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~ 壱ノ刻   廃屋 ~

 N県火乃澤ほのさわ町。宅地造成が進みつつも、田舎ならではの田園風景も残す東北の小さな街。


 九条照瑠くじょうあきる嶋本亜衣しまもとあいに誘われたのは、既に学校の六限目の授業が終わったときだった。


 放課後の教室に人は少なく、校庭からは既に練習を始めた運動部員たちの声が聞こえてくる。東北の小さな街にある高校ではあったが、部活動はそれなりに盛んであった。


「ねえ、照瑠。お願いだから、今回ばかりは協力してよ」


 亜衣は両手を顔の前であわせ、拝み倒すようにして照瑠に迫った。


「駄目ったら駄目!! 夜中に肝試しに行くなんて、なんでそんなことに私が付き合わなきゃいけないのよ!!」


「そこをなんとか、照瑠殿~!!」


「駄目だって言ってるでしょ。だいたい、なんで唐突に肝試しなんてやろうって話になるのよ。心霊好きの小学生じゃあるまいし、なんの理由があってそんなもの………」


 目の前で懇願する亜衣の姿を見ながら、照瑠は大きなため息をついた。


 嶋本亜衣。照瑠が高校に入ってからできた友人で、都市伝説マニアで有名な少女だ。ミミズバーガーや口裂け女といったメジャーなところから、照瑠が聞いたこともないような都市伝説、果ては幽霊や妖怪の類が出てくるオカルト話まで、彼女の知っている話には実にバラエティに富んでいる。


 東北の郊外にある地元の公立高校に通う者にしては、こういったものに関する知識は豊富な方だろう。しかし、こういったものが好きな人間によくありがちな根暗な印象は全くなく、人懐こさと底抜けの楽観主義で有名だった。故に、変わり者ではあるが交友関係は極めて広い。


「ねえ、本当に一生のお願いなんだってば。今回の肝試しは、ただのお化け屋敷探検じゃないんだから。この街に伝わる噂の真偽をつきとめる、大切なものなんだよ」


「はぁ……。どうせまた、インターネットから妖しげな情報を仕入れてきたんでしょ。この街に広がる噂話だったら限られてはいるけど……。そんなもの、誰かが広めたデマに決まっているじゃない」


「だからこそ、試す価値があるんでしょ。それに、照瑠みたいな神社の跡取りがいれば、万が一何かあっても大丈夫かな、なんて思ったりして……」


「あのね、亜衣……。確かに私のお父さんは神社の神主をやってるけど、私は霊能者でもなんでもないんだからね!! もし本当に変なことが起きても、助けてあげられる保障なんてないわよ」


「うう、やっぱり駄目……?」


「何度も言わせないでよ。それに、私はお化けとか幽霊なんていったものとは、あんまり関わりを持ちたくないのよ」


「そっか……。じゃあ、今回はあきらめることにするよ。無理やり頼むのも、なんだか悪いしね……」


「それが良いと思うわよ。どこに肝試し行くのか知らないけど、勝手に人の土地に入るのもよくないと思うわ」


 半ばあきれ果てたような表情で、照瑠は友人を諭しながら席を立った。


 彼女の所属している文芸部は、今日は活動がない。宿題も多く出されたことだし、できれば早く家に帰りたかった。


「じゃあね、亜衣。くれぐれも、変な遊びに手を出したら駄目だからね」


「うん、わかったよ……」


 頼みの綱が切れたことにしょんぼりと項垂れつつ、亜衣は照瑠を見送った。その後姿を見て、亜衣の口から再び大きなため息が漏れる。


 九条照瑠は一年生の女子にしては身長も高く、スタイルも高校生とは思えないほどに均整が取れていた。昨今の男性誌の表紙を飾る、胸だけ大きいような少女ではない。細身で長身、さらには整った顔立ちをしており、かわいいというよりも美しいという表現が良く似合った。


 しかも、そんな容姿とは裏腹に取り澄ましたところもなく、気さくで人当たりの良い性格をしていた。当然、男子の中には隠れたファンも多く、密かに彼女のことを想っている者も何人かはいたようだ。


 一方、対する亜衣は、これまた高校生とは思えないほど低い身長が特徴的な、極めて小柄な少女だった。


 彼女の身長は140cmと少ししかなく、小学生に間違えられることもしばしばだ。照瑠と並んで歩いているところを他の者が見れば、同じ学校の先輩と後輩に間違われたことだろう。少なくとも、二人が同じ学年だとは思うまい。


 時折、亜衣は自分と照瑠を比べ、言いようのない自己嫌悪に陥ることがあった。楽観主義で有名な彼女も、やはり自分の身体のことは人並みに気になる年頃なのだ。


「はあ……。頼みの綱はきれちゃったか。まあ、しょうがないから、今回は照瑠なしで探検することにしますか」


 自分の願いが聞き入られなかったことは少々残念だったが、ここは仕方が無い。何らめげる様子さえ見せず、亜衣は鞄の中から自分の携帯電話を取り出して呟いた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 同日、午後八時。


 街外れの小さな山の麓に数人の男女が集まっていた。私服姿ではあるものの、それが未成年者の集団であるということは容易に想像がつく。高校生くらいの人間の中に、どう見ても小学生にしか思えない背丈の少女がいるのが気になるが。


「それでは……倉田君、長瀬君、それに加藤さんも、準備はいいかな?」


 手にした懐中電灯を顔の下から垂直にあて、グループの中でも最も小柄な少女、嶋本亜衣が言った。照瑠にあれほど言われていたにも関わらず、結局は肝試しを行うことにしたらしい。


「俺は問題ないぜ。他の連中はどうだか知らないけどな」


 メンバーの中でも最も長身の男子、長瀬浩二ながせこうじが手にした懐中電灯を振り回しながら答えた。


 浩二は照瑠や亜衣が通う高校のバスケットボールクラブに所属している。一年生であるにも関わらず先輩たちをも凌駕する運動神経を持ち、大会では常にレギュラーに選ばれることのあるエースである。その実力は、185cmという長身の持ち主であることにも支えられていた。


 しかし、そんな実力とは裏腹に背徳的なことに興味のあるタイプで、学生服を着崩したり休み時間中に漫画を読んだりしていることなど日常茶飯事だ。


 もっとも、本気で不良になる気はないらしく、飲酒や喫煙、暴力事件などで注意を受けたことはなかった。どちらかと言えば、ワルを気取って格好つけているだけのタイプである。


 今回の肝試しも、あえて禁止されているような遊びに手を出すのが面白そうという理由で参加していた。まあ、飲酒や喫煙に比べたら罪はないと思ったのだろう。


「加藤さんはどう?」


「私も、大丈夫です………」


 小さく頷きながら椅子に座ったのは加藤詩織かとうしおり。いつもは大人しく、クラスではあまり目立たないタイプの女子だ。今時珍しい、眼鏡と三つ編みが妙に似合う少女である。


