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最終章

「入れない? 何故ですか!?」

 ユーグはヴァルシール家の門の前で使用人と問答していた。

「今日は夫人の茶会の日のはずでしょう。ここにこうして名刺もある」

 今までそうだったように今日もユーグは茶会に出ようとヴァルシール家を訪れた。だがいつもとは違い使用人はユーグを庭へと通さなかった。「お引き取り下さい」の一点張りである。

 当然ユーグとしては意味が分からない。ユーグは紳士的といえる限界の態度で使用人を尋問していた。

「何より今までは入れたではないですか。つい一昨日まで歓迎していた客人に、今日は理由も伝えずに帰れとはあんまりだ。それがヴァルシール伯爵家のやり方なのですか」

「とは言われましても私どもには何とも……」

 使用人は口を濁した。ユーグは歯ぎしりする。このまま下っ端をなじっていても意味が無い。ユーグは踵を返して立ち去ろうとする。だが立ち去ろうとするユーグを使用人は何かを訴えるような目で見つめている。

(何だ?)

 ユーグは使用人の視線の意味を読み取ろうとする。

(彼は何かを伝えようとしている。だが口には出さない。ということは誰かに口止めされているのか?)

 脅迫されていると言うことはなさそうに見える。ならこの使用人はヴァルシール家の誰かからの命令を受けているのだ。ユーグを茶会に参加させず、なおかつその理由も言うなと言われているのだろう。

(なら、命令に逆らわなくても応えられるような質問にすればいい)

 ユーグは質問の仕方を変えることにした。

「俺を入れるな、というのは一体誰の意向ですか」

「お答えしかねます」

「ヴァルシール伯爵夫人の意向ですか」

「いいえ」

「伯爵の意向ですか」

「いいえ」

「ではご長男のフレデリク殿ですか」

「いいえ」

 ユーグは心臓が縮み上がるような気がした。声が震えないよう最大限の注意を払いながら、最後の一人の名前を挙げる。

「ではフラヴィ嬢の意思ですか」

「…………お答えしかねます」

 ユーグは愕然とした。使用人の返答は、ユーグを茶会に入れないのはフラヴィの命令だと自白したも同然だったからだ。

「な、なぜ……」

「残念ですが、お答えしかねます」

 使用人はユーグに同情するように言った。

(おかしい。フラヴィ嬢が使用人に命令してまで俺を茶会にいれないだと!? そんなはずがあるものか。万が一何かの事情があっても、フラヴィ嬢なら教えてくれるはずだ!)

 こうなっては何とか敷地内に通してもらって直接フラヴィと話すしかない。ユーグは思考を加速させる。

「……茶会のホストはヴァルシール伯爵夫人ですね」

「はい、もちろんでございます」

「なら、茶会の客を追い返せるのは夫人か、夫のヴァルシール伯爵だけだ。そうではありませんか?」

「……そうですね。確かに仰る通りです」

「ではそれを踏まえてもう一度お願いします。俺を中に通して下さい」

「仕方ありません。どうぞこちらへ」

 使用人は安堵したようにユーグを敷地内に入れた。

「本日の茶会ですが、お嬢様は参加しておられません」

 使用人の発言にユーグの中の違和感はどんどん膨れ上がっていく。

(ありえん。フラヴィ嬢は伯爵に朝食を減らされている。腹を空かせたフラヴィ嬢は茶会に出なければ十分に食べることが出来ないはずだ。食欲がない、ということか?)

「フラヴィ嬢は何か病気にでもかかったのでしょうか」

「いいえ。ただお嬢様は昨晩から塞ぎ込んでおいでです」

「原因は」

「分かりません。私はあくまで一使用人ですから。高貴なお嬢様の胸の内など察せられようもありません」

「しかし」

「更に言うのなら私どもは旦那様の使用人でございますから。今私がユーグ様をお通ししたのが何よりもの証拠」

「そうですね。失礼しました」

 そう、結局使用人達もフラヴィの完全な味方というわけではないのだ。この使用人はフラヴィのことを心配しているようだが、彼とて伯爵の使用人としてしか動けない。

(実際フラヴィ嬢の意に反して俺を中に通した。あくまで「伯爵の使用人」であるが故に。何というか、やるせないな)

 フラヴィが使用人のことを「よくしてくれる」としながらも「壁がある」と言った理由がよく分かる。この屋敷にフラヴィの完全な味方はいなかった。

(裏を返せば、フラヴィは今一人で塞ぎ込んでいると言うことだ)

 昨日フラヴィは「悩んだのなら剣を振ればいい」と言った。なのに今日はそれが出来ないくらいの悩みを抱えている。

(助けてやりたい。昨日助けて貰った恩を返したい)

 使用人はユーグを庭の方へと連れて行く。だがユーグはこのままフラヴィのいない庭へ行くつもりはない。

「申し訳ありません。茶会の前にお手洗いをお借りしてもよろしいでしょうか」

「もちろんでございます。こちらへ」

 ユーグは屋敷の中へと案内された。屋敷の廊下で使用人はトイレの位置を手で指し示す。

「あちらの突き当たりを曲がった先がお手洗いになります。ですが間違えませぬよう。階段を登ってしまうとお嬢様の部屋の前に出てしまいますので」

「分かりました。色々とありがとうございます」

「とんでもございません。……私はただお嬢様の心が慰められるのを願うばかりでございます」

 ユーグは頭を下げる使用人を尻目にトイレに行く振りをしてフラヴィの部屋の方へと移動する。

「ここだな」

 ユーグは意を決してドアをノックする。

「…………」

 返事はない。ユーグは更にノックしながら名乗る。

「フラヴィ嬢。俺です。ユーグです」

「……!」

 扉の向こうから息を飲む音が聞こえた。フラヴィは確かにこの中にいる。ユーグはゆっくりと語りかける。

「どうか出てきていただけませんか。そして声を聞かせていただけませんか。一体貴女に何があったのです」

 だがフラヴィは答えなかった。

(このままでは駄目だ)

 ユーグは逡巡したが、もとより覚悟は決めている。ドアノブに手をかけてゆっくりと捻った。

 反応は劇的だった。

「来ないでッ!」

「ッ!」

 フラヴィの声は悲鳴のようだった。ユーグはぱっとドアノブから手を離した。数秒の沈黙の後、ドアの向こうのフラヴィは震える声で

「……帰って下さる? 今は……誰とも話したくない」

 フラヴィのこんな声は聞いたことがなかった。こんな弱々しい声で「帰れ」と言われたら、もうおとなしく帰るしかない。

「……分かりました。ご自愛なされますよう、フラヴィ嬢。そしてお忘れ無く。悩んだ時には剣を振ればいいのです」

 それだけ言い残してユーグはフラヴィの部屋を、ヴァルシール家を後にした。

 その翌日以降もユーグはフラヴィに会おうとあらゆる手を尽くした。

 茶会にはもう入れなかった。ユーグは勝手をしすぎたらしい。門で名刺を改める使用人は別の者に変わっており、その者にはいかなる懐柔も通じなかった。

 万が一の可能性を考えてユーグは社交場を渡り歩いてみたが、やはりフラヴィは家から一歩も出ていないようだ。

「ヴァルシール伯爵はまた忙しくなってしまったそうだしな。頼んで屋敷に入れてもらえればと思ったのだが」

 ヴァルシール伯爵には思うところもあるが、フラヴィのためなら頼るのもやぶさかではない。だがユーグは伯爵に会うことは出来なかった。

「かといってジュディ副長に相談したところでどうにもならないだろう」

 こうなるとユーグに出来ることは祈ることだけだ。

(大丈夫だ。フラヴィ嬢は必ず立ち直る。彼女の剣を見ていれば分かる。彼女は強い)

