安里52高地(シュガーローフ)
五月十三日、薄曇りの空が低く垂れ込めていた。南風原から吹き上がる湿った風が、前線の塹壕をくすぐる。海の向こうでは、もう夏の青が広がっているというのに、この丘の上だけは冬のような重苦しい空気が漂っていた。
塹壕の奥で、北村軍曹は自らの手元を見つめていた。砂塵と汗で黒く汚れた両手。その間に収まるのは、一丁の機関銃――九六式汎用機関銃、試作三号。
元は古参の九六式軽機関銃だが、ベルト給弾化と重銃身化によって別物になっていた。三脚にも二脚にも載せられ、連続射撃が可能。銃身は持ち手付きで素早く交換でき、照準器も改良されている。部隊内では「新九六」と呼ばれ、半ば迷信じみた信頼を集めていた。
ここ安里52高地は、幅およそ900メートル、東西に伸びる小丘で、米軍は正面突破を諦めていない。丘を取られれば、首里の背後は丸裸になる。沖縄戦の帰趨を決める要衝だ。
北村の任務は、丘中央部にある塹壕線を守ることだった。側面には迫撃砲陣地と歩兵班、背後には予備陣地。だがこの丘の正面、真正面の火力は彼と「新九六」に託されている。
「軍曹、ベルト装填完了です」
助手の田嶋一等兵が、弾薬箱から金属リンクのベルトを取り出し、フィードトレイに載せる。250発の7.7ミリ弾が鈍く光り、湿った空気の中で油の匂いを放っていた。
「よし、予備銃身はすぐ交換できるようにしておけ。今日は長くなる」
北村は二脚を低く構え、照準を丘の向こうへ向けた。
午前九時。前触れもなく、正面の静寂が破られた。重砲の着弾音が丘全体を揺らし、土煙が視界を覆う。耳をつんざく爆音の中、米軍の進軍ラッパのような叫び声が混じった。
「来るぞ!」
北村は引き金を引いた。
新九六は低く乾いた「ドドドドッ」という連射音を響かせ、丘の斜面を駆け上がる米兵たちを薙ぎ払った。従来の九六式の小刻みな発射音ではなく、安定したリズムで持続的に火を吐く。排莢が右へ跳ね、金属の雨が田嶋の足元を叩く。
「軍曹、弾帯あと半分です!」
「予備をつなげ!」
田嶋は素早く次の弾帯をつなぎ、途切れることなく射撃を続ける。
米兵の一団が丘の中腹まで迫った瞬間、北村は発射速度を落とし、狙い撃ちに切り替えた。ピープサイト越しに見える敵の胸、腕、銃口。7.7ミリ弾が確実に命を奪っていく。丘の斜面には、倒れた米兵が幾重にも重なり、突撃は減速した。
米軍側の前線指揮官、ロバーツ中尉は双眼鏡越しに丘を睨みつけていた。
「ダメだ、あの真ん中の機関銃が壁みたいに効いてる。M1の有効射程外からでも撃ってきやがる」
背後では無線手が砲撃支援を呼び、歩兵が再編成されている。しかし、丘中央部の火点を潰さない限り、この突撃は無意味だった。
午前中だけで三度の突撃を撃退した。銃身は交換を重ね、三本目に達している。銃身の持ち手を握ると、金属の熱気が軍手越しにも伝わる。
「軍曹、弾は残り千発を切りました」
「まだ足りる。午後まではな」
北村はそう言いながらも、胸の奥では焦りを感じていた。補給路は敵砲撃で寸断され、予備弾薬は限られている。
午後二時、第四波が来た。今度は戦車と歩兵の混成だ。
「田嶋、三脚に切り替えるぞ」
北村は機関銃を持ち上げ、塹壕の後方に据え付けた三脚へ載せ替えた。これで安定性と持続射撃能力がさらに増す。米戦車が丘の斜面を砲撃し、塹壕の一部が崩れる。だが北村は怯まない。新九六の銃口が戦車横の歩兵を刈り取る。
「榴弾班! あの戦車を狙え!」
背後から飛んだ擲弾が、戦車の履帯を破壊した。立ち往生した戦車の陰で、米兵たちが散開するが、そこへ北村の射撃が集中する。
米軍の突撃は夕刻までに六度繰り返された。丘は土と血で変わり果て、硝煙が漂い続ける。夕陽が西から差し込み、銃口の金属光沢を赤く染めた。
田嶋は息を切らせながら、空になった弾薬箱を積み重ねていく。
「軍曹、これが最後のベルトです」
「なら、一発も無駄にするな」
日没間際、最後の突撃が始まった。米軍は丘の両側から包み込むように前進し、火炎放射器を先頭に押し出してきた。
北村は照準を素早く左右に振り、火炎放射兵を優先して撃ち抜いた。燃料タンクが爆発し、炎が敵陣を逆に包み込む。
「軍曹、もう弾が……!」
「……ここまでだな」
弾薬が尽きたその時、背後から迫撃砲の連射音が響いた。味方の予備陣地が、丘正面に集中砲撃を加えたのだ。米兵は混乱し、撤退を始める。
戦場はようやく静寂を取り戻した。丘の斜面には黒い影がいくつも転がり、米軍の姿は見えない。北村は銃口を下げ、深く息をついた。
「……持ちこたえたな」
田嶋はうなずきながら、排莢の山を足で寄せた。
「軍曹、この銃……本当にすごいです。前の軽機だったら、とっくに押し込まれてた」
「銃だけじゃない。お前がつないだからだ」
安里52高地は、この日一日で陥落を免れた。翌日の米軍総攻撃までの猶予を得たことで、背後の首里防衛線は再編され、数日間の延命が叶った。新九六は試作のまま、この戦場で名を残すことになる。
北村はその銃身をそっと布で拭き、塹壕の壁にもたれかかった。
――明日も撃つ。今日と同じように、ここを守るために。