~ 弐ノ刻 生贄 ~
その日、九条照瑠は珍しく寝坊をした。いつもは寝過ごすことなどないのだが、昨日はどうにも寝苦しく、思ったより深く眠れなかったようだ。
その上、今朝は家を出るときからなんだか胸騒ぎがしていた。何が原因かと聞かれるとわからないのだが、なんともいえない不安感がつきまとっていたのだ。
幼いころから照瑠は人一倍勘が鋭かった。このような気分のときは、大抵よくないことが起きる前触れだ。できれば家から出たくはなかったのだが、さすがに学校をさぼるわけにもいかない。焼き魚と味噌汁をおかずにした簡単な朝食を済ませると、照瑠はしぶしぶ家を出た。
学校に着いてからも、照瑠の不安が消えることはなかった。気のせいか、先ほどから学校の外ではパトカーのサイレンの音がひっきりなしに聞こえてくる。火乃澤町はのどかな田園風景の残る田舎町だというのに、近くで何か事件でもあったのだろうか。
「どうしたの、照瑠? 難しい顔しちゃってさ?」
背を丸めて机に伏していると、後ろから唐突に声をかけられた。嶋本亜衣だ。
「ちょっとね。何かあるってわけじゃないんだけど、何だか昨日から妙に落ち着かなくて……」
「照瑠がそんなこと言うなんて珍しいじゃん。さては、気になる人でもできたとか?」
「そんなんじゃないわよ。実は昨日、寝苦しくてあんまり眠れなかったの」
「そっか。だったら、私が知ってる≪絶対に熟睡できる方法≫を教えてあげよっか?」
「いや、遠慮しておくわ。こんな時にあなたの知ってるいかがわしいおまじないなんて聞いたら、ますます頭痛くなりそうだから……」
「むぅ、失礼な。照瑠って実家が神社のくせに、ほんと現実的だよね」
「いや、現実的って言うか………実家が神社だからこそ、変な新興宗教まがいのおまじないを信じないだけなんだけど………」
「相変わらず固いなあ。でも、何か悩んでることがあったら、我慢しないで相談しなきゃだめだからね!」
そんな他愛もない会話をしていると、始業のチャイムが無情にも鳴り響いた。担任の教師が教室に入り、朝のホームルームが開始される。
いつもと変わらない、平凡で穏やかな朝。が、その日の朝は少し様子が違っていた。
「おや? 今日は、長瀬のやつは休みか。珍しいな」
出席を取りながら、照瑠たちの担任が怪訝そうな顔をして言った。
長瀬浩二は素行こそあまりよく思われていなかったものの、無断で遅刻や早退をするような生徒ではない。普段からバスケ部の早朝練習には必ず参加するなど、自分の好きなことに関しては時間を惜しまない生徒だ。
その日も、彼の所属するバスケ部は早朝から体育館で練習があった。それだけに、浩二が理由も無く欠席したのが担任も気になったのだろう。
だが、連絡がないのでは理由を知りようもない。仕方なく他の生徒の出席を取り、朝の挨拶をしてホームルームを始める。
「長瀬君、休みなんだ。珍しいこともあるわね」
黒板を背に本日の予定を伝える教師を他所に、照瑠が目の前の席に座っている亜衣に向かって言った。
「う、うん。でも、たまにはそんなこともあるでしょ。長瀬君だって、人間だし」
「まあね。なんだか、ちょっと気になるけど……」
そう言って、照瑠はふと窓の外に見える校庭に目をやった。今日は朝から霧雨で、どうにも気分が重くなる。自分では低血圧ではないと思っていたが、やはり鉄分が足りていないのだろうか。
早朝より続く奇妙な不安感。どんよりとした空模様も相俟ってか、小さなこともいちいち気になって仕方がない。長瀬浩二とはさして親しいわけでもないのに、そんなクラスメイトの欠席さえも気になってしまう。
(ああ、嫌だなぁ。こんな日は、部活も休んで早目に帰った方がいいかも……)
未だ一限目の授業さえ始まっていない時間ではあったが、早くも照瑠は気だるい表情で頬杖をついていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――――同日、午前六時。
早朝から突然の呼び出しに、工藤健吾は渋い顔をしながら現場へと急行した。
