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~ 四ノ刻   疑惑 ~

 その日、九条照瑠が学校へ着くと、教室で丸まっている一人の少女の姿が目に入った。


 嶋本亜衣だ。机につっぷすような形で腹を抱えて背中を丸めている。ホームルームの時間にはまだ早かったが、どこか具合でも悪くしたのだろうか。


「おはよう、亜衣。どうしたのよ、そんなところで丸くなって」


「うぅ……照瑠か……。ちょ、ちょうどよいところへ……」


 顔面蒼白になり、今にも倒れんばかりの表情で迫る亜衣。思わずたじろいでしまう照瑠だが、そこは友達である。なんとか気を取り直し、再び亜衣に声をかけた。


「どうしたのよ、亜衣。どこか、具合でも悪いの?」


「ヨ、ヨーグルト……」


「へっ!?」


「今朝ね……冷蔵庫にあったヨーグルトの残りを食べたら……こうなった……」


「だ、大丈夫? でもあなた、そんなにお腹弱かったっけ?」


「ハハハ……」


 引きつった笑みを浮かべながら、乾いた声で笑う亜衣。どうやら、かなり限界に近いようだ。


「や、やっぱり……消費期限の切れたやつを食べたのが悪かったかな……。ちょっとすっぱい臭いが強かったけど……大丈夫だと思ったのに……」


 呆れてものも言えなかった。


 賞味期限と違い、消費期限はその食品を安全に食べることのできる期日を記したものだ。味が落ちるだけの賞味期限とは違い、食べたら最後、責任は持てないというものである。


 ヨーグルトといえば発酵食品だ。当然、消費期限の切れたヨーグルトなど、中で二次発酵している可能性がある。残りということは既に開封済みだったであろうから、さぞたくさんのバクテリアが湧いていたことだろう。


 腐ったヨーグルトを食べて腹を壊す。自分の友人のことながら、まったく馬鹿馬鹿しいことこの上ない。が、それでも放っておくわけにもゆかず、腰を落として亜衣の顔を見る。


「ねえ、本当に大丈夫? 一緒に保健室まで行こうか?」


「いや……それはいいよ……。でも……」


 そう言いながら、亜衣は照瑠の腕をしっかりとつかんだ。目線は既に下に落ち、肩も小刻みに震えている。


「お、お腹……さすってくれないかな……。無理だったら、背中でもいいよ……」


「お腹って……。それよりも、早く保健室に行った方が絶対にいいわよ」


「だ、だめ……。今、一歩でも動いたら、いろんなものが下から一気に噴き出しそうだから……」


 最悪だ。およそ、お年頃の女子高生の発言とは思えない。が、仮に亜衣の言っていることが現実となった場合、朝の教室は世にも恐ろしい惨劇の場と化すだろう。友達として亜衣を助けてあげたい気持ちもあるが、なにより照瑠自身、朝からそんな地獄絵図を見たくはない。


「もう……。仕方がないわね……」


 そう言いながら、照瑠は丸まったままの亜衣の背中に手を伸ばしてさすり始めた。ただ普通に背中をさすっているだけなのだが、亜衣の顔は少しずつ赤みを取り戻していった。


 始業のチャイムが鳴り、担任が教室に入ってくる。その頃には具合もすっかりよくなったようで、照瑠はほっとした様子で亜衣の背中から手を離した。


「どう? 少しはよくなった?」


「うん。少しどころか、もう絶好調って感じ! 悪いもの、全部なくなったみたい」


「本当? まあ、あなたがそう言うなら別にいいけど……」


「大丈夫、大丈夫。でも、さすが神社の跡取り娘だよね。神の右手、ここに極まれりって感じ?」


「なに言ってんのよ。私はお母さんやお祖母ちゃんと違って、何の修行もしてないんだからね」


 先ほどの様子が嘘のような亜衣を見て、照瑠は半ば呆れた表情で言った。


 亜衣が照瑠に体をさすってもらうことを頼むのは、何も今日に始まったことではない。いつだったか、彼女が偏頭痛に悩まされていた時、照瑠は心配して頭をなでてやったことがある。特に意識して何かをやったわけではなかったが、亜衣の頭痛はピタリと止んだ。