 亜衣が友人の何人かに声をかけたとき、意外にも彼女はすんなりと参加を表明した。照瑠を始め他の女子からは軒並み断られたため、亜衣は彼女が積極的に参加したことが少々不思議だった。ともすれば根暗と思われがちな子であるとは思っていたが、詩織がオカルト好きだという話は聞いたことが無い。それだけに、彼女の参加は亜衣にとっても意外と言えた。


「最後は、倉田君だね」


 最後の一人は倉田邦彦くらたくにひこ。高校一年にしてはかなり太目の方で、将来の生活習慣病が心配だ。駅前にある、町でも有名な大手ハンバーガーショップのチェーン店がお気に入りの店である。


 彼も本来は、こういった変な遊びに積極的に参加することはないタイプだ。しかし、照瑠の名前を出したところ、すんなりと参加を表明してくれた。どうやら、照瑠に対して特別な想いがあるのではないかと亜衣はにらんでいる。


「あ、あの……九条さんは……」


「ごめん、ごめん。今回は、照瑠は用事があって参加できなくなっちゃったの。だから、私たちだけで真偽を確かめに行くけど、いいかな?」


「ええっ! そんなの聞いてないよ! 僕は九条さんがいるなら大丈夫だと思って、君の話に乗ったんだよ!?」


「しょうがないでしょ。もし嫌なんだったら、今すぐ帰ってもいいんだよ?」


「う……それは……」


 亜衣に急かされるような形となり、邦彦は思わず言葉に詰まった。それを見た浩二がうんざりした様子で邦彦をにらみつける。


「おい、倉田! ぐずぐず言ってんじゃねえよ! お前のこと待ってたら、今に夜があけちまうぜ? 幽霊にびびってるんなら、暗くならない内にとっとと帰った方がいいんじゃねえか?」


 もともと、浩二は邦彦のようなタイプが好きではない。優柔不断で不摂生な人間は、考えるよりも先に身体が動くタイプの浩二とは相性が悪い。


「な、なんだよ……。そういう君は、怖くないのかい?」


「怖くないもなにも、こんなの遊びだろ? 万が一ヤバそうな雰囲気になっても、ダッシュで逃げれば大丈夫さ。ほんと、お前は身体に見合わず小心者だな」


 何気なく言った一言だったが、浩二の言葉を聞いた邦彦は完全に気を悪くしたようだった。


「ああ、そうだよ! どうせ僕は、高校生にもなってもお化けや幽霊が怖い弱虫さ! でも、それが何だって言うんだよ! 君たちこそ、≪猫婆の霊≫に取り憑かれておかしくなってもしらないからね!」


 浩二の言葉が頭に来たのか、邦彦は顔を真っ赤にして怒鳴りながら街へと続く道へと戻って行ってしまった。いつもは大人しい邦彦だが、ともすればすぐに頭に血が昇ってしまうのが欠点だ。しかし、特に喧嘩が強いわけでもないため、いつも彼が一方的に逆ギレし、捨て台詞を吐いて去っていってしまうのがお約束だったが。


 メンバーの一人が去り、場になんともいえぬ嫌な空気が漂った。お互いに顔を見合わせる三人だったが、それを察したのか、亜衣が大げさに咳払いをして口を開いた。


「えーと……。五人の予定が三人になっちゃったけど、とりあえず時間がもったいないので行きますか。改めて聞きますが……お二人とも、準備はよろしい?」


 場に漂う陰湿な空気を払おうと、亜衣は大げさなリアクションを取りながら残る二人に尋ねた。浩二と詩織の二人は、それに無言で頷いて答える。


「では、今から真夜中のミステリーツアーを開始いたしまぁす! 道があるとはいえ、歩き難いので気をつけてね」


 そう言いながら、亜衣は手にした懐中電灯で裏山に続く細い道を照らす。獣道のようにしか見えないが、人の歩いた跡があるのは確かだ。脇から伸びる熊笹に遮られて見え難いものの、道は確かに存在している。下草も生えないくらいに固められた、ちょっとした林道だ。


「それじゃあ、ちょっとおさらいって事で……。今から、この山に伝わる噂を確認しておくとしますか?」


「噂? なんだ、そりゃ?」


 意味深な口調で語る亜衣に、浩二が訝しげな表情で尋ねた。廃墟探検のような肝試しとは聞いていたが、それ以外に詳しいことは聞いていない。


「今から向かう廃墟についての噂だよ。実は……あそこは、ただの木造家屋ってわけじゃあないんですねぇ……」


 怪談話を語る時の某男性タレントのような口調にしながら、亜衣は今から向かう廃屋についての説明を始めた。


 彼女たちの向かっている廃屋も、昔はちゃんとした家だった。変わり者の老婆が捨てられた犬や猫を集めて飼っており、その存在は地元でも有名だった。


 老婆が飼っていたのは、ただの捨て犬や捨て猫ではない。この裏山の所有者もまた老婆本人だったようだが、手入れなどはあまり行き届いていなかった。戦前は山の全てが陽樹に覆われた雑木林だったようだが、いつしか山の奥は陰樹の森に様変わりしていた。人間の手が入らなくなると、やがて森は少ない日光でも光合成ができるような植物しか生えなくなるのだ。


 そんな状態の裏山は、当然のことながら訪れる人間も少なかった。が、それでも中にはあえて裏山にやってくる人間も存在した。主に、産廃を不法投棄するような違法業者である。そして、その中にはペットショップに犬や猫を卸すブリーダーの姿もあった。


 ブリーダーと一口に言っても、ピンからキリまで様々な者が存在する。中には正規のライセンスを持っているのかどうかも疑わしい者もおり、そういったブリーダーは目当ての犬や猫を大量に≪生産≫するため、無茶な交配を繰り返させているところも多かった。


 血統を守るために、あえて近親交配を繰り返す。そんなことをすれば、当然のことながら出生率は徐々に下がる。寿命の短い子どもが生まれることもあるだろうし、中には奇形として生まれてくる子どももいたことだろう。


 そのような≪商品≫にならない子犬や子猫を、悪質なブリーダー達はこの裏山に捨てた。ほとんどは餌も摂れずに野垂れ死にしてしまうのだが、中にはしぶとく行き続けるものもいたらしい。そして、そんな犬や猫の姿を見かねてか、いつしか山の持ち主である老婆が麓から少し離れた場所に小屋を建てて住むようになったとのことだった。住宅街に家を構えなかったのは、犬や猫が近隣の住民に迷惑をかけたらいけないという配慮もあったらしい。


