表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/9

~ 参ノ刻   稀人 ~

 山道から外れた渓流の畔を一人の少年が歩いていた。彼の他に人はなく、ただひたすらに川のせせらぎだけが聞こえてくる。


 深山幽谷。少年のいる森の中は、まさにその言葉が相応しいものだった。地元の人間はおろか、釣り人さえも立ち入ることはない場所。人の手が入ることを頑なに拒み、今なお山に住まう神々によって守られているような不可侵の地。


 そんな山奥を歩いているにも関わらず、少年の姿は実に奇妙なものだった。およそ、登山をする者のそれとは思えない、妙に古めかしく場違いな格好だ。


 まず、着ているものであるが、これは誰が見てもまともな服とは思えなかった。裾のほつれた黒いボロ布を身にまとい、腰に帯を巻いただけの粗末な衣服。胸の部分が少々はだけ、中から白いさらしが顔を覗かせている。足にはこれまた使い込まれた草鞋を履き、頭には笠まで乗せている。


 手した棒のようなものには白い布が幾重にも巻きつき、まるでエジプトのミイラのようだった。肩に担ぐような形で背負っている布袋と合わせ。それが少年の荷物の全てである。


 少年の姿を一言で表わすならば、現代に生きる修行僧という言葉がしっくりときた。その辺の寺にいるようなごく普通の僧侶ではなく、どちらかと言えば托鉢僧に近い。それも由緒正しい出自の者ではなく、人里を離れて孤独に修行を続ける世捨て人といった印象が強かった。歴史の表舞台で、権力者の加護の下に力を得ていた僧や宮司などにはない、独特の薄暗い雰囲気がある。


 だが、それにも増して奇妙に映るのは、少年の肌と髪、そして他ならぬ瞳の色であった。その肌は雪のように白く、髪も同様に色がほとんど無い。欧米人に見られるような金髪ではなく、完全な白髪に近い白金色である。二つの瞳は燃えるように赤く、それでいてどこか儚げな印象を受けた。


 先天性色素欠乏症。俗にアルビノと呼ばれる、生まれながらにしてメラニン色素を作ることのできない遺伝子疾患。その症状は肌や髪の色だけでなく、視力や運動能力の低下、紫外線に対する耐性の低さなども挙げられる。個人差こそあれ、身体が生まれつき弱いということには変わりない。


 しかし、明らかにアルビノの特徴を兼ね備えているにも関わらず、少年は実にしっかりとした足取りで渓流を登り続けた。ざく、ざく、という落ち葉を踏む音が響き渡り、川のせせらぎと混ざって独特のリズムを生んでいる。


 どれほど歩いただろうか。


 少年はいつしか沢から離れ、鬱蒼とした木々の生い茂る密林の中にいた。辺りには人はおろか動物の影さえも見えず、不気味なまでの静寂に支配されている。


「あれか……」


 何かを見つけたのか、少年の足取りがやにわに早まった。枯葉を踏む音が徐々に大きくなり、森の静寂をかき消してゆく。


 少年の前に現れたのは、彼の背丈の半分にも満たない石柱だった。人為的に作られたものであるのは明らかだが、今は完全に苔むしてしまい見る影も無い。石柱は台座と思しき部分から無残にも倒され、落ち葉に埋もれるような形で転がっている。


 石柱が安置されていたと思しき台座の中央に、少年は小さな穴を見つけた。中には何も入ってはおらず、ただ薄暗い闇が広がっているばかりである。


 だが、少年は既にその穴にしまわれていたものが何か気づいていた。辺りを見回すと、果たして倒された石柱のすぐ側に古ぼけた木箱が転がっているのが見える。


 少年は木箱に手を伸ばし、無言のままそれを拾い上げた。箱のふたは既に壊され、中に入っていたものはなくなっている。


「遅かったか……」


 手にした木箱を苦々しい表情で見つめながら、少年は独り呟いた。


 倒された石柱と空の木箱。それが意味するものを知っているだけに、少年の顔にも焦りの色が見える。


さいの結界を破ったか。これは少し、厄介なことになったな」


 そう言うと、少年は石柱に背を向けて、自分の影に向かい呟いた。


「先に行って、奴の足取りを追え。俺も後から追いつく」


 薄暗い森の中ではわかり難かったが、少年の言葉に影が微かに反応したようだった。と、同時に、その影はみるみる伸びて瞬く間に少年の背丈を越える長さになる。そして、まるで意思を持った生き物のように、影はゆっくりと少年に向かって起き上がった。


 森の木々の狭間で揺れる、不定形な黒い影。やがてそれは少年の体から離れると、梢の間を抜けて飛んでゆく。


 密林に再び静寂が訪れた。残された少年は倒された石柱を他所に、破壊された木箱を背中に背負った袋に入れた。石柱そのものには既に興味がないのか、とくに気にも留めず山を降りてゆく。その赤い瞳には先ほどまでの儚さはなく、獲物を追い詰める猟犬の如き鋭さが宿っていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 その日は日曜日で学校は休みだった。


 地元の県立高校に通う照瑠も例外ではなく、今日は朝から家の手伝いをしている。もっとも、手伝いといっても難しいものではない。神主である父親から頼まれた時間だけ、巫女の衣装に着替えて掃除や社務所の受付を行う程度のものだ。


 照瑠の父は修行の一環と言っていたが、照瑠自身が仕事を苦痛に思うことはなかった。退屈な時間は本を読んで過ごしてもよかったし、平日まで巫女をやらされるわけではない。いずれは跡継ぎとして本格的に学んでもらうことになるとは言われていたが、掃除と店番以外の仕事をやらされたことのない照瑠には今一つ実感がわかない。


 境内に散った枯葉や枯れ草を竹箒で集めながら、照瑠はふっとため息をついた。境内の掃除は仕事の一つだが、秋にでもならない限り、落ち葉で境内が埋め尽くされるようなことはない。故に、掃除もどこか適当になる。


 祭りや正月、それに受験のシーズンにもならない限り、神社の仕事は基本的に暇だ。信心深いお年寄りや稀に訪れる物好きな観光客以外、そうたくさんの人がやってくるわけでもない。


 箒で掃いた枯葉を一箇所に集めながら、照瑠はふと石段の方に顔を向けた。擦るような足音がして、徐々に鳥居に続く石段を登ってくるのがわかる。


(誰だろう……?)


