忘れたわ
『放課後。
生徒がみんな帰ったころに、三階の空き教室に来て。』
白須凛から与えられた情報はそれだけだった。
『ホントはよくない事なんだけどねー。白須ちゃんには逆らえないのよ、私』
そういうニシミヤ先生の声音は楽しげだった。
僕は言われるまま、保健室で下校を促す教師陣をやり過ごした。あたりはすっかり暗くなっていて、無人の学校は肝試しでもしているみたいに恐ろしかったけれど、それ以上に僕は昨晩の真相を知りたいという気持ちが強かった。
「…よし」
ギシギシ。
ギシギシ。
木造の校舎を音を立てながら進んでいく。
お化けも怖いけど、こんな事がばれた後も怖い。両親はまた遅くまで遊んでいたでごまかせるけれど、よりにもよって、神社の娘と密会していると知られたら、どうなるか。
「なんか、昨日もこんな事があったな…」
不安に事欠かない日々である。
そんな事を考えていると、三階の空き教室についていた。扉を開けるが、誰もいない。
ここじゃないか。
ため息を吐いて歩き出す。
三階の空き教室。そうである。白須凛という女、一つの階に空き教室なんていくつもあるのに、その場所の指定を行わなかったのだ。自然、僕はこうやって、一つに延びて列挙された教室群を、端から端へ探索する羽目になった。
「…ここも違う!」
二つ、三つと空の教室を通り過ぎる。
その度に僕は少し苛ついて、ろくに話したこともない少女について腹立たしく思った。
白須凛について僕が知っていることは多くない。目と目を見て、話したことなんて一度もない。それでも僕が彼女について印象深かったのは、神社の娘だからという所と、それ以外でも何かと目立つ女だったからだ。狭いコミュニティなので、目立つ奴は人目に付く。彼女は家の方針か、何かにつけて役職というものにつきたがったから、自然と目にすることは多くなった。無論誇らしい友人としてではなく、同年代のくせに立派な、目の上のたんこぶ的対象として…だ。ともかく僕はクラスさえ違う白須凛の事を、彼女が僕について知っている事よりも知っていた。いや、僕だけではない。同じクラスに在籍する僕以外の男子にとっても、大体同じだ。
彼女は何というか、実際、いい意味で、人の目を引く見た目をしていたから。
「…あ」
そんな事を考えていると最後の教室へたどり着いていた。廊下はここで行き止まり。後にも先にも、僕が行くべき場所はない。
僕は大体察しつつ扉を開けた。
窓ガラスから月明かりが差し込んで、教室を青く照らしている。
そこは僕が毎日通っている教室で、そこにはやっぱり、誰の姿もないのだった。
「…」
ため息を吐きながら、予想通りの結果に肩を落とす。
謀られたのか帰られたのか、そもそも人違いであったのか。皆が帰ったころの教室というと、放課後直ぐのまだ赤みがかった空の頃を指していたのではないだろうか。だとしたら申し訳ない事をした。
ほんの少しの期待感を徒労の色が塗りつぶしていく。
教室に立てかけられた時計を見ると、時刻は十九時を示していた。
「帰ろう」
「どうして?」
廊下に戻ろうと踵を返した背中に声がかけられる。僕はびくりと肩を浮かして、思わず声のする方へ振り返った。
振り返った先には彼女がいた。先ほどまでは誰もいなかったはずの教室の、並べられた机の上に、行儀悪くも腰かけて。
「白須さん…」
「急に呼び出してごめんなさい。随分待たされたけれど…でも、来てくれてうれしいわ」
そう、何でもない事みたいに彼女は言う。