 育ての親からも見捨てられた、本来であれば自然の中で生き抜くことさえも厳しい犬や猫たち。老婆の下に集まったのは、当然のことながら身体の弱い個体や奇形ばかりである。寿命も決して長くは無く、いつしか老婆の住む小屋の後ろは犬や猫の墓でいっぱいになっていった。


 墓標の数は二十とも三十とも言われているが、正確な数はわからない。加えて、老婆の飼っている犬や猫も、片目がなかったり尻尾が枝分かれしていたりするような奇形が多い。当然のことながら麓の住人からは気味悪がられ、いつしか木造の小屋は≪化け猫屋敷≫と呼ばれることになった。


「なるほどな。で、その小屋には何が出るってんだ? まさか、捨てられた犬や猫の怨念がうろついているってんじゃないだろうな?」


 そこまで亜衣の話を聞いていた浩二が、半ば馬鹿にしたような口調で言った。そもそも彼は幽霊の類を信じていないため、亜衣の話を聞いても何ら恐怖は感じない。ただ、奇形の犬や猫を集めて飼っている老婆の姿を思い浮かべて、少し気味悪いとは思ったが。


「ふふふ……。まだ、話は終わりじゃないんだよね、長瀬君。ここからが、本当に怖いところだよ」


 横槍を入れられてもなお、亜衣は先ほどからの雰囲気を変えずに話を続ける。普段の彼女からは想像できない、どこか不気味なオーラをわざと漂わせている気がする。どうやら彼女は残りのメンバーが怖がるのを楽しんでいるようだ。


「捨てられた動物の中でも猫の数が多かったことから、そのお婆さんも≪猫婆≫って呼ばれていたんだよ。でも、いつしかお婆さんも死んじゃって、残されたのは動物たちだけになっちゃった」


「それで?」


「わかんない。実際は、お婆さんが死んだかどうかもわかってないし」


「はぁ!?」


 唐突に普段の口調に戻った亜衣に対し、浩二は思わず声に出して突っ込んだ。ここまで話を聞かせておいて、最後はよくわかりませんと言われれば拍子抜けもする。が、そんな彼の態度さえも見越してか、亜衣は再び懐中電灯で顔を照らしながら後続の二人に向き直って言った。


「お婆さんは、実際は行方不明になっちゃったみたいなんだよね。飼い主が孤独死した後、餌をもらえなくなった犬や猫が死体を食べちゃったって話もあるんだけど……」


「ちょっと、やめて下さい……」


 先ほどまで無言でついてきていた詩織が震えた声で言った。浩二の後ろに隠れるようにして、彼の服の袖をしっかりと握っている。傍から見ても、怯えているのは一目瞭然だった。


「まあ、そんなのは根も葉もない噂だと思うよ。実際に人間の味を覚えた犬や猫がうろついていたら、野犬に襲われたっていう被害がたくさん出てもいいはずだし」


 さすがに少しやりすぎたか。そう思い、亜衣は今しがた自分の話した話を即座に否定してみせた。が、すぐに前に向き直ると、再び重苦しい口調で話に戻る。


「でも、お婆さんがいなくなったのは紛れもない事実なんだよね。そして、いつしか変な噂が立つようになったんだ。誰もいない小屋を、お婆さんと動物達の霊が今もなおうろついているって話がね……」


 そこまで話したとき、三人の前に突然開けた空間が現れた。思わず足を止め、しばし目の前にあるものに釘付けとなる。


 彼女たちのまえに現れたのは、紛れもない木造の小さな小屋だった。使われなくなって久しいのか、窓ガラスは埃で汚れて中の様子はわからない。外壁は既に朽ちている部分も多く、明らかに今までの林道とは異なる空気が漂っていた。


「さ、さあ……。ついたよ……」


 その場で身を寄せ合うようにして固まったまま、三人は懐中電灯で小屋を照らしていた。先ほどまでは怪談話で一人盛り上がっていた亜衣も、場の空気に気圧されしてか声が震えている。


 じっとりと湿った風が吹き、三人は思わず顔を見合わせて唾を飲んだ。麓にいたときに確認した空模様からは、雨が降ることは考えにくい。が、そうなると、この陰湿な空気はいったいなんなのか。その発生源はその場にいる誰もが知っていたが、あえて口には出さないでいる。


「お、おい……。いいかげん、行こうぜ……」


 遅々として足を前に進めない女子二人に業を煮やしたのか、浩二が急かすような仕草をして前に出た。彼にも恐怖の感情がないわけではなかったが、そこは男である。普段からワルぶっていることもあり、あえて度胸のあるところを見せるような行動に出る。


「じゃあ、とりあえずは家の裏から見てみようか。加藤さんも、大丈夫だよね?」


 浩二が前に出たことで、亜衣も平気な顔を装って歩を進めた。詩織は無言で頷いて、浩二の袖につかまったまま歩いてゆく。やはり、彼女のような大人しいタイプには、この場の空気は少々刺激が強すぎるようだ。


 朽ち果てた木造家屋の姿を横目に、三人は建物の裏へと回ってみた。噂話が本当なら、そこは老婆が作った犬や猫の墓標でいっぱいになっているはずである。


 夜の闇を裂くようにして、三本の光が廃屋の裏にあるものを照らし出す。果たして、そこには噂の通り、たくさんの杭のようなものが打ち込まれた墓地となっていた。盛り上がった土の上に突き刺さる杭は、それぞれが亡くなった動物達の墓標なのだろう。既に苔むし、かすれて読めないものもあったが、どうやら杭には老婆のつけた動物達の名前が彫ってあるらしい。


「うわ……。動物の墓ってどんなもんかと思ってたけど、これはマジで引くぜ……」


 目の前に広がる墓標の数に、浩二が思わず言葉を漏らす。


 死体を埋めるだけの合同墓所ではなく、一つ一つ丁寧に埋葬された動物達の墓。それらは一見して、人間を埋めた土葬の墓のように見えなくもない。これでは妙な噂が立つというのも頷けるものだ。仮に昼間であったとしても、この中を分け入って行きたいとは到底思わない。


「すごいよ、これ。ここから見えるだけでも、二十個くらいはあるんじゃない?」


「ああ。にしても、この数は多すぎだろ。山の中にも続いているみたいだし、全部でいくつぐらいあんだろうな?」


 廃屋の裏にある斜面を照らしながら、浩二が呟いた。動物達の墓は廃屋の裏庭とも呼べる平たい空間だけでなく、その先に続く山の斜面にも広がっていた。


 懐中電灯からの光だけでは、奥がどうなっているのかはわからない。動物たちの墓標を点々と残しながら、全てを飲み込んでしまうような闇だけが広がっている。


「ね、ねえ……。もう、行こうよ……」


 先ほどから浩二の後ろで様子を窺っていた詩織が震えた声で二人を促した。こんな不気味なものを眺めていられるほど、彼女はタフではない。噂の幽霊を見たわけではなかったが、このペットセメタリーの山を見ただけでも十分だ。