郊外にある静かなその町で、所轄の刑事課勤務でしかない自分が出動を命じられることはめったにない。たまに変死のような事件があっても、大抵は自殺ということで片付けられるような事件ばかり。大都会のど真ん中で起きている血なまぐさい殺人事件とは、およそ無縁の場所だった。
しかし、その日の様子はいつものそれとは大きく異なっているようだった。何というのか、空気が違う。現場の河川敷に到着したときから、それは感じていた。
「遅いぞ、工藤! 平日の朝に、刑事がいつまでも布団の中で寝てるんじゃねえ!!」
「岡田さんが早すぎるんですよ。僕が起こされたの、まだ六時でしたよ……」
「それでも遅い! 俺はいつも、毎朝六時から早朝のランニングに出かけているぞ! 警察官たるもの、常に不足の事態に備えていろと、いつも言っているだろうが!!」
工藤と同じ所轄の刑事と思しき男が怒鳴った。
岡田肇。工藤の所属する部署では古株のベテランで、今までも多くの殺人犯を逮捕してきた実績のある男である。そのいかつい風貌は、昨今の刑事ドラマに登場するスマートな刑事とは明らかに異なっていた。
無骨で頑健。猟犬のような鋭い瞳と太く濃い眉が特徴的な強面の男。ともすれば、岡田の方がヤクザの一味ではないかと思われるような面構えをしているのだ。彼が深夜の張り込みをしているところを見かけた者は、明らかに彼の方が不審者ではないかと思うだろう。
「それで……ガイシャの状況はどうなっているんですか、岡田さん?」
現場に張られた黄色いロープを潜りながら、工藤が岡田に尋ねた。
「酷いもなにも、ちょっとしたホラー映画の被害者だな。まあ、口で言うよりも自分の目で見たほうが早いだろ。もっとも、普通じゃないホトケさんの姿を見慣れていないお前じゃあ、朝飯吐くのを覚悟しなけりゃならんだろうが……」
「そ、そんなに酷いんですか!?」
「酷いも何も、あれは普通の人間のできるような芸当じゃねえぜ。俺も二十年近く刑事をやってきたが、こんな姿のホトケさんに出会うのは初めてだ」
「そうなんですか……」
先輩である岡田の意味深な発言に、工藤は思わず出てきた唾を飲み込んで身構えた。
今までも死体を見ることは何度かあったが、ベテランの岡田が言うくらいである。さぞかし凄惨なものに違いない。
遺体は既に鑑識の者が調べ終えていたようで、青いシートに包まれていた。変死ということは、これから検死室に運ばれて色々と解剖されるのだろうか。
震える指先で、工藤は遺体の包まれている青いシートを恐る恐るめくる。
「うげっ!!」
シートをめくって現れたものが視界に飛び込むと同時に、工藤は思わず口を押さえて後ずさった。
岡田の話を聞いて、工藤もスプラッター映画に登場するようなバラバラ死体を想像してはいた。もしくは、ゾンビのように腐敗した腐乱死体が出てくるものかと思っていた。
だが、実際に目の前にある遺体は五体が満足な状態で残っていた。別段、どこかが腐っているわけでもない。それだけであれば、そこまで恐れる必要は無いものだ。若手とはいえ、一応は工藤も刑事なのである。
一見、思ったほど悲惨な状態ではない遺体。が、その身体には明らかに不自然な傷跡があった。刃物で切りつけたわけでもなく、鈍器で殴られたわけでもない。しいて言えば、何かが強い力で食らいついたような痕。そう、まるで、獣か何かが噛み付いたかのような痕だ。最も酷い部分は首筋と胸部であり、そこの部分はごっそりと肉がなくなっていた。
遺体は女性で、恐怖にひきつり白目を向いた顔が痛ましい。はだけたシャツから見えるはずの胸は、既に原型が分からない赤い塊になっていた。何かの理由で殺された後、放棄された遺体が野犬の餌食にでもなったのだろうか。
「岡田さん……。いったい、なにがあったんですか、これ……」
「さあ、俺にもわからんね。ただ、こいつが事故ではなく、明らかな殺人事件だってことは確かだがな」
「そうですか……? 僕には、野犬か何かに襲われたようにしか見えませんけど……」
どちらかと言えば、そうであって欲しいという自分の願望を口にする工藤。だが、岡田はそんな工藤の内心を見透かしたように、遺体の前にかがみこんで指をさした。
「おい、工藤。こいつを見てみろ……」
「ど、どれですか……」
