海の向こうから
昨日、そんな事があった。
あの謎の集団が去った後、僕は何度かジュンペイに先ほど目撃した集団について投げかけたが、彼は何事か考えるのに必死のようで、結局口を開くことはなかった。僕は確かに衝撃的なものを見たものなと納得し、それ以上追及することはなかった…。
出発した時と同じように窓から侵入すると、不思議と自分の心が落ち着いていることに気が付いた。僕は数時間前までの寝苦しさが嘘のように眠りにつき、そして不思議な夢を見た。
◇◇◇
「カナタ、おはよー!」
翌朝。学校の廊下を歩いていると、不意にハルキから声をかけられた。
「おはよう。どうしたの?なんかテンション高いね」
普段おっとりしている彼とのギャップに驚きながらそう返すと、彼はきょとんとした顔で答える。
「え、そう?いつもこんな感じじゃん」
そういいながらハルキはぴょんと一つ跳ねて見せる。彼の背負ったランドセルが音を立て、僕はそうだったかなと思いつつ、言われてみればこんなものだったと首を傾げた。ふと彼の上履きに目をやると、相変わらず新入生みたいな真っ白な上履きを履いていた。自分は三日で今と同じぐらい汚したというのに、ハルキの几帳面さと来たら比較にならない。
「…なんか学校、静かだね」
隣を歩くハルキに向けて、僕はずっと感じていた疑問を口にする。もう始業10分前だというのに、生徒たちでごった返すはずの廊下に他の人の気配がしない。
それは不気味なほどの静寂だった。いつもと同じ景色なのに、全然違う場所に迷い込んでしまったような。例えば知人と見た目は同じ他人と接しているような、そんな奇妙な恐怖感。昨日まではしかと立っていた地平が、急に揺らいでいくような気分に嫌な感じを覚える。
僕の疑問にハルキは続けて。
「そう?いつもこんな感じだろ」
そう言った。
「そうかな…」
「そうだろ」
思わず疑問が口を吐いた僕の言葉に、ハルキがかぶせるようにそう答える。
僕はその真意を訝しみ、昨日まではどうだったろうと考えたけれど、思い返してみれば、確かに、こんな感じだったかもしれない。
「おはようございまーす!」
教室が近づいてくるとハルキは小走りで横を抜け、勢いよく横開きのドアを開けた。
その、やはりハルキらしくない行動にぎょっとするも、僕の視線は教室の中で見た光景に釘付けだった。踏み出そうとした片足が、掴まれたみたいにぴたりと止まって、後ずさる。
「?どうしたの、■■■」
きょとんとした顔で振り返るハルキ。僕は彼に構ってられない。
道理で廊下が静かなはずだ。普段、廊下を賑わせているはずの生徒たちは、この時間にはもう当たり前の様に、教室に集合しているのだから。
ハルキの言葉に合わせて、行儀よく着席していた生徒たちが僕を見る。
能面のような笑顔を張り付けて。
僕は彼らと目を合わせたくないと心から思った。
だって彼らは一人残らず男も女も生徒も教師も体格も発達も関係なく毎朝鏡で見るお決まりの顔をしていたから。
僕と同じ顔をしていたから。
…でも冷静になってみると、こんな景色もいつもと変わらない感じがする。
「おはようございます」
ハルキに続いて教室に入ったところで、ふと、自分の席はどこだろうと思い至った。足は間隔を覚えているらしく、自然といつもの場所に向かったけれど、昨日まで指定席であったそこにはいつも通り■■■が座っている。
「おはよー」
「おいっす」
顔が同じなのでよくわからないが、声が高いのでおそらく女子であろう■■■に声をかけられて、思わず足を止める。
「ごめん、俺の席どこだっけ」
「はー?何言ってんの、■■■の席はあっちでしょ。何しに来たかと思ったわ」
「…あー、そうだった。ごめん」
あきれ気味に■■■に指を差されて、ああそうだったと思い返す。自分でもどうしたことか、僕の席は教室後ろの入り口側だったというのに、何故か全く反対方向にきていたらしい。給食の時間になったら■ルキと共に給食をいただきに走りだすのが日課だったはずだが、全くどうかしている。
「何してんだよ」
もう自分の席に座った■ルキに半笑いで声をかけられる。彼が座った席は教室の中央で、丁度他の生徒に囲まれるような位置だった。あれでは授業終わりの鐘と共に走り出すことは出来ないだろう。
いつの間にか教室中の意識が自分に向いていることに気づいて、僕は足早に席に着いた。
「…あれ」
木製の椅子を軋ませながら後ろに下げる。そこにどっかり腰を下ろし、鞄を机横の金具に引っ掛けたところで違和感に気づいた。
金具が昨日までより錆びている気がするのだ。
もともとが海に面した学校だ。どこもかしこも年季が入って腐りかけ、綺麗な設備を使っていた記憶はないけれど、毎日重い鞄をぶら下げていたこの金具は、こんなにも、危うい感じをしていたっけ…?