 土曜日の、しかもこんな夕方に、わざわざ神社を訪れる者とは何者か。いつものお年寄りではなさそうだし、観光客か何かだろうか。


 そう思い、照瑠は箒を動かす手を休めて鳥居の方に顔を向けていた。少しずつ、だが確実に、石段を登る者の姿がはっきりとしてくる。


 裾のほつれたボロ布としか思えない着物。頭には時代劇でしかお目にかかったことのない、これまた古めかしい笠を乗せている。手にした棒のようなものには白い布が幾重にも巻かれ、背中には汚らしい皮袋。現れたのは、托鉢僧をさらにボロボロにしたような姿の人間だった。


 あまりに奇妙な姿の来訪者に、照瑠は思わず言葉を失う。父親の知り合いかとも思ったが、それにしては年齢が若すぎる。彼女の前に現れた人物は、どう見ても自分と同じ歳くらいの少年だ。


 だが、それにも増して照瑠が気になったのは、その少年の肌と瞳の色だった。肌は女の自分が羨むほどに白く、二つの瞳は炎が宿ったように赤い。学校のクラスメイトとは異なった、冷たく近寄りがたい空気を全身から発している。


「あ、あの……」


 自分ではそう言ったつもりだったが、実際には声になっていなかった。じゃり、じゃり、と草履がすれる音がして、少年は徐々に照瑠に近づいてくる。


「おい……」


 突然、少年が立ち止まり、低い無機的な声で照瑠に言った。目線は真っ直ぐに正面を向いたまま、身体を傾けることさえしない。


「この神社の神主は、今いるのか?」


「えっ……?」


 いきなり質問をされ、思わず言葉に詰まる照瑠。神社の神主を探しているということは、父の知り合いなのだろうか。だが、それにしては奇妙な点が多く、とりあえず首だけ頷いておく。


「そうか。この街で一番古い神社がここだって聞いたんでな。ちょっと、見てもらいたいものがあってやってきた」


「は、はぁ……」


「悪いが、神主を呼んできてくれないか? こっちは、あまり時間に余裕がない」


 未だ照瑠と顔も合わさず、少年は淡々とした口調で用件を伝える。その態度に照瑠は思わずむっとなったが、ここは堪えるべきだろうと思った。相手も普通の参拝客ではないようだし、ここで変に問題を起こすのはごめんだ。


 平静を装いながら、照瑠は社務所へと少年を案内する。相変わらず視線さえ合わそうとしてこないのには腹が立ったが、怒りを堪えて扉を開ける。


「どうぞ。今、父を呼んで来ますので、しばらくそこでお待ちください」


 入口で少年を待たせ、照瑠は奥にいるであろう父の名を呼びながら廊下を歩く。程なくして、彼女は父を連れて少年の下へと戻ってきた。境内の掃除が終わっていないため、照瑠は少年を父親に半ば押し付けるような形で外へ出た。


 外は未だに曇り空が続き、今にも雨が降り出しそうだ。昨日の妙な視線のこともあり、照瑠はなんだか落ち着かない気持ちで箒を手にした。


 父親と共に奥の部屋へと向かうあの少年。彼の後姿を見たとき、照瑠はふと奇妙な違和感を覚えたのだ。それは、昨日感じた視線とは、また少し違った違和感である。なんというか、少年に本来あるべきものが欠けているような気がしてならない。


 だが、いくら考えてみたところで、照瑠はその違和感の正体を思いつくことはできなかった。仕方なく、掃除の続きを始めるために竹箒を動かす。空は相変わらず曇天で、妙に生暖かい風が神社の境内を吹きぬけていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 社務所の一室で、少年は神社の神主と思しき男と対面していた。


 犬崎紅けんざきこう。少年が神主に伝えた彼の名前だ。紅の前にはお茶が置かれ、かすかに湯気をたてている。


「さて……。わざわざ神主の私に話とは、いったい何事ですかな? 見たところ、観光でこちらを訪れたお客様ではないようですが……」


 無表情な顔をしたまま相手を見つめている紅とは異なり、神主は極めておっとりとした口調で尋ねた。眼鏡をかけた、どこにでもいそうな優男。神に仕える者の荘厳な雰囲気はまとっていない。


「単刀直入に言おう。ここに来る前に、こんなものを見つけたんだが……」


 そう言って、紅は傍らに置いてあった皮袋から小さな木箱を取り出す。一見して古ぼけた桐の箱にしか見えなかったが、その箱を見た神主の目が鋭く変化したのを紅は見逃さなかった。


「申し訳ありませんが……どこで、これを?」


「県境から少し離れた山の中だ。俺が見つけたときは、既に掘り出されて破壊されていた」


「そうですか……」


「ああ。この箱が埋まっていた場所に立っていたのは道祖神どうそじんだろう? しかも、ただの道祖神じゃない」


 神主の男に紅は探るような視線を向ける。まるで、相手が答えを知っていると言わんばかりの口調だ。


 しばしの沈黙が場を支配した。紅と神主は互いに無言のまま相手の顔を見つめている。紅の方は相手の出方を見るような険しい視線を、神主の方はあくまで平静を装った視線を相手に送る。