 それかフラヴィが三日後の舞踏会に出席することを期待することぐらいか。

(舞踏会の招待を蹴るのはそれなりに面倒だから、伯爵の方も欠席は許さないはず。……チッ、俺は実は相当な恥知らずらしい。フラヴィ嬢がいやいや舞踏会に来るのを期待するとは)

 ユーグは悶々とした気分で舞踏会を待った。


「フラヴィ嬢!」

 舞踏会でフラヴィの後ろ姿を見かけた時、ユーグは歓喜した。だが、振り返ったフラヴィの顔を見てユーグは言葉を無くした。

「……ああ、ユーグ様」

 痛々しい笑みだった。フラヴィは笑えていると思っているのだろうが、周囲の人間は騙されているのだろうが、ユーグにはそれが泣き顔にしか見えなかった。

 ユーグは周りの目も気にせず駆け寄る。

「お会いできて本当に良かった。一体何があったのです」

 フラヴィはユーグを見上げた。以前は翠玉や新芽を思わせたフラヴィの瞳は、いまや光を失いかけていた。ユーグは胸が塞がるような感覚を覚えた。

「ユーグ様、少しお話をしませんこと?」

「もちろん。貴女が話したいだけのことを、俺は聞きましょう」

 ユーグはフラヴィを連れてテラスへと出た。ここでなら落ち着いて話が出来る。

 フラヴィはなかなか口を開こうとはしなかったが、ユーグは辛抱強く待った。やがてフラヴィは端的に告げる。

「ユーグ様。もう、終わりにいたしませんか」

「何をですか」

「もう無理に私などに構って下さらなくていい、ということですわ」

 その瞬間ユーグの総身が凍り付いた。

「お父様から聞きましたの。貴方の任務のことを」

「何の事でしょう」

 ユーグは反射的にしらを切ろうとするが、

「もう嘘をつく必要だってありませんのよ。私の機嫌を取って社交場に連れ出すのがユーグ様の任務だったのでしょう? 私と親しくして下さるのもそのためだったのでしょう?」

 ユーグは天を仰いだ。言い逃れが出来る段階はもう過ぎていたのだ。ユーグは心底伯爵を恨んだ。クライアントである伯爵の意向が絶対だとは分かってはいたが、それでも責められずにはいられなかった。

(最低な男だ。娘を騙すのなら最後まで騙し通せ、べらべらとしゃべるんじゃない!)

 だがユーグはその最低な男の手先となって動いていたのだ。伯爵とは違い最後まで真実を隠し通す覚悟、つまりフラヴィを悲しませない覚悟はあった。だが全ては水泡に帰したのだ。

「その通りです」

 ユーグが辛うじてひねり出すと、フラヴィは口元を手で覆った。

「み、認めるのですわね?」

「ええ。伯爵はどうして貴女が社交場を嫌うのか、それを知ろうともしないで騎士団を通して依頼してきたのです。貴女を……社交場に連れ出せと。俺はそのために貴女に近づき、交流を持ったのです」

 ユーグは卑怯な言い回しに、フラヴィは傷だらけで微笑んでみせる。

「……それを聞いて安心しましたわ」

「何故ですか。何故安心などと仰るのですか」

「だって私が社交場に行きさえすればユーグ様の任務は成功なのでしょう? お忙しい『昇隼』をこのまま私とお父様のわがままに関わらせるわけには行きませんもの。この前ユーグ様が悩んでいらしたのもこの任務のせいなのですわよね。だから私がちょっと外に出るだけでユーグ様を任務から解放できるって分かって安心したのですわ」

「ちょっと外に出るだけ……? それは違う!」

 ユーグは黙っていられなかった。言うべきではないことが口からあふれ出す。

「貴女が「社交場に出る」ということを理解していないわけはないでしょう! 分かっているはずです、伯爵は貴女に恋愛をしろと言っているのです! 貴女の恋愛への嫌悪感は未だなくなってはいないはずだ!」

 フラヴィはうつむいた。そのまま「そうよ」と低く呟く。そして顔を上げると同時にフラヴィは感情を決壊させた。

「そうよ! 恋愛なんて大嫌い! 結婚なんて考えたくもない! 欲望だらけの社交界になんて一秒だっていたくない! でも仕様がないじゃない! そうしないと貴方が悩み続けるだけなんですもの、楽になれないままなんですもの、嘘をつき続けるだけなんですもの!」

「それがおかしいのです! 俺のことを気にかける理由なんてどこにもないではないですか! 俺は伯爵が命じるまま貴女に近づいて、貴女の興味を引こうとした。そして今の今まで貴女を騙し続けてきた!」

 ユーグは今までフラヴィに任務を隠すことに対してそこまでの罪悪感は抱いていなかった。任務を守秘するのは騎士の常だし、隠し事をしていてもユーグが守る騎士道は変わらない。失態はあれど、間違った生き方はしていないつもりだった。

 だが今のフラヴィの顔を見て自分が罪を犯してはいないと言うことなど到底出来なかった。

「そんな男のことをどうして気にかける必要があるのですかフラヴィ嬢!」

「だって好きなんですもの!」

「!?」

「恋愛なんて大嫌い、白馬の貴公子なんて信じない! だけど私はユーグ様が好きなんですもの!」

 ユーグは二十年近い人生の中でここまで衝撃的な言葉を聞いたことがなかった。ユーグの精神は完全に機能を停止した。口がこわばって上手く動かない。

「お、れは、貴女に、友達と思われているのだと」

「本気で仰っていますの? だとしたらユーグ様はどうしようもない愚か者ですわ! 『じゃじゃ馬』なんて呼ばれて一人だった私に話しかけてくれて、一緒にお茶をしてくれて、笑いかけてくれて、外に連れ出してくれて、そして何より私と対等に斬り結んでくれて!」

 フラヴィは顔を覆ってうずくまった。

「それで好きになるな、なんてあまりにも残酷ですわ」

「フラ、ヴィ嬢……」

「清らかな恋愛なんて存在しませんわ。だけど、私は愚かにもユーグ様だけは別だと思ってしまったのです。無いはずのものがあると夢を見てしまったのですわ。ユーグ様の笑顔は、剣は純粋なものだって信じたかった」

 フラヴィは顔を覆う指の間から嗚咽を漏らした。

「分かっていたのに……ユーグ様は役者ですから。任務のためなら白馬の貴公子を演じられる。どんなに私に優しくして下さっても、そこにユーグ様の本心はないんだって、何もかも演技だって、私、分かっていましたのに!」

 ユーグは騎士だ。任務に当たる騎士に私情はない。

 私情らしきものがあるとすれば騎士道のみ。ユーグが理想とする物語の騎士であればそうすべき、そう思うべきという判断基準だけがある。

 それは私情に似ているが、私情ではない。ユーグがフラヴィと親しくするのも「恋愛任務を受けた騎士ならばそうする」からだ。フラヴィの両親やジュディットに憤るのも「物語の騎士ならばそうすべき」だからだ。

 それは確かに演技である。だがユーグにとっては子供の頃から続けてきた、そしていまやユーグ自身となった演技である。

 だから今ユーグがフラヴィの頬をつたう涙を見て心を乱されているのは、「騎士ならば少女を泣かせたことを恥に思うべき」だからだ。そういう演技をすべきだからだ。

 ユーグがフラヴィという少女が好きだから、などという理由では断じてないのである。

(――断じて、ない?)

