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第四章

 デートから数日を経て、最近のユーグは思う。フラヴィがどこか明るくなったと。

 柔らかく笑うことが増えた。食べる量が増えた。などなど些細な変化を上げればきりがないが、そんなことよりもっと重大な変化があった。

 フラヴィを社交場で見かけるようになったのだ。

 例えばユーグが人間関係維持のため一人でルミエ宮に向かった時のことだ。

「さて、ボーセアン男爵夫人には挨拶したし、開演までにやるべき事は終わったか。フロベール子爵はいつも開演間際に来られるから幕間にしか話せない。ならばあとはオペラを観るだけだ」

 ボーセアン男爵夫人のボックス席から自分の席に戻ったユーグはなんとなしに客席を見回した。やはりそこには社交界の恋愛相関図が広がっている。

「この前は不味かったな。よく考えてみればルミエ宮の客席には「恋愛」があふれかえっている。男を見る女、女を見る男、どちらも見たくなくとも目に付くほどだ。フラヴィ嬢には居心地の悪い空間だっただろう……」

 先日のデートを思い出しユーグの気は沈む。だがフラヴィの本音を聞けたのはユーグにとっては不幸中の幸いだった。

「フラヴィ嬢は恋愛を嫌悪している。これは重要な情報だ。もしそれを知らずフラヴィ嬢との距離を詰めれば今までの関係がご破算になってしまったかも知れないのだからな」

 しかしそれはユーグの任務がより厳しいものになったと言うことでもある。

「俺は嫌がる女性に詰め寄ることは出来ない。騎士として、というより人間として当然のことだ。それでも恋愛任務を全うしたければ、まずフラヴィ嬢の恋愛に対する嫌悪を取り除いてやらなくてはならない」

 ユーグにはどうすればいいのか見当も付かなかった。

「やはりヴァルシール伯爵夫人をどうにかすべきだろうか。だがあの恋愛狂いっぷりは治るものなのか? 夫人は三十代半ば。もう少し年を取れば流石に落ち着いてくるとは思うが、そこまで待っていられない。うーむ」

 ユーグの視線は自然と夫人を探していた。夫人はだいたい平均すると週二日くらいの頻度でルミエ宮に足を運ぶ。今日来ていてもおかしくはない。

「夫人はいつも同じ席に座っている。ヴァルシール伯爵の名前で年間予約席を取っているのだろう。流石は社交界のキーパーソンと言ったところだな」

 ユーグはその専用席へと目を向けた。そこにはプラチナブロンドの女性が座っていた。

「……いたか。だが、何か様子がおかしいな。今日の夫人からはあのむせかえるような色気を感じない。いや、待て!」

 ユーグは目を細めてその人物をよく見ると、彼女はヴァルシール伯爵夫人ではなかった。

「なんだ人違いか。……なわけがないだろう! ヴァルシール家の予約席に座っているプラチナブロンドの女性がヴァルシール伯爵夫人でなければ一体誰なんだ! ……あ」

 ユーグはその可能性に思い当たる。

「いや、まさか、そんなことは……」

 目をこすりながら専用席を凝視する。黄金に輝く白百合のような髪に華奢なボディライン、彼女の特徴には見覚えがありすぎた。

だがそれでも確信を持てない。

「普段は使わないが……!」

 ユーグは柄付き観劇用眼鏡を目に当て更に専用席を凝視する。そしてようやく叫ぶ。

「ふ、フラヴィ嬢!?」

 そこに座っているのは間違いなくフラヴィ・ド・ヴァルシールだった。ユーグはこれ以上ないくらい混乱した。

「何故だ!? フラヴィ嬢はルミエ宮が苦手なのではなかったのか!? 確かに途中まではそれなりに楽しんでいたが、やはりオペラから恋愛は切って離せない。どうしても彼女が楽しむには向いていない……しかも今日の演目は『アウローンとカナン』。ゴリゴリの恋愛オペラではないか!」