 それ以来、亜衣は照瑠の手を≪神の右手≫と言って賞賛していた。まあ、実際は右手であろうと左手であろうと、さすれば彼女の体調不良は直ってしまったのだが。


(何が神の右手よ。まったく、調子がいいんだから……)


 出席を取る担任を他所に、照瑠は亜衣の後姿をぼんやりと眺めて考えた。


 医学用語でプラシーボ効果というものがある。患者の強い思い込みを逆に利用し、自然治癒力を高めるというものだ。


 例えば、ただの小麦粉をよく効く睡眠薬と称して不眠症の患者に渡す。すると、患者が担当医を心底信頼していた場合、小麦粉を飲んでも熟睡できてしまうという。病は気からとはよく言ったもので、人間の思い込みは、時に病気をも治癒する力があるらしい。


 小麦粉の例とは少し異なるが、照瑠は亜衣の言う神の右手も同じ物だろうと思っていた。神社の跡取りという自分の立場と、都市伝説マニアの亜衣が持つ妙な信仰心。これらが上手く重なって、亜衣は照瑠に不思議な力があると思い込んでいるのだろう。その結果、ただ背中をさするだけでも腹痛を鎮めるまでに至ったのではないか。


 自分は神社の跡取りではあるが、超能力の類が使えるわけではない。亡くなった母や祖母は巫女として崇められていたようだが、それでもかなり厳しい修行を積んだと聞く。自分は今まで、そんな修行などしたためしがない。父に話をしても、「お前はまだその時期ではない」と言われて断られた。


(それにしても、今日も雨か……。いったい、いつになったら晴れるんだろう?)


 窓の外を眺めながら、照瑠がふとそんなことを考えた時だった。


「なんだ……。長瀬のやつ、今日も休みか……」


 担任の声に、思わず生徒達の視線が一点に集中する。


 長瀬浩二。先週の金曜日も、彼は学校を無断欠席していた。土日を挟んで月曜となったが、未だ具合が悪いのか。それとも単にサボっているだけなのか。


 しばらくの間、教室では生徒達がざわついていた。が、担任に注意され、すぐに前を向いて口を閉じる。休みの理由は少し気になったが、無断欠席では詳しいことを知りようもなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 住宅街の中央に構える公園は、朝から多くの人で溢れ返っていた。とはいえ、そこにいるのは近所の住民などではない。住民は公園から完全に閉め出され、中にいるのは警察の関係者ばかりだ。


 公園の入口に集まる野次馬を追い払うようにして、一台のパトカーが現れた。中から現れたのは、無骨な中年刑事と細身の若手刑事。岡田肇と工藤健吾の二人組みだ。


「お疲れ様です、岡田さん!!」


 現場を管理していたと思われる警官の一人が岡田に敬礼した。彼に案内される形で、岡田と工藤は黄色いテープを潜り抜ける。


「うぇっ……」


 現場に残された死体を見て、工藤が思わずハンカチで口を押さえた。


 死んでいるのは女性のようで、喉下が激しく損傷しているのが分かる。着ているシャツと下着は無残にも引き裂かれ、その胸の中心にも大きな傷跡があった。シャツも肌も血で染まり、赤くない部分を探すほうが難しい。はだけた胸を見てもいやらしさは全く感じられず、おぞましさだけが際立っている。