 ユーグは脳裏をよぎった言葉がどうしてか無視できなかった。

(思い出せ……思い出さなくては、今思い出さなくては駄目だ)

 何かこの言葉には大切な意味があったような気がする。騎士道物語、演技、未熟な自分、「本心」。それらに強く結びつく大切な意味が。

(本心……ああ)

 ユーグが答えにたどり着いた時、頭の中の霧が晴れるようだった。

 「断じてない」。ユーグがこの堅苦しい言い回しを初めて覚えたのは十歳くらいの頃だった。騎士道物語の中に出てきたのだ。

 その時ユーグが読んでいたのは『臆病者ゲッツ』。表題通り、臆病者の騎士ゲッツの物語だ。ある場面でゲッツは戦争に赴く。臆病者であるゲッツは傷を負ったり死ぬのを恐れて震え上がる。だがこう必死に自分に言い聞かせるのだ。『これは武者震いだ。恐怖などでは断じてない』と。恐怖を猛りにすり替えたゲッツはその戦争で大活躍する。

 ユーグはこの話を読んだ時いたく感動した。当時のユーグはジュディットに「泣き虫ユーグ」と呼ばれるほど臆病で弱い子供だった。だからゲッツに強く感情移入していたのだろう。

 だがユーグと違いゲッツは素晴らしい騎士だった。心の中でどれだけ怯えていようと「断じてない」の一言で勇猛な騎士に姿を変える。ユーグには「断じてない」が魔法のように思えた。

 だからユーグ自身も「断じてない」を使うようになった。自分が騎士として相応しくないことを思った時、「断じてない」と打ち消し、別の思考とすり替えることで弱い自分を克服しようと思ったのだ。

(だがもう必要ないと思っていた……俺はもう既に『昇隼』と賞賛されるユーグ卿だ。「断じてない」を使うまでもなく、騎士として相応しい思いを抱き、騎士として相応しい行動をする。なのに……)

 思い返せば今のユーグもたびたびこの言葉を使っているようだった。何ということだ。弱い自分は克服したはずだったのに。ユーグは脱力した。

(なんだ……俺はまだ騎士になりきれていなかったのか。演技が本物になっていなかったのか。私情などもう持っていないと言いながら、今の俺はこんなにも私情だらけだ)

 そして「断じてない」がユーグの弱い自分……本心を覆い隠そうとするものならば。ユーグはどうしてフラヴィへの思いを「断じてない」と否定したのだろうか。

(考えるまでもない。俺はどうもとっくにフラヴィ嬢に惹かれていたらしい)

 自覚してしまえば抑えきれなかった。

 お茶をしているときわずかに緩む口元が好きだ。帯剣している時の立ち姿が好きだ。自分をしっかり持ち、自分を貶めるものには敢然と立ち向かう気性の激しさが好きだ。「悩んだのなら剣を振ればいい」と、そう言ってくれた時の優しさが好きだ。全力で剣舞を舞う時に見せる華のような笑顔が好きだ。

 フラヴィに近づいたのは任務がきっかけだ。だから任務以上の感情は抱いていないつもりでいた。だが数日前ジュディットはユーグに「フラヴィに惚れているように見える」と言っていた。何とも、まさにその通りだったというわけだ。

 フラヴィの涙を拭いたいと思う。騎士としてではなく一人の男としてフラヴィには笑っていて欲しいのだ。

 だがユーグはフラヴィに手を伸ばせない。

「ユーグ様が任務のために私に近づいたと聞いて、私は耐えられませんでしたわ。その時初めて私はユーグ様に恋をしていたのだと気付きました。おかしいでしょう? 恋愛なんて嫌いってずっとそう思っていましたのに。それで傷ついていてはどうしようもありませんわ」

「…………」

「だけどもう大丈夫ですわ。苦しかったけれど、悲しかったけれど、今はもう悩んでいませんの。こういうときのために剣があるのですから。大丈夫、もうユーグ様への思いは断ち、切れ……ましたから。ユーグ様は小娘の馬鹿な傷心なんて気にする必要はないのですわ」

(嘘だ。本当に思いが断ち切れたというのなら、どうして涙を流すのだ)

 フラヴィは嘘をついている。ユーグも嘘をついていた。

 こんなのは止めにすべきだ。ユーグはそのためにフラヴィに伝えるべき言葉を探すも、何も見つからない。

 今までユーグは自分もフラヴィも騙してきた。ユーグに何かを言う資格はない。

 仮に資格があったとしても、恋心を自覚したばかりの今のユーグには自分の思いの全てを伝えられる自信はない。

 しかしユーグは諦めない。

(なら「今」ではなく、「言葉」によらず思いを伝える方法があればいい……!)

 ユーグは死すら辞さない覚悟を決めて、フラヴィに言う。

「フラヴィ嬢。俺には貴女に伝えなくてはならないことが、伝えたいことがたくさんあります」

「そんなこと、何もないでしょう」

「いいえ。あるのです。だが今の俺では思いを貴女の心に届けることが出来ない。それが出来ないまま、俺たちの関係を終わりにすることなど出来ない。……猶予を下さい。一週間後、ヴァルシール家主催の舞踏会がありましたね。」

「ぁ……」

「その舞踏会での一番最初の剣舞を俺と踊っていただけませんか。ファーストダンスは主催者のペアのみで踊る決まりです。今回の場合は……貴方のお母様ですね。ですが貴女はヴァルシール家の長女、夫人の横でファーストダンスを踊る資格はある」

 ファーストダンスは舞踏会の開会を告げる重要な剣舞。全ての参加者の注目を浴びるファーストダンスには逃げ場がない。逃げない。逃がさない。ユーグの不退転の覚悟だった。

「受けていただけますか」

 フラヴィは黙ったまま縋るようにユーグの顔を見上げる。だがそれは一瞬。フラヴィはユーグに背を向けた。背を向けたまま

「構いませんわ。それで、終わりにいたしましょう。お別れにしましょう」

 それだけ言ってフラヴィは駆け足で離れていく。ユーグは、追いかけない。

 何も言わず決意の眼差しでフラヴィの背中を見送っていた。


「ああ、ユーグか。丁度良かった」

 フラヴィとの一件の翌日、ユーグは騎士団本部を訪れていた。現れたユーグにジュディットは何でもないことのように言いかける。

「お前の任務だがな、伯爵の不手際により凍結――」

「そんなことはどうでもいい」

「はい? いや、どうでもいいって……」

 ジュディットは毒気を抜かれたように目を丸くする。

「任務凍結なの。中止なの。分かるか? 「フラヴィ嬢を惚れさせろ」改め「フラヴィ嬢を社交界に連れ出せ」って任務はもうなくなったんだ。伯爵がうっかりフラヴィ嬢に任務のことを漏らしてしまったらしくてな」

「知っている。フラヴィ嬢に聞いた」

 平然と言うユーグをジュディットは不思議そうに見つめながらも

「だったら分かるだろう。お前のせいではないが、任務がフラヴィ嬢に露見してしまった以上もうお前に出来ることはない。今までの関係だって壊れてしまったのだろう?」

「そうだな」

「……お前、なんでそんな冷静なんだよ。怖いっての。この前はあんなにフラヴィ嬢のことで怒っていたじゃないか。お前は私情じゃないって言い張ってたが」

「ああ、そんなこともあったな。すまんジュディ副長、あの時は嘘をついた」

「は?」

「別に気にしなくていい。どうでもいい話だ。俺がここに来たのはそんなどうでもいい話をするためじゃない。一週間後、ヴァルシール伯爵夫人主催の舞踏会があるな? そこで俺がフラヴィ嬢とファーストダンスを踊れるよう手配しろ」