できればあまり凝視したくなかったのだが、上司の言うことである。工藤は渋々遺体の前で腰をかがめ、岡田の指し示す場所に目をやった。グロテスクな傷跡は、この際視界に入れなくてもよいので無視をする。
「お前、こいつが何だか分かるか……?」
遺体についた奇妙な痕を指差して、岡田が工藤に尋ねた。
「なにって……。なんかの歯形みたいに見えますけど?」
「そう、歯形だよ。それも、野犬なんかのものじゃねえ。こいつはれっきとした人間の歯形だ」
「げっ……」
それ以上は、言葉を飲み込んでしまって出てこなかった。
工藤はてっきり、先ほどの傷痕は野犬によってつけられたものだと思っていた。しかし、よくよく考えてみれば、岡田ほどの刑事が野犬に荒らされた遺体を見ただけで、あのような反応を示すのは不自然だ。
ならば犯人は人間で、被害者の女性を噛み殺したということなのだろうか。仮にそうだとすれば、確かにこれは東北の静かな街で起きたにしては異質な事件である。
「正確な調べを待たなきゃいかんところもあるが、ガイシャは人間に噛み殺された可能性がある。恐らく、首への一撃が致命傷となって、そのまま失血死したんだろうな。抵抗されたのか、首のほかにもあちこちに噛み傷がありやがる。胸の傷がついたのは、たぶんガイシャを殺った跡だろう。相手が生きていたら、噛み付くだけであそこまで深い傷をつけるのは難しいだろうからな」
「じゃあ、あれは人間が噛み殺したって言うんですか……」
「まあ、そう考えて間違いねえだろうな。実際、噛み傷のほかに目ぼしい外傷も見つかってねえし……。それに、お前は気づかなかったかも知れねえが、噛まれた部分は肉までごっそりなくなってやがる。胸の傷が殺された後につけられたものだったとすると、犯人はホトケさんの肉を喰らいやがった可能性もあるってわけだ」
「うへぇ……。それじゃあ、今もこの町のどこかに、レクター博士みたいなやつが潜んでいるってことですか……」
以前に見たことのあるホラー映画に登場した食人者の姿を思い浮かべながら、工藤は露骨に嫌悪感を露にした表情で言った。
「まあ、そういうことになるな。だから言っただろう。これは普通の人間のできる芸当じゃない。今までに、こんな姿のホトケさんは見たことがないってな」
工藤の問いに、半ば吐き捨てるような口調で岡田が答える。
岡田にしても、こんな事件は刑事となって以来初めてだ。最近は日本でも頭のネジがふっとんだ異常な人間による殺人が増えていると聞くが、これもそういった類の人間が起こしたものなのだろうか。仮にそうだとすれば、犯人はいったいどのような人間なのだろう。
ドラマや映画などでは一見して普通の人間が異常な行動をとる凶悪犯であることも多いが、実際はどうなのかは知るよしもない。岡田の持つ長年の刑事の勘も、今回ばかりは犯人の絞込みに苦労しそうだった。
「ところで岡田さん……」
ハンカチで口元を隠すようにして、工藤が言った。慣れない異常殺人の現場に、完全にまいってしまっている。
「ガイシャの身元、割れてるんですか?」
「ああ。詳しいことは鑑識の連中に聞いたほうが早いだろうが、どうやらこの辺の大学に通う学生らしい。たまたま持っていた財布の中に、学生証が入っていたそうだ」
「そうですか……。しかし、酷いことするやつがいるもんですね。こんなことするやつは、絶対にとんでもないド変態ですよ……」
「まあ、そうだろうが……。だが、捜査に思い込みは厳禁だぞ。ここは鑑識の連中に任せて、俺たちはいったん署へ戻ろう」
「ええ……。正直、僕もこれ以上は、あまりに悲惨で見ていられませんよ……」
首筋に生々しい噛み傷の残る遺体を横目に、工藤は素直に岡田の言うことに従った。
できることなら、人間を噛み殺して肉を喰らうような殺人鬼を追いかける仕事などはしたくない。同じ殺人犯でも、今回の相手は頭の回路が常人とは違っていそうなだけに厄介だ。
早朝から変死体を見せ付けられたためか、工藤は未だ食べていない朝食を食べる気持ちさえ失せてゆくのを感じた。ついでに言うなら、当分の間は肉料理を食べるのは遠慮したい気分であった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