「せ、先輩……。これって……」


「ああ、間違いねえ。この前の金曜日、河川敷で見つかった死体と同じだ」


「そ、それじゃあ、同一犯の犯行ってことですか!?」


「ああ、たぶんな。それにしても酷えことしやがる。まだ二十歳になるかならないかぐらいの娘を、こうも惨たらしいやり方で殺すなんてよ……」


 今にも吐き戻しそうになる工藤とは違い、岡田はあくまで冷静な口調で言った。が、その声には確かに静かな怒りが込められていた。


 残虐非道な方法で若い女を殺す。そんな事が、これ以上許されてなるものか。


「おい、工藤。お前はこれから聞き込みに回れ。俺はガイシャの身元が分かり次第、そっちに連絡する」


「は、はい……。できれば、僕もお供したいところですが……」


「無理すんじゃねえよ。今のお前には、この女の死体と一緒にいるのは刺激が強すぎるだろ?」


 そう言って、岡田は工藤の背中を押すと、現場の外へと連れ出した。正直、これ以上は見ていられなかったので、工藤にとっては渡りに船である。


「それじゃ、岡田さん。僕も何かわかったら、すぐに連絡しますんで」


「おう。聞き込みが終わったら、お前も一度署に戻ってきてくれ」


「了解ッス!!」


 やや大げさに片手を挙げ、人ごみの中に消えてゆく工藤。岡田はしばらく工藤の背中を見ていたが、やがて気を取り直したように殺された女性の方へと体を向けた。


 未だ田舎の風景の名残を残す街で起きたにしては、あまりにもおぞましい猟奇殺人事件。岡田はこの事件の裏に、今までにない大きな闇が待ち構えているのではないかと感じていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 N県警火乃澤署。


 署内に戻った岡田と工藤は、他の刑事達と共に会議室で署長を前にしていた。週末に起きた連続猟奇殺人事件解決のため、今一度捜査状況を明らかにした上で強力な捜査体制を築こうという狙いだ。


「では、これより火乃澤町で起きた連続猟奇殺人事件について、情報を整理したいと思う」


 ホワイトボードには被害者の写真や赤丸が印された地図が貼られ、そこから様々な矢印が伸びている。今回の事件の相関図だ。


「まず、最初の被害者は米倉晴美。郷土史を専攻している女子大生だ」


 署長の手にした棒が、米倉晴美の写真を指した。


「事件当日、米倉晴美は大学の研究室での作業をしていた。作業を終えて、帰宅する途中に襲われたものと思われる。遺体の発見現場はS河の河川敷だが、彼女が家に帰るための道からは大きく外れている。よって、殺害現場は遺体発見現場とは異なっている可能性もある」


 地図にある赤丸の部分を棒で軽く叩き、署長はさらに続けた。


「米倉の次に殺されたのは、川添麻衣という女性だ。こちらは短大生で、アルバイトの帰りだったらしい。今朝、公園を散歩中のご老人が遺体を発見した」


 今度は赤丸で印された公園を指して言う署長。今朝の記憶が蘇り、工藤は思わず吐き気をこらえて口に手を当てた。


「殺された二人の間に、これといった接点はない。よって、通り魔的な犯行の線が濃厚だが、顔見知りによる犯行の可能性も否定はできない」


 米倉、川添に続く三枚目の写真を指して、署長は説明を続ける。


「殺された米倉晴美だが、以前から彼女に交際を申し込んでいた男がいたらしい。名前は会田幹夫。米倉と同じ大学の学生で、何かと問題行動の多いやつだったらしい。彼女に交際を断られてからはストーカー紛いの行いをして、警察からも厳重注意を受けている。ここ最近は自分の研究資料を集めると言って大学を離れ、その後は行方不明になっている」


 行方不明という部分をことさら強調し、署長は説明を終えた。殺された二人の間に接点がないことから、異常者の通り魔的な犯行と考えたくなるのが普通である。が、米倉晴美にストーカー紛いの行いをしていた者がいたとなれば、その人物もにわかに怪しさを増してくるのだ。


 会議を終え、新たに捜査に向かう刑事達。相手が猟奇犯罪者なだけに、通常の捜査と同じ感覚で仕事をしても犯人は捕まらないだろう。こうした異常な罪を犯す者は、時として信じられないほど善良な市民という顔を持っていることもあるのだ。会田幹夫のことを頭の隅に入れつつも、他の線でも捜査を進めねばならない。


 そんな中、会議室を出た工藤も、先輩の岡田と共に再び捜査を開始した。もっとも、小難しいプロファイリングの技術などないだけに、聞き込みを主とした地道な捜査を続けるしかないのだが。