昨日までの自分は、一体どうやってこの荷物をこの今にも壊れそうな金具にひっかけていたのだろうか。疑問に思った僕が思わず固まっていると、また、教室中の意識がこちらに向いていることが分かった。僕は鞄を床に置き、昨日の自分を思った。
「じゃあ、"朝の会"を始めます。日直!」
「はい…起立!」
野太い担任教師の声で、近くにいた生徒が立ち上がる。顔に判別がつかないので最早誰かも分からないが、多分きっと男子だろう。彼の号令に従って、クラス全体が気持ち悪いぐらい統一感のある動きで立ち上がる。そのあまりにキビキビとした動きについていけないのは僕と■ルキぐらいのもので、他は練習でもしていたのかというほど統制が取れていた。
「少しずれたな。やり直し!」
教師の言葉で全く同じ動作が繰り返される。ずれたのが誰かと言えば一目瞭然で、僕と■ルキに外ならなかったけれど、クラスの皆は睨むこともなく繰り返す。その雰囲気はまるで霧がかった暗い森の中を彷徨うようで、木々のざわめきは一つの生き物のうめき声のようで。ちっぽけな僕らは自然、その流れに合わせるように動き出す。
結局10回程度繰り返したところで担任の許可が出て、僕らは着席したけれど、その日は何度もそんなことがあった。
授業時の挨拶は当たり前に、移動教室や板書の動きさえ皆んなと『同じ』を余儀なくされる。
不揃いに気づくのは大抵大人だが、時には生徒が自ら申告して、終わりの見えない反復に付き合う羽目になった。
先に慣れ始めたのは■■キだった。その時には彼がどんな顔をしていたかも思い出せなかったけれど、この動きが成るころには僕もそうなっているから怖くはない。
「まだずれてるぞ、やり直し!」
号令があれば従った。
丸く閉ざされた道を歩くように。
ただただ同じ動きを繰り返す。
繰り返していくうちに。
僕らはようやく一つになる。
「はーっ、はーっ」
顔も同じ、動きも同じ。今は声や格好が異なる者の、きっとそんな小さなこともいつかは同じになる時が来るのだろう。
それには不思議な安心感があった。
一つの生命として完成する安心感が。生まれながらに自我を持ち、独りであることを決定づけられた僕たちが、ようやく他者とまじりあうことで一つになる。
そうして僕らはきっと一つの命になって。
統一された意思は力を持ち。
その意思はきっと、■■■■へ届くだろう。
恐怖はなかった。
一人でないから。
「…あ、」
ただ一つ誤算だったのは。
至りかけた意思が霧散したのは。
僕が何故かその日寝不足で、単純な上下運動をする体力も、残っていないことだった。
◇◇◇
夢の内容はこうである。
僕は霧がかった地平に立っていて、そこは知らない場所だったから、僕は”出口”を求めて歩き出す。夢なので全てがおぼろげではあったけれど、自分が裸足で、薄っすら水の張られた地面を歩いている事には気が付いた。
どれほど歩いただろうと振り返ると、そこは高い塀の上で、僕はその上から、たくさんの人を見下ろしていた。
彼らは皆僕を見て、お祭りみたいにはしゃいでいる。
僕は何だかうれしくて、その期待に応えるために思わず一歩踏み出した。
怖さで心臓が跳ねたのは、地面にぶつかる直前だった。
たったその一瞬で僕は一気に巻き戻したくなって、でも皆の歓声は聞こえていて、それが皆の為になると知って、それで…。
鉄橋の上に立ち尽くす僕は誇らしげだった。
こんなにも誇らしいのに、いざ消失の間近になると後悔を覚える。
僕は平均台の上を想像しながら慎重に歩き出した。
個人的にはかなりいいところまで言ったと思うのだけど、急に強い風が吹いてきて、僕の体はゆっくりとバランスを失っていく。
さっきまで自分がいた場所が遠ざかっていく。