殺害された女性は、現場からそう遠くないところにある私立大学の三年生だった。名前は米倉晴美。主に、郷土史などを中心に学んでいる学生だったらしい。
遺体発見現場の河川敷には格闘した跡や血痕が全く残っておらず、事件は別の場所で起きたのではないかと考えられた。恐らく犯人はどこか別の場所で米倉晴美を殺害し、その後に河川敷へと移動。そして、その現場で世にも凄惨なカニバルが行われたということになる。
遺体が発見された河川敷の近くは夜間の人通りが極めて少なく、加えて背の高い草が当たり一面に生えていた。草むらの中に入ってしまっては、遠目から発見するのは困難である。
「それにしても、岡田さん。今回の事件、これでおしまいなんでしょうか………」
警察署にもどるパトカーの中で、工藤は岡田に改めて聞いた。
「どういう意味だ、工藤」
「いえ、その……。ほら、よく映画なんかでは、こういった異常な罪を犯す者って、繰り返し同じことをするじゃないですか。ですから、犯人は今もどこかで次の獲物を狙っているんじゃないかと思うと……こう、じっとしていられなくてですね……」
「お前の言いたいことは分かる。だが、それでも今の俺たちには情報が足りなすぎる。遺留品からの手がかりは鑑識の連中に任せるとして、俺たちはいつも通り聞き込みだ。まずは、不審な人間が現場近くをうろついていなかったかどうかってところからな」
「そうですね。それに、殺された米倉晴美に関しても、人間関係などを調べてみないといけませんからね……」
異常な殺され方をしたとはいえ、警察は顔見知りの犯行という線も疑ってはいた。家族との仲はどうだったのか。また、彼女の身辺にストーカーのような不審者の存在はなかったのか。そして、最近の彼女の様子に変化はなかったのか。調べることは、まだまだ山のように残っている。
「さて、これからが大変だぞ。なにしろ今回は、その辺のチンピラ同士が喧嘩して相手を刺したのとはわけが違うからな」
「ええ。それにしても、いつから日本はこんな狂った殺人が平気で行われるような国になったんでしょうね」
「まったくだ。異常な性癖ってやつは、せめてSMクラブかなんかで解消する程度にして欲しいもんだね」
そう、皮肉を込めた口調で岡田が言うものの、あの死体を見た後では笑えそうに無かった。
首筋を噛み千切られ、胸さえも切り裂かれ、恐怖にひきつった顔のまま亡くなった女子大生。常軌を逸脱した異常な犯罪者に追われる姿を想像し、岡田と工藤は改めて今回の犯人を許せないという気持ちになる。
時刻は既に八時を回ろうとしていた。外は朝だというのに薄暗く、パトカーのフロントガラスには霧のような小粒の雨がひっきりなしに張り付いてきていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
大学の構内にある薄暗い廊下を、芹沢初美はいつもの白衣姿で歩いていた。
N大学法医学部。そこの部検室が彼女の主な仕事場だ。県警お抱えの若き法医学者。それが初美の肩書きだった。
靴の底が床を叩く単調な、それでいて鋭い音が廊下に響く。今日は朝から変死体が発見されたということで、朝食も早々に切り上げて大学へ直行した。おかげで身支度さえまともにできず、髪は後ろで無造作に束ねただけ。顔に至っては、ほとんどすっぴんだ。
部検室に向かう彼女の横で、遺体に付き添ってきた工藤が説明する。
「ガイシャはE大学で郷土史を専攻していた女子学生です。今朝、河原を散歩中の老人が発見した時は既に死亡。首と胸に、それぞれ食い千切られたような痕があります」
「食い千切られたって……。野犬か何かじゃないの?」
「そうだったら、僕だってこんなところまで来ませんよ。野犬の仕業ってことがはっきりすれば、僕も枕を高くして眠れるってもんです」
「意味深な台詞ね、工藤君。何か知っていること、あるんじゃない?」
「それは……自分の目で確かめてください」
河原で岡田から見せられた変死体の姿を思い出し、工藤は思わず顔をしかめて口をつぐんだ。
首筋を食い千切られ、胸を引き裂かれた女子学生の死体。いくら自分が警察官とはいえ、あんなものを生で見てしまった記憶は早々に忘れてしまいたい。