 だが、そんな彼女の言葉を聞いた浩二は、その袖をつかむ手を振り払うようにして詩織に向き直った。


「なに言ってんだよ、加藤。お楽しみはこれからじゃねえか」


「お、お楽しみって……」


「さっき、嶋本が話してただろ? この建物に、婆さんの霊が出るって話」


「うん。それなら、倉田君も帰る前に言ってたよね」


 浩二の態度に腹を立て、一人先に帰ってしまった倉田の言葉を思い出す。彼もまた、≪猫婆の霊≫という言葉を発していた。恐らく、亜衣と同じくこの廃屋に関する噂を知っていたのだろう。


「まあ、猫婆だかなんだか知らないが、俺は自分の目で見たものしか信じないからな。折角ここまで来たんだし、家の中も覗いていこうと思ってね」


 強がりということを悟られないようにしてか、浩二はやや早口にまくし立てた。実際は、小屋の中を覗いてみようなどという気持ちはなかった。ただ、女の子二人の前で格好をつけようとして口が滑っただけだ。


「ねえ、本当に行くの? もし、お婆さんの霊が本当に出てきたら、どうするつもり?」


 浩二の強気な態度を見てもなお、詩織は不安そうに彼を見つめる。言い出しっぺの亜衣も、この場の空気に飲まれて完全に縮み上がってしまっている。


 できれば自分も逃げ出したいと浩二は思ったが、ここまで来てその言葉は出せなかった。勢いで言ってしまったものの、男に二言があると思われては格好がつかない。


(こうなったら、なるようになれって感じだな)


 踏ん切りのつかない態度の亜衣と詩織を置いて、浩二は独り廃屋の正面に回った。残る二人の女子が慌てて後を追うが、浩二は止まらない。廃屋の正面に立つと、古びたドアのノブに手をかけて深呼吸をする。


「ちょ、ちょっと! 長瀬君!?」


「心配すんなよ。嶋本だって、幽霊の噂を確かめるために、今回の肝試しを計画したんだろ?」


「で、でも……。せめて、窓から中を覗くくらいにしようよ……。不法侵入は、さすがにヤバイって……」


「ここまで来て、もう不法侵入もなにもないだろ? 大丈夫だって。ちょっと、中を調べてくるだけだからさ」


 そう言って、浩二はドアノブを握る手に力を込めた。鍵がかけられているかとも思っていたが、予想に反してドアは簡単に開いた。どうやら、鍵もかけずに放置されていたらしい。


 埃とカビの臭いが混ざった、なんともいえない否な空気が流れ出してきた。一瞬、中に入るのを躊躇った浩二だが、ここで引いては男がすたる。


 懐中電灯を握る手に力をこめ、浩二は意を決した表情で廃屋の中に足を進めた。木製の廊下を歩くたびに埃が舞い上がり、ギシギシと否な音が当たりに響く。


「やれやれ……。それにしても、汚ねえ家だな……」


 辺りに誰もいないのをいいことに、本音を呟きながら歩く浩二。実のところ、彼も幽霊が出るのではないかという恐怖がないわけではなかった。ここに来る前は一笑にふしていたが、実際に廃屋の中へ入ってみると、その異様な空気に気圧されしてしまう。


 亜衣は、老婆がこの廃屋で自然死し、飼っていた動物たちに死体を食われたと話していた。彼女は単なる噂だと言っていたが、真相のほどは誰にもわからない。もしも彼女の話が本当なら、今もこの廃屋に老婆の骨が残っているかもしれないからだ。


 そこまで考えたとき、なにやら固いものが浩二のつま先にぶつかった。もしや、と思って目線を下に移すと、そこには一本の古びたモップが転がっていた。


 馬鹿馬鹿しい。何が老婆の骨だ。幽霊の正体見たり枯れ尾花という諺があるが、どうやら自分は必要以上に怖がっていただけなのではないか。こうなると、俄然強気になるというものである。再び懐中電灯で廊下の奥を照らし、今度は胸を張って先を急ごうとする。


 だが、そんな矢先、今度は浩二の前に何かの影が素早く飛び出してきた。ふいをつかれ、思わず身体を揺すって身構える。彼の目の前に現れたのは、一匹の三毛猫だった。


「な、なんだよ……。まったく、脅かすなっての」


 そう言って、懐中電灯の光を三毛猫に向けた浩二は再びぎょっとした表情で猫を見つめる。電灯の光が射すその先にいるのは、確かにただの三毛猫だった。その片目が、まるで何かに抜き取られたかのような大穴になっていることを除いては。


 片目のない三毛猫。亜衣の話を思い出した浩二は、その姿に思わず身震いする。この猫は廃屋の持ち主であった老婆に飼われていた、悪徳ブリーダーによって捨てられた奇形なのだろうか。今となっては、その真実を知る術はない。


 うなる様な声で鳴きながら、猫は浩二の前から姿を消した。およそ可愛げの欠片もない、露骨に嫌悪感を表したような低い声。そんな猫の態度に舌打ちをしつつ、浩二はハッとした様子で立ち止まった。


 老婆が多くの犬や猫を飼っていたのが事実だとして、飼い主である老婆がいなくなった後、彼らはどうなったのだろうか。恐らくは、そのまま野良犬や野良猫になったのだろうが、そうだとすれば安心はできない。


 誰もいないと思っていた廃屋の中で、今も暮らしていると思われる片目の猫。それは、この廃屋が老婆の死後もなお動物達の根城として使われているということに他ならない。猫一匹程度であれば問題ないが、もしもさっき出会ったのが大型の野犬だったとしたら……。考えただけでも恐ろしい。


「ったく……。婆さんの幽霊よりも、野犬と鉢合わせる方がよっぽどヤバイぜ……」


 足もとに転がるモップを拾いながら、浩二は独り呟いた。こんなところで、普段は何を食べているかもわからない野良犬や野良猫。そんなものに万が一噛まれでもしたら、そこから危険な病原菌が入らないとも限らない。


 左手に懐中電灯を、右手にモップを構えたまま、浩二は廃屋から引き返す準備を始めた。ここまで来れば、もう探検は十分だろう。幽霊以外に現実的な危険も伴う廃屋に、長居するのは得策ではない。


 辺りの様子を警戒しつつ、浩二は今来た廊下を引き帰そうと試みた。物影から野犬が現れるかもしれないため、手にはしっかりと武器であるモップを握って。


 だが、そう思って彼が後ろを向いたその時、ゴソリと何かが動く音が響いた。思わず息を止め、モップを握る手に力を入れる。


(なんだよ……。さっきの猫が、まだこの辺をうろついてやがるのか?)


