氷山神社
年度が変わった四月一日。
私は、自分の配置は間違いであった可能性を、万に1つの確率で信じつつ、氷山神社の社務所を尋ねた。
少し重たい両開き戸は、まるで私の入室を拒んでいる様でもある。
私自身、出来る事であるならば、その拒否に賛同して引き返したい。
だが、残念ながら、私の性格はそれを許す筈がないのだ。
社務所の中に入ると、室内は外気よりも冷えていた。また、人の気配が感じられない。
……やれやれ、所詮は民間企業だな。
防犯面は陸軍の爪の先程にも充たない。
それよりも、この先、この社務所が自分の職場だと思っただけで嫌気がさす。
……果たして、こんな職場で私はやって行けるのか……。
私は、数秒間出入口で待ってはみたものの、やはり人の気配は感じられない。
このまま玄関先でコソコソしていては、どちらかと謂うと、私が不審者に間違われてしまうのではないか?
それは、それで、これから先仕事をする上で弊害となりそうだ。
私は、取り敢えず、神社の者との接触を試みるため、大声を上げた。
「す~ぅ~~。す・み・ま・せ・ぇぇぇぇええんんん!!」
私は大地が割れんばかりの大声を出した。
ここまで大きな声で叫べば、例え押し入れの裏に隠れていようとも、届くはずだ。
そして、私が思う今後の展開はこうだ。
社務所の奥の方から、優しそうな女性が「はーい」とか云って出て来る。
そして、私とニコやかに話をするのだ。
……だが、しかし、世の中そんなに上手くは回らない。
社務所の奥から「はーい」どころか、声が聞こえたのは目の前のソファーの陰からだ。
しかも、優しい女性は、どこへ行ったのやら。
現れたのは、50代半ばのしょぼくれたジジイだった。
「うるせぇ! そんなに大きな声を出さなくても聞こえるわ! 俺は千里先にいる訳じゃねーんだよ!」
罵声と共に現れた男は、かなり眠たそうな顔をしている。
頭髪はボサボサで、髭も無精髭なんだか、伸ばしているのか、見分けが付かない伸び具合だ。
そして、何より目を引いたのは、その男の眼光だ。
私の知る限り、その目付きをするヤツは自殺企図者だけだ。
このリビングデッドみたいな輩は、事もあろうか、私の顔を見るなり顎を上げる。
そう……見下したのだ。
「おぃ、おめぇさん、名前は、なんつーんだ?」
……くっ……私は、こんな輩に名前を名乗らなくてはならないのか?
私は、タダでさえ苦渋を飲まされてここにいるのに、こんな乞食と然程変わらない者に名乗らなくてはならないのか?
……もはや屈辱の極みだった。
「……初めまして。あっ……浅倉上乃と云います。宮司さんにお会いしたいのですが、心当たりは、ございますか?」
私が、自己紹介と共に宮司を尋ねると、その輩は、私の頭の先から足の先まで、舐め回す様に観察する。
……なんて気持ち悪い男だ……。
……ナメクジに舐め回された方がまだましだ。
そして、一通り見終えると、「ちょっとまってろ」と云い残し、その場を立ち去るのだった。
……一体あのジジイは、何者だったのだろう。
近所の迷惑ジジイか、はたまた暇を持て余した、ジジイか…………。いずれにせよゴミの様な存在であることは変わるまい。
ともかく、部外者がいなくなってくれた事には感謝だ。
私は、ジジイが居なくなったことから、再び社務所の奥に届く様に、声を張り上げる。
すると、今度は「はーい」と優しい女性の声で応答があった。
エプロン姿の女性がパタパタと駆け足で現れると、彼女は私に向かって頭を下げる。
……そう、この光景よ。
私が、思い描いていた光景は、これなのよ。
少なくとも、リビングデッドが現れる予定は、私の筋書きに無い!
礼儀正しい彼女を、私はさりげなく見つめる。
身長は160センチ位……私より、少し低いくらいだろうか。
細身の体つきだが、ガリガリでもない。
スキが窺えない事から、格闘家の可能性もある。
……彼女は、かなり出来る!
私の本能が、そう訴える。
それ程までに、彼女の立ち位置と、立ち振る舞いは、洗練されていたのだ。
「こんにちは。氷山神社へようこそ。今日は何のご用件でしょうか?」
「あっ……! ……何の用ですか?……か……。そうですよね……そう質問しますよね……」
私は、悔しさの余り少しだけ唇を噛み締め、強く拳を握りしめた。
私と同じように卒業して行った同期は皆、軍服を着て配置先へと赴いた。
つまり、配置先で挨拶をすれば『なんのご用件でしょうか?』と質問をされる事はない。卒業配置だと視覚だけで分かる。
……しかし、私はというと、軍施設とは全く関係の無い神社への派遣勤務だ。よって、今の服装は、私服となっている。
それが今の私には、もどかしくもあり、悔しかったのだ……。
「……くっ……初めまして。本日よりこちらで巫女としてお世話になります、浅倉上乃と申します。よろしくお願いします」
私は、彼女に自己紹介をし、頭を下げる。
「あら、こちらこそよろしくお願いします。私は、ここで事務職兼巫女をしております三沢紬と申します。お話は伺っておりますので、事務所類をお預かりいたします」
彼女の丁寧な対応に、再び頭を下げる。
そして、士官学校より預かっている書類を手渡した。
「ところで、こちらの宮司さんは本日お休みなのでしょうか? お会いしてご挨拶をと思っておるのですが……」
すると彼女は、頬に手を当てながら、首を傾げる。
「あら? お会いになりませんでしたか? 宮司の金沢がいたと思うのですが」
「……金沢さん……ですか? いぇ、まだお会いしていません」
私がここに来て会ったのは目の前にいる三沢さんが初めてだ。残念ながら、それ以外の人物と会ってはいな…………いゃ、一人いた。
乞食みたいな、風体のジジイに先ほど会った。
しかし、あのジジイは、ここに入り浸っている近所のジジイだろうから、関係者とは呼べないだろう。
だが、そんな矢先、先程の子泣きジジイ…………もとい、乞食ジジイが社務所の奥から姿を現した。
「あっ、宮司。こちら本日より働かれる浅倉さんです」
「おぅ、知っているよ。さっき馬鹿みたいに大声で叫んでいたから、顔は見たんだ」
……おぃおぃ、待ってくれ。このジジイが宮司なのか?