「まあ、それじゃあ後は、私の方で確認しておくから。結果が分かったら、また連絡するわ」
「お願いしますね、芹沢さん」
「ええ。岡田さんにも、よろしく言っておいてね」
そう言うと、初美は部検室の前で待っていた数人の助手を引き連れて部屋へと入っていった。部屋の中央には既に遺体が運び込まれ、部検台の上に安置されている。
「それじゃ、準備いいかしら? この御遺体は、今朝発見されたばかりの女子大生のものよ。殺人事件の可能性があるってことも考慮して検死を行います」
「先生。殺人事件って……いったいどんな?」
助手の一人が質問した。初美は首をかしげながら手袋をはめた手で遺体を指差す。
「まあ、見ての通り、喉下を何かに食い千切られているみたいだからね。野犬に襲われたか、殺害された後の遺体に野犬が食らいついたのかは分からないけど……それは、これから調べれば分かることよ」
逸る気持ちの助手を制し、初美は遺体の様子を一つずつ確認してゆく。
検死というとすぐさま解剖というイメージがあるが、実際に解剖まで行う事例はそれほど多くは無い。遺族の了承も得ねばならないし、法的な強硬手段を取らない限りは許可を取ること事態が難しい。まあ、残された遺族の感情を考えると、それは至極真っ当なことなのかもしれないが。
今、初美が行っているのは、検死ではなく検案と呼ばれるものである。医師が死体に対して臨床的に死因を究明する作業であり、場合によっては画像検査や血液検査なども含めて実施する。
遺体として運ばれてきた者の死亡原因は何なのか。犯罪性の有無に関わらず、外傷性なのか、それとも他の要因があるのかを調べてゆく。そうして作り上げた死体検案書を提出するまでが彼女の仕事だ。ちなみに、犯罪性の有無を証明する検視は警察官の仕事である。
「これは、かなりえげつないやられ方しているわね。首筋の肉を、ほとんど持っていかれているわよ」
遺体に残る外傷を念入りに調べながら、初美は助手達に向かって言った。
「胸の傷もかなり深いわね。画像で調べてわからなかったら、最悪の場合は解剖する必要が出てくるかも……」
久しぶりに大仕事になりそうな予感がしたが、初美は嫌悪感を表に出さないように取り繕った。
刑事ドラマなどでは司法解剖が実に簡単に行われているが、踏むべき手順や手続きなど実際は色々と大変なのだ。それだけに、安易に解剖に走るようなことはしたくない。できれば今の検案だけで、死因を特定しておきたいものだ。
朝のコーヒーさえ飲めなかったことを苦々しく思いつつも、初美は感情を押し殺して遺体を調べ続けた。たとえ些細なものであっても、死因の特定に繋がるものは見逃さない。
遺体を調べる初美の目は、いつしか鋭い眼光の輝くプロのそれに変貌していた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
学校からの帰り道、九条照瑠は曇天の空をぼんやりと眺めながら考えた。
今朝方に感じた奇妙な不安感。あれはいったい、なんだったのか。まるで何者かが自分の日常を徐々に侵し、やがては全てを壊してしまうかのような圧迫感もあった。
太陽は未だ顔を見せず、どこまでも灰色の雲が続いている。今は雨も止んではいたが、すぐにでもまた降り出しそうな空模様だ。
畳んだ傘を杖のようにして、照瑠は地面をつつきながら歩く。きっと、この妙な気分は天気のせいなのだろう。現に学校では何もなかった。せいぜい、クラスメイトの男子が無断で欠席した程度だ。
(やだやだ。たぶん、このはっきりとしない空が悪いのよね)
恨めしそうな表情で、雲を見つめたまま心の中で呟く。と、そんな彼女の気持ちが通じてしまったのか、再びパラパラと霧のような雨が降り出した。
「もう……。はっきりしろとは思ったけど、悪い方に動かなくてもいいじゃない」
今度はしっかりと口に出し、照瑠は思わず空に向かって文句の言葉をぶつけた。同じはっきりさせるのでも、晴れと雨では天と地ほどの差だ。できれば沈む夕日の姿を拝みたかったのに、どうやら空は彼女の気持ちとは反対に受け止めたらしい。