 先ほど出会った片目の三毛猫の姿を思い出したが、すぐにその考えを否定して首を横に振る。


 猫ならば、もっと軽く乾いた音がするはずだ。が、今の音は明らかに重く鈍い。何かを引きずるような、もしくは何かが這い回っているような、そんな音だ。


 ガサガサッという音がして、浩二は思わず音のした方に振り向いた。布の擦れるような、何かが這いずりまわるような、そんな音。


(野犬か?)


 音のする方に意識を集中させながら、浩二はそっと足を進めた。音は自分のいる場所よりも、さらに奥から聞こえてくる。もしも野犬の類だった場合、油断するわけにはいかない。


 このまま背を向けて入口に向かった途端、後ろから襲ってきた犬に首筋を噛まれる。そんな結末はご遠慮願いたい。


 恐怖と好奇心。その二つが混ざり合った奇妙な精神状態のまま、浩二は再び奥へと続く廊下を歩いていった。


 本来であれば、そのまま後ろに下がるような形で廃屋を出ればよい。そうすれば、何事もなくこの場から逃れられるだろう。だが、音の正体を確かめたいという気持ちも強く、浩二は少しずつ音のした方に向かって歩を進めてゆく。


 程なくして、彼の前には一つの扉が姿を現した。木製だが頑丈そうな作りで、上の方には覗き窓らしきものもついている。この家に人が住んでいた時はガラスがはまっていたようだが、今はそれも割れてしまい、見る影も無い。


 そっと足音を忍ばせながら、浩二はその扉に近づいた。さっきの音は、確かに自分の真後ろから聞こえてきた。つまり、音の主はこの扉の向こう側にいるということなのだ。


 廃屋を包む冷たい空気に晒されているのにも関わらず、背中と掌が汗でべったりとしているのがわかった。右手に握ったモップを置き、そっとドアノブに手をかける。


 固い。使われなくなってから相当経っているのか、ドアノブは既にさび付いて動かなくなっていた。試しに扉を押してみたが、こちらも動く様子は無い。どうやら入口とは違い、ここには鍵がかかっているようだ。


 ほっとした表情で溜息をつきながら、浩二はドアにつけられた覗き窓から中の様子を窺った。


 扉が開かないのであれば、この先に野犬がいても襲われる心配は無い。窓枠に残る壊れたガラスに注意しながら、部屋の中を懐中電灯で照らしてみる。


「なんだよ……。なんもいねえじゃん」


 暗闇の中、懐中電灯の光が照らし出したのは、壊れた窓と古ぼけた家財道具だけだ。使われなくなったベッドの上には布団が敷かれっぱなしで、かつては白かったであろうシーツには妙な色の染みがあちこちについていた。窓のガラスは全て割られ、残っているのはフレームのみ。数冊の本を残したままの本棚には、あちこちにクモの巣が張られている。


 だが、それにも増して酷いのは、壁に残された様々な落書きだった。自分たちと同じ肝試し感覚で廃屋を訪れた地元のヤンキー達が、何かの記念に残していったのだろう。鍵のかかった部屋に入れたのは、恐らく壊れた窓から侵入したに違いない。


 古ぼけた家具とスプレー缶を用いて描かれた様々な落書きを見て、浩二は急に現実に引き戻された気になった。


 自分はいったい何を恐れていたのだろうか。幽霊の話などそもそも最初から信じていなかったし、野犬だとしても扉で遮られた場所から襲い掛かってくることなど不可能だ。どうやら廃屋の陰鬱な空気に気圧されして、必要以上に臆病になっていただけらしい。


「へっ、馬鹿らしい。びびって損したぜ」


 壁に残された落書きを見て興ざめしたのか、浩二は扉に背を向けて呟いた。もう、探索は十分だろう。老婆の霊も現れなかったことだし、この辺で引き返そう。外で待つ二人の女子には、途中で見た片目の猫の話でもしておけばよい。少なくとも、噂がある程度は本当だったという証明にはなる。


 そう思い、浩二が今来た廊下を引き帰そうとした時だった。



――――ズルッ。



 何かを引きずるような音がして、浩二は思わず振り返る。先ほど部屋の中を調べた時にはなにもいなかったのに、ここに来て再び奇妙な音がした。


 背中を冷たいものが走り、両手が再び汗ばんでくるのを感じた。震える手で懐中電灯を握り、ドアに備え付けられた小窓から中の様子を探る。


 寝室と思しき部屋の中には、放置されたベッドがあったはずだ。もしや、自分の調べ方が甘かっただけで、ベッドの下に何かが潜んでいたのではないか。


 そう考えて床を照らしてみたものの、やはり何も見つからなかった。念のためにベッドの方にも光を当ててみたが、その下には何やら木箱のようなものが詰め込まれているのが見て取れた。かつて、ここに住んでいた老婆の遺品なのかはわからないが、どちらにせよあれでは隠れる場所もない。


「なんだよ……。空耳か……」


 自分の不安が杞憂に過ぎなかったと思い、浩二は思わず胸をなでおろした。今度こそ、もう本当にこの廃屋から出よう。こんなカビ臭いところにいつまでも留まっていては、きっと健康にも悪いだろう。



――――ズルッ。



 そう思った矢先、再び何かを引きずるような音がした。今度は空耳などではない。確かに、はっきりと聞こえたのだ。


「な、なんだ! どこにいる!!」


 懐中電灯を振り回しながら、誰に言うともなく浩二は叫んだ。


 部屋の中を確認しても隠れる場所がなかったことから、後ろの部屋に何者かがいるとは考えにくい。ここまでは入口から一直線で向かってきたので、中まで入らずにいたいずれかの部屋に隠れているのだろうか。


 野犬か浮浪者か、それとも同じように廃屋探検に来たヤンキーか。そのどれもが、この状況下で出会いたくないものには違いなかった。動いている相手がこの世の者でないという可能性は、あえて考えないでいる。もしも本物の幽霊だった場合、出会ったときにまともな精神状態でいられるという保証は無い。


 廃屋の中を蠢く影は、いったいどこにいるのだろうか。己の精神を可能な限り研ぎ澄まし、些細な音でも聞き逃さないように注意を配る。右手には先ほど壁に立てかけておいたモップを握り、不足の事態に備えて構える。


 だが、そんな浩二の考えをあざ笑うかのようにして、今度はドサッという何かが落下したような音がした。その大きさに、思わず息を呑んで立ち尽くす浩二。


 音は、浩二の真後ろからした。先ほど二回も中の様子を確認した、あの部屋の中からである。


(そ、そんな……。部屋を見たときは、何もいなかったじゃねえかよ……)