それは急な呼び出しへの無礼にも、時間を読み違えた僕の阿呆ぶりにも、来てくれてうれしいという言葉にも。
何の気持ちも抱いていないといった風に、彼女は言う。
心無い言葉を、吐き出すように。
「えっと、ごめん僕。待たせちゃったみたいで」
「気にしてないわ。わざと、わかりにくくしたんだし。それより、こうして話すのは初めてよね、カナタ君」
「…うん」
薄い青色の髪の奥に覗く、赤みがかった瞳。いつも遠くから眺めていたその視線に初めて射抜かれて、僕は震えるような感覚を味わった。とても同い年だなんて信じられない。一挙手一投足、五臓六腑まで品定めされるような、そんな感覚。
僕は見捨てられるのを恐れる子供の様に、彼女の前に姿勢を正した。
「…」
「…あの、」
「何?」
その視線は何が目的なのか。僕を定めて離さない。
「…どうして僕は呼ばれたのでしょうか」
「呼んだ?ああ、そっか。そうよね」
「?」
「ちょっと、聞きたいことがあったの。でも、直ぐにじゃないわ。私、まずはあなたとお話がしたいの」
「話?」
「そう、話」
どこかかみ合わない彼女の様子に首をかしげる。
校舎内は季節外れの寒空で、強風が校舎全体を殴りつけていた。青白い月あかりはいつのまにか僕と白須さんを照らしている。
「だから、そうね…最近、学校はどう?楽しい?」
お父さんみたいなことを聞いてきた。
いや、自分の父親にそんな事を聞かれたことはないけれど。
「普通、かな。つまらないこともないけど、面白いこともない」
「つまらない返答ね」
何がしたいんだこの子は。
「あ、その目」
「目?」
「何でもないわ。じゃあ、ご家族はどう?家族仲は良好?」
「家族仲も普通です。いや、いいってことはないけど、別に、普通」
「そう。そうなのね」
「…なんなんだよ」
耳に聞こえる風の音がだんだんと大きくなっていた。集中が途切れている証拠だ。流石の僕も、目的の不明な会合と、意味の分からない問答のせいで、目の前の少女に対するいら立ちが隠せなくなっていた。
「…じゃあ、」
「もう一つだけ、聞かせて」
顎に手をやり、考えるしぐさをしていた白須さんがもう一度僕を見据える。上目遣いのその視線は大きな瞳を余計に強調して、僕の心を圧迫する。
そして。
「あなたの友達…ナガサキ ジュンペイ君、だったかしら。彼の様子はどう?元気にしてる?」
「…」
その質問を聞いた瞬間。
僕の心臓に熱い何かが勢いよく流れ込むのを感じた。
「どの面下げて、そんな事を」
「…?」
今にも一歩踏み出して、その頼りない胸倉を掴もうとする自分を押さえつけるのに必死だった。
その時の僕は、親友が置かれている苦悩と、それを生み出した大人たち。関係ないと分かっていても、それを無視する島民たちが憎くて憎くて、でもどうしようも出来なくて。だからせめて、迎合した様に、荒波を立てないように、おとなしくしていたっていうのに。
その心のささくれに、他でもない神社の娘が踏み込んで、あまつさえ――
「今更何を、心配の振りなんかしてんだよ。お前らが、全部したことだろうが」
――あまつさえ、その犯人と言っても差し支えない神社の人間が、彼を心配するなんて。
僕には昨夜、彼と進んだ夜道の景色が。隣で笑う親友が。本来なら大手を振って歩めるはずの彼の将来が、わけの分からない理由で閉じ込められていることに腹が立って。昨日の景色を思い出して、それで。
昨夜の、彼と見た。
「…あんたらの心配なんかいらん。助けもいらん。頼むから、これ以上俺たちに、」
――昨夜の、景色?