 全く訳が分からない。フラヴィの表情は暗くない。むしろ明るい。何かを心待ちにするように辺りを見回している。

「オペラ以外に何か用事があるのか? しかしフラヴィ嬢の交友関係は極めて狭かったはず。わざわざ苦手なルミエ宮に来てまで会いたい人物がいるとは思えない」

とユーグが思案しているとフラヴィと眼鏡越しに目が合った。

 ユーグを見つけたフラヴィは目を丸くしたが、やがてふわりと笑う。その顔があまりにも愛らしいためユーグの心臓は跳ね上がった。

 ユーグは何故かフラヴィから目が離せない。フラヴィも何故か目を逸らさない。

「…………」

「…………」

 結局、無言の視線の応酬はオペラが開演するまでずっと続いた。

「い、いかんいかん。オペラに集中しなくては」

 そう自分に言い聞かせるユーグだが気はそぞろで内容がちっとも頭に入ってこない。幕間になるとユーグは一目散にフラヴィのボックス席へと向かった。

「フラヴィ嬢、来ていらっしゃったんですね」

 ユーグが来たことに気付くとフラヴィは座席から素早く立ち上がり、こちらへ歩いてきた。

「ユーグ様! 今日もお会いできて嬉しいですわ!」

 フラヴィは何やら上機嫌な様子である。以前までの様子と比較すると不気味なくらいであった。

(今日は満腹なのだろうか)

 ユーグの今までの観察によればフラヴィの機嫌は腹具合で大分変化する。満腹だろうが空腹だろうが気が強いのは変わりないが、満腹だと若干笑顔が増えるのだ。

 が、そんなことはどうでもいい。重要なのはフラヴィがここに来た理由だ。

「まさか貴女がいらっしゃるとは思いませんでしたよ。この前ご一緒した時はあまりオペラを気に入っていただけなかったように思われたので。今日はまたどうしてここに?」

「今日はお母様のお茶会がないでしょう? だから………………ひ、暇だったのですわ。ユーグ様がせっかくオペラの楽しみ方を教えて下さったのだからと思って。恋愛の場面はやっぱり好みじゃありませんけど、殺陣などはなかなか興味深いと思いましたし」

「ああ、それだったら少し失望されてしまうかも知れませんね。今回の演目には殺陣があまりないですし、主題が恋愛なのです。でもそうですか、オペラを観たいのだったら教えて下されば良かったのに。そうだったら、貴女の好みに合わせて演目をおすすめしたのですが」

「そ、そうですわね。次からはそういたしますわ」

 しばらく雑談を続けたユーグとフラヴィだったが、幕間の時間は短い。

「あ、そろそろ再開しますね。席に戻らなくては。ではフラヴィ嬢、また」

「ええ、また明日にでも」

 フラヴィはユーグを手を振りながら見送った。その場は何とも思わなかったユーグだったが席に戻ってから首を捻る。

(……手を振った? 今までそんなことあったか?)

 それに限らず、今日は何故かフラヴィのユーグに対する距離が若干近い気がする。

(今までだったら好かれたのだと勘違いしたかも知れないが)

 今のユーグはフラヴィが恋愛を望んでいないことを知っている。

(この前のオペラではそれなりに腹を割って内心を語り合ったからな。友人として信頼されたのだろう。フラヴィ嬢は社交界で孤立気味だ。新たな友人を得たのが嬉しいのかもな。だとすれば光栄なことだ)

 ユーグには女心は分からない。女心とは常に矛盾をはらむものだと言うことも知らない。だからユーグは勘違いをしたままだ。ユーグは後にこの勘違いを悔いることになるのだが、今はただ納得するように頷くのだった。

 

 と、ルミエ宮での出来事は以上だ。だがその他にもフラヴィはショーリュー公園に行くことも増え、舞踏会で着るドレスも新調した。フラヴィが今まで以上に社交というものに積極的になったのは明らかだった。

「だがその理由が分からない」

 ユーグは茶会に向かう馬車の中で髪をかきむしった。

「若い娘にとって社交場とは究極、恋愛のための場所だぞ? 友人の少ないフラヴィ嬢にとってはなおさらだ。フラヴィ嬢に一体何が……」

 結論が出る前に馬車はヴァルシール家に到着する。

 普段なら門で名刺を見せるとそのまま茶会の行われる庭へと通されるのだが、今回は流れが違っていた。門で待っていたヴァルシール家の老執事はユーグを庭に通す前に、

「ユーグ様、少々よろしいでしょうか」

 と伺いを立てた。

「構いません。何でしょうか、執事殿?」

「旦那様がユーグ様をお呼びです」

「旦那様……ヴァルシール伯爵のことですね。伯爵は多忙で留守がちだとお聞きしましたが」

「はい。ですが今日はご在宅です。ですのでユーグ様とお話しする機会を逃したくないと仰られております」

「そう言われては断れませんね。案内をお願いします」

「承知いたしました」

 ユーグはヴァルシール家の屋敷に入ったことは数えるほどしかない。雨天で茶会が屋内で行われる時くらいだ。執事の後について歩きながらユーグは考え込む。

(ヴァルシール伯爵が俺に一体何用だ? 面識はないはずだが。まさか……)

