庚申塔の鹿鬼
私は、『ワー』『キャー』と逃げ惑う市民を横目に見ながら、ある店舗を探すため商店街の中を走った。
確か、さっきこの辺に……。
先程歩いた時に、うっすらと視界に入っていた記憶を掘り起こす。
「あった!」
私は、目当ての魚屋を見つけるやいなや、店に飛び込んだ。
「おじさん!」
「へいらっしゃい! って云いたいが、今は鬼が現れた見たいなんでね。悪いけど、店じまいだよ」
「そんな事は、分かっています! ……ですが、1つお願いをしたく思いまして!」
私は、身を乗り出して、若干やぶらかぼうに、語気きを強めた。
「急なお願いで、大変厚かましいのですが、この店で、一番長い包丁を貸して下さい」
唐突な私のお願いを受けた店主は、若干困惑した顔を作り出す。
もっとも、見ず知らずの女が、いきなり包丁を貸してくれと云ってきて、困惑するなと云う方が難しい注文と謂えよう。
「いゃ、いきなり一番長いって云ってもよぅ。嬢ちゃん、うちには三徳包丁と柳刃包丁位しか無いぞ」
「それで良いです! お題は後で、氷山神社に請求して下さい!」
私は即決した。
「いや、でもよう。嬢ちゃん、あんたそんなの持って、どこに行くのさ」
店主の疑問は当然だろう。
この包丁を持って、いきなりその辺の人を切り付ければ、貸し出した店主も責任を感じる事となる。
そのためにも、何とかして、私を信じてもらうしかない。
私は、真剣な眼差しで店主に向き合い、一礼をする。
「……私は、今から、あの暴れている鬼を退治に行きます。ですから、私にお力を貸して下さい」
店主は、音を鳴らしながら唾を飲み込んだ。
「……ほっ、本気か? 嬢ちゃんが、鬼退治に行こうというのか?」
店主の目は、お客が、マグロ一匹を背負って帰りますと聞かされた様な目をしていた。
しかし、私は本気も本気、鹿鬼を倒せないまでも、足止めの時間くらいは稼ごうと考えていた。
私が真剣な目付きで店主を見つめていると、店主は急に頭をかきむしり始めた。
「あ~、もぅ。分かったよ、貸してやるよ。ただ、身を粉にして鬼に立ち向かっても、勝てないと思うぞ?」
「フフフ、ありがとうございます。でも、別に身を粉にして戦うわけでは無いのですよ。身を挺して戦うだけですよ」
「その言葉に差はあるのかい?」
「勿論ありますよ。……誰がために戦うか? そこが重要だと、私は感じていますけれどね」
「……そうか。……じゃぁ、死ぬなよ……」
そう、私に告げると、店主は二本の包丁を私に手渡した。
「そうだ。鬼の元へ行く前に、あんたの名前を聞いても良いか? 勇敢な少女の名前を是非とも教えてもらいたい」
「……私ですか? ……私の名前は……ぁぁ、あ……さくらと云います」
いきなり聞かれたので、どもってしまった。
それに少女って、私はこれでも19歳だ。
そんな事を考えていると、気が付けば店のおじさんは出入口の外にいた。
「おぅ、分かったぜ。じゃぁ、俺も逃げるわ! 無事を祈っているぜ、さくらちゃん!」
そう、私に告げると、店主は挨拶がてら手を上げて、その場を去っていった。
あれ? いゃ、私の名前は、さくらでは無いのだが……。
しかし、そんな訂正をする間もなく、店主は足早にいなくなってしまった。
「あぁ……、まっいっか。それよりも、鹿鬼が先決だ」
私は、気持ちを切り替えて、来た道を走って戻った。
● ● ●
浅倉が商店街をへと消えていった直後、楠は鹿鬼と対峙していた。
「さて、鬼さん、僕と遊びましょう」
楠は、左半身を前に出し、軽く腰を落として構えた。
そして、細く息を吸って、いつでも飛び込める準備をしたのだが、楠は変な違和感をおぼえていた。
……何だこの鬼? 今までと違う気がする。
筋肉の付き方が違うのか?
……いや、ちがうな。
空気の圧が違う、張り詰めたと謂うか、相手のテリトリー? そんな気がする。
そんな事を考えていたところ、鹿鬼の方が先に動き始めた。
鹿鬼は駆け足で間合いを詰めながら刀を振りかざして来た。
刀は、楠の左方から地面と平行に胴体を薙いで来る。
……なに? 動きが早い!
しかし、楠はその攻撃を、落ち着いてバックステップでかわす。
だが、鹿鬼の足は止まらない。どうやら、刀で切りつけるのが目的ではなく、ショルダータックルに入る動作の前段階として、ただ刀を薙いだだけだったのだ。
くっ! このままでは、食らう!
敵の狙いは、超接近戦か。
相手も攻撃の体制に入っているから、こちらからのカウンター攻撃は無理。重量的にも分が悪い。
……となれば、避けるのみ!