「…」
「どうかしたの?」
激情に飲まれて忘れていた。
「もしかして、何か思い出した?」
僕がここに来た目的。
今の白須さんから出た名前。
昨日あの場にいた人物が、間接的にこの場に会している。
「やっぱり、気づいてたんだ」
「そっちこそ、覚えてたのね」
今一度。彼女の深紅の瞳と視線が交わる。
得体のしれないものではない。僕はずっと抱いていた不明からくる不安感が解消されて、どこか安心感みたいなものを抱いていた。
「そうならそうって、先に言ってくれればいいんだ」
「他愛のない雑談のつもりだったのよ。貴方が昨日の事を覚えているか確証はなかったし。神社の娘が乱心したなんて、変な噂を流されても嫌だもの」
「忘れてるわけないだろ」
忘れられるわけがない。
友と歩んだ、子供だけの夜道も。そこで出会った未知も。昨日体験した事柄は、僕には初めてだらけの思い出だったのだから。
と、そこまで話して、僕は自分の体が想像よりも強張っていたことに気が付いた。緊張で無理やり背筋を伸ばしていたせいだろう。相手があの白須凛ともなれば無理はないことだ。とはいえ、数秒前まで確かに在った彼女への敵愾心はどこかへ消え去り、僕はいっそ馴れ馴れしいぐらいの心情で彼女に接することが出来ていた。
「ごめん、ちょっと、座ってもいい?ずっと緊張していたから腰が痛くて」
「ええ、勿論」
なんとも小学生らしくない仕草だと自分でも思う。
僕は腰をさすりながら『廊下側』の慣れ親しんだ自分の席へ歩を進め。そこで。
「どこへ行くの?」
そう、深紅の瞳に射抜かれた。
「何が」
「あなたの席、そっちじゃないでしょう。前、見たことがあるの。貴方が座っていたのは」
こっち。
彼女はその細い指で指し示す。教室端の最後尾。僕が向かおうとしてた方とは真逆の、『窓側』の席を。
「あなたはいつも、この席に座って、授業を受けて、昼食を食べて、友達と話していたはずよ。そんな事も忘れてしまったの?」
「…そうだったっけ」
僕は呆然と呟きながら、座るはずだった自分の机を手で撫でた。
彼女が指さす場所は月明かりに照らされている。その照らされた机はやけに汚く、さびれていたけれど、荷物をひっかける金具の部分だけ、最近取り換えでもしたのか綺麗な光沢を放っていた。僕は毎日教科書の詰め替えなんてしないから、潮風でさびれた金具ではギシギシ嫌な音が鳴る。それを見かねた先生が金具の替えを持ってきて、付け替えてもらったのが最近の話だ。
そのはずだった。
そのはずだったのに、どうしてこんな間違いをしたのだろう。
「本当だ。あれ、どうして」
困惑しながら指定された『自分の席』へと腰かけた。そこから見える景色に新鮮さはない。目の前の席にはカズヒトが座っていた。先週は授業終わりに彼と談笑して、そのまま授業中もメモを回してしりとりをした。席の最後尾を良いことに注意を怠っていると、気づけば視界の隅に先生の足が見えていて、それでこっぴどく叱られた。
それだけじゃない。
早退する友達を見送るのも。
授業からの逃避に外の景色に耽るのも。
景色の変わり目を風の変化と共に感じるのも。
全部、全部、この場所に座ってしてきたことだ。
この席に座っていたのは自分だ。
自分はこの席で、周りの人に囲まれて、皆違う人で、それぞれの人生の中にいて、それで関わっていたはずだ。
そのはずだったのに、どうして――。
「カナタ君、これ」
「え?」
いつの間にかすぐそばに来ていた白須さんが、僕にハンカチを差し出していた。几帳面に折りたたまれて、角に白い花の刺繍が成されたハンカチだ。僕はそれを目にして、初めて自分が泣いていることに気づいていた。
「涙…あれ、どうして」
差し出されたハンカチを受取れず、僕はとめどなくあふれてくる涙を袖でぬぐった。自分に何が起きているのか分からない。ただ今の自分が何に対して涙を流しているのか分からなかった。
だって涙は怒ったり、怖かったりするときに流れるものだ。なのに今の僕は安心している。心の底から安心して、何かを極めて惜しく思っている。ずっと胸の中にあったもやもやが急に晴れたみたいにすっきりして、安心しているのに、僕は何かを悲しんでいる。
何を悲しんでいるのだろう。
何に安心しているのだろう。
その答えは、僕を呼び出した彼女なら分かるのだろうか。
白須凛なら、分かるのだろうか。
「…昨日、君が大人たちと一緒に歩いているのを見た」
「そうね」