「はぁ? 何を言っているんだお前。人の話を聞け。任務は凍結されたと言っただろう。なのにそんなこと出来るわけがない。そもそも何のために……って待て。お前普段手袋なんてしてたっけか」

 ユーグは右手にはめた手袋を外しにかかっていた。ジュディットの問いにユーグは、

「これか? ああ、もしかすると必要になるかもしれないと思ってな」

「……なんで?」

「もう一度言う。一週間後の舞踏会で俺がフラヴィ嬢とファーストダンスを踊れるよう手配しろ。伯爵に渡りを付けるなりしてどうにかするんだ。頷かないなら、俺はこの手袋を『女傑』のジュディット・オービニーに投げる」

 言葉と同時にユーグは冴え冴えとした剣気を放つ。部下の暴挙にジュディットは椅子から立ち上がる。

「正気か?」

 嘘を許さない態度でジュディットが短く質す。対してユーグはフ、と表情を緩めた。

「正気でこんなことを言い出すとでも? もし俺がまともなら上司であり師匠であり母親代わりであるジュディ副長に手袋を投げるなんて考えもしない」

 ジュディットはユーグの言葉にふてぶてしく笑ってみせた。しかし額には脂汗がにじんでいる。

「母親代わりってのは許せないけどね。姉と言え姉と。普段なら「手袋投げるぞ童貞野郎」って言えば良かったが、今手袋を投げようとしているのはお前の方か。しかも正気をなくしてる癖にそれを自覚していると来た。ははっ、参ったねぇ。これだから若さってのは」

「御託はいい。どうするんだ?」

 ジュディットは瞑目して、

「一つだけ聞かせてくれ。それは、私情か?」

 以前は答えられなかっただろう問いかけ。だがユーグはもうこの問いにはっきりとした答えを持っていた。

「そうだ。私情以外の何物でもない。騎士だの任務だの『昇隼』だの、そう言ったものから離れた俺自身の私情、ただのユーグの本心だ。俺はフラヴィ嬢を傷つけたままではいられない。彼女と本音で語り合う機会が必要なんだ。それにもう約束してしまった。……頼む」

 ユーグの返答に何を思ったのか、ジュディットは

「そうか、ならいい」

 と呟いて両手を挙げた。

「降参だ。出来る限りお前の希望を叶えるよう努力しよう。『女傑』の二つ名に誓うよ。確かにこのまま伯爵からの見返りを諦めるのは惜しい。何かしら手を打つ必要はあるだろうさ」

「そうか。感謝する」

「感謝するって、おいおい。もっと他になんかあるだろう。普通上司に決闘なんかふっかけたらクビじゃすまない……いや、言葉通り「首」になってもおかしくないんだぞ」

「最終的に手袋を投げたわけではない。ただ要求に頷かないなら投げると言っただけで」

「あー、なんて言ったか。『剣を振りかぶるのと、振りかぶった剣を振り下ろすのは同じ事である』的な台詞があったような気がするんだが」

「さて、忘れたな」

「チッ、まあいい。用が済んだならとっとと帰れ。伯爵には「任務の後始末」って名目で掛け合ってみよう。伯爵のミスをフォローできると思わせられれば何とかなるだろう。それで、お前はこの一週間どうするんだ?」

「俺か、そうだな……」

 ユーグは顎に手を当て言葉を選ぶ。

「剣と私情を鍛え直してくる」


 ヴァルシール家の舞踏会までの一週間、ユーグが何をしていたのかはユーグだけしか知らない。ジュディットやヴァルシール伯爵と最低限のやりとりをする以外はユーグは常に一人でいたからだ。

 誰とも会わずたった一人でユーグが何をしていたかといえば、ひたすらに己を研ぎ澄ませていたのだった。

 フラヴィへの恋心は自覚したばかりで、フラヴィの心へと届けるにはあまりにも小さな種火だった。だからユーグはそれを燃えさかる炎へと熾す必要があった。

 チリチリと臓腑を焦がすとろ火から、全身を焼き包む業炎へ。一人の孤独はフラヴィへの思いを掻き立て、炎を煽る。

 加えて剣舞の型もたたき直した。過程はどうあれ今のユーグのフラヴィへの思いは真実だ。それを伝えるのならこれまで通りの引き分けの剣舞ではいけない。勝つのだ。女剣士を負かした国王のように、ユーグはフラヴィの剣舞に勝らなければならない。

 舞踏会が始まる数時間前、ファーストダンスの打ち合わせのため舞踏会の会場を訪れたユーグは剣舞と恋慕が最大に仕上がった状態だった。

 だから姿を現したフラヴィの姿を見た時、ユーグの胸は弾けんばかりだった。

「ああ、ユーグ卿、今回はすまなかったね」

 だがその時ユーグはヴァルシール伯爵と打ち合わせ中で、フラヴィの元へ駆け寄ることは出来なかった。

「私がフラヴィに任務のことを隠しきれなかったばかりに、君の尽力を裏切ってしまった。本当に申し訳ないと思っているよ」

「お言葉ですが、貴方が本当に裏切ったのは俺ではないでしょう」

「フラヴィのことを言っているのかい? 確かにフラヴィは思っていた以上に君に入れ込んでいて、任務のことを知った時は随分と塞ぎ込んでいたようだけど今は何ともないよ。いつも通りだ」

 伯爵はフラヴィの方を手で示した。フラヴィは遠くからこちらの様子を見ている。扇子で顔の半分を隠しているのは表情を悟らせたくないからだろうか。

(あの様子がいつも通りに見えるとしたら、伯爵は目が腐っている。いつものフラヴィ嬢が扇子など使うか)

 ユーグは伯爵への怒りを飲み込む。ここで伯爵に食ってかかることには何の意味もない。更に裏切りという意味ではユーグも同罪だ。

「君に来てもらったのはフラヴィのケアのためだけれど、どうやらその必要もなさそうだね。そのうち、君のことは巡り合わせが悪かったと思って忘れるだろう。娘の結婚については何か他の手を考えるよ」

「そうだとしてもファーストダンスは務めさせていただきます」

「ああ勿論、それはお願いするさ。ファーストダンスの主役は妻だから、君とフラヴィは気楽に踊ってくれ。事故さえ起こらなければ体面は気にしなくていい」

 そのまま伯爵とユーグは使われる曲などの話を詰めていく。舞踏会の主催は夫人だが、夫人はフラヴィが自分と一緒にファーストダンスを踊ることを良く思っていない。打ち合わせは伯爵とするのが最善だった。