 だが、しばらくすると、神主の方が仕方なしに口を開いた。目の前の少年が、ただの人間でないということを悟ったかのようだ。


「お察しの通り、あの道祖神はただのお飾りではありません。この地を穢れから守る、強力な賽の結界なのです」


「やはりな……」


 神主の口から語られた言葉に反応し、紅は確信を込めた口調で呟いた。


 道祖神。日本の民間信仰の中でも最古の部類に入る、古の神の一つである。別名は多数あり、道陸神、賽の神、障の神、など様々だ。秋田県の一部地方では、仁王さんという名で呼ばれることもある。。


 元々は中国の神であり、朝鮮半島のチャンスン信仰にも由来するという見解もあるがはっきりとはしていない。日本に伝来してからは、初期は百太夫ももだゆう信仰や陰陽石信仰となり、民間信仰の神であるちまたの神と習合した。


 これにより、道祖神は疫病や災厄が村に入るのを妨げる守り神のような存在となり、外界から悪しき者を遮る結界の役割を果たすようになった。賽の神、障の神という別称も、この性質に由来する。


 また、神仏混合で地蔵信仰とも融合させた地域もあるようで、こうした村には村はずれに小さな地蔵が置いてあることが多い。これは水子の墓所としての役割ではなく、村の守り神として安置されている地蔵なのだ。


 だが、それらの事実と照らし合わせても、山中で少年が見つけた道祖神は奇妙なものだった。


 多くの道祖神が村の玄関口でもある道端に安置されているのに対し、あの道祖神は人里離れた山奥に安置されていた。まるで人の目に触れるのを拒むように、何百年もの間、歴史の影に封じられてきた印象を受ける。


 あの道祖神は、ただの守り神などではない。神主から答えを聞いたわけではなかったが、少年はそう確信していた。あれは村人の信仰の対象などではなく、もっと呪術的な側面の強い存在ではないのか。それも、公の目に触れさせてはまずいような、深い意味のある呪術ではないかと。


 道祖神の中に守られるようにして置かれていたであろう桐の箱。その存在からも、紅は自分の仮説が正しいのではないかと思っていた。


「で、その守り神なんだが……」


 神主の言葉を聞いて、しばらく桐の箱を眺めていた紅が再び口を開いた。


「こいつが単なる信仰の対象として作られたわけじゃないってことは、俺も察しがついている。同時に、これを壊した犯人についても目星はついている」


「では、なぜわざわざ、これを私のところへ?」


「それは簡単な話だ。これを作ったのがあんたの先祖なら、また結界を張り直してもらえるんじゃないかと思ってな」


 封印を破られた桐の箱を指差し、紅が事もなさげに言ってのける。神社の神主であれば、その手の儀式にも詳しいと踏んでのことだろう。


 だが、そんな彼の期待に反し、神主は眼鏡の奥で無念そうに瞳を曇らせた。怒りではなく、どこか諦めにも似た感情が見て取れる。


「あなたはどうやら、その手の話に詳しい方のようですね。ですが、私では結界を張り直すことなどできません。否、この街には、既にこれを修復できる者など一人もいないのですよ……」


「どういうことだ? あんたは、この神社の神主じゃないのか?」


「ええ、そうですよ。ですが、あくまでお飾りの神主です。私には、神霊に通じるような力など殆どありませんので……」


 まったくもって、とんでもないことを言う神主もいたものだ。霊能者を気取って暴利を得る詐欺師まがいの輩に比べれば好感が持てるが、仮にも神主である。神社を治める神主が、「私には力なんぞありません」などと口にして大丈夫なのだろうか。


 男の態度に訝しげな表情を浮かべつつも、紅はあくまで平静を装って尋ねた。あの道祖神のことを知っていただけに、頼れる者は目の前の男しかいない。


「神主が、やたらとそんな事を口にしていいのか? 地元のお年寄りなんかは、マジで信仰している人だっているだろうに」


「ええ、それは勿論わかっています。ですから、あなたのような者にしか話さないんですよ。あなたのように、向こう側の世界・・・・・・・に通じている人にしかね」


 向こう側の世界。その言葉が神主の口から出た時、紅の瞳が即座に険しいものに変わった。燃えるように赤い瞳が、その奥に紅蓮の炎を燈したかのように更に深く、赤く染まる。


 この神主は、紅がどのような存在なのか気付いている。似非神主であるなどということを平然と口にしておきながら、神だの霊だのといった世界に関わる人間のことをしっかりとわかっている。温和な優男にしか見えなかったが、なかなかどうして、食わせ者な一面もあるようだ。


「私が賽の結界を作れない理由。それを簡単にお話しいたしましょう。もっとも、全てを知るためには、この神社が立てられた由来から話さねばなりませんが……」


 もう包み隠す必要はないと思ったのか、神主の男は静かに微笑んだまま紅に向かって言った。長話を聞いている暇はなかったが、それでも無視するわけにもいかない。「なるべく、手短に済ませてくれ」とだけ言って、紅は仕方なく男の話に耳を傾けることにした。


 男の名前は九条穂高くじょうほだかといった。妻には早くして先立たれ、親族は一人娘である照瑠を残すのみ。親戚はいるらしいが、遠くはなれた東京で暮らしている。先代の神主も既に亡くなり、半ばなし崩し的に後を継ぐことになったという。


 だが、重要なところはそんなことではなく、むしろ穂高と九条家の在り方にあった。九条家は古くからの慣習にありがちな男系一族ではなく、女が跡を継ぐ女系一族なのだ。つまり、穂高は婿養子として九条家に嫁いだ形であり、そもそも九条家の跡継ぎでもなんでもないのだ。