霧のような雨が、べったりと張り付くようにして降ってくる。傘をさしているにも関わらず、肌がじっとりと濡れてくるのが分かる。それだけではなく、着ている制服までもが肌に張り付いてくるような感じがして気持ちが悪かった。
暗くなりかけた郊外の道を、照瑠は早足で歩き続けた。学校のある住宅街を抜け、田んぼの脇を通って街外れの神社へと向かう。父親が神主を務める、この街に古くからある神社だ。
九条神社。この街が、まだ小さな村でしかなかった頃から存在する由緒正しい神社である。村の開発が始まっても、この神社だけは鎮守の森ごと残された。照瑠の通う学校までは徒歩で三十分ほどの距離にあるが、それでも未だ神聖な雰囲気を残し続けている。
時刻はいつしか日没となり、空は夜の闇に包まれようとしていた。霧の如くまとわりつく雨を振り払うようにして、照瑠は家に続く道を急ぐ。
(おかしい……)
先ほどから、再び奇妙な違和感が照瑠の頭をもたげていた。早朝に感じた胸騒ぎなどという軽いものではなく、今度はもっとはっきりとしたものだ。
彼女の感じているものは突き刺さるような視線。後ろから、まるで尾行でもされているかのような鋭い視線を感じるのだ。
だが、そう思って振り返ってみても、そこには当然のことながら誰もいない。誰かが着いて来るわけでもなし、足音が聞こえるでもなし。ただ、視線だけが彼女を追いかけてくる。
(気持ち悪いな……)
後ろから見つめられているような奇妙な感覚。それを振り切るようにして、照瑠は小走りに道を駆けた。もう少し、後数メートルほど進めば、実家である神社の鳥居を潜ることができる。
焦る気持ちを抑えつつ、照瑠は鳥居に続く石段を駆け上がった。三段、二段、残る段数が徐々に少なくなり、赤い鳥居はすぐ目の前だ。
鳥居を潜り神社の境内に入ったところで、照瑠は思わず息を切らして立ち止まった。運動は苦手ではなかったが、神社の石段を駆け上がるなど小学校の時以来だ。
肩で息をしながら呼吸を整えると、照瑠は後ろをそっと振り向いてみる。石段の下には県道や田んぼが広がっているだけで、特に変わった様子はない。
不思議なことに、神社の境内に入った瞬間、あの奇妙な視線は消えていた。正確には、鳥居を潜った瞬間から視線が途切れたのだ。
いったい、あの視線はなんだったのか。正体が分からないだけに不気味だったが、照瑠はそれ以上深く考えないことにした。今日はきっと、朝から気分が優れなくて不安だったからだ。だから、変な想像にとりつかれて、ありもしない視線を感じてしまったのだ。
そう頭の中で整理しながら、照瑠は社務所とも繋がる実家の玄関に向かって歩き出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
N大学の構内で、岡田と工藤は再び初美と顔を合わせていた。
朝から降り続く霧雨は、いっこうに止む気配が無い。傘を差しても肌に張り付くようにして降ってくる雨は、なんともいえぬ不快感を与えてくる。
「お疲れ様です、初美さん」
「ええ。こっちも調度、検案書を完成させたところよ」
「さっすが仕事早いっすね。で、何か分かりました?」
「まあね。詳しくは検案書に書いておいたから、そっちを見て欲しいけど……」
そこまで言って、初美は急に言葉を詰まらせる。死因が特定できなかったのか、それとも何か他に引っ掛かる点があったのか。こと法医学に関しては素人の工藤にとって、彼女の言わんとしていることが何か分からない。
「あの……。何か、気になる点でもありましたか?」
薄暗い廊下を歩く初美の後を追うようにして、工藤が遠慮がちに尋ねた。初美は決して気難しいタイプの人間ではないが、仕事中は至って知的かつ冷静な雰囲気を身にまとう。故に、工藤のような若手の刑事からは、近寄りがたい美女という印象を持たれてしまうのだ。
「殺された学生さんだけど、死因は失血死ね。刃物で切られたり、鈍器で殴られたりしたような形跡もなし。薬物反応も出なかったから、首筋の噛み傷が原因で間違いないわ」
「それで……他には何か?」
「胸の傷だけど、こっちは殺された後につけられたみたいね。肺を突き破って、さらに奥まで達していたわ。オマケに心臓まで抜き取られていたし」
「うへぇ……。勘弁してくださいよ、初美さん……」