「岡田さん、ちょっといいですか?」


 パトカーの運転席に座ったまま、工藤が岡田に尋ねた。


「さっきの捜査会議では言えなかったんですけど……」


「なんだよ。勿体つけずに、さっさと言え」


「は、はい。実は、僕が今朝の事件の後にした聞き込みで、もう一人行方不明者が出ていることが分かったんです」


「なっ……! どうしてそれを早く言わないんだよ! もし、事件と関係があったらどうすんだ!?」


「い、いえ……。確かに行方不明は行方不明なんですが……。どうも、今回の事件には関係がなさそうだったんで……」


 猛烈な剣幕で怒鳴り散らす岡田に思わず身を縮める工藤。聞き込みで得た情報は余すことなく伝えておこうと思ったのだが、どうやらとんだ藪蛇だったようだ。


「行方不明になったのは、県立火乃澤高校に通う男子生徒です。名前は長瀬浩二。金曜の朝に家を出て、それから行方が分かりません。一応、捜索願も出されているみたいですけど……」


「なるほどな。まあ、行方不明の高校生が犯人なんてのは、さすがに考えられねえか」


「そうですよね。たぶん、ちょっとした家出かなんかだと思いますよ、僕も」


 そう言うと、工藤はパトカーのアクセルを踏み、一足遅れて街へと繰り出した。


 閑静な田舎町に現れた恐るべき猟奇殺人犯。その正体に関しては、この時の二人はまったく知るよしもなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 六限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、九条照瑠はいそいそと荷物をまとめて教室を出た。彼女が向かうのは文芸部の部室。先週は体調が優れずに休んでしまったが、そう何度も部活を休むわけにもいかない。


 照瑠の所属する文芸部は、彼女の通う高校の中でも古い歴史を持つものだった。単に本を読むだけに留まらず、月に一回は校内向けの既刊誌を発行している。自分たちが読んだ作品の紹介や批評、さらには自作のポエムなどを載せた簡単なものだ。


 そんな文芸部ではあったものの、今やその活動にも陰りがさしつつあった。所詮は高校生の集まりでしかない素人集団。どこぞの評論家のような優れた批評ができるわけでもなく、ポエムを書ける人間も限られている。今では既刊誌の内容も、単なる学生の感想文集のようなものになってしまっていた。


 極めつけは、文芸部を構成する部員の問題である。照瑠と同じ一年生は、彼女の他に一人だけ。三年生は部長と副部長がいるだけで、二年生に至っては、その殆どがマン研と勘違いして入部してきたチャランポラン部員だ。つまり現在の文芸部は、照瑠を始めとした数人の部員だけで運営されているに等しいのである。


「あっ、九条さん!」


 部室の扉を開けると、そこには既に先客がいた。照瑠と同じ一年生の加藤詩織だ。


「詩織の方が早かったみたいね。先輩達は?」


 学生鞄を椅子の下に置いて、照瑠も部室のパイプ椅子に腰掛けた。部屋の中央に置かれた長机には、今月に発行する既刊誌の原稿が散らばっている。


「二年生は、例の如くお休みよ。今度発行する同人雑誌の締め切りが近いからって言っていたわ」


 原稿の誤字、脱字を確認しながら、詩織がうんざりした様子で言った。


「同人雑誌の締め切りねぇ……。まあ、私たちがとやかく言うことじゃないのかもしれないけど、先輩として、少しは部の活動に協力してくれてもいいわよね」


 部室の本棚に並べられたライトノベルの山を見ながら、照瑠も詩織に合わせて相槌をうった。


 今や本棚の三分の一を占めようかというライトノベルたちは、全て二年生の先輩が持ち込んだものだ。人の読む本にケチをつけるつもりはなかったが、照瑠はライトノベルというジャンルがどうにも好きになれなかった。あの軽さが良いと評価する人達は口々に言うのだが、照瑠は逆にその文体や内容そのものが苦手だった。


 彼女が好んで読むのは、主に古典文学を中心とした作品だった。古文をそのまま読むのは手間がかかるが、今では現代語に書き直されたものも存在する。照瑠が読んでいるのは、主にそういった本である。