「なるほど。まあ、確かに外から入ってきた人間ってことじゃ、神霊に通じる素養ってやつも低いのかもしれないな」


 穂高の話を聞いて、紅も納得したように頷いた。が、話はこれで終わりではないとばかりに、穂高は再び話を続ける。


「まあ、話は最後まで聞いてください。あなたが持ってきた賽の結界の箱。その由来もまた、九条家がこの地に生まれたことに起因するのですから」


 賽の結界の話を聞き、紅は再び押し黙った。


 あの結界は、相当な呪力を持った者にしか作れないものである。一刻の時間も惜しい状況ではあったが、見知らぬ土地で右も左もわからない状態では仕方がない。穂高の話から、この地方に関する信仰について知ることができれば儲けものだ。神や霊に関わるものとして、伝承を知ることが時に大きな武器となることもあるからである。


 穂高の話によると、この九条神社ができたのは平安時代にまで遡るらしい。当時、この一帯を開墾し、小さな集落が生まれた頃に作られたそうだ。


 集落が作られた当初は村にもそれなりに活気があった。小さいながらも農村としては豊かな方で、人々は慎ましくも幸せに暮らしていたという。


 だが、そんな彼らの生活は、すぐに脆くも崩れ去ることとなる。


 村を起こして数年も経つと、田畑は荒れ果て不作が続くようになった。原因はさっぱりわからず、村は飢饉に悩まされた。そればかりではなく、今度は謎の疫病まで流行。更には神隠しのような事件まで相次ぎ、村は十年と持たず崩壊の危機を迎えてしまったのである。


 このままでは村が滅びてしまう。


 困り果てた村人達は、山を五つ越えたところにある別の村の古老を尋ねた。もしかすると、村を救うための智恵を借りることができるかもしれない。そういった、僅かな望みにかけての行動である。


 だが、古老は村人の話を聞いただけで、自分には手に負えないと突き放した。そこをなんとかして欲しいと食い下がったが、古老は決して首を縦に振ろうとはしなかった。自分は所詮、ただの老人。原因不明の不作や病を取り去る力などないというのである。


 それでも食い下がる村人達に、古老は苦渋の決断をした。


 ここから更に山を越え、その奥にそびえる山の更に奥。そこには古くから狐の一族が住み、不思議な力を使うという。その一族に頼めば、村を覆う穢れを祓ってくれるかもしれないというのである。


 村人達は思案の末、その一族に会いに行くことを決めた。眉唾のような話であったが、今は藁にもすがりたいという思いであった。


 山を越え、谷を渡り、森の奥のさらに奥。人界から隔絶された、神代の時代の人々が住まう不可侵の領域。そこを目指し、村人達は更に困難な旅路を続けた。


 どれだけ歩いたであろうか。村人達は、ついに目的の場所に辿りつくことに成功する。そこは確かに、狐の一族が住まう村だったという。


 当初、下界からの来訪者に狐達は冷たかった。が、村人達の必死の願いを聞いた彼らは、意外にも協力を申し出た。ただし、とある条件を呑んでくれればという話ではあったが。


 狐達が出してきた条件は、彼らの族長の娘を嫁にもらって欲しいとのことだった。そうすれば、その娘が生き神となって村を守り、邪な穢れを祓うというのだ。


 当然のことながら村人達は困惑した。いくら村のためとはいえ、相手は狐である。人である彼らが獣を嫁にもらうなど、やはり抵抗があったのだろう。


 だが、三日三晩考えた末、彼らは狐達の出した条件を呑むことにした。始めは迷っていた彼らであったが、決断の時は早かった。それは、彼らの中から自ら狐の婿になるという者が現れたからに他ならない。


 男の名前は弥助といった。村の若者の中でも信心深く、正直者を絵に描いたような男だった。そんな彼は村のため、狐の婿となることを快く引き受けたのである。


 かくして村は救われた。弥助を婿とした狐は不思議な力で村の穢れを祓い、再び村に穢れが入りこまぬようにと封じ石を置いた。それが、あの道祖神の由来である。村人達は狐に心から感謝し、彼女を祭るための神社を建てた。


 やがて幾月かの歳月が流れ、弥助と狐の間には五人の子が生まれることになる。男の子は全て人間であったが、女の子は全て狐であった。


 大人になった狐の子は、母親の跡を継ぎ村の守り神となった。それ以来、九条家は長女が外から婿を迎え入れるという形で、現代までその血を脈々と受け継いできたのだ。この一連の話は、今では狐の嫁入り伝説として、九条神社に伝わる絵巻物にも残されている。


「ここまで話せば、あなたにもお解かりでしょう。私がなぜ、賽の結界を直せないのか。なぜ、形だけの神主でしかないのか、ということをね」


 相変わらずの温和な口調で、穂高は目の前にいる紅に向かって言った。紅はその話を黙って聞いていたが、すぐに無言のまま頷いた。


 穂高の話に出てきた狐。それが動物の狐を指しているわけではないということは、紅もすぐに気がついた。


 狐とは、すなわち特殊な力を持ったシャーマンのような存在のことであろう。時の政権に破れて山奥に隠れざるを得なかった彼らは、やがて独自のコミュニティーを作り出した。が、彼らに対する偏見と差別は続き、いつしか人間ではなく妖怪のような扱いをされることとなったのである。


 今でこそ部落民などという言葉は差別用語として嫌悪されるが、昔はもっと露骨な差別があったと聞く。そういった差別と偏見に晒される中、それでも人として外界の人間に認めてもらいたいという想いもあっただろう。狐の族長が娘を嫁に出したのも、恐らくはそういった感情があったからに違いない。


 だが、紅がそれ以上に強い関心を示したのが、穂高の話の最後にあった下りである。弥助と狐の間に生まれた子どもだが、男は全て人間で、女は全て狐だった。これはつまり、狐の一族の力が女にしか遺伝しないということを意味している。だからこそ、九条家は婿養子をとるという形でしか一族の血脈を保つことができなかったのだ。


「話はわかった。どうやら、結界に関しては諦める他なさそうだ。俺もそういった類の術を知らないわけじゃないが……街や集落を丸ごと一つ覆うような結界は、さすがに作るだけの力がない」