心臓が抜かれていたという話を聞き、工藤は思わず情けない声を出して言った。やはり、今回の事件は普通ではない。となると、自分たちが追いかけることになるのは常識外れのサイコ野郎になるのだろうか。まったくもって、想像しただけで気が滅入る。
「まあ、心臓が抜き取られていたのは衝撃かもしれないけど、これで被害者の学生さんを殺したのが人間だって可能性が高くなったんじゃないの? 野犬が殺したんだったら、ご丁寧に胸を切り開いて心臓だけ持ってゆくなんてことはしないはずだもの」
「そりゃあ……。まあ、確かにそうですけど……」
「それにね、首の傷を調べていたら、これもちょっと変わったことに気付いたのよ。もしかすると、犯人の姿を特定するためのヒントになるかも知れないわ」
「ほ、本当ですか!? で、犯人はどんなやつなんです?」
犯人の姿という初美の言葉に反応し、工藤は逸る気持ちを抑えられずにまくし立てた。が、その様子を先ほどから隣で見ていた岡田に咎められ、すぐさま小さくなって後ろに引っ込む。
刑事たる者、常に自分の足と頭を使って考えろ。情報は事件を解くための鍵になるが、それに踊らされてはならないというのが岡田の弁だ。
「で、初美ちゃん。アンタが考えている、犯人の像ってのはどんなもんなんだ?」
後ろに引っ込んだ工藤に代わり、今度は岡田が初美に尋ねた。
「知りたい? 岡田さんにとっては、ちょっと馬鹿げた発想かもしれないわよ?」
「構わねえよ。勿体つけずにさっさと教えてくれ」
「そうね。それじゃあ言うけど……。今回の事件の犯人。それは……」
勿体をつけるなと言われたにも関わらず、初美はわざと悪戯っぽい笑みを浮かべて岡田と工藤を見た。今まで廊下に響いていた話し声がなくなり、靴の底が立てる音だけが鳴り響く。
「ズバリ、口裂け女よ」
静寂を破り、初美の口から出た言葉。その言葉を聞いて、岡田と工藤の二人は思わず呆気に取られた表情になる。
口裂け女。昭和七十九年頃に、日本全国を震撼させたことで有名な都市伝説の妖怪。法医学に長けた初美の口から語られるには、あまりにも馬鹿馬鹿しいものである。
「冗談はやめてくれ、初美ちゃん。こっちはマジで捜査やってんだからよ」
「それが、どうにも冗談じゃ済まない状況なのよね。少なくとも、普通に考えたんじゃ、どうやっても説明がつかないって言うか……」
「県警お抱えの名女医でもお手上げってか? なにやらわけありみてえだな」
初美の深刻そうな表情を察してか、今度は岡田も彼女の話を黙って聞くことにした。
よくよく考えてみれば、初美は捜査に関することで冗談を言うような人間ではない。未だ二十代という年齢に反し、仕事に関しては極めて理知的で聡明な女性なのだ。そんな彼女があえて都市伝説の怪物まで持ち出して話さねばならないことである。きっと、よほど不可解なことに違いない。
「ねえ、岡田さん。今回の事件の犯人だけど……人間だとしたら、ちょっと妙なことがあるのよね」
「そりゃあそうだろう。若い女を噛み殺して心臓持ってくやつなんざ、頭のイカれたサイコ野郎って線が濃厚だからな」
「そうじゃなくて、私が言いたいのは被害者に残された外傷のことよ。首筋に残された、あの噛み傷。人間のものにしては、ちょっと深すぎるのよね」
「深すぎる?」
「そうよ。野犬が噛みついたにしても、あの深さはちょっと異常ね。耳の下から肩甲骨にかけて、頚動脈ごとまとめて持っていかれているもの。腕に残っていた歯型もそうだけど、親知らずで噛みついた痕までしっかり残ってる。奥歯であんなに深々と噛みつくには、普通の人間じゃまず無理ね。総入れ歯の人間が、自分の入れ歯を外して噛み付かせれば別かもしれないけど」
「そんなもん、わざわざ凶器にする犯罪者がいるかよ……」
「まあ、私もさすがに入れ歯が凶器だなんて思ってないけどね。でも、それだと噛み傷の深さがどうしても説明できないのよ。それこそ、口が耳まで裂けているような者が食らいつきでもしない限り……」
「なるほど。それで、犯人は口裂け女って言ったわけか」
「ええ、そうよ。我ながら、馬鹿らしい推理だとは思うけどね」
多少の皮肉も込めながら、初美は淡々とした口調で岡田に語った。