 まあ、古典好きな女子高生など、今のご時勢では珍種なのかもしれない。かといって、周りに迎合して趣味と外れた小説を読もうという気にはならなかったが。


「とりあえず、誤字や脱字はないみたいね。後は、≪今月お薦めの一冊≫のコーナーをどうするか、だけど……」


 チェックの済んだ原稿を束ね、詩織が照瑠に尋ねてきた。が、照瑠もすぐには良い答えが浮かばず、しばし腕を組んで考えてしまう。


「誰にでも読みやすく、それでいて文芸部らしい作品を紹介しないといけないのよね……。正直、なかなか難しいわよ」


 自分の好きな本を紹介するのは簡単だが、それが万人受けするとは言い難い。以前、二年生の先輩に自分の好きな作品を紹介した時のことで、照瑠もそれは身にしみていた。


 ライトノベルしか読まない先輩たちに照瑠が紹介したのは、古典文学の名作の一つに数えられる源氏物語だ。無論、現代語に翻訳されたものである。


 だが、やはり文章量の多さに圧倒されたのか、先輩達は途中で読むことに挫折してしまった。そして、最終的に彼女たちが持ってきたのは、なんとマンガにされた源氏物語の本である。


 古典文学をマンガで紹介することが、全て悪いとは思わない。が、先輩達は持ち込んだマンガ版の源氏物語を開いては、「きゃー、いやらしいー」などと黄色い声を上げて盛り上がっているだけだった。


 大人の恋愛を描いている以上、ある程度は性的な描写が含まれることは否めない。しかし、それだけに目を向けられても困るというものだ。


 この時から、照瑠は自分の趣味が周囲に理解され難いということを感じていた。それだけに、全校生徒に向けてお薦めの本を紹介するようなコーナーで、自分の趣味を全開にして本を紹介するわけにもいかないのだ。


「やっぱりここは、先輩たちに頼るしかないかなぁ……。私が紹介できる本って、他の人からすると、ちょっと硬いイメージがあるみたいだし」


「でも、来週までに原稿を仕上げないといけないのに、一ページも書いてないのはまずいわよ。せめて、紹介する本だけでも決めておかないと」


「そうね。でも、ここにある本で、まだ紹介していないのあったっけ?」


 再び本棚に目をやって、照瑠は改めて本のタイトルを見直してみる。二年生が持ち込んだライトノベルを除いては、どこかで紹介したことのある本ばかり。やはり、間に合わせでどうにかできるものではないらしい。


「仕方ない。次の活動までに、なんとか紹介できる本を探そうか。駅前の本屋で探せば、新刊の一冊くらいはみつかるかも」


 そう言って、照瑠とは荷物をまとめ立ち上がった。活動を終えるのが少し早い気もしたが、原稿のネタになる本がないのではどうにもならない。


 だが、そんな彼女の姿を見た詩織は、ふと何かを思い出したようにして照瑠を引き止めた。気のせいか、先ほどと比べてやや深刻そうな面持ちだ。


「ねえ……そういえば……」


「何? 原稿のこと、何か思いついた?」


「そうじゃないの。ただ……今日も、長瀬君休みだったんだって?」


「ええ、そうよ。金曜からずっといないけど、どこか具合でも悪いんじゃない?」


「そっか……」


 詩織はそれ以上追及しなかった。一瞬、彼女が言葉を詰まらせたのが気になった照瑠だが、詩織の気持ちを考えれば無理はないと思った。


 加藤詩織は長瀬浩二のことが好きだ。本人から直接聞いたわけではないが、そこは同じ部活で顔を合わせる仲間である。浩二のクラスが照瑠のクラスと同じということもあって、二人を引き合わせるお膳立てをさせられたこともあるくらいだから間違いない。


