蕨の鹿鬼
私は、父から賜った桜草来国光を根元から折ってしまった。下降する力と、私の体重の乗った一撃が、刀の耐久度を上回った為だ。
私は、当然負荷が掛かる事を理解していた。しかし、まさか折れるとは夢にも思っていなかった。
刃物とは垂直に当てたからと謂って切れるものでは無い。
豆腐を手の平の上で切っても、手が切れないのと同じ原理だ。
しかし、一度豆腐の乗った手の平で刃物を引こうものなら、手の平は切れ、出血は免れない。
つまり、刃物は、引く事によって初めて切れるモノのだ。
剣技とは、引く力と、押し込む力を十二分に刃物へと乗せる技の事を謂う。
これは真剣を使い、幾度となく鍛錬を重ねて、自分の体に沁み込ませるしか習得できない。そう謂った賜物なのだ。
かく云う私も、当然数えきれない程の刀を振り、体に覚え込ませて来た。いや、覚え込ませて来たはずだった……。
しかし……、空中から加速して、切りつけると謂った行為は、私が想像する以上の負荷が刀に掛かってしまったらしい。
自業自得と謂えば、それまでだが、父の形見を折ってしまった事に対して、何も感じなと謂えばウソになる。
だが、今の私には、落胆している暇など一寸も無い。
先ほどの衝撃により、鹿鬼は体制を崩している。腕は切れずとも、刀が折れる程の力が鹿鬼の右腕に掛かったのだから、当然と云えよう。
また、運の良い事に、私が巻き上げた砂埃により、少年の姿を見失っている様でもあった。
チャンスだ!
私はこの好機を逃すまいと、少年の傍らまで全速力で走ると、少年を小脇に抱え込んだ。そして、その場に立ち止まる事をせずに、鹿鬼から遠ざかった。
「よし、ここまで来れば大丈夫だ。少年、後は親の元まで逃げなさい」
すると少年は元気よく頷き、その場を立ち去った。
私は、背筋を伸ばして立ち上がると、砂埃の奥にゆらりと動く影を睨み付けた。
……さて、ここからが本番だ。
……とは謂え……。
そう考えながら、私は手に握っている折れた刀の柄を見つめた。
残念ながら、今の私に戦う力は存在しない。こうなると、もはや、部下に頼るしか方法がなく、情けなくなってきた。
もっとも、自分の部下が何を得意としているのか、どの様な戦い方をするのか。それすら理解する間もなく出撃してしまったので、丸投げ感は否めない。
全くもって、心が痛んでしまう。
そうこうしている内に、片桐さんの影が上空に見えた。
片桐さんも、勢いよく降りて来る飛行機の様に地面に着地すると、50メートル程の砂埃を舞き上げながら地面を滑った。
砂埃が少し収まると、黒い影と共に、片桐さんの姿が徐々に見え始めて来た。
そして、私は、その右手に、6メートルはあろう長槍を把持している片桐さんの姿を認めたのだ。
やれやれ、まさか料理長の得物は包丁ではなく、槍とはな。
しかもただの槍では無い。飛び切り長い2丈余もある長槍とは、思いもよらなかったわ。
私は、彼の得物が予想と反していた事に対して、驚はしたものの、なぜか笑顔がこぼれてしまった。
ともあれ、私は現状を伝えるべく、片桐さんの元へと駆け寄った。
「片桐さん、すまない。私の刀は折れてしまった。始まってもいないのに、戦線離脱の組長を不甲斐なく思うかもしれないが、鹿鬼の退治をお願いできるだろうか?」
片桐さんはチラリと一瞬私の方を見るも、直ぐさま私の存在等どうでも良いかの如く、鹿鬼と対峙した。
「まぁ、貴女の尻ぬぐいは一度していますから、構いませんよ」
片桐さんは呆れた様に、台詞を吐き捨てた。
そして、私など元から頼りにしていないと謂わんばかりに、片桐さんは鹿鬼へ突進して行った。
だが、その時、私は片桐さんの背中を見送りながら、彼の言葉を思い返した。
……っん? 一度尻ぬぐいをした? そうだ、確かに彼はそう云ったのだ。
もし尻ぬぐいをさせたとするならば、一度目の鹿鬼との遭遇戦だ。それ以外にはあり得ない。
あの時、私は最後の最後で、留めを刺さずに気を失った。
しかし、何故か、私は生きていた。
つまり、誰かが私を助けた事となる。
もし、彼の言葉が正しいのであるならば、私を助けたのは片桐さんと謂う事になるだろう。
……そうだったのか。
私はあの時、既に一度、鹿鬼に敗北していたのか。
そして、今回も再び敗北を期した。
やれやれ、情けない。これで組長とは片腹痛いな。
私は、自分の弱さを痛感させられた。
だがしかし、残念ながら私はこれしきでは挫けないし、挫けるつもりもさらさらない!