私は、こんなくたびれたジジイの下で働かなくてはならないのか?
職場において上司は選べないが、まさか、よりにもよって、こんな人間の底辺みたいな男に従わなくてはならないのか?
私は、驚きを隠せなかった……。
「……はっ、初めまして。浅倉上乃と云います。本日よりこちらでお世話になります。……よろしくお願いいたします……」
慌てて頭を下げるが、挨拶と、体が連動しない。
「おぅ! よろしくな。で、これがお前さんの作業着な」
そう云いながら、宮司は私に服を手渡す。
……はぁ、巫女装束か……。
覚悟は決めていたけど、いざ渡されると答えるな……って、えっ? ちょっと待った!
私は、渡された服を広げる。
上下紺色の作業着。
そう、作務衣である。
「あっ、あの、宮司……。これって、作務衣ではありませんか?」
「そうだよ。作務衣だよ。見て分からんのか?」
「……いぇ、分かりますけど、私は巫女を拝命されて、此処に来たのですが……」
「あぁん? 巫女だ? 知らねーよ。ここでは俺がルールなんだよ。今日からお前は銭湯の従業員」
「せっ……銭湯? 銭湯って、お風呂のですか?」
何を云っているのだこの男は。私に巫女どころか、銭湯の従業員をしろと云ったのか?
士官学校主席の私に、風呂を洗えと云ったのか?
私は、心の整理が追いつかなかった。
ただでさえ、巫女と云われて落胆していたここ最近。なんとか、心を奮い立たせて、この場に立って来た。
しかし今、私は目の前の男に、雑用係を命令されたのだ。
誰にでも出来そうな、底辺の仕事を……。
「宮司殿。これは何かの間違いではありませんか? 私はこう見えて士官学校を主席で卒業したエリートなのです。風呂掃除なんて底辺の仕事を……」
「バカやろう! 風呂掃除が底辺の仕事だと? 人生舐めるのも、いい加減にしろ!」
宮司は、私を睨みつけながら吠えた。
「けっ、お前には、お前なりの事情があるのかもしれない。だが、お前は、風呂掃除なんてマトモに出来やしないぜ! なんせ俺は、学園長の田嶋に『一番使えないやつをよこせ』と云ったんだ。こっちは人手不足なんでな。誰でも良かったんだよ!」
ブワァァア!
全身に鳥肌が立つ。
私は、耳を疑った……。
今、このジジイは、『一番使えないやつ』と云ったのか? 主席の私を一番使えないやつと、この男は云ったのか?
「あっ、あの……ですが」
「うるせぇ!」
宮司が、私の言葉を遮る。
「仕事が分かったら、さっさと銭湯に行け! こちとら従業員が不足しているんだ。社務所を出て、右から神社の敷地を出る。で、ぐるっと本殿の裏手に回れば、氷山銭湯ってのがあるから。後は、そこで話を聞いてくれ」
「……はぃ。わかりました。……出て、右ですね……」
宮司に圧倒されて、私は、間の抜けた返事をする。
頭の中で、現状の整理が出来ていない。
幹部候補生が、巫女の辞令を渡されたと思いきや、配置先では掃除係を云い渡された。
もはや、士官学校の知識など全く必要としない職場に、私は呆然としていた……。
それでも、学校で叩き込まれた命令には従う。
この反射行動により、私は、社務所を後にするのだった……。
後に、私はこの時の事を思い出そうとするが、ろくに思い出せなかった。
ただ、虚無感だけを纏いながら、酷く重たい玄関戸を押し開けた。
……それだけは覚えていた。
● ● ●
浅倉が去し後の社務所では、金沢と、三沢が玄関戸を眺めながら話をしていた。
「ところで金沢支部長、あれで本当にいいのですか? 彼女相当へこんでいましたけれど」
「ん? あれでいいんだよ。下らないプライドなんて先にへし折っておいた方が良い。まっ、このまま腐るか、それとも、このまかカビるか…………」
「いゃいゃ、それではどちらも傷んでいるじゃ無いですか」
「……三沢、別にいいんだよ腐ろうがな。また、そこから新しい芽が生えれば御の字だろう。ククク」
「支部長、新しい芽が生える前に、除草剤を巻いた気がしますよ…………」
ニヤけて笑う金沢の横で、あらあらと困った顔をしながら、三沢は玄関扉の先を見つめた。