 不安げな顔をして立ち上がる詩織の背を押すようにして、照瑠は彼女と共に部室を出た。日が落ちるまでにはまだ時間があるため、曇天の空とはいえ外は明るい。


 下駄箱に続く廊下を抜け、傘を片手に校門へ向かう二人。まだ雨は降り出していないためか、校庭にはぎりぎりまで練習を続ける運動部員たちの姿もある。


 そんな彼らの姿を横目に照瑠と詩織は校門を抜けて外へと出た。すると、待ち構えていたかのようにして、小さな人影が彼女たちの前に飛び出す。


「あっ、照瑠! それに加藤さんも!」


「あ、亜衣!? どうしたのよ、こんなところで?」


「へへっ……。実は調度、道連れにする仲間を探していたところなんだよね」


「み、道連れって……。どうせまた、ろくでもないこと考えているんでしょ」


 目の前で意味深な笑みを浮かべる亜衣に、照瑠が呆れた顔をして呟いた。都市伝説マニアの亜衣だけに、また肝試しのお誘いでも仕掛けようというのだろうか。


 そう思い警戒した照瑠だったが、亜衣の口から出たのは照瑠の予想に反した言葉だった。


「二人とも、これから何か予定ある? ないんだったら、ちょっと駅前まで付き合って欲しいんだけど?」


「駅前? また、どうしてそんな……」


「別に深い理由なんてないよ。ただ、このまま帰るにしても中途半端な時間だし、久しぶりに駅前の甘味屋に寄り道しようと思っただけだよ」


「甘味屋って……。あなたねえ……今朝、腐ったヨーグルト食べて腹痛起こしたの、忘れたの?」


「大丈夫、大丈夫! なんたって、照瑠様の神の右手の御力で治していただいたのですから! もう、元気百倍絶好調って感じだよ!」


「はぁ……。あなた、きっと長生きするわよ……」


 朝には食中毒になりかけたというのに、その日の夕方には甘味屋へ寄り道する友人を探して待ち伏せをする。まったく、亜衣の底抜けのパワーには脱帽だ。なんだかんだで、こういった人間が百歳まで余裕で生きるタイプなのかもしれない。


「それじゃ、時間も勿体無いし、早く行こ! 加藤さんも来るよね?」


「う、うん……」


 既に甘味屋へ寄り道する気満々の亜衣に対し、詩織はどこか乗り気でない様子で返事をした。照瑠もその時は、ただ相手に合わせているだけだろうと思い気にはしなかった。


「仕方ないわね。私も付き合ってあげるけど、あまり遅くならないようにしないとね。家に帰る時は駅と反対方向に行かなきゃならないし、この辺も最近は物騒だし」


 今朝方放送されていた猟奇殺人事件のニュースを思い出し、照瑠は最後の方をことさら強調して言った。亜衣の話す都市伝説の話にも怪談じみたものは多かったが、実際の犯罪者に遭遇することを考えると、そちらの方がよっぽど恐ろしい。


 そんな照瑠の気持ちなど知ってか知らずか、亜衣は意気揚々と先頭に立って歩き出した。仕方なく、照瑠と詩織も互いに頷いて後を追う。が、照瑠はすぐに足を止めると、ふと後ろが気になって振り返った。


 彼女の視線の先にあるもの。それは学校の屋上である。その屋上のフェンスの向こうに、照瑠は確かに一つの影を見た。


(あれ……確か……)


 先日のことが、まざまざと照瑠の脳裏に蘇る。九条神社を訪れた、赤い瞳をした少年。その彼が、こちらを見下ろすような姿勢で学校の屋上にいたのだ。


 昨日の少年が、なぜ学校の屋上にいるのか。そもそも、立ち入り禁止のはずの屋上に、どうやって忍び込んだのか。謎はつきないばかりであったが、その答えを照瑠が考えるよりも早く、少年の姿はフェンスの向こう側に消えた。


「どうしたの、九条さん?」


 怪訝そうな顔をして、詩織が照瑠に呼びかけた。慌てて声のする方へと振り向くと、照瑠は平静を装って返事をする。


「別に何でもないわ。ちょっと、考え事してただけよ」


 あの少年が何者なのかは気になったが、今は考えても答えは出そうにない。友人を待たせているのも悪いと思い、照瑠はそのまま残る二人と共に学校を後にした。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 楽しい時間ほど過ぎるのは早い。それは誰しもが一度は思ったことではないだろうか。


 亜衣の誘いで甘味屋へと向かった照瑠たちだったが、やはり時間とは無情なものである。注文した餡蜜をたいらげ、その後もおしゃべりに花を咲かせていたのが失敗だった。


 気がつくと、時計の針は六時と半分を回ったところだった。このままでは、帰る頃には辺りも真っ暗になってしまう。慌てて席を立ち上がると、手早く会計を済ませて店を出る。


「ちょっと遅くなっちゃったわね。早く帰らないと、このままじゃ真っ暗になっちゃうわよ」


 詩織と亜衣の二人を急かし、照瑠は住宅街へと続く道を急いだ。亜衣は例の調子で「大丈夫、大丈夫!」などと言っているが、詩織はどこか沈んだ様子でとぼとぼとついてくるだけだ。