「ではそういう手筈で。どの剣舞型を使うかはフラヴィと相談しておいてくれ」

 頷いたユーグだったが、ユーグとフラヴィの剣舞に打ち合わせなどいらない。話すべき事など剣舞本番まで何もないのだが、それでもユーグはフラヴィの元へと歩み寄った。

 歩いている途中、夫人に「ユーグ卿!」と声をかけられたが聞こえないふりをする。無視された夫人は苛立ったようだがユーグにとってはどうでもいい。

 ユーグはフラヴィと対峙する。

「フラヴィ嬢、一週間ぶりですね」

「ユーグ様……ごめんなさいね、先日は取り乱したりして」

 ユーグと向き合ってもフラヴィは口元を覆う扇子を閉じなかった。顔を隠したままフラヴィは目だけをこちらに向ける。

「いいえ。好意を寄せていた人間が自分を利害でしか見ていなかったなどと知らされれば当然のことかと」

「そんなに卑下なさらないで。ユーグ様は任務に従っただけですわ」

「ですがだからといって貴女の気持ちが収まるわけではないでしょう」

「もう。それは大丈夫だってこの前も申し上げましたのに……そんなことよりこの場所、素敵な会場だと思いませんこと?」

 舞踏会の会場はヴァルシール家ではなく、夫人が貸し切ったダンスホールである。ヴァルシール伯爵家は北方の領地を拠点とする。そのためイスリの方の屋敷は大きな舞踏会を開くには手狭なのである。狭い場所で剣舞を踊れば剣が人にぶつかってしまうから、会場を借りるというのは適切な判断だった。

 わざわざ借りるような場所だけあって、会場は非常に広い。ダンスホールの建物自体もそうだが、玄関ホールや階段、庭なども広々としている。それでいながら管理が行き届いておりみすぼらしさとは無縁だった。

「確かに良い会場です。伯爵家の夫人が開く舞踏会の規模としては指折りのものかと」

 ユーグが同意すると、フラヴィは「ですわよね?」とコロコロと笑う。

「この会場でファーストダンスを踊るなら、周りの人にぶつかる事なんて気にせずにすみますわ。最後の、別れの思い出にはぴったりですわ」

 「別れ」という言葉のところでフラヴィは扇子を下ろす。扇子の下には完璧だが空っぽな作り笑いがあった。

 そう。フラヴィにとっては今日はユーグとの別れの日なのだ。

「どうしてユーグ様が私とファーストダンスを踊りたいって言い出したのかは分かりませんわ。でも最後にもう一度ユーグ様と剣を合わせられるのは嬉しいと思います。私がユーグ様をどう思っていようと、ユーグ様が私をどう思っていようと、ユーグ様との剣舞は純粋に楽しいですもの」

 フラヴィは前もって言葉を用意していたかのように淀みなく続ける。

「今日を最後にユーグ様は任務を終えられる。社交界に出る理由も、私と関わる理由もなくなる。いいえ、そんなのこの前話した時にもう無くなっていたのですわ。今日の剣舞はあくまでユーグ様のお気遣い。本当に感謝して……」

「もう終わりにしませんか、フラヴィ嬢」

 ユーグはフラヴィを遮った。フラヴィは小首をかしげながら、

「? だから今日が貴方の任務の終わりなのでしょう?」

「違います。俺が今言ったのは嘘をつくのを終わりにしましょうと言う意味です」

「嘘なんてついていませんわ」

「それも嘘だ。……責めているわけではありません。先に嘘をついたのは、ずっと嘘をつき続けてきたのは俺の方だ。そのことをとやかく言える権利など俺にはない。ですがそれでも貴女にはこれ以上嘘をつかせない。貴女は今日が最後だという。俺と貴女との関係が終わるという。その最後が嘘だらけだなんて、あんまりにも悲しいではありませんか」

「そういわれましても、これが私の本心です」

「違う!」

 ユーグは声を張り上げた。

「なぜならフラヴィ嬢、貴女はこの件に関して俺に恨み言を一度だって言っていない! 俺の裏切りに対して、貴女はそれを一度もなじってはいない!」

「そ、それはユーグ様が好きだったからで……」

「好きだったら相手の全てを許せるのですか? そんな清らかな恋愛が存在するのですか。いや、しない! 特に貴女ならなおさらだ。『無礼には無礼を、侮辱には侮辱を、嘘には嘘を、剣には剣を』! 俺の裏切りを何もせず許しておけるほど、貴女は安い女性ではない」

 「赫炎王子」の台詞を引用してユーグは詰め寄った。二人が初めて出会ったその日にフラヴィが引用した台詞である。

 それをユーグが覚えていたことに琴線を刺激されたのか、フラヴィはうつむいた。そのつややかな唇から煮えたぎるよう湯のようなモノがこぼれ出る。

「……ふざけないで」

「…………」

「ふざけないでよ。何ですの。最後だから、お別れだから、嘘で綺麗に固めようと思っていたのに。恨みや怒りなんて絶対に出さないって思っていたのに。それを飲み込んでしまえるよう、この数日必死で剣を振ってきたのに」

 ついに嘘の時間が終わった。フラヴィは今まで隠し通してきた「本心」を赤裸々に吐き出す。

「どうして暴くの? ユーグ様にとって私なんてどうでもいいんでしょう。私が恋愛を嫌っているって知っていたのに、平気でこんな裏切りが出来るんですもの。一人ぼっちの私に優しくして、惚れさせておいて、よくも、こんな。小娘の心を弄ぶのは楽しかったかしら? 貴方に惹かれていく私を見るのは、貴方を気遣おうとする私を見るのは楽しかったかしら……そんなの許せるわけがありませんわ! 好きだったから、慕っていたからこそ、絶対に許せない!」

 フラヴィはもう外面を取り繕わなかった。

「ぶちのめしてやる! 貴方が好きだった私だけれど、貴方のその空っぽなスカした笑顔だけは本当に気に入らなかった! 今日こそはその笑顔剥ぎ取って差し上げます! 貴方への怒りを忘れるために振ってきたこの剣、以前と同じだとは思わないで!」

 ユーグは身を引き裂かれるような感情に耐えながらも、フラヴィの怒りを真正面から見据える。

 同時に、交わすべき言葉が尽きたことも悟る。ユーグは一礼した。

「お怒りごもっとも。貴女のその思い、ユーグ・コンラディンが受けて立ちます。後は剣舞にて語り合いましょう」

「上等ですわ! 大勢に見られている中で恥をかかせて差し上げます!」



 剣舞はダンスであって決闘ではない。だが、ここにいたってユーグとフラヴィの剣舞は決闘となった。

 ユーグは己の思いを伝えるためフラヴィに勝らねばならず、フラヴィは報復するためユーグを負かさねばならない。

 時は既に定刻、ユーグとフラヴィは互いに譲れない私情を抱いてダンススペースへと進み出る。場には大勢の参加者と、ユーグ達と同じくファーストダンスを踊るヴァルシール伯爵夫人のペアがいるが、ユーグとフラヴィの目にはお互いしか映っていなかった。

 ユーグとフラヴィは息を合わせるように抜剣。

 恋愛任務の最終幕が切って落とされる。


「本当にやるんだなユーグの奴」

 定刻を迎えた舞踏会の会場。その中央で向かい合う若き騎士と令嬢を、ホールの片端から見つめる者がいた。

 スラフ王国騎士団副長、ジュディット・オービニーその人である。『女傑』と名高き美女剣士は、しかし衆目を集めぬよう気配を断ちながら静かに二人を見守っている。

「流石の童貞ぶりだなユーグ。分かりやすく緊張しちゃってまぁ。フラヴィ嬢の方は美しくなったな。初めての恋に惑い、悩み、苦しみながらも自分の思いに立ち向かう、女の美しさだ。あーあ、むずがゆいったらないな」