 予想できない事態の連発に、浩二は半ばパニック状態になってゆく。今、自分の周りで起きているこの状況は何か。二度に渡って調べた部屋の中から、聞こえるはずのない音が聞こえる理由は何なのか。


 一秒が永遠にも感じられるような緊迫した状況の中、浩二は考えられる可能性を一つ一つ消去してゆく。


 部屋の中に、死角となるような場所はどこにもなかった。ベッドの下も確認したし、家財道具の隙間にも子猫一匹隠れるような場所はなかった。


 それでは、自分の聞いた何かを引きずるような音は何だ。そして、最後に聞いた大きな物が落下するような音の正体は。


 そこまで考えたとき、浩二はハッとした顔になって気がついた。自分は部屋の中をくまなく調べたが、一つだけ死角となっていた場所がある。扉についた覗き窓の向こうから見ただけでは、決して見ることのできない場所。


(…………天井だ!!)


 天井の、それも扉の真上に位置する部分。そこだけは、覗き窓から首を突っ込んで上を向きでもしない限り、決して見ることのできない死角である。が、そんな場所に、誰が意識を向けるだろうか。それこそ、犬や人間が天井に張り付くのも当たり前という、ふざけた発想の持ち主でない限り思いつくはずもない。


 だが、それでも自分の真後ろに、扉一枚を隔てて何かがいるというのは確かだった。先ほどまでは気配を全く感じなかったのに、今では後ろからじっと何者かが自分を見つめているような視線を感じるのだ。


 もう、終わりにしよう。もう、十分だ。


 頭ではそうわかっていても、足が震えて動かなかった。深夜の廃屋にて自分を襲う、あまりに不可解極まりない現象。それに巻き込まれて冷静な判断力を保っていられるほど、浩二の精神は強くなかった。


 震える足取りのまま、音を立てないようにそっとその場を立ち去ろうとする浩二。後ろに何がいるかなど、もはや確かめたくもない。今は、一刻も早くこの場から逃げ出したい。その一心で歩を進める浩二だったが、運命は最後まで残酷に彼のことをあざ笑った。


「う、うわぁぁぁぁっ!!」


 次の瞬間、ガラスを砕く乾いた音と共に、浩二の首を二本の腕がつかんだ。あまりの出来事に、思わず悲鳴を上げて叫ぶ浩二だが、腕はしっかりと彼の首を捕らえて離さない。そのままずるずると後ろに引きずられ、廊下と部屋を区切っていた扉に背中がぶつかる。


「く、くそっ! 離せ! 離せよ!!」


 右手に持ったモップの柄で首を締め付ける手を叩きながら、浩二は懸命に腕の主に向かって叫んだ。彼の首を締め付ける手は異様なほど冷たく、まるで生気が通っていない。が、その首筋に張り付くような指の感覚から、その手が人間のものであるということだけははっきりとしていた。もっとも、それが生きた人間のものかどうかは定かではない。


 モップの柄で叩いても全く効果がないことを悟り、浩二は空いている左手で直接謎の手を引き剥がそうと試みた。先ほどまで握っていた懐中電灯は、この騒ぎで足下に落としてしまっている。


 実際に相手の腕に触れてみると、やはりそれは人形のように冷たかった。そればかりか、腕を触った瞬間に、ぬるっとした感触が掌全体に伝わる。


 暗がりの中、浩二は相手の腕をつかんだ手を離してまじまじと見つめた。足下に転がった懐中電灯が放つ、僅かな光だけが頼りだ。ぼんやりとした薄明かりの中、浩二が自分の掌に見たものは真っ赤な液体だった。


「これは……血だ!!」


 自分を捕らえた腕が小窓を通った時、残ったガラスの欠片で切ったのだろう。だが、腕の主はそんな怪我などお構い無しに、執拗に浩二の首を締め上げる。冷凍肉のように冷たい指が、確実に首へと食い込んでくる。


 だんだんと意識がなくなってきた。このまま自分は、この得体の知れない腕に殺されてしまうのか。そう彼が思った時、腕の主は唐突に浩二の首筋へと親指をつきたてた。


「ぎゃっ!!」


 今までにない鋭い痛みを感じ、浩二は思わず声に出して叫んだ。どうやら親指の爪を垂直に差し込まれたらしく、首の後ろがずきずきと傷む。首筋を生暖かいものが流れ出たことから、どうやら出血したらしい。


 薄れ行く意識の中鋭い痛みと共に、浩二は自分の体内に何かが入り込んでくるのを感じた。ざらっとした、それでいて身体の中からべっとりと張り付いてくような、奇妙な違和感。それが全身に広がるように、徐々に彼の身体を侵食してゆく。


 どれほどの時間が経っただろうか。


 やがて、浩二が全身を異物で覆われたような感覚に支配されると、彼をつかまえていた腕は満足そうに小窓の奥へと引っ込んでいった。後に残された浩二は、まるで魂を吸い取られてしまったかのようにして力なく扉の前にへたり込んでいる。


 だが、しばらくすると、浩二はハッと我に返ったような表情になって立ち上がった。懐中電灯を拾い、ズボンについた埃を払い、何事もなかったかのように出口へと向かう。首筋につけられた傷口からは少量の血が流れていたものの、さして気にすることもなく、浩二はさっさと出口へ向かっていった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 廃屋の外で、亜衣と詩織は独り中の様子を探りに行った浩二のことを待っていた。今まで晴れていた空は急に曇りだし、夜道を照らしていた僅かな月明かりさえも雲の向こう側に隠れてしまっている。


「ねえ……。長瀬君、大丈夫かな……」


 開け放たれた廃屋への入口を見つめながら、詩織が呟いた。


 浩二が廃屋の中に入ってから、実際には五分と経っていない。しかし、廃屋の入口を見つめたまま立ち尽くしていると、どうにも時間が経つのが遅く感じられてしまう。


 自分たちも浩二と一緒に行くべきだったのだろうか。そう思ってはみるものの、それ以上足が進まない。あの先の見えない暗闇の中に歩を進めることが、どうしても躊躇われてしまうのだ。現に、今もこうして廃屋の入口を見つめたまま、二人して震えているばかりである。


「やっぱり、家の中に入ったのはよくないよ。今からでも連れ戻そう」


「うん、そうだね。事故とかになったら、さすがにマズイし……」


 詩織の言葉に亜衣も頷き、恐る恐る廃屋へと近づいてゆく。恐怖がないわけではなかったが、クラスメイトを独り廃屋の中へ行かせてしまったことに対する罪悪感もあったのだろう。互いに相手の服の裾を握りながら、そろそろとした足取りで廃屋の入口を目指す。