「ご理解いただけたようですね。私としても、賽の結界をこのままにすべきではないと思ってはいますが……」


「ああ。こちらとしても、なんとかして結界を張り直してもらえれば助かるんだが……。どうにかして、手を打てないのか?」


「と、いいますと?」


「あんたが駄目でも、あんたの娘がいるだろう? さっき、境内で掃除をしていたのに会ったぞ」


「それは……」


 照瑠のことを持ち出され、穂高は急に押し黙った。その様子に、思わず訝しげな表情で首をかしげる紅。


 穂高の話が真実であれば、狐の一族の力を受け継いでいるのは照瑠ということになる。ならば、穂高には無理でも照瑠にはできるのではないか。そう思って尋ねてみたが、穂高の返事は紅の期待するものとは反対のものだった。


「あの子は……照瑠は、まだ己の力のことを知りません。素養は高いものを持っていますが、力の使い方を全く知らないのです。当然、向こう側の世界・・・・・・・と関わってやっていけるだけの強さも持ち合わせていません」


「なぜだ? 九条家の跡取りがあの女なら、もっと幼い頃から修行をさせてもよかったんじゃないのか?」


「それは、妻に反対されました。あの子は生まれながらにして、妻はもとより妻の母、つまりは私の義母さえも凌ぐ素養を持っていたようです。その気になれば、数年で妻と同じかそれ以上の巫女になれるだけの力をね」


 照瑠の素養は極めて高い。それは、ここに来て彼女と出会ったときから気付いていた。目線を合わせるのも憚られるほどの強い力。それだけのものを、彼女は全身から発していたからだ。


 だが、そうなると、ますます穂高の意図が見えなくなってくる。天性の才能を持った一人娘であれば、早くからそうの才能を開花させようとは考えなかったのだろうか。


「だったら、尚更じゃないのか? 早くから修行を積めば、それだけ早く巫女を継がせることができる」


「ええ、その通りです。ですが、妻はあの子に普通の女の子としての生活もさせてあげたかったようなのです。どうせ数年で修行を終えるだけの力があるのなら、せめて十六歳の誕生日を迎えるまでは、普通の子として育てたいと……」


 普通の女の子として育てたい。一見して聞こえのよい言葉だが、それを聞いた紅はあからさまに嫌悪感を露にした表情を向けた。


 九条家の跡取りである以上、照瑠はいずれ巫女として向こう側の世界・・・・・・・の住人と関わることになる。それにも関わらず十六歳までは普通の生活を送らせたいなど、そんなものは単なる親のエゴだ。自分が手に入れられなかったものを娘に与えることで、自己満足に浸っているだけである。


 だが、喉から出掛かった言葉を辛うじて飲み込み、紅はスッと席を立ち上がった。既に亡くなってしまった者の批判をしたところで、何かが変わるわけでもない。


 それに、結界が直せない以上、ここに長居しても仕方がない。自分には、まだ他にやるべき仕事が残されている。飲みかけのお茶のそのままに、紅は足もとにある皮袋に荷物をまとめた。


「おや、もう行かれるのですか。せめて、お茶の一杯くらいは飲んでいってもバチは当たりませんよ」


「いや、悪いが先を急ぐ身だ。俺には俺の仕事がある」


「それは残念です。私にも、何かお手伝いできることがあれば幸いなんですがね」


「それも遠慮しておこう。だが、その代わりと言ってはなんだが……」


 今まさに部屋を出ようという格好から、紅は踵を返して穂高に向き直る。


「賽の結界を破ったモノは、今もまだこの街に潜んでいる。あんたの娘は強い力を持っているようだからな。目をつけられないように、気を配っておいた方がいいだろう」


「それはご親切に。まあ、最近はこの辺りも物騒ですからね。夜遅くまで出歩かないようには、こちらも注意をしておきましょう」


 湯のみに手を添えたまま微笑む穂高に向かい、紅は軽く頷いて答える。相変わらず無愛想な表情で、さっさと社務所を後にした。


 玄関の扉を開けると、湿った空気が少年の肌に張り付いた。空は未だにどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうな天気である。これから夏場にかけて雨の少なくなる東北地方にしては、この空模様が続くこと事態が不思議だ。


 灰色の雲が続く空に一瞬だけ目を向けて、紅は境内を抜け鳥居へと向かった。その後ろ姿を見た照瑠は、ふと紅の背に奇妙な違和感を覚える。それは、彼がここを訪れた際に感じたものと同じだ。


 人間として、大切な何かが欠落しているかのような異質な感じ。それが何なのかわからずに、照瑠は石段を下る紅の背を眺めながら考えた。


 彼の肌と髪、そして瞳の色は、確かに普通の人間とは違っている。が、それでも五体は満足にあるし、着ているものも古めかしいだけで不自然さはない。


 では、目の前の少年に欠けているものとはなんなのか。愛想も悪かったが、それは関係ないような気がする。なにかこう、普通の人間と比べて決定的なものが欠けている気がしてならないのだ。


 去り行く紅の後姿を今一度凝視する照瑠。頭から背中、そして腰から脚へと視線を落とし、最後は足の付け根へ視線を送る。


 そこまで見て、照瑠は思わずハッとした様子で息を飲んだ。


(か、影がない……)


 彼に欠けていた決定的なもの。それは、本来であれば足もとから伸びる黒い影に他ならなかった。


 曇天とはいえ、まだ昼を少し過ぎたくらいの時間である。影が薄くなるようなことはあっても、影が全く映らないなどということは考えられない。


(何者なんだろう、あの人……)