 そして自嘲するかのように、

「私の地獄行きは確定だな。こんな青臭い恋を私は大人の利害のために弄んだんだから……」

 それは以前ユーグに語った「恋愛任務」の真相のこと、だけではない。

「正直なところ、お前がフラヴィ嬢にガチ恋するのも予想してたといえば予想してたよ。だって童貞だしな。それであわよくば深い仲になってくれれば、と期待しなかったといえば嘘になる」

 常識的に考えるなら、騎士爵ユーグ・コンラディンは伯爵家令嬢フラヴィ・ド・ヴァルシールの伴侶として不適格である。身分が違いすぎる。話にならない。

「が、お前は現在でも『昇隼』と呼ばれる騎士。このまま武功を重ねていけば男爵位くらいは貰ってもおかしくない。そうなればギリギリ可能性が生まれる……」

 有り体に言えば、ジュディットは「恋愛任務」をきっかけにユーグとフラヴィが結婚する可能性を期待していたのだった。

 国境線を把握しつつあるヴァルシール伯爵は今後重要人物となるだろう。騎士団として伯爵とのコネは何としてでも欲しい。万が一にでもユーグとフラヴィが結ばれれば、それは騎士団にとって大きな利益となる。

「伯爵の意向通り、フラヴィ嬢が適当な男とくっついたならよし。伯爵からの要請をこなしたということで多少は恩が売れるだろう。逆にフラヴィ嬢がユーグしか目に入らないという状況になっても、それはそれでよし。伯爵の方だって騎士団とつながりが出来るのは嬉しいはずなんだ。「壁の花」になって結婚すら怪しかった娘が、好きな相手とくっついてなおかつ騎士団とのパイプをもたらしてくれる……これなら案外結婚を認めるかも知れないからな。勿論ユーグが男爵位を得ればの話だが」

 二人の若人を眺めるジュディットの思惑はどこまでも打算的だった。そして己の打算を嫌悪するほど、ジュディットはもう若くはなかった。

「許せなんて言わない、ユーグ。恨んでくれて結構だ。……だが、正直今のお前を見て安心したよ。今のお前はちゃんと自分の気持ちを分かっている」

 長年ユーグを見守ってきたジュディットにとって、ユーグは弟のような存在だった。

 だからユーグが騎士道物語の騎士達に憧れていたのもよく知っている。小説に出てくるような理想の騎士を演じようと心がけ、実際そうなろうとしつつあることも、その過程で自分の本音や弱さを押し殺していったことも。

「己の本音を、理性で律しようとするのは悪いことじゃない。理想のために己の弱さを克服しようとするのも悪いことじゃない。だが、お前はそれが上手すぎた」

 ジュディットが目を閉じれば、まぶたの裏にかつてのユーグの姿が浮かんでくるようだった。騎士の家系に生まれながらも、臆病で将来が危ぶまれた可愛い弟分の姿。

「ユーグ、駄目なんだよ、自分の心を殺しすぎては。いくら騎士道物語の騎士を演じてみたところで、『昇隼』と呼ばれるまでに結果を出したところで、そんなのは絶対に破綻する。抑えていた感情はどこかで必ず爆発する。……今、お前がフラヴィ嬢に抱く思いのように」

 騎士である以上、私情を排して任務に当たるのは正しい在り方だ。だがユーグはその私情を自覚すらしていなかった。私情など忘れてしまうくらいに騎士が板に付いていた。

「自覚してないんだから、制御なんて出来るわけがない。もし、お前が自分の気持ちを忘れたままだったら、近い将来お前はどこかで耐えきれなくなっただろう。……もしそれが国運を左右するような大任務の真っ最中だったら? 自分の抑えきれない感情のせいで任務をしくじり、王国に大きな被害を与えれば、お前は一生後悔することになっただろう」

 だからこそ可能な限り早くユーグには自分の思いに気付いて貰わなければならなかった。

「お前は元来もっとポンコツで愉快な奴なんだ。だって「理想の騎士」が童貞いじりなんかで泣くかよ。どうしてそっちの「泣き虫ユーグ」を忘れてしまったんだ? ……だから、素直に嬉しい。お前が、自分の心の奥底にあった「可愛い女の子と付き合いたい」なんてくっだらない欲望を認めて、そこに立っている。応援しているよ。この口で言えたことじゃないがな」

 もう、フラヴィとユーグのダンスが始まるまで間もない。

「私はお前達の恋がどうなろうと構わない。どっちに転ぼうと、卑怯な私は損をしない。だからお前は後悔しないように、やりたいようにやれ。いずれ後悔するとしても、この今を全力で……青春してこい!」

 ジュディットはそうエールを送って、若人達の行く末を見つめていた。


 剣舞が今まさに始まろうとしている。ユーグとフラヴィは共に抜剣する。

「ッ!」

 絶対に負けられない剣舞。だがユーグはフラヴィの抜いた剣を見ていきなり呼吸を乱された。

 フラヴィの剣は伯爵家令嬢の手には相応しくないような無骨で重厚なもの。金箔も宝石も鍔飾りさえも付いておらず、ただ刀身にうっすらと彫刻がされているだけの剣である。それはいつぞやかフラヴィを連れて行ったなじみの鍛冶屋の手によるものだった。

 一緒に取りに行く、と言う約束は果たせなかった。一人で鍛冶屋へと足を運んだフラヴィの胸中はいったいどうであっただろうか。

 だがユーグには目を逸らすことは許されていない。そのつもりもない。

(俺はフラヴィ嬢の「本心」を全て受け止める。その上で、俺の思いを伝えなくては!)

 楽団のピアノのハンマーが弦を叩くと同時に、ユーグは飛翔する隼のごとく踏み込んだ。

「!?」

 ユーグの靴底が灼けんばかりの踏み込みにフラヴィは瞠目した。だがフラヴィもさるもの、ユーグが『茨の盾』の型を選んだことを瞬時に看破し、ユーグの横振りを打ち落とした。その衝撃がユーグの右腕を伝う。

(重いッ!?)

 あの鍛冶屋は確かな仕事をしたようだ。今までのフラヴィの剣より確実に重量が増している。そして重量の増した剣をフラヴィはこれまで以上の速度で扱っている。

 ユーグの攻撃をしのぎ、手番がフラヴィに回る。フラヴィは剣を頭上高く構える。

「ヤァッ!」

 そこから放たれるは『激憤』。敵の脳天と左右側頭部へ斬り込む三連の振り下ろし。腕力が必要で多くの女性はもたつく型をフラヴィは苦も無くこなしてみせる。

 ユーグはフラヴィの三段攻撃を剣を頭上に掲げて受ける。だがフラヴィの流麗さと荒々しさを兼ね備えた剛剣に手が痺れる。

 『激憤』を打ち尽くしたフラヴィは宣言する。

「引き分けになんてさせませんわ! 今日こそはその剣打ち負かして見せます! 私の怒りを思い知って!」

(こちらとて、引き分けなどでは終わらせない!)