 だが、次の瞬間、廃屋の中から聞こえてきた叫び声に、亜衣と詩織は思わず軽い悲鳴を上げて飛び上がった。


「ね、ねえ、今の……!?」


「うん……。長瀬君の声だよ……」


 心配していたことが現実となった。普段から強気な浩二があれだけ叫ぶとはただ事ではない。きっと、何かとても恐ろしいものを見たのだろう。もしくは、朽ち果てた家の床板などを踏み抜いて、大怪我をしてしまったのかもしれない。


 もはや躊躇っている暇は無かった。湧き上がる恐怖を押し殺し、二人の少女は廃屋の入口めがけて走り出す。中で何があったのかはわからないが、このままほうっておくわけにはいかない。


 だが、そんな二人をあざ笑うようにして、廃屋の扉は音を立てて閉まった。予想に反した事態の前に亜衣は慌てて立ち止まろうとするが、それでも間に合わない。ゴッという固い音と共に、鼻の頭を扉にぶつけてしまった。


「痛っ! もう、なんなのよ……」


 いきなり閉まった廃屋の扉を憎々しげな表情で見つめる亜衣。その横では詩織が懸命に扉を開けようとしているが、ドアのノブは回れども扉は全く開かない。先ほど浩二が入ったときには難なく開いたというのに、まるで見えない何者かが中から扉を押さえつけているようだ。


「ど、どうして!? なんで開かないの!?」


 ガチャガチャというノブを回す音だけが、夜の山に虚しくこだました。鍵は外れているにも関わらず、やはり扉が開く気配はない。


 このままでは浩二が危ない。その焦りが、亜衣と詩織から冷静な判断力を失わせていった。無駄だとは思いつつも、ドアを蹴り、ノブを叩き、しまいには二人して扉に体当たりを食らわせる。よくよく考えてみれば、非力な少女が二人して頑張ったところで廃屋の扉一つ壊せないのは明白なのだが。


「はぁ……はぁ……。駄目だこりゃ……。全然動かないよ、加藤さん……」


「ど、どうしよう……。このままじゃ、長瀬君が……」


 浩二の叫び声が聞こえてから、既に十分ほどは経過している。もしも中で事故に合っていたとしたら、このまま放って置けば大変なことになる。


「こうなったら、どこか別の入口を探そう。たぶん、裏口みたいなのがあるはずだよ」


「う、うん……。でも、もしも他に入るところがなかったら……」


「そうなったら、後は窓を壊して入るしかないじゃん。長瀬君を、ここに置いて行くわけにもいかないよ」


 そう言って、再び懐中電灯を手に立ち上がる亜衣。詩織も納得したのか、目の前の扉を開けることは諦めて立ち上がる。不法侵入だの器物損壊だの、今はそんなことを気にしている場合ではない。とくに亜衣に至っては、この肝試しを計画した本人としての責任もある。


 だが、そう思って二人が立ち上がった矢先、今まで頑なに閉ざされていた扉が唐突に開いた。思わず緊張した面持ちで身構える二人だが、その向こう側から現れた者の姿を見て安堵した。


「よっ、お二人さん。随分と大騒ぎしてくれたじゃん」


 扉の向こう側から現れたのは浩二だった。緊張の解けた様子で肩をなでおろしている亜衣と詩織とは裏腹に、いたずらっぽい笑みを浮かべて外に出てくる。


「まったく、お前らマジでウケルよな。ちょっと大声出して中からドア閉めたら、本気でドアをぶっ壊そうとしてやんの」


「なっ……。じゃあ、あの叫び声は!?」


「ああ、あれか? あんまり退屈だから、ちょっと悪戯してみたんだよ。家の中にも野良猫くらいしかいなくて、婆さんの霊なんて出なかったし」


「そ、それじゃあ、開かなかったのも……」


「それも俺だよ。しっかしお前ら、マジで力ねえのな。二人がかりで俺が押さえたドア一つ開けられねえし」


 唖然とした表情の女子二人を残し、浩二はケラケラと笑って見せた。


 今まで心配してきたのは、いったいなんだったのだろうか。最後は二人して扉に体当たりまでしたというのに、全ては浩二の演出だったとは。


「はぁ……。まったく、驚かせないでよね。こっちは心配したんだから」


「まあ、そう言うなって。嶋本も、少しはスリルが楽しめたんじゃないの?」


「それどころじゃないよ。こっちは本気で心配したんだからね!!」


「わりぃ、わりぃ」


 口ではそう言いながらも全く悪びれた様子のない表情で、浩二はへらへらと手を振って見せた。その態度に亜衣はいささか不満だったが、浩二が無事だったのだからよしとしよう。


「でも、良かった……。長瀬君が無事で……」


「そうだね。大怪我でもしたのかと思ったけど何もなかったみたいだし、今日はこの辺でお開きにしようか?」


 安堵の溜息をつきながら言った詩織に続き、亜衣も肝試しを終える提案をした。老婆の霊は確認できなかったが、これ以上は探索を続ける気にもなれない。廃屋の裏に広がるペットセメタリーを見て、噂の一部が本当だったということを突き止められただけでも十分だ。


 時計を見ると、既に夜の十時を回っている。高校生とはいえ、さすがにこれ以上遅くまでうろつくのはまずいだろう。


 熊笹に覆われた林道を下りながら、亜衣達は廃屋を後にした。先頭に亜衣、二番手が浩二、しんがりを詩織が務める形で三人はひたすらに林道を歩く。月は再び雲の切れ間から顔を出し、夜道を静かに照らしている。


 草が衣服と擦れる音が、やけに大きく聞こえた。あの廃屋を後にしてから、誰も口を聞いていない。皆、無言のまま林道を早足で歩いた。後ろから何者かに追い立てられているような気がして、とにかく一刻も早く山を降りたいという気持ちでいっぱいだった。


 足下に注意を払いつつ、詩織は妙な違和感を覚えて顔を上げた。廃屋探検はすでに終わり、後は帰路につくだけだ。廃屋の外で聞こえた悲鳴は浩二の悪ふざけによるものだったし、実際に妖怪も幽霊も見たわけではない。


 全ては終わり、日常の世界へ戻ろうとしているはずである。では、この頭をもたげるような違和感はなにか。そして、先ほどから強く感じる、射す様な視線はなんなのか。


 何かがおかしい。そう、彼女の直感が告げていた。何がおかしいのかはわからないが、自分たちは未だ日常に戻れないでいる。いや、もしかすると、もう取り返しのつかないところまで踏み込んでしまったのかもしれない。