負けた事は仕方が無いとして、心を切り替える。
人は何事も模倣から始める生き物だ! だから……私は、片桐さんの戦い方を盗んで強くなる!
私は、片桐さんの戦い方を食い入るように見る事にした。
● ● ●
数発鹿鬼と打ち合った片桐さんは、再び間合いを取るべく、私の近くまで後退してきた。
そして、槍の中腹を持ちながら、鹿鬼と対峙しながら睨みを利かせていた。
「そうだ。組長さん、なぜ刀が折れたか、わかりますか?」
私は、彼の急な質問に驚いた。
刀が折れる理由など、当たり所が悪かった以外に、理由など無い為だ。
「すまぬ。分からない。相手の体が硬かったって事だろうか?」
片桐さんは鹿鬼から目を離さず、首を横に振った。
「残念ながら、ハズレです。そもそも、なぜ組長は妖鬼殲滅隊に配属されたと思いますか?」
妖鬼殲滅隊に配属された理由だと?
そんな事を云われても、配属先を知ったのはつい先程。よく分からないまま出撃させられてしまった私にとって、そんな事を考える暇など微塵もなかったし、そもそも思考がそこに及ばなかった。
「なぜって、私の希望だったからとか?」
「違います!」
片桐さんは、ピシャリと私の言葉を遮った。
「組長、我々にはある力があります。我々はそれを妖力と呼んでいますが、それを武器に纏わせないと、魑魅魍魎は倒せません。つまり、妖力を纏っていない武器は鹿鬼を切りつける事はおろか、こちらの武器は、破損する危険性があるのです」
私は、片桐さんの言葉をもう一度頭の中で整理した。
「……つまり、……私は妖力を纏わせずに鹿鬼を切りつけたが故、刀を壊してしまった……って事でいいのかな?」
「その通りです」
「では、妖力を纏わせた状態がどんなものかをよく見ていて下さい」
片桐さんがそう云うと、彼の持っていた槍が青白く光り始めた。
「これが妖力を纏わせた状態になります」
「なるほど」
「以前組長が鹿鬼と対峙した時は、無意識に妖力を纏わせていたのでしょう」
そこまで話を進めたところで、改めて辺りを見回すと、砂ぼこりは先程よりも激しさを増していた。
路上には、我らの宿敵、鹿鬼が傍若無人に暴れている為だ。
鹿鬼は右手に把持している刀を振り回しながら、家屋を倒壊させている。
家屋の中に居た人間は、既に避難していると思い込みたいが、残念ながら我々にそれを知るすべはない。そうなると、取る行動は1つしかない。
そう、鹿鬼の注意を我々に引かせるれば良いのだ。
片桐さんは鹿鬼の目の前まで歩み寄り、穂先を鹿鬼の鼻っ面に突き出した。
「鬼よ、俺が怖いか?」
その言葉に反応したのか、鹿鬼は片桐さんの方向を向くと同時に、胴を薙ぎ払った。
片桐さんは、その攻撃を素早くジャンプしながら後退し、すかさず10メートルからの間合いを確保する。
間合いを取ると、すぐさま槍の持ち手を末端まで下げ、穂先を自分の体の左後方へと、反時計回りに回しながら槍を構えた。
しかしその直後、鹿鬼は、広がった間合いを詰めるべく、右足を蹴り出した。
足の爪により、地面には深く傷跡を残す。しかし、食い込んでいる分、反発力が働き、素早い動きが出来るらしい。
鹿鬼の動きは、完全に人間の動きを凌駕している。先程確保したはずの間合いは一気に詰められ、鹿鬼の刀が片桐さんへと襲い掛かった。
片桐さんは鹿鬼の動きを注視していた。段々と近づいて来る鹿鬼から目を離さず、7メートルの間合いに入った瞬間、遠心力を利用しながら長槍を時計回りに振り抜いた。
すると、無策で突っ込んで来た鹿鬼の右腕にクリーンヒットし、腕は二の腕から分断されるのだった。