 受けて立つユーグは『焔羽』の型を取る。剣をはためく翼に見立てて柔らかく、されど強く放つ。

 無論フラヴィはこの程度でたじろがない。剣を斜め前方に突き出すように受けるが、

「クッ!?」

 フラヴィは大きく体を横に泳がせた。ユーグは剣を介してフラヴィの体の重心を真横に殴りつけていたのだ。フラヴィは辛うじてステップで踏みとどまる。

「これがユーグ様の本当の本気……!」

 ユーグは今までもフラヴィに対しては本気だった。だがそれは剣舞に本気だっただけであって、勝負に本気だったわけではない。ユーグはこれまでフィニッシュでフラヴィに積極的に勝とうとはしてこなかった。それはフィニッシュで男が勝つと言うことは、男が女性に恋をしていると告白するも同然だからだ。さして親しくもない間柄で意図的に勝つなど非礼である。

 だが今のユーグはまさにフラヴィに恋をしている。勝たねばならない。

 曲が続いている間はお互いに型を続けなくてはならないから、勝敗は付けられない。だが勝利への布石を打てないわけではない。フィニッシュまでにできるだけ相手の体力を奪う、重心を崩す。相手の癖を読む。本気で勝つつもりなら策はいくらでも思いつく。

 ユーグの勝利への執着を見てとったフラヴィは、しかし怒りを募らせる。

「何を今更……勝つつもりなんて本当はない癖に。私への思いなんてなにもない癖に!」

「クッ!」

 フラヴィの反撃は嵐のようだった。ともすればユーグの体が浮き上がりかねない乱撃だ。

「それがユーグ様の本当の本気なら、今までは引き分け狙いだったって事でしょう? なのにどうして今になって本気なんて見せるの!? 今まで私を嘲笑ってきたくせに!」

 剣の重さや語気の激しさとは裏腹に、フラヴィは泣きそうな顔をしていた。

「…………」

 ユーグは唇を引き結んで攻撃を耐える。

 恋愛狂いの夫人に傷つけられたフラヴィの心は恋愛を遠ざけようとしていた。この世界に綺麗な恋はないのだと。白馬の貴公子など信じないと。恋に憧れるようなことはしないと。

 だが憧れの反対は無関心だ。決して嫌悪ではない。憧れと嫌悪。これらは表裏一体の物であるはずだ。ならばフラヴィは恋愛を嫌う一方で、強く憧れていたはずなのだ。

「ユーグ様を信じようとした私がおろかだった! 『じゃじゃ馬』に打算なしで近づいてくる殿方なんていない……いいえ! 打算なしに女性に近づく殿方なんていない! 逆もそう! そんなの分かってましたのに!」

 だから一人ぼっちだったフラヴィはいともたやすくユーグに惹かれてしまったのだ。現実の汚い恋愛を強く嫌えば嫌うほどに、無意識は物語のような清い恋愛を強く求める。

「なのに途中まで信じてしまった! ユーグ様からはよこしまな思いを感じなかったから……もしかしたら白馬の貴公子なのかも知れないって!」

 白馬の貴公子。ありとあらゆる欲望を離れたプラトニックな恋の象徴。

 だがユーグはそうではなかった。その時のユーグは己の私情も理解せぬまま、借り物の騎士の心を使って「恋愛任務」を遂行しようとしていただけだったのだ。

 その姿を見てきたフラヴィは任務の真実を知った時、ユーグの全ては演技だったのだと思い込んでしまった。邪念はなかったかも知れないが、愛情もなかったのだと。

 フラヴィの中で、ユーグは任務のためだけに空疎な優しさを見せ続けた役者なのだろう。フラヴィは役者に八つ当たりする空しさを分かっている。役者の演技を本物と信じる愚かさを分かっている。だが、そんなユーグの演技に恋してしまったフラヴィの感情は収まらない。

「嘘つき、嘘つき!」

 フラヴィはそのまま『双頭の糾弾』を放つ。上下に分かれる二段突き。怒りによって研ぎ澄まされたフラヴィの突きはあやうくユーグに届くところだった。

 ユーグは歯を食いしばる。

(そうだ、俺は嘘つきだ。だが嘘だけではない。フラヴィ嬢、俺が貴女に見せた感情の半分は確かに嘘だった。任務を進めるための方便で、物語の騎士の偽物の感情だった。だがもう半分は……!)

 ユーグは『頭垂れる愚者』の型、下段から相手を浮かす一撃を振るう。これをステップで空振らせたフラヴィの対応は『処刑台』。姿勢の低くなったユーグを押しつぶすように剣を振り下ろす。その一撃をユーグはフラヴィの体ごと下から支えるように受け止めた。両足をしっかり開き耐え忍ぶ。

「ぬ、ぉ……」

 ユーグから苦悶が漏れる。重い。フラヴィの全体重を支えているせいか? それは違う。華奢な体格のフラヴィはそれほど体重がない。問題なのは体重が乗っている位置だった。ユーグが力を入れづらい場所に重さがかかっている。このままでは体を倒されてしまいそうだ。

 この体勢からの最善の応手は『朝露』。相手の重さを受け流し、体勢を入れ替える型である。

 だがユーグはそれを選ばない。

「うぉおおお……、おおっ……!」

 全身の力を込めて、ユーグは力尽くで体勢を立て直す。フラヴィの剣に押されていたユーグの剣が起き上がり、つばぜり合いの体勢へとなる。

 この型は『抱擁』。抱き合う男女のように激しく絡み合う零距離戦。

「ここでよりにもよって『抱擁』? ……馬鹿にしてますの!?」

 フラヴィは乱暴に体を入れ替えてつばぜり合いを解消し『抱擁』を拒否した。

「型の名前なんて! どうでも! いいですけれど!」

 フラヴィはそのまま『離縁の太刀』でユーグを打ちつつ、大きく後退した。

 二人の距離が離れる。ユーグはフラヴィと一足一刀の間合いで向き合う。奇しくも二人が立っている位置は剣舞を始める前の立ち位置そのものだった。

 剣舞では動きを止めることは許されない。仕切り直しの状態にある二人だが、刹那の後には再び相手に斬りかからなければならない。

 だがフラヴィは一瞬の間だけ動きを完全に止めていた。先程までの気勢が急に途絶え、雨に濡れる子犬のように立ち尽くしている。

「どうして……何も言ってくれないの」

「…………」

 ユーグは無言でフラヴィへと打ちかかる。フラヴィは反射的に受けるが、構えが少しだけ緩んでいる。瞬く間にユーグへ傾く趨勢。ユーグの剣をぎりぎりのところで凌ぎながら、フラヴィは縋るように続ける。

「伝えたいことがあるって仰ったじゃない。だから今私と踊っているのでしょう? なのにどうして何も言ってくれないの」

 ユーグはそれでも黙ったままだ。

(何も言うな、何も言うな……!)

 ユーグは必死に自身に言い聞かせる。

 確かに言葉を使えば、何かフラヴィに対する弁明のようなことは出来るかもしれない。だがそれに意味は無い。ユーグに何かを言う権利がないと言う以上に、フラヴィの心に決して響かない。

 だからユーグは口を開かない。黙したまま、いっそ冷酷なまでに勝つための剣戟を重ねていく。

(俺のしてきたことを思えば、許して貰おうなどあまりに虫が良すぎる。一度犯した失態は死ぬまで取り戻せない。だが、それでも俺は貴女を諦めることなんて出来ない!)