 フラヴィと一緒にいるのを見咎められたのだろうか。

(今の俺とフラヴィ嬢はあくまで「友人」。だが外から見ればその限りではない。かつてのフラヴィ嬢は男性とは社交辞令程度のやりとりしかしなかった。そんな彼女が俺と親しげに話しているのはやはり憶測を呼ぶ)

 もし伯爵がまっとうな感覚を持つ父親なら、大切な娘の近くに得体の知れない騎士爵の男が付いているのは気が気でないだろう。

(騎士爵ごときに娘は渡さん! などと言われるのだろうか)

 その状況を想定してみる。ユーグは胃の中を水銀が流れ落ちるような気分になった。

(気が、重い)

 しかしヴァルシール伯爵の要件はユーグの全く想像していないものだった。

 ユーグが応接室に通されると、革張りのソファに座っていた紳士が立ち上がり礼をしてきた。

「やぁ、また会えたね。ユーグ卿、私の娘がお世話になっているよ」

「あ、貴方は……!」

 ユーグは二の句が継げない。初対面だと思っていたヴァルシール伯爵はユーグの知っている人物だったからだ。

(忘れもしない、以前公園で俺にヴァルシール伯爵夫人の名刺を渡してきた男。この恋愛任務のクライアント! この男がヴァルシール伯爵だというのか!?)

 完全に予想外だ。確かにヴァルシール伯爵なら妻の名刺を手に入れ、自宅で催される茶会にユーグを招くのは簡単だろう。その点だけは納得できる。だがそれ以外は全く意味が分からなかった。

(クライアントは俺とフラヴィが親しくなることを望んでいて、ジュディ副長はクライアントから何らかの見返りを期待してこの恋愛任務を発令した……と理解していたが、そのクライアントがフラヴィの父親だと? だとすれば何か? 伯爵は「自分の娘を口説いてくれ」と騎士団に依頼したってことか?)

 一体伯爵になんのメリットがあるのだろう。ユーグは数分前まで考えていたことを思い出す。「騎士爵ごときに娘は渡さない」。それが普通の感覚であるはずなのだ。

 階級的に騎士爵位と伯爵位の間には男爵位、子爵位を挟んで大きな隔たりがある。無論両者とも貴族であることには変わりない。だがこの身分違いは例えば、もし、仮に、ユーグとフラヴィが結婚しようと思った時にはどんな断崖にも勝る壁になるのである。

 ユーグはこのことをよく弁えていた。

(そう、俺とフラヴィ嬢は身分が違う。何が起きても俺たちの関係が結婚に発展することはあり得ない。だから俺は気軽に……まぁ、気軽にこの任務を引き受けた)

 つまり「フラヴィを惚れさせろ」というのは「フラヴィに結婚を見据えた本気の恋をさせろ」と言う意味ではなく「ゲームのような軽い恋愛で楽しませろ」という意味である、とユーグは解釈していたのだ。そうでなければいくら何でも引き受けない。

(だが伯爵がクライアントということは、俺とフラヴィ嬢が恋愛したとしてもそれは親公認な訳で……? ああ、分からん!)