若き法医学者として県警から期待の目を向けられる自分でも、時に不可解な遺体に遭遇することはある。自惚れているわけではなかったが、それでもやはり、謎を残したまま検案を終えるというのは納得がいかない。
だが、警察官でない自分は、これ以上事件に深く関わることはできないだろう。後は、刑事である岡田や工藤に全てを任せるしかない。彼らの推理に期待して、犯人像を絞り込んでもらうしかないのだ。
初美がそんなことを考えていた矢先、今度は工藤が唐突に話を切り出した。
「いやあ、さすが初美さんですね。でも、まさか犯人が口裂け女だなんて……。まあ、実際は本当に妖怪が犯人ってわけじゃないんでしょうけど」
「当たり前だ、工藤! それに、口裂け女と決め付けるのはやめろ。捜査に思い込みは禁物だと、今朝も言ったばかりだろうが!!」
自分の手帳に真顔で口裂け女と書き込んだ工藤の頭を、岡田も自身が手にしていた警察手帳で軽く叩いた。
「痛っ! いきなり何するんすか、岡田さん」
「自分の思い込みで、手帳に妙なこと書くんじゃねえ。お前の書き方じゃ、犯人を女と決め付けているようなもんじゃねえか」
「で、でも……。初美さんだって、口裂け女って……」
「だから、それが思い込みだって言ってんだよ。犯人は口裂け女じゃなくて、口裂け男かもしれないだろ?」
「口裂け男って……。なんだか、ちょっと強引な気がしますけどねぇ……」
手帳に書き込んだ口裂け女の文字に斜線を引きながら、工藤はしぶしぶと引き下がった。が、考えてみれば、確かに岡田の言っていることは正しい。今の段階で、化け物じみた容姿の女が犯人だなどと決め付けるのはあまりに時期尚早だ。
「ねえ、ところで……」
岡田と工藤のやりとりが終わったのを見てか、今度は初美が口を開いた。
「久しぶりに、今夜つき合ってくれないかしら? できれば工藤君も連れて、近くのお店で一杯どう?」
「おいおい、急だな。まあ、俺は構わんが……いったい、どういう風の吹き回しだ?」
「別に。ただ、今日は朝から呼び出されて、おまけにこの雨でしょ。気分が晴れないから、パーッと飲みたい感じなのよ」
「なるほどな。そういうことなら、俺も付き合おうか」
「悪いわね、岡田さん。私は着替えがあるから、七時に駅前の焼肉屋で集合するのでいいかしら?」
「おう。駅前の焼肉屋で七時だな。工藤、お前も来るよな?」
前科何犯という札付きの悪党でさえも黙らせる、凄みのきいた視線を工藤に送る岡田。こうなると、工藤は黙って頷くしかない。
猟奇殺人事件の被害者と思しき死体を見たその日に焼肉を食う。常人の感覚では信じがたいことだが、岡田も初美も変死体を見た程度で食欲がなくなるような人物でない。それは、工藤自身がなによりもよく知っていることだ。そして、二人が工藤の反応を見て楽しむために、あえて焼肉屋に連れて行こうとしていることも。
以前、初美に連れられて焼肉屋へ行った時のことを思い出し、工藤は暗い面持ちでN大学の構内を後にした。
工藤が初美に出会ったのは、着任して間もない四月の初めだ。その時も、初美は今日のように殺人事件の遺体を検案していた。そこまでグロテスクな遺体ではなかったが、まだ若い工藤にとっては十分に刺激が強いものだった。
そんな彼を、初美は実に気軽に食事へと誘ってくれた。この時は年上の美女に声をかけられて有頂天になっていた工藤だったが、後で大きな後悔をすることになる。
彼女が連れて行ったのは、今日と同じ焼肉屋。しかも、注文するのはハチノスやテッポウ、コブクロにギアラといった内臓系ばかり。しまいには、大好物とのことでユッケまで注文する始末だった。
当然、死体を見た後に食べられるようなメニューではなく、工藤はほとんど野菜だけを食べて過ごすことになった。ちなみに、料金はしっかり割り勘で支払わされたため、まったく割に合っていなかったということを追記しておく。
(岡田さんはともかく、初美さんも、あの顔からじゃ想像できないくらいタフだからなぁ……。どうせ今日も、無理やりにホルモン焼きを勧められていじられるんだ……)
今宵の晩餐が極めて重たいものになることを予感しつつ、工藤は独り大きなため息をついた。