、私たちの友達なんだよ! なにかの原因で、ちょっとおかしくなってるだけなんだってば!!」
「し、しかし……。この状況では……」
そうこうしている間にも、浩二は鉈を構えて間合いを詰めてきていた。髪は乱れ、顔はやつれ、口からはだらしなくよだれを垂らしている。およそ、まともな人間とは思えない。このままでは、何もできないまま皆殺しにされてしまう。
もう、背に腹は変えられない。そう思った警察官の男は、亜衣の腕を振りほどいて拳銃を構えた。無論、本気で相手を殺す気などない。まともに射撃訓練も積んでいない制服警官では、足元を狙って威嚇射撃を行い、相手を怯ませるのがせいぜいだ。
ところが、彼がその引き金を引くよりも早く、一陣の黒い影が舞い込んだ。その影は浩二の行く手を遮るようにして割り込むと、威嚇するような仕草を見せて対峙した。
(あれは……)
昨日の夕刻、照瑠達を助けた黒い影。今再び、それが彼女達の目の前に現れた。あまりの偶然に、思わず言葉を失ってしまう照瑠。こんな偶然は、たまたま起きるものではない。それこそ、誰か事の成り行きを見守っている者がいなければ、偶然を装うにしても出来過ぎだ。
果たして照瑠の予想は正しく、現れたのは黒い影だけではなかった。いつの間に姿を現したのか、浩二の後ろには一人の少年が立っている。
古ぼけた黒い着物をまとい、白布で幾重にも巻かれた棒を手にした少年。その瞳は燃えるように赤く、肌は雪のように白い。笠の下からのぞく髪もまた、白金のように色がない。
「やはり傀儡に巫女を襲わせて来たか。見張りをつけておいて正解だったな」
そう言いながら、その少年、犬崎紅は懐から一本の細長い布を引き出した。彼の手にした棒に巻かれているものと同じく、その一面にはびっしりと梵字のようなものが書かれている。
鉈を持って錯乱する浩二に対し、紅は何ら恐れをなさずに近づいてゆく。対する浩二は再び低いうなり声を上げると、脇目も振らずに紅に向かって走り出した。
鉈が空を切る音がして、紅の頭に銀色の刃が振り下ろされる。が、その攻撃を予測していたかのようにして、紅は軽く身をそらして攻撃をかわした。
一発、二発、鉈が振り下ろされるたびに、空を切る虚しい音だけが響き渡る。浩二の動きは完全に読まれているようで、紅はそれを余裕でかわしている。
「な、なんだ、ありゃぁ……」
手にした銃を構えたまま、警察官が唖然とした表情で言った。鉈を振り回すやつれた少年と、それを避ける奇妙な格好の少年。あまりに非現実的な光景に、その場にいる誰もが毒気に当てられてしまっていた。
「そろそろ遊びは終わりだ。本命でないやつにいつまでも構っていられるほど、俺は暇じゃない」
何発目かの攻撃をかわし、紅が手にした布を振りかざして投げつける。投擲された布の先は、まるで意志を持っている生き物のようにして、暴れる浩二の首に巻きついた。
「ぐぅぅ……あぁぁぁ……」
地獄の底から響くような唸り声を上げて、浩二が首に絡みついた布を振りほどこうともがく。が、ただ首に布が巻きつけられただけだというのに、明らかに変化が現れていた。鉈を振り回していた時の勢いはどこへやら、今は首に巻きつく布に触れるだけで精一杯の状況だ。
「仕上げだ。任せたぞ、黒影」
片腕で手綱を引くように布を持ったまま、少年が先ほど現れた黒い影に向かって言った。すると、どうだろう。影は見る間にふくらみはじめ、地面から盛り上がるようにして起き上がったのだ。その形は最初こそ不定形なものだったが、すぐに犬のような姿となって大きく雄叫びを上げた。
全身を黒いどろどろとしたもので構成する巨大な犬。姿形こそ犬のものだが、それがただの犬ではないということは、その場にいる全員が理解できた。大きさも虎ほどあり、なによりそれが生きている物なのかどうかさえ不明だ。
脈打つ闇で覆われた体の中にある二つの光が浩二をとらえた。全てを飲み込むような暗闇の体とは対照的に、その顔にある瞳は鈍い黄金色に輝いている。
次の瞬間、その巨大な黒い犬が浩二に向かって飛び掛った。その光景に、詩織が思わず両手で目を覆う。が、予想された惨劇のようなものは起こらず、黒い犬は再び影となり浩二の口の中へと入ってゆく。
影を飲み込み、せわしなく痙攣を始める浩二。やがて、その口の中からどろっとした粘液のようなものを吐き出すと、彼はそのまま道に倒れて動かなくなった。
「片付いたか……」
倒れた浩二の首から布を解き、紅はそれを手際よく懐にしまう。ふと見ると、先ほど浩二が吐き出した白い塊が、徐々に何かの形を作ってゆく。
「なに、あれ……。あれも犬……?」
浩二の吐き出した塊は、照瑠達の見ている前で犬のような形になった。その塊はしばらく形を保っていたが、やがて照瑠達の前で崩れ去り、天に昇る煙のようにして消えてゆく。
時間にして、ほんの数分に満たない出来事だった。だが、それでも照瑠や亜衣達は、少年と浩二の一連のやりとりが、未だ夢の世界の出来事のように思われた。
焦点の合わない目のまま錯乱し、鉈を振り回すかつての級友。
それを沈めたのは奇妙な姿をした少年と、黒い犬のような闇の塊。
あまりにも現実離れした、およそ信じられないような光景。夢の中でしか起こりえないような、現実にしては極めて馬鹿馬鹿しい出来事。
しかし、それが夢でないことは、ここにいる全員が同じ光景を見ていることからも明らかだった。そして、そんな彼らの興奮も冷めやらぬ内に、紅は亜衣に視線を向けて口を開いた。
「さあ、それじゃあ教えてもらおうか? お前たちの知っている、化け物の巣窟をな……」