 影を持たない謎の少年。だが、不思議と恐怖は感じられなかった。照瑠はむしろそんな彼の後姿に、寂しさのようなものを感じていた。


 いったい彼は何者なのか。なんのために、神主である父と話をしたのか。数え上げればきりがないが、とりあえず今は考えても仕方がないだろう。


 掃き集めた枯葉や枯れ枝をちりとりに入れ、照瑠はそれを神社の裏にあるくず入れに捨てに行く。今日の掃除はこれで終わりだ。跡は、読みかけの本でも読みながら店番をするか。


 そんなことを考えながら、照瑠は社務所の中に戻っていった。この時は、自分の運命を変える大きな出来事が動き出しているなど、まったく気づいてはいなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 先日から続くどんよりとした天気に、川添麻衣かわぞえまいは思わず愚痴をこぼしそうになりながら仕事を終えた。


 ここ数日、妙にぐずついた天気が続いている。雨になるのかと思えばいつまでも降り出さず、いざ降り出せば肌にまとわりつくような霧雨ばかり。これでは自然と気分も下向きになってしまうというものだ。


「お先に失礼します。お疲れ様でした」


 麻衣のバイト先は、駅前から少し離れたところにある飲食店だ。土日は昼から仕事に入っているが、それも午後の八時で終わる。それからは夜勤に交代し、自分は一足先に帰らせてもらうというわけだ。


 貸し出されていた制服をロッカーに片付けると、麻衣は荷物をまとめて店を出た。今日は空が曇っているためか、いつも以上に暗く感じる。月はおろか、一つの星も見えないのだ。


「ぎりぎりまで注文受けてたら、ちょっと終わるのが遅くなっちゃったかな。空も変な感じだし、早く帰らないと……」


 誰に言うともなく呟きながら、麻衣は早足で家を目指した。


 最近は、この辺りも物騒だ。一昨日も、テレビのニュースで女性の変死体が発見されたという事件が報道されていたばかりである。詳しいことはわからないが、犯人は未だ捕まらず逃走中とのことらしい。


「嫌な感じだなぁ、もう……。こんな日に限って、店長ったらぎりぎりまで仕事させるんだから……」


 言いたくないのに、どうしても愚痴がこぼれてしまう。ぐずついた天気と湿気のせいだと思いながら、麻衣は手にした傘を大げさに振って広げた。


 先ほどから、少しずつだが雨が降り始めている。相変わらずの霧雨で、べたつくように降り注ぐ雨水が鬱陶しいことこの上ない。傘を差しても横から目に見えない雨粒がへばりついてくるのだ。汗をかいてもいないのに、体にシャツがはりついてくるのは勘弁して欲しい。


 駅前の繁華街を離れ、徐々に住宅街へと入ってゆく。少しずつだが田んぼも見受けられるようになる。が、それでもまだ民家の方が多い。


 普段は人通りもそこまで少なくはないのだが、今日に限って誰にも会わない。いつもより、街灯の光も弱々しく感じられるのは気のせいだろうか。


 今日は早く帰りたい。その一心で、麻衣は住宅街の中を歩き続けた。が、しばらくして開けた場所が見え、麻衣は思わず立ち止まる。


 彼女の前に現れたのは、この街の中でも比較的大きな公園だった。住宅街の中を抉るようにして作られ、宅地造成が進んだ今もこの地域に緑の潤いを残してくれる。


 昼間であれば、この公園を横切ることで家までの近道となっただろう。だが、生憎と今は夜である。こんな薄暗い公園の中で、痴漢にでも会ったらたまらない。


「やっぱ、ここを通り抜けるのはマズイよね……」


 公園の入口からそっと中を覗いてみたが、まともに見えたのは入口の近くにある遊具だけだ。奥の方は、木々に囲まれて良くわからない。真夏の昼間であれば木陰を求めて一目散に駆け込むところだが、今は真っ黒な闇が大口を開いて待ちかまえているようで気が引けてしまう。


 やはり、近道などせずに普通の道を歩いて帰ろう。そう思った麻衣は、そのまま公園から目を離して先を急いだ。が、しばらく行くと、どうにも妙な感覚に襲われて後ろを振り返った。


(なんだろう……)


 先ほど公園を横切った辺りから、どうも誰かが後ろからついてきているような気がしてならない。いや、正しくは、つけられていると言った方がよいだろうか。


 気の迷いだと思い、麻衣は再び歩き出す。濡れた道を踏む靴がペチャペチャと音を立てた。その後ろから、彼女のものよりも更に重たい音が追いかけてくる。ベチャッ、ベチャッという、何かを叩きつけるような音だ。


 間違いない。自分はつけられている。痴漢、通り魔、ストーカー。あらゆる可能性が頭をよぎり、麻衣は次の瞬間には夜道を駆け出していた。


 なぜ、どうして自分が狙われなければならないのか。理由はわからなかったが、そんなものは二の次だ。相手は相変わらずゆったりと、しかし確実にこちらを追い詰めてくる。


 角を曲がった先の電柱に身を隠し、麻衣はそっと後ろを振り返った。足音は、彼女が足を止めた時点で止まっている。ここで後ろに誰もいなければ、こちらの思い違いということで安心できる。


 電柱の影から、そっと後ろの様子を探る麻衣。相手がいたときのことを考えて、恐る恐る頭の先だけ出してみる。



――――いた。



 薄汚れたレインコートに身を包んだ長髪の男。フードに覆われて顔の様子こそ分からなかったが、かすかに見える長髪の先が雨に濡れているのはわかった。男は下を向いたまま、両腕をだらりと垂らして立っている。手には荷物も何も持たず、霧雨の夜道に独り無言のまま立ち尽くしている。


(な、なんなのよ、あの男……)


 レインコートを着た薄気味悪い男の姿に、麻衣は思わず息を飲んで身を隠す。あの男はいったい何者なのか。恐らく変質者の類なのだろうが、それにしても何故自分が狙われねばならないのか。