 伯爵の顔を見てからユーグがここまで考えるのに約一秒。凝縮された思考の末、ユーグは伯爵の話を聞くことに集中することにした。

「まさか貴方がヴァルシール伯爵だとは思いませんでした。もうご存じだとは思いますが、ユーグ・コンラディンと申します。早速ご用についてお伺いしてもいいでしょうか?」

 ユーグが取り繕った完璧な態度を見て伯爵は満足げに頷いた。

「ああ、流石は『昇隼』だね。私が以前名乗らなかったのは君を萎縮させてしまうかも知れないと思ったからだが、どうやらそんな心配は無用だったようだ」

「ははは。こう見えても内心では冷や汗をかいております」

 完全な本音である。ユーグの脈拍数は戦闘中と変わらないくらい急上昇していた。

「ああ、そうそう。君を呼んだ理由だったね。だけど用というほどのことはないんだ。ただ君はよくやってくれている、というのをはっきり伝えておきたくてね。ほら、今まで私たちは立場を明らかにして話したことはなかったわけだ。クライアントである私の意向は『女傑』殿を通じて君へと伝えていたけれど、やはり直接話しておこうかと思ったのさ」

「勿体ないお言葉。ご多忙でいらっしゃる貴方が俺のために時間を割いて下さるとは恐縮です」

 ユーグの言葉を受けて伯爵はため息をついた。

「多忙……そう多忙。考えてみればそれこそが全ての原因だったんだろうね。宮中や領地では上手く立ち回ってきたと自負する私だけど、忙しいが故に家庭内の問題を見過ごしてしまった……もう分かっていると思うけれど妻と娘のことだ。息子の方は全く心配していないからね」

(フラヴィ嬢の兄上か。一度だけ会ったことがある。確かに立派な人物で、ヴァルシール伯爵家の跡取りに相応しい人物だったな)

「父は息子に、母は娘に、それぞれ貴族としての在り方を教えていくものだ。使用人にはそこの所はどうしても難しいからね。だからフラヴィのことは妻に任せていたんだが、甘かったよ。まさか妻がああまでフラヴィを放っておくとは思わなかった」

 確かに夫人はほとんどフラヴィに関心を持っていない様子だった。

「見る目を間違えたとまでは言わないけどね。だけどやはり困ってしまうよ。妻がちゃんと頑張ってくれれば、フラヴィも社交場に出ないなんて言い出さなかっただろうに」

 伯爵は開けっぴろげに家庭事情を語る。他者に知られれば不利になりかねないようなことまで話すのは『昇隼』の名を信用しているからだろうか。

「私に出来たのはせいぜいフラヴィの食事を減らすくらいだったよ。お腹を空かせてくれればお菓子目当てに舞踏会やお茶会には出てくれるだろうと思ったんだ。実際それは上手く行ったんだけれど、それしか出来なかった。ルミエ宮やエリゼ大通りへと出かけるようにはなってくれなかったんだよ。私が何をしてもね。だから君に頼らざるを得なかった」

 不明瞭な点はいくつかありつつも、伯爵の話は少しずつ核心へと迫っていく。

「けれど最近フラヴィは少しずつ社交的になっていると聞いているよ。何でもこの前はルミエ宮に自分から行ったんだって? 素晴らしい。君のおかげだよユーグ卿。君がフラヴィの気を惹いてくれたおかげで、フラヴィは社交場に出るようになったんだ」

 ユーグは伯爵の言葉の意味がよく分からなかった。

「お、お待ち下さい。それは一体どういう事ですか?」

「どういう事って、君がフラヴィを口説いてくれたんだろう? それが私の要請だったはずだ。君が任務としてフラヴィに関わるうちにフラヴィは君が気になるようになった。だから社交場に出るようになったんじゃないか。君に会いたいがために」

(そういうこと、だったのか)

 未だ整理の付かないユーグだったが辛うじて「恋愛任務」の真の目的を悟った。ユーグの目的はフラヴィを社交場へと連れ出すことだったのだ。

(任務の初めはフラヴィと会うために随分と苦労したのを覚えている。当然だ、フラヴィは社交場と呼ばれる場所にほとんど出かけなかったのだから)

 伯爵としては心配だっただろう。貴族は社交場から逃げられない。なのにフラヴィは引きこもりがちで社交場に出ない。

 スラフ王国の広さに比べれば、イスリの都の広さに比べれば、伯爵の悩みはあまりにも小さい。あまりに個人的だ。だが伯爵にとっては極めて重大で深刻な悩みだったのだろう。少なくとも騎士団に借りを作ってもいいと思うぐらいには。騎士団が見返りなく動くのは王家と王国のためだけである。