 焦る気持ちを抑えながら、詩織は一つずつ廃屋で起こったことを整理した。この違和感の正体を突き止めない限りには、どうにも安心できなかったからだ。


 廃屋に到着した時、まず自分たちは動物の墓を見た。確かに不気味な光景ではあったが、ここまでは問題ない。特に奇妙なことがあったわけでもないし、墓に対して罰当たりなことをした覚えも無い。


 次に、廃屋の中に浩二が入った時のことを思い出す。あの時、入口の扉はいとも容易く開いた。まるでこちらを飲み込むかのように、その先には漆黒の闇が大きな口を広げていた。


 だが、それでも古びた廃屋のこと。鍵が壊れていても何ら不思議は無い。浩二は中へと歩を進め、すぐに廊下の角を曲がって見えなくなった。


(ここまでは、何事もなかったのよね。だったら……)


 廃屋の中に浩二の姿が消え、やがて彼の悲鳴が聞こえる。助けようとした自分と亜衣が扉にかけよるが、扉は中から押さえられて全く開かない。


 程なくして、扉の向こう側から現れた浩二にネタを明かされる。そして、彼の悪ふざけに怒りを覚えながらも、安堵の溜息をついて肝試しは終了する。


(なんだ。なにもおかしい事はないじゃない。閉まったドアを開けようとして、ドアノブを必死に回して……でも、それは長瀬君が中から押さえているから開かなくて……)


 そこまで考えた時、詩織はふと足を止めた。


 先ほどから感じていた奇妙な違和感の正体。それに気付いてしまったのだ。今、自分が思い出した事の中には、明らかな矛盾が存在している。


 浩二を助けるため、ドアのノブを回して懸命に扉を開けようとする。しかし、扉の裏では浩二が押さえているため、ノブを回しても扉は開かない。いや、そもそもドアノブを回すことさえできないはずなのだ。浩二が扉の後ろから、ドアノブを握って押さえているのであれば。


 おかしな点は、そればかりではない。そもそも扉を閉めたのが浩二なら、彼は扉を閉めるために、一度は必ず玄関に姿を現したはずだ。扉は開け放されていたのだから、こちらに気付かれずに扉を閉めることなどできはしない。


 ざわざわとした不愉快な感覚が、詩織の背中を上ってきた。やはり、あの廃屋には何かがあったのだ。浩二はあの中で、出会ってはいけない何者かに遭遇したのかもしれない。


 だとすれば、浩二がそのことを二人に告げない理由は何か。単に心配させないようにしているだけなのだと思いたいが、それにしては辻褄が合わないことが多い。まるで、扉が閉まってから中で起きていたことを隠すために、あんな悪ふざけを装ったのではないかと思えてならない。


 なんとも言えぬ嫌な面持ちのまま、詩織は亜衣と浩二に続く形で林道を抜けた。舗装された道路に出ると、一気に現実世界へと戻ったような気がしてほっとする。


「ふう……ようやく戻れたね。それじゃあ、今日はこれで解散ってことでいいかな?」


 額の汗を腕で拭い、亜衣がいつもの調子に戻って言った。廃屋探検の際に見せた怯えはどこへやら、そこにいるのは普段の彼女だ。気持ちの切り替えが早いのか、それとも無神経なだけなのか。本当のところはわからない。


「ああ。それじゃあ、また明日、学校でな」


 左手を軽く上げて、去り際に浩二が言った。こうして見ると、普段の浩二と比べても何の変化も無い。


 やはり、自分の思い過ごしだったのだろうか。そう思って去り行く浩二の背中を見た詩織は、思わず息を呑んで目を丸くした。


 浩二の首筋に残るのは、何かに締め付けられたような赤い痕。そればかりでなく、首の付け根は切り傷のようなものもあった。暗い林道を歩いている時には気付かなかったが、今なら街灯に照らされてはっきりとわかる。


「ね、ねえ……。長瀬君……?」


 何事もなかったかのようにして帰ろうとする浩二に、詩織は恐る恐る声をかけた。首筋に残る切り傷からして、浩二が自分にあったことに気付いていないはずがない。


「その……大丈夫だった?」


「へ? なにが?」


「だから……あの、お化け屋敷でのことよ。どこか、怪我したりしてない?」


 遠まわしに尋ねてみたものの、その言葉を聞いた浩二の顔が一瞬だけ曇った。いつものすかした目つきではなく、嫌悪とも殺意とも受け取れるような鋭い視線。猛禽類が獲物を狙う時のような、一部の隙もない険しい目。


 本当は気付いているんだろ。そう言いたげな表情だった。その圧倒的な威圧感に、思わず気圧されしてしまう詩織。不良がガンを飛ばすのとはまた違った、氷のように冷たい視線が突き刺さる。


 時間にして、それは実に数秒に満たないものだったのかもしれない。が、それでも詩織にはとても長く重苦しい時間に感じられた。


 互いに沈黙したまま街灯の下で固まっている二人。その均衡を破ったのは、意外にも浩二の方からだった。


「わりぃな、加藤。なんか俺、すっげー心配かけちゃった?」


「へっ……? えっと……その……」


 突然、今までの冷めた空気から解放され、詩織は半ば拍子抜けした顔で答えた。先ほどまでの鋭い視線は、既に浩二からは感じられない。


「実は俺、あの廃墟の中でずっこけちまってさ。こけたひょうしに、何かで頭を打ったみたいなんだよね。たぶん、その時にちょっと首筋を切ったかな?」


「そ、それって大丈夫なの?」


「ああ、平気だぜ。自分で触ってみたけど、そんなに深い傷でもないみたいだし。ま、一晩寝れば、瘡蓋になってるだろ」


「そ、そう……。だったら、よかったんだけど……」


 それ以上は、会話が続かなかった。


 去り行く浩二の後姿を見つめながら、詩織は今までのことを頭の中で整理してみる。


 あの廃屋で何かがあったのは事実だが、浩二はそれを隠そうとしている。首筋に残る、何者かに絞められたような痕。切り傷も含め、きっとその時についたものなのだろう。


 だが、浩二はそれについて追求されるのを酷く嫌っているように思われた。あの鷹の様な鋭い目つきからして、それは明白だ。一瞬の出来事でしかないものの、あんな目をした浩二は見たことも無い。


 あの廃屋には何かがいる。それだけは確信できたものの、それが何かは最後までわからずじまいだった。が、これ以上は詮索のしようもない。


 どうにも釈然としないまま、詩織は妙な違和感を胸に抱きつつ帰路についた。今日は変な遊びに参加したから、きっと思考回路が妙にずれているのだろう。一晩寝て、明日になればすべて他愛も無い取り越し苦労で終わるはずだ。


 そう、自分に言い聞かせるよう心の中で呟きながら、詩織も独り夜道を歩いていった。

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