 もう、迷っている暇などなかった。あの男の目的がなんであれ、そんなことはどうでもよい。再び傘を握る手に力を込め、霧雨の降りしきる夜道を全力で駆ける。


 麻衣は逃げた。右手に傘、左手にバックを持っているため、走り難いことこの上ない。息も上がり、先程よりもべったりとシャツが身体にはりついてきた。雨のものなのか、それとも汗によるものなのか。そんなことに構っている暇もないほどに、彼女は追い詰められていた。


 霧雨の中、麻衣は懸命に男を振りきろうと走った。彼女を追うレインコートの男はゆっくりと、しかし確実に、重たい足音と共に追って来る。



――――ベシャッ……ベシャッ……。



 男の足音が、徐々に遠くなってきた。


 不思議なことに、相手は走って追いかけてくるような素振りはまったく見せなかった。こちらが走って逃げているにも関わらず、ゆっくりと追い詰めるような足取りで追ってきていたのだ。


 だが、今となってはそんなことはどうでもよかった。男が走らなかった理由など、麻衣には知るよしもない。大方、足を怪我していたとか、そういった理由だろう。


 とにもかくにも、自分はあの奇妙な男から逃げられた。後ろを振り返ってみるが、誰も追ってきてはいない。ほっと胸をなでおろし、麻衣は思わず側にあった電柱に寄りかかって溜息をつく。



――――ベシャッ……。



(えっ……!?)


 空耳などではない。確かに、あの足音が聞こえた。それも、わりとすぐ近くで。


(な、なんで!? 逃げきれたんじゃなかったの!?)


 再び恐怖が麻衣を襲う。慌てて後ろを振り返ってみたが、男の姿はない。が、それでも足音は確実に、彼女に向かって近づいてくる。


 男の姿が見えないことで、麻衣はますます焦りだした。ふと前を見ると、何かがこちらに近づいてくる。その影をはっきりと捉えたとき、麻衣は思わず小さな悲鳴を上げて後ずさった。


(ど、どうして前から来るのよ……)


 麻衣を追っていたレインコートの男。それが、今度は彼女の正面から向かってきているのだ。どこで先回りされたのかは分からなかったが、男は今、彼女の正面にいる。



――――ベシャッ……ベシャッ……。



 相変わらず、ゆっくりと追い詰めるような歩調でこちらに向かってくる。それを見た麻衣に、もはや選択の余地はなかった。


「もうっ! いったい、何なのよ!?」


 震える声で叫びながら、麻衣は今来た道を引き返すような形で逃げ出した。パチャパチャと、自分の靴が湿った道路を叩く音が聞こえる。


 路地を抜け、角を曲がり、いつしか先の公園へと戻る。今度は相手も走っているのか、ベチャベチャという音のする感覚が狭まっている。


 このままでは追いつかれる。


 そう思った麻衣は、脇目も振らずに深夜の公園の中へと飛び込んだ。本当は恐ろしかったが、今はそれどころではない。一刻も早く、自分の家に帰ってしまいたかった。


 冷静な判断力は既に失われていた。駅前まで逃げ切って交番にでも駆け込むか、それとも近くの家に助けを求めるか。そういった安全策は、彼女の頭の中から抜け落ちていた。


 この公園を抜ければ、自分の家はすぐそこだ。家にさえ逃げ込んでしまえば、さすがにあの変質者も追ってはこられないはずだろう。


 公園の遊具の脇を抜け、林に続く小道に入る。気がつくと、手にした傘がなくなっていた。先ほどの電柱のところで驚いて落としてしまったようだが、今は構っている暇はない。


 どれほど走っただろうか。


 ふと辺りを見回すと、既に霧雨は止んでいた。後ろから追って来る足音も、いつのまにか消えている。


 今度こそ、本当に振り切ったのか。不安に思いながら後ろを見ると、果たしてそこには誰もいない。油断せずに前にも目をやったが、やはり公園の裏口へと続く小道が延びているだけだ。


 夜の静寂だけが公園を包んでいた。迫る恐怖から解放され、麻衣の顔から徐々に緊張が抜けてゆく。


 ザァッという風の音がして、木々の梢がガサガサと揺れた。いつもであれば思わず肩をすくめて驚いてしまうところだが、あの逃走劇の後ではこれも清涼剤代わりにしか感じない。あの男の足音以外の音を聞けたことで、麻衣は少しずつ落ち着きを取り戻し――――。


(風……?)


 そこまで考えて、麻衣はふと思いとどまった。


 風が木々の梢を揺らしたのであれば、自分の肌もまた風を感じたはずだ。だが、今日は風の全くない霧雨の夜。木の枝を揺らしたのは、風ではない。


 気がついた時には既に遅かった。


 ドサッという音がして、麻衣の後ろに何か大きな塊が落ちてきた。振り向いたその先にあるものを見て、麻衣は思わず失神しそうになる。


 そこにいたのは、あのレインコートの男だった。いったいなぜ、足音も立てずにここまで近づけたのか。


 木の枝を揺らす音と、先ほどの物が落ちるような音。まさか、この男は木の上から……。


 だが、その答えを知る前に、麻衣は男によって強引に押し倒された。慌てて振りほどこうとするが、叩こうと蹴ろうと、男はいっこうに動じない。


 ぎしっという骨の軋む音がして、麻衣は思わず苦悶の表情を浮かべた。肩を押さえる男の手が、彼女のシャツを破かんとするくらいまで食い込んでいる。いくら相手が男とはいえ、これが本当に人間の力なのだろうか。