僕は無駄だと分かりながら手を伸ばした。
その手をつかんでくれる人はどこにもいない。
耳を殴る強風はいつしか、近づいてくる歓声に換わっていた。
◇◇◇
目を覚ますと、まず薬品のツンとした匂いが鼻についた。それだけでここが何処か想像がつく。何度か利用しているが、保健室のベッドはやはり硬い。
僕は薄い毛布を剥ぎ取って体を起こすと、四方を囲まれたカーテンをゆっくり開けた。
丁度西日が差し込んでいたので目を細める。窓の向こうでは丁度体育の授業中の同級生たちが見えていて、僕はそれをぼーっと眺めた。
「あ、起きた?」
視界の隅から聞こえてきた女性の声。その声がする方へ顔を向けると、何度かお世話になっている、ニシミヤ先生の姿があった。彼女は腰への負担を考えていなさそうな丸椅子に腰かけて、保険医用の机からこちらを見ている。
「…おはようございます」
「おはようございます。見たところ大丈夫そうだけど、どこか痛いところはない?君、登校してすぐに倒れちゃったんだよ」
「倒れた…」
言われて、自分の中に残る最後の記憶を思い返そうとするけれど、何か靄がかかったみたいに思い出せない。
「特には、大丈夫です。あの、今って何時間目ですか」
「五時間目だよ。だから、学校はもうおしまい。起きたなら、"帰りの会"だけでも出る?下校まで休んでもいいよ」
僕は寝ぼけた頭で先生の言葉を咀嚼しながら考える。この時間になってまで一人でいたということは、両親への連絡は行っていないということか。まあ、あった所で彼らが心配をして迎えに来るとも思えなかったけれど、それはある意味、幸運なことでもあった。
「どうですかね...でも...」
整理のつかない頭から、意味のない言葉を繰り出した。
窓の外では男子が二組に分かれてサッカーをしていた。ケントが遠くの仲間に指示を出して、タイセイは応援しているユリちゃんにいい所を見せたいからと、突っ込んでいって躱される。目の前にあるのは紛れもない当たり前の日常だった。
けれど、どういうわけか、そんな当たり前の景色をみて、今は締め付けられるような怖さを覚える。
まるで目の前に写っている景色は映像で、近づけば嘘だと気付いてしまうことを恐れるような、そんな恐怖感。
答えは気づけば漏れていた。
「やめておきます。まだ、クラクラするし、放課後になったら歩いて帰ります」
「そっか。じゃあ、もう少し寝ててもいいよ。起こしてあげる。あ、飴とか食べる?」
「いえ、食欲ないんで」
「そう?ふーん」
片手を上げて断ると、ニシミヤ先生は面白いものを見つけたようにみたいに僕を見た。
「なんですか?」
「んー?凄いなと思って。ほんと、この島の子達は賢いねー」
「?」
先生は楽しそうにそういうけれど、僕は思わず首を傾げた。
「なにか賢そうな事言いましたか?僕」
「何も言ってないよ」
「?」
もう一度、首を傾げた。先生は楽しそうに部屋の外、授業中の生徒たちを眺めた。
夕焼けが目にかかり、彼女は眩しそうに視線を細める。
「あ、あとお礼。ちゃんと言っとくんだよ」
「...確かに、誰が運んできてくれたんですか?」
奇妙なことに、倒れる直前の記憶がない。学校に来た。それだけのことは覚えているけれど、それ以降の記憶がモヤがかかったように明確でない。そもそも、誰がここまで運んでくれたのだろうか。
本命はそこらの教師だが、先生の口振り的にそうではないらしい。僕の頭には二人の友人が思い出されていた。
けれど先生の口から出た名前は、そのどちらとも違うものだった。
「リンちゃん」
「リン?」
「白須凛。シラスリンちゃん。起きたら話があるから、それだけ伝えてって。何のことだろうね?」