 どうして伯爵がそこまでしてフラヴィを社交場へ向かわせたかったのかは考えるまでもない。

「うん、順調だ。安心したよ。この調子ならいつかはフラヴィも結婚相手を見つけられそうだ」

「……え?」

 ユーグは頭が真っ白になった。

 伯爵の言葉は何もおかしくない。予想通りだ。ユーグは伯爵の話を聞いた。これで伯爵の目的を察せられないほどユーグは愚かではない。

 伯爵はフラヴィが行き遅れるのを心配していたのだ。だから社交場で結婚相手を探して欲しかった。「恋愛」をして欲しかった。

 それは分かっていた。なのにユーグは未熟にも思考に空白を作ってしまった。

「君が男前であるのは否定しないけれどね。社交場には他にもいい男がたくさんいる。クリスト伯爵のご長男は有名だ。いや長男に限らずクリスト伯爵のご子息達は皆ハンサムだ。ルノワ子爵は私と同年代だが年相応の落ち着きと、十代のような若々しさを兼ね備える希有な人物だ。年上だった奥方を亡くして再婚相手を探していると聞く。年の差婚なんて貴族の間では珍しくもない。他にもだね……」

 伯爵は嬉々として社交界のダンディー達の名を連ね挙げる。だがユーグの耳には上手く入ってこない。

「いや、本当に良かったよ。社交場に出なければフラヴィは彼らの顔を見ることも話すこともなかっただろう。でも今は違う。君のおかげでフラヴィはそう言った男性と接する機会を持てるようになった。うん。親としてはフラヴィが良縁に恵まれることを願うばかりだよ」

 ユーグはただ人形のように頷いてその場に立ち尽くしていた……。


 何と言って伯爵の元を辞したのかは覚えていない。『昇隼』の名に恥じない別れの挨拶をしたのだろうが、ユーグの記憶には残っていない。

 ユーグはそのまま無意識に騎士団本部へと向かった。団長室の重厚な扉の前に立って初めて「ああ、自分はジュディ副長に伯爵の話について確かめに来たのだ」と理解する。

 ノックをして入室するとジュディットはそこにいた。

「おや、ユーグじゃないか。任務の報告か……ん?」

 普段通りの調子でユーグを迎え入れたジュディットだったが、ユーグの顔を見やると真顔になる。親しみやすさを取り払った騎士団副長『女傑』の顔だった。

「ほう、何か聞きたいことがあるみたいだな。話してみろ。お前がどこまで知っているかによって答えられる範囲が変わるがな」

 ユーグは伯爵の話について話した。するとジュディットは煩わしげな様子で自分の髪を手ぐしで梳いた。

「あー、伯爵はお前に話したか。そういうことをされると困るな。こっちとしてはお前に軽率に接触するのは控えてほしいんだが。とはいえ仕方ない。クライアントにあまり文句も言えまいよ」

「ということは事実なんだな。この恋愛任務のクライアントがヴァルシール伯爵なのは」

「全部伯爵の言う通りだよ。これ以上私が言えることはもうない。と言うかお前、これだけ知らされて他に何を知りたいって言うんだ」

 ジュディットは肩をすくめて見せたがユーグは収まらない。

「伯爵からは全部聞いた。だがジュディ副長の全部は聞いていないぞ。話してもらう」

「どうしてお前に話さなくちゃならないんだ? そんなことを知らなくても任務は出来るだろう」

「そ、それは…………『折れ槍は槍に短し、剣に長し』。中途半端に知っているのは何も知らないより悪い。そしてもう俺は中途半端に知っている。ならこの任務について本当の全部を話してしまった方がいいとは思わないか?」

「ふぅん」

 ジュディットは鋭い眼差しでユーグを射貫く。

「いいだろう。と言っても本当に伯爵の話と変わらないぞ」

「構わない。聞かせてくれ」

「そうか。だったら話そうか。事の発端は、そうだな……ヴァルシール伯爵夫人が娘の教育を放棄したことか。ここで言う教育とは、社交場での作法のことだ。通常の貴族令嬢は社交場での作法を母親から学ぶ。が、ヴァルシール伯爵夫人はそれをしなかった。理由は分かるな?」

 以前夫人と踊った時のことを思い出しながらユーグは答える。

「ああ。夫人は常に男の目線を釘付けにしておかねば気が済まない性格だ。だから夫人にとってフラヴィ嬢に社交場の作法、つまり良い男を捕まえる方法を教えるということは、敵を増やすということに他ならない」