 そういえば、甘味屋で餡蜜を食べていた時から詩織の様子がおかしかった。亜衣の下らない話に耳を傾けるだけだったとはいえ、それでも照瑠は話を合わせて一緒に笑ったり自分の考えを話したりしていた。


 だが、詩織は始終頷くだけで、あまり会話に参加しようとしていなかった気がする。何か他のことが気になって、会話に集中できないようにも受け取れた。


 そう考えてみると、亜衣の態度も妙だった。彼女の話が下らないのはいつものことだが、それでも都市伝説やオカルトの類の話をする時、彼女の目は物凄く輝いている。


 今日の亜衣には、その輝きが感じられなかったのだ。話す内容も学校で起きた珍事件などをネタにしたものが多く、怪談的なオチはまるでない。話したいことを話しているのではなく、どこか無理して空元気を出しているようにも感じられた。まるで、何か触れてほしくないものを隠すように。


「ねえ、亜衣?」


 普通に話しかけたつもりだったが、照瑠の声に亜衣は肩をビクッと震わせて反応した。


「どうしたの?」


「いや、ちょっとね。急に声かけられたから、びっくりしただけ」


 今まで見せていた楽観的な態度が影を潜め、明らかに何か別のことを考えていたということが分かる。思考が態度に出やすいのは分かりやすくて助かるが、それでも頭の中で何を考えているかまでは窺い知ることはできない。


 いったい、詩織や亜衣に何があったのか。ここ最近の妙な胸騒ぎも相俟って、照瑠はどうにも疑念を振り払いきることができないでいた。見た目は至って平穏な日々が続いているようだが、その裏では何かよくないことが着々と進行しているのではないか。


 ふと、そんなことを考えてもみたが、その続きを考えることは詩織の声によって打ち消された。


「やだ……。また降ってきてたわよ」


 霧のような雨を撒き散らす雲を憎々しげに眺めながら、詩織が手にした傘を広げた。照瑠と亜衣もそれに続く形でそれぞれの傘を広げる。


 先週の金曜日から、こんな霧雨がいつ終わるともなく続いている。まるで、何か陰鬱な気に引きずられるかのようにして、灰色の雲はいっこうにこの地を去ろうとしない。湿気も酷く、空気そのものが淀んでいるような感覚に陥ってしまう。


 霧雨の中、照瑠達はそれぞれの家がある住宅街へ向けて歩き続けた。徐々に人通りも少なくなり、この天気も相俟って妙な不安感を覚える。


 先日、テレビのニュースでやっていた猟奇殺人事件のことが再び頭をよぎった。そういえば、犯人が捕まったという話は未だ聞かない。よくよく考えると、そんな街の夜道を女子高生三人だけで歩くというのは極めて危険なことではないだろうか。


 そう考えた矢先、先頭を行く亜衣と詩織の足がパタリと止まった。何事かと思い、二人の見つめる先に視線を向ける。


「ねえ、どうしたの?」


「九条さん……。あれ……」


 震える声で、目の前にあるものを指差す詩織。そこには薄汚れたレインコートを着た、一人の男の姿があったのだ。


 薄ぼんやりとした街灯の光に照らされるようにして、その男はじっとこちらを見つめたまま立っていた。頭はフードでしっかりと覆われており、ここからは中の顔をよく見ることができない。


 もっとも、それだけなら単に通行人として気にも留めなかったことだろう。が、詩織や亜衣が足を止めた理由は、男の手にしているものにあったのだ。


 男の右手に握られたもの。それは、古ぼけた一振りの鉈だった。他には荷物らしきものさえ持たず、鉈だけを握り締めてこちらを見つめている。


 閑静な住宅街の一角において、それは明らかに異常な光景だった。あれは、明らかにまともな人間ではない。少女達の直感がそれを告げていた。


 次の瞬間、誰が叫ぶともなく照瑠達は一目散に逃げ出した。どこへ逃げるかなど考えてはいない。ただ、あの鉈を持った男は間違いなく危険だ。そう、直感的に判断し、今来た道を引き返すようにして駆け出した。