「あれを見て、昨日の今日で、学校に来たら何か変な感じがしたんだ。うまく言えないけど、何かとても違和感を覚えた。僕はそれがすごく不安で…不安だったことにも、今気づいた」
「…」
「今日、ここに来る途中、僕は何か期待をしていたんだ。昨日の事を『どうでもよく』思ってたことが不思議なくらい、僕は気になった。君なら何か、教えてくれるんじゃないかって」
僕は机の上で拳を握りしめ、初めて橋の上から川に飛び込んだ時ぐらい勇気を振り絞って、言葉を発した。そんなにも、自分が何をためらっているのか知らないままに。
「僕に話って、何?」
まっすぐ白須凛の視線を射抜くと、彼女は今日で何度目かの顎に手を当てるジェスチャーをした。
僕は彼女の返答を待ったけれど、しばらくしても、白須凛の口がひらかれることはなかった。
「…」
あるいは、だからこそ、なのかもしれない。
「…白須さん?」
僕の泣いた姿を見て。
何かに気づいた僕を見た、白須凛の表情に、その拳に、痛いぐらいに力が込められていたことを、僕は気づけなかったのだから。
「忘れたわ」
しばらくして、白須凛はそう言った。
「は?」
「忘れたわ。忘れたの。本当に。だから今日はもう帰りましょう」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
あまりにもあっさりと踵を返し、立ち去ろうとする彼女を呼び止める。
「何?」
「何じゃないだろ、今、完全に重要な話が始まるところだったじゃんか!どうして急に…」
「忘れたものは忘れたの。もう、今日は思い出せないわ」
振り返った彼女と視線が交わる。
そこには先ほどまでの気遣いが嘘のような拒絶の視線があった。
混乱する僕は迷わず、一歩を踏み出した。
「そんな事...!」
「はいそこまで」
一歩を踏み出したその先に白く一本の線が引かれる。僕と白須凛との境を区切るその線は、わが校の保険医であるニシミヤ先生の腕だった。
思わぬ再開に目を丸くする僕だったが、ニシミヤ先生は淡々と、口にふくんだ飴玉を右から左へ動かしながら言う。
「それ以上進んだら、痴漢だって大声出しちゃうよ~」
「先生、どうして…」
僕はいら立ちが隠しきれないといった風に先生を睨んだ。
腕の向こうに立つ女にも、自分より数十センチは高い位置から聞こえる声にも、疑問のタネばかり播いておいて、全部置いてけぼりで行こうとするこの状況に腹が立った。僕は拳を痛いぐらいに握りしめた。
「凛ちゃん、今日は本当にいいんだよね?」ニシミヤ先生が言う。
白須凛は答えない。
ただ僕と目は合わせないまま。
「…だって、ずるいんだもの」
目を合わせないまま、どこか憂いを込めた様に目を伏せて、誰に告げるでもなく吐き捨てる。
「だから、意味わかんないって!」
怒気を荒げる僕の声に、白須凛は答えない。
ただそれ以上続く言葉もない僕は、背中を見せて立ち去る彼女を見守ることしかできなかった。一際強い風が校舎を叩いた。彼女がきしませる床の音が遠ざかっていく。その顛末を眺めていた一人の女教師は、しばらくしてため息を一つ。
僕らは何を言うでもなく見つめあった。
「…」
「…言いたい事は分かるよ」ニシミヤ先生が気まずそうに眼をそらす。
「じゃあ、ちゃんと説明してください!」
「いやあ、それもちょっと」
また沈黙。
僕が目をそらし続ける先生の横顔を睨めつけ続けると、やがて彼女は降参したように両手を上げた。
「分かったよ。カナタ君、明日学校は休み?」
明日は土曜日だ。
「はい。何も予定はありません」
「そかそか。じゃあ、明日ここに書いてある住所に来なさい」
そう言って、ニシミヤ先生に渡された紙には見慣れた地名と数字の羅列。言うまでもなく、誰かの住所が書かれていた。
「見方は分かるね?そこに来てもらえれば…秘密だよ、島の外について、教えてあげる」
そこまで口にして、先生はやっちまったと言うようにこめかみを揉んだ。
一方僕は、その単語に思わず目を丸くする。
島の外。外の世界。いままであるかないかも分からなかった場所。あるいは思考の片隅にすらその余地を考えなかった場所。僕は生まれて初めて、脳にかかっていた霧が晴れていく感覚を味わった。何か変わらないと思っていたものが崩れていくようだ。
けれど胸中に恐怖はない。
あるのはただ純粋な好奇心と、ひとしおの快感のみ。
…どうしてそんな風に思うのか、きっとそれすらも明らかになるような気がして、そんな風に思うのが、今の僕には不思議でならなかった。