吹き飛んだ刀と、切り放された腕は錐揉み状態に回転し上空へと飛ばされ、切り裂かれた傷口からは赤黒い血液が、噴水の様に吹き荒れた。
「うまい!」
私は、あまりに奇麗で鮮やかだった攻撃に対して、つい声をもらしてしまった。
しかし、我々の攻撃はこれで終わった訳では無かった。片桐さんが腕を吹き飛ばした次の瞬間、これを見計らっていたかの様に、今度は鹿鬼の首裏に飛び蹴りが炸裂した。
攻撃を食らわしたのは、滑空してきた楠君だ。
一直線に飛び込んで来た飛び蹴りは、まるで閃光の様な強烈な一撃であった。
死角からの攻撃が効いたのだろう。鹿鬼は1ミリも受け身を取ることが出来ず、宿場町のメインストリートを100メートル程、砂埃を巻き上げながら吹き飛んだ。
「見事だ……」
私は、つい片桐さんと楠君の連係プレイに見とれてしまった。
何故なら、攻撃を仕掛ける直前にも、インカムからは何も聞こえてこなかった為だ。つまり、事前打ち合わせ無しの、阿吽の呼吸で撃退したからだ。
彼らは、きっと普段からその様な訓練を積んでいるに違いない。そうでなければ、咄嗟の判断で出来る様な作戦でない為だ。
片桐さんは、ワザと鹿鬼の注意が自分に向く様に、大振りの構えを見せた。その為、楠君は、防御を気にせず、攻撃に極振りした一撃をお見舞いさせる事ができる。
3000メートル上空から勢いをつけた一撃だ。首の骨がへし折れて当然だろう。
こうして二人の連携により、鹿鬼はあっさりと退治される事となった。
そして、鹿鬼が倒れてから約3分が経とうとした頃、突如片桐さんが片膝を地面に付き、立ち崩れた。
「どうした、片桐さん、大丈夫か!?」
私が片桐さんに近づくと、片桐さんは肩で息をしながら、大丈夫だと左手を上げて答えた。
しかし、その姿は、決して大丈夫と謂えないのは見て取れた。
「……はぁはぁ、組長……覚えておいてください。よっ……妖力は一度解放すると、……全てを使い切るまで止めることが出来ません。……ですから、短時間で……決着を付けないと……負けます」
私は片桐さんの姿と説明を受ける事により、自分がなぜ以前鹿鬼と戦た時、前触れもなく倒れ込んだのかを理解した。
例えばの話だが、ここに妖力という名の水が入った瓶を用意するとしよう。
妖力を使用するという事は、瓶を逆さまにして、水を出し続けるのと同じ事なのだろう。
つまり、全て出し切るまで水は止められないという事なる。
そして、時間にして概ね3分ってところなのだろう。
個人差はあれども、我々は絶えず短時間勝負を課せられているという事となるのか……。
私は自分の能力を理解したところで、今度は力尽きている楠君の元へ行き、手を差し伸べて、楠君をねぎらった。
「お疲れ様、楠君。君の飛び蹴りは素晴らしかったよ。君は無手で戦うスタイルなのだな」
私は楠君に話しかけながら、彼を抱き起した。
しかし、次の瞬間、事態は急変した。
なんと、今までは何ともなかった向かいの宿屋の扉が急に道端へと吹き飛んできたのだ。
「何事だ!? 先程の鹿鬼は倒れていな……いゃ、まだ倒れている。つまり、あの鹿鬼は確実に倒している。……では、この砂埃の正体は……!?」
私は、砂埃が舞い上がる宿屋の出入口を睨み付けた。
すると、宿屋の中から、ぬっと現れる黒い影が目に焼き付いた……。残念ながら私は、その影を見た瞬間、驚きを隠せずにいた。
そう、その影の頭部には鹿の角が生えているのだ。
やれやれ。どうやら、鹿鬼は一体だけではなかったらしい。