 互いに言葉を交わしている余裕などなかった。後ろからは、男が走って追いかけてくる足音だけが近づいてくる。


 なぜ、自分たちが追われなければならないのか。それさえ分からぬままに逃げ続けたが、考えもなしに路地裏を走り回ることはあまりに無謀だった。


「うそっ! 行き止まり!?」


 無我夢中で走り続けているうちに、袋小路に迷い込んでしまったらしい。こうなると、もう逃げる術は残されていない。


 霧雨の中、鉈を持った男がじりじりとこちらに詰め寄ってくる。詩織と亜衣、二人の友人を庇うようにして、照瑠は男と対峙した。目の前の男をにらみつけるが、それでも恐怖がないわけではない。現に足は振るえ、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。


「ど、どうしよう……」


 いつもは能天気に構えている亜衣も、完全に恐怖に飲まれているようだった。都市伝説で噂される妖怪の類であれば、撃退方法を知っていたかもしれない。しかし、相手が凶器を持った変質者であれば、ただの女子高生など三人集まったところで無力に等しい。


 鉈男と照瑠達の距離がさらに縮まり、その手に握られた刃が振り上げられる。



――――もうだめだ!!



 思わず目をつぶり、照瑠はこぶしに力を込める。鈍い銀色をした刃が空を切り、彼女の頭に降り下ろされる。


 だが、最後の時を覚悟した照瑠の頭に男の刃が叩きつけられることはなかった。


 男が刃を振り上げると同時に、照瑠の影が細長く伸びたのだ。街灯の薄い灯りによって作られた、これまた薄い色の影。その影は音もなく照瑠の足元から伸びると、瞬く間に深淵の底のような黒さを帯びてくる。


 一瞬、何が起きたのか照瑠達にも分からなかった。


 照瑠の体から離れた影は、目の前で鉈を振り上げる男の影にまとわりついている。いや、正しくは食らいついているといった方がよいだろう。男はなんとかして影を振り払おうともがいたが、いくら鉈を振り回そうと、相手は所詮影である。物理的な攻撃でどうにかできるものではない。


 黒い塊が男の影に噛みつき、男は噛まれた場所と同じところを押さえて苦しんだ。その姿を、半ば呆然とした様子で見つめる照瑠達。


 今、自分達の目の前で起きていることは何なのか。およそ常識では理解できないことだけに、頭の回路が追いついてゆかない。


 だが、それでも照瑠は暗がりの中に、自らの影の中から現れた黒い塊の姿をはっきり見たのだ。


(あれは……犬?)


 男の影に噛みつく黒い塊。それは紛れもなく犬や狼のような獣の姿をしていた。辺りには野良犬一匹いないというのに、影だけが映し出されて男の影に食らいついている。


 あの影はいったいなんなのか。その答えを知りたいと思った照瑠だが、場の空気に気圧されして声も出せない。それは、後ろにいる亜衣や詩織も同様だ。


 やがて、鉈を持った男は黒い塊を強引に振りほどくようにすると、そのまま路地裏へと逃げ去った。辺りは再び静寂を取り戻し、照瑠は思わず気が抜けてその場に座り込む。


「た、助かった……」


 緊張の糸が切れたのだろう。脚にはまったく力が入らず、照瑠はしばし放心したまま正面を見つめた。あの黒い影の正体も気になったが、今はそれを考えるだけの余裕がない。


「ねえ……」


 放心状態の照瑠に、後ろから亜衣が声をかける。その声で我に返り、照瑠もスカートの泥を払うような仕草をして立ち上がった。


「さっきの男……」


 言葉を濁らせつつも、亜衣が照瑠に見上げるような視線を送る。


「あの人の顔、照瑠も見たよね……」


「う、うん……」


 暗がりではっきりと見たわけではなかったが、それでも男が逃げる時、フードがまくれて中にある顔が露呈した。レインコートのフードの中から現れた顔。癖毛の女子が羨むような、男にしては美しいストレートの長髪。あれは――――。


「長瀬君……」


 照瑠の言葉を代弁するかのようにして、詩織が小さく呟いた。

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