 暴れる麻衣を押さえつけたまま、レインコートの男がフードの奥でにやりと笑う。その顔を正面から見た麻衣は、今度こそ本当に気を失いそうになった。


 彼女の目の前に現れた顔は、口が耳まで裂けていた。不揃いな長髪が目元を覆うように垂れ下がり、その奥では金色に光る目玉がこちらを見つめている。


 異形の男に睨まれ悲鳴を上げそうになる麻衣。が、彼女がそうするよりも早く、男の大きな手が麻衣の口を塞いだ。爪が顔に食い込み、頭を地面に押し付けられる。


 暴れる麻衣を押さえつけ、男は裂けた口をにやりと歪ませた。ずらりと並んだ歯がいっせいに顔を見せ、男はためらうことなく麻衣の喉下に食らいつく。


 缶ジュースの栓を開けたときのような音がして、深夜の公園に鮮血がほとばしった。男が返り血に染まった顔をゆっくりと持ち上げ、その下では麻衣の体が微かに震えている。


 だが、数分もしないうちに、麻衣の体は冷たくなって動かなくなった。それを見た男は満足そうに立ち上がると、かつて麻衣であったモノの脚をつかみ、公園の植え込みの中へと引きずってゆく。



――――ズルッ……ズルッ……。



 今や完全に動くことをやめた体を男は無言のまま引きずってゆく。噛み千切られた首筋から赤い血が流れ、一筋の線となってゆく。


 だが、そんなことは意にも介さず、男は麻衣の体を植え込みの奥へと運んだ。そのまま動かなくなった彼女の胸に手をかけると、力任せにシャツを引きちぎる。


 露となった白い胸に、男は再び噛み付いた。噛み付き、引きちぎり、そして最後は傷口を二つの手で強引に広げてゆく。辺りは血の海と化していたが、男はまったく気にする様子がない。


 やがて、十分に傷口を広げたことを確認し、男は自らの手をその中に押し込んだ。男が中で手を動かすたびに、鮮血が溢れて腕が赤く染まる。


 ブチッという何かが千切れるような音を立て、男は麻衣の体の中から赤黒い塊を引きずり出した。手の平に納まるほどの、ゴツゴツとした形の肉塊。かつては休むことなく脈打っていた、人の生を司る心の臓。


 引きずり出した心臓を片手に男は満足そうな笑みを浮かべた。他の部分には興味がないのか、死体にはもはや目も暮れない。


 右手に握る心臓を、男は自らの裂けた口に放り込んだ。何かが潰れるような音がして、男はそれをいとも容易く飲み込んだ。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 それは、とても奇妙な光景だった。


 街外れにある河の畔で、色白な少年が独りたたずんでいる。あの、照瑠の実家である神社を訪れた少年、犬崎紅だ。


 市境でもあるこの河に、深夜訪れるようなものは存在しない。河のせせらぎと、かすかな虫の羽音が聞こえる他には何もない場所だ。空は相変わらず曇っていたが、今は雨も止んでいる。


 そんな辺鄙な河の畔で、紅は何かを待ち続けているようだった。が、それでもいっこうに人が現れる気配はない。この辺りには、彼の他には誰もいないのは明らかだ。


 だが数分もすると、紅の周りに変化が現れた。今まで辺りを飛んでいた虫の羽音がパタッと止み、音は河のせせらぎだけになる。ザアッという音がして、一陣の風が彼の下に舞い降りる。


 自身の前に現れたモノを目にし、紅は無言のままそれに手を伸ばした。辺りを包む夜の闇よりも深い漆黒の塊。液体なのか、それとも気体なのか、黒い塊は紅の手前で不規則にゆらゆらと揺れている。


 そんな奇妙な塊に対し、紅は全く恐れをなさずに手を伸ばした。まるで、そうすることは彼にとって普通であるかのように、何の抵抗もなく塊に触れる。


「ごくろうだったな……」


 塊に向かって紅が言った。その言葉に、黒い塊は少しだけゆらめいて答えたように見えた。


「奴の足取りはつかめたか?」


 再び塊に問いかける。塊は、今度は少し残念そうに細々とゆらめく。


「そうか……。まあ、仕方ないだろうな。この土地は、あまりにも流れ込んでくる陰の気が強すぎる」


 ここへ来てからというもの、紅はあちこちから陰鬱な気が流れ込んでくるのを感じていた。それは、あの賽の結界が解かれてしまったことが原因だろう。


 神主である九条穂高の話では、この土地は九条家の初代の巫女が結界を張るまで謎の疫病や不作に悩まされていたとのことだ。つまり、もともと陰鬱な気を溜め込んで闇を呼ぶような土地だったのだ。


 山中で見かけた道祖神は、そういった悪しき気が流れ込んでくるのを妨げる役割を果たしていたのだろう。それこそ数百年などという生易しいものではなく、千年近い年月を守り抜いてきたのだ。


 だが、道祖神を失い賽の結界が破られた今、この土地には再び陰鬱な気が流れ込むようになった。そうなると、気を頼りに向こう側の世界・・・・・・・の住人を追うのは難しくなる。そこら中に流れる陰の気が邪魔をして、本当に探したい相手の気を読めなくなってしまうのだ。相手が日中に堂々と行動してくれれば見つけることも容易いが、それでは全てが手遅れである。


「もう、やつの気を追うことはできないな。明日、お前には女の見張りを任せる。それまでは、しばらく戻っているんだな」


 そう言うと、紅は触れていた黒い塊からスッと手を引いた。塊は一瞬だけゆらめいたかと思うと、すぐに地面に降りてどろどろと広がってゆく。まるで、粘性の高い液体が意思を持って動いているかのような光景だ。


 やがて塊は全て大地に広がり、ちょっとした黒い水溜りのようになった。そう思った矢先、今度は逃げるようにして紅の後ろに移動する。音もなくゆらゆらと表面を波打たせながら、それでいて風のように素早い動きだ。


 紅は、自分の後ろに回りこんだ塊に横目で目配せをした。すると、今までゆれていた塊は、まるで紅の後ろに吸い込まれるかのようにして姿を消してしまった。


 再び虫の羽音が聞こえてきた。辺りに誰もいないことを確認し、紅はそっと河辺を後にした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