楠は地面を強く蹴りだすと、5メートル程の高さまで飛び上がった。
妖力を足に纏わせているが故に、出来る跳躍だ。
楠のジャンプは、まるで棒高跳びの選手が行う背面飛びの様な形で舞っている。
そして、最高到達点に到着すると、今度は右足を前に突き出し、左足は後方にビシッっと伸ばす。
楠の体を横から見ると、右足と左足が一直線に開いた前後の開脚、まるで美しいバレリーナを彷彿とさせる姿だった。ただ大きく違うのは、バレリーナは頭が空の方向を向いているが、楠の頭は、地面を向いている。つまり、オーバーヘッドキックでシュートした直後の様な体勢なのだ。
「うぅぅああああああ!」
楠は唸りながら、体感と色々な筋肉を利用して、今度は無理やり体の回転を戻し始める。
楠が何をやっているのかと謂うと、楠はバク転の途中で頭が地面に向いた瞬間、回転方向を戻し始めた。つまり、バク転が180度回転し終えた所で、前宙に切り替えているのだ。
楠は足が完全に開いた状態で、前宙を繰り出す。
その回転は、360度を超えて、更に270度。1回転と四分の3の回転を加え、渾身の荷重が乗った踵は、鹿鬼の脳天に突き刺さる。
「くたばれぇぇええええ!!」
ズガガァアアアアン!
防御姿勢の取れなかった鹿鬼の脳天には、楠の踵落としが、クリーンヒットする。
「どうですか?」
楠は、鹿鬼の背後に着地した。
しかし、楠の想定は、ここで崩れた。
ブォォォオオオ!
ベショォゥゥゥウウウウ!
空気を切り裂く音から、豪快に肉の打ち付けられる音へと切り替わり、そのおぞましい打撃音は、辺りに反響する。
また、それと同時に、楠の視界は真っ黒くなり、激痛だけが体に走る。
「ごはぁぁあああ! ……ボェ……なっ……何が、起きた?」
楠の体が、後方に10メートル吹き飛ばされ、民家の塀に背中から激突する。
「な……何だ、僕は、何を食らったんだ?」
薄れゆく意識の中、楠は鹿鬼に目をやった。すると、鹿鬼が体を捻りながら、肘を突き出している姿が目に入った。
「あいつ、着地した瞬間の死角を狙って、肘打ちを食らわしたのか」
そう、楠とて着地をする瞬間だけは、どうしても地面との距離を測らなくてはならないため、ほんの一瞬だが地面に目を逸らさなければならない。
鹿鬼はその瞬間を狙ったのか、はたまた偶然なのかは判然としないものの、その瞬間に肘打ちを炸裂させたのだ。
……くぅ、マズイ、力が入らない。
受け身が取れない状態からの一撃はこたえるな……。
楠はフラフラしながらも、なんとか両足を踏ん張り立ち上がった。
しかし、そんな楠を、鹿鬼は見逃してはくれない。
鹿鬼は、再び楠を見定めると、刀を振り上げながら、駆け足で間合いを詰めて来た。
やれやれ、働き者だな。
……こっちは、ボロボロなんだ。
ゆっくり歩いて来てくれても構わないんだぞ。
そんな事を考えているのも束の間。鹿鬼と楠の間は一瞬にして詰まり、楠の直上からは、鹿鬼の太刀が轟音と共に振り下ろされてきた。
ガキィィイイイイン!
甲高い金属音が、周囲に反響する。
それと同時に、鹿鬼の攻撃を堪え忍んでいる楠の姿がそこにはあった。
楠は、足と両手を地面から一直線に伸びる棒の様に体を伸ばし、鹿鬼が一本の棒に攻撃をしたかの様にして、堪えたのだ。
例えば釘を打つとしよう。横から打てば釘は曲がる。しかし真上から力を受ければ、釘は曲がらずに、力を真っすぐ材木に伝えることが出来る。
そして、もしこの釘を打つ直前に、釘が伸びたとしよう。そうするとインパクトの地点がズレる為、釘に対して十分に力を加えることが出来ない。
そう、楠が行ったのはこの原理だ。
つまり、楠の頭に狙いを定めて振り下ろした刀だが、直撃を受ける直前に、楠は両腕を頭の上にピンと伸ばした。
よって、鹿鬼が予想していた地点より先に力を受けた為、力が十分に伝わらず、楠の体は無事だったのだ。
「霞渡瀬流気功術、二ノ型、上方突きってんだけど……まっ、実は使い方が違うので、師匠には怒られてしまうかな?」
楠は苦笑いをしながら、両手を真っすぐ上方に伸ばし、鹿鬼の刀をメリケンサックで受け止めた。
しかし、残念ながらいくら技を使おうとも、楠の体に鹿鬼の斬撃の荷重が圧し掛かっている事には変わりない。
元気な状態で、この技を繰り出していれば、まだ動けたことだろう。
しかし、楠の体は肘打ちと斬撃の重さで、体力はもはや枯渇寸前。風前の灯火となっていた……。
あぁ……次は、もう受け止められないかも。
そんな事を考える楠をよそに、鹿鬼は再び太刀を振り上げる。
そして、無情にも、楠の頭上に再び振り下ろすのだった。