 ならばどうするか。決まっている。受け止めるのだ。フラヴィの怒りを、悲しみを、そしてまだ残っているのなら愛情を、ただ黙って受け止める。喩えそれがどんな苦痛を伴ったとしても。そして勝つ。ユーグにやり直しが許されるとすれば、それ以外にはない。

 故にユーグはただ一念を込めて剣を振る。

 だがフラヴィからすればユーグの胸の内など知ったことではない。フラヴィはユーグに縋り付くように剣を打ち込んできた。

「答えてよ……嘘でいいから。演技でいいから、何か優しいことを言ってくださいまし。このままユーグ様が何も答えてくれないなんて、耐えられない」

 フラヴィの剣の圧力が少しずつ弱まっていく。ユーグはそこを逃さず粛々と追い詰める。

「何か言って」

「…………」

「声を聞かせて」

「…………」

「お願い……あっ!?」

 ユーグの打ち込みにフラヴィの剣が弾かれる。それもちょっとやそっとではなく、そのまま手をすっぽ抜けて飛んでいきそうなくらいの勢いで弾かれた。

 辛うじて剣はフラヴィの手に残っているが、剣舞が破綻するギリギリの体勢だ。この体勢から繰り出せる技は少ない。

 だからフラヴィは咄嗟にその型の構えを取る。

 『尽きぬ恋情』。『王国式剣舞法』の中でも最古の型であり、実際に国王と女剣士の決闘で度々使われた技だという。

 命名は国王自身によると伝わる。『尽きぬ恋情』。最も国王の心情を表すだろう名が付けられた型。

 『尽きぬ恋情』は最古であるが故に、最も堅実で実戦的な技。フラヴィの崩れた体勢からでも突風のような一撃が繰り出される。

 先程までの弱々しい剣とは大違いだ。ユーグは万全の体制で受けた。

「フッ!」

 ユーグが返しに放った小手打ちは極めて動きが小さく容赦の無いものだ。だがフラヴィはこれを完璧に打ち落とした。

 ほんの数秒、拮抗状態となる両者。そこでぽつりとフラヴィが呟いた。

「『尽きぬ恋情』。そう、そうなのね……私……」

 この一連の攻防はここまでで最も苛烈な技の応酬だった。優位に立つユーグはともかく、劣勢だったフラヴィには何かを思う余裕など何一つなかっただろう。死に体から『尽きぬ恋情』を繰り出したのも、ユーグの反撃を凌いだのも、全く反射的な動きのはずでありそこに感情が入り込む余地は一切ない。

 無論、型の名前や由来にも全く意味はない。だがフラヴィはそこに何かを見出したようだった。

 しかし剣舞の最中、感慨に浸る暇は無い。手番を握ったフラヴィはユーグへと斬り込む。ユーグはそれを泰然とした構えで迎え撃つ。

 鋼と鋼が激突し遠吠えを上げる。体勢は五分。フラヴィの一撃をしっかりと受け止めたユーグはしかし、目を見開いた。

(……これは何が起きた? 剣に怒りも悲しみも込められていないだと?)

 そんなことがあり得るのか。先程までフラヴィの剣に籠もっていた感情のうねりが感じられない。

 一体フラヴィはどうしたのだろうか。無言ながら戸惑いをわずかににじませたユーグの前でフラヴィは独り言のように語る。

「本当に馬鹿ね、私。辛くて、苦しくて、この怒りも悲しみも、絶対に尽きたりしないと思っていたのに。なのにあの一瞬は、本当に無心で……いいえ、一心で剣が動いた」

 フラヴィの言葉はとりとめがなく、ユーグにはその意図を察することは出来なかった。

 いや、正確には察する余裕がなくなった。その瞬間を境に、フラヴィの剣が一変したからだ。

(これは!)

 風のように速い。巌のように重い。荒々しく、しかし繊細でもある。

 それはフラヴィ・ド・ヴァルシール本来の剣舞だった。

 怒りにまかせた激しいだけの剣ではない。苦しみにもがく悲痛なだけの剣ではない。

 「悩んだのなら剣を振ればいい」。自分にはどうにもならない苦しみを前にして、それでも自分らしくあるためにフラヴィが獲得した生き方そのもの。

 ユーグが惚れ込んだ、世界で最も美しい少女の剣である。

 それを目の当たりにしたユーグは破顔した。

(ああ、この剣だ)

 ユーグにはフラヴィの剣が見違えた理由は分からない。

 ユーグが何も語らず真っ直ぐフラヴィの思いを受け止め続けた事により、フラヴィがユーグに抱く激情が、ただ一つを除いて尽きてしまったことなど知るよしもない。

 だがこの剣と打ち合うことは世界最上の幸福であると、それだけは理解していた。

 ユーグが攻める。フラヴィが返す。ユーグが応じる。フラヴィがいなす。

 この瞬間、二人は剣舞を心から楽しんでいた。

 フィニッシュまで残された時間はあとわずか。だが剣を交えるユーグとフラヴィには刹那が一日にも感じられた。

 だがそれは体感でのこと。現実の時間はごく当たり前に過ぎていき、幸福な時間は終わりを迎えようとしていた。

「ハァッ!」

 フィニッシュを目前にして、ユーグはフラヴィの『一途草』を返し、『告白』でフラヴィの剣を弾き飛ばす。

「ッ!」

 フラヴィは上手く堪えた。が、体勢が良くなったのはユーグの方だ。

 ユーグはフラヴィより一歩勝った状態でフィニッシュを迎えたのだ。

 ユーグとフラヴィは鏡写しのように突きの構えを取る。互いに突きを放ち合う『つがい蜂』のフィニッシュ。

 だがフラヴィは体勢の悪さ故にほんのわずかに動作が遅れる。『つがい蜂』は正中線の奪い合い。遅れた方が敗者となる。

(取った……!)

 ユーグが勝利を確信し、突きを今まさに放つというその瞬間。

 ユーグはフラヴィが咲き誇る花のように笑っているのに気が付いた。

 今まで見たどんな笑顔よりも愛らしく、いとおしく、美しい、幸福な笑顔だ。

 気付いた時にはもう遅かった。

(ああ、しまった。これは、負けたな)

 なぜならユーグはフラヴィに見とれてしまった。一瞬を争うこの状況で、心を完全に剣以外のものに奪われてしまった。

 少女に好きだと伝えるために踊ったユーグは、好きな少女の笑顔のために敗北へと導かれ――。

 金属音が、一つ。勝敗が決した。

 時間が止まったような気がした。辺りを支配する静寂が永遠のように思われた。

 だが永遠はない。ユーグは静寂を破って口にする。

「貴女が好きだ」

 ユーグの剣はフラヴィの喉元へと突きつけられ、フラヴィの剣は逸らされていた。

 ユーグが、勝ったのだ。

 理由は分かっていた。

 フラヴィに恋するユーグがその笑顔に見とれて動きを止めたなら、その逆がないとどうして言えるだろう。相手に見とれたのはユーグだけではなかったのだ。

 もう二人の間に言葉などいらなかった。お互いの思いは勝敗が示している。

 だがユーグはもう一度言う。

「貴女が好きだ。フラヴィ嬢」

 フラヴィも答える。

「私も、ユーグ様が好きです」

 二人の思いが通じ合う。それを待っていたかのように時間が動き出す。

 時間が動き出し、真っ先に二人に送られたのは割れんばかりの拍手であった。

 それを聞いて二人は自分たちが舞踏会にいたことをようやく思い出した。拍手を送る招待客の前でユーグとフラヴィは一礼をした。

 招待客達には二人のやりとりは聞こえなかっただろうし、理解も出来なかっただろう。

 だがユーグには彼らの拍手が自分たちを祝福しているような気がしてならなかった。

 拍手の中、ユーグはフラヴィに向き直る。

 フラヴィははにかみながら何かを言おうとしているようだった。

「ユーグ様」

「何ですか、フラヴィ嬢」

「ええと」

「はい」

「その、」

「はい」

 フラヴィの言葉が形になる。

「また……踊って下さる?」

 ユーグはフラヴィの手のひらに口づけをした。

「喜んで、私のお嬢様マドモワゼル



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