 それにそもそも夫人は自分の「恋愛」以外に注意を払う余裕はなさそうだ。フラヴィに割く時間すら惜しかったのだろう。ジュディットは頷く。

「娘を女、敵とみている母親。正直どうかとは思うがよくある話だ。これによりフラヴィ嬢は恋愛の方法論を学ばないまま社交界に送り込まれた。容姿も家柄もあるとはいえ、それだけでやっていけるほど社交界は甘くない。当然誰も男は寄りつかない。そのせいかフラヴィ嬢は社交場に出なくなった。最低限の付き合いとして舞踏会には参加するもののルミエ宮などには全く顔を出さない」

 それは少し違う、とユーグは内心思う。

 フラヴィは恋愛というものを嫌悪していた。自分の母親が父親以外からの男の愛を求めてあれこれするのを見て恋愛に幻想や憧れを抱けなくなった。だから社交場に出る意味を感じられなかったのだ。

 ユーグ自身はフラヴィを魅力的な少女だと思う。貴族相手では好みが分かれるかも知れないが、剣舞を舞う時や食事の際に見せる笑顔はかなり、「強い」。

 もし彼女が恋に憧れていれば母親の助けなどなくとも社交界の華となったはずだとユーグは確信していた。

 しかしフラヴィをよく知らないジュディットはその点には言及せず話を進める。

「が、ここで頭を悩ませたのは父親のヴァルシール伯爵だ。伯爵は領地とイスリの往復で忙しい。だから妻が自分の娘を良く思っていないことについ最近まで気付かなかった」

「確かにそれは言っていたな。名刺をもらった時も、つい先程会った時も「多忙」だとしきりに口にしていた」

「だからある意味お前は運がいいんだよ。伯爵と二度も会話できるなんてね。おっと、話を戻すぞ? ……娘の社交下手に気付いた時点で、伯爵はフラヴィ嬢を「使った」出世については諦めたようだ。やはり母親のアドバイスなしで公爵家、侯爵家といった大貴族の跡取り息子などを捕まえるのは難しいからね」

 それにしてもジュディットは淡々としている。当初伯爵が娘を出世のために使おうとしていた、ということに思うところはないのだろうか。ジュディットは女性である。

 ユーグは苛立ったかのように指でテーブルを小突いた。だがジュディットは気にした風もない。あるいは気付いた上で無視しているのか。

「しかしまさか己の娘が未婚のまま年を取っていくのを座視するわけにも行かない。これは打算などではなく、純粋な親心だ。女の幸せは結婚してこそ。侯爵家などという贅沢は言わない。長男でなくともいい。そこそこに経済力があり、子爵家程度の家柄出身の、それなりに気の合う男と結婚させてやりたい……が、当のフラヴィ嬢は社交場に出ない。だから伯爵はまず、何とかフラヴィ嬢を社交場に引っ張り出す必要があったわけだ」

 ユーグは固い顔で頷いた。社交場に出なければ恋愛が発生する可能性はゼロである。男と出会えないのだから結婚もない。

「そこで伯爵は考えた。どうやら自分の娘は女だてらに剣を振るのが好きらしい。なら剣の腕に長け若く容姿の整った男がいれば、彼を目当てに社交場に出てくるのではないかとね……ここで、私に話が回ってきたわけだ」

「安直な考えだ」

 唸るようなユーグの発言は無視して、ジュディットは続ける。

「ヴァルシール伯爵は家庭外では有能な人物で、北方の国境線の軍事を徐々に掌握しつつある。「辺境伯」と呼ばれるのも遠い話ではない。未来の辺境伯に多少でも恩が売れるのなら、と私は伯爵の手助けをしてやることにした。もう分かるだろう」

「ああ、ご丁寧にどうも、ジュディ副長。つまりこういうことだろう? 伯爵には、娘への当て馬が必要だった。伯爵との結びつきが欲しかったジュディ副長は俺という当て馬を伯爵に提供した」

 当て馬。牝馬フラヴィの発情を促すための雄馬ユーグ。ユーグは敢えてこの言葉を使った。ユーグの喩えをジュディットは少し咎めるように、

「ユーグ、お前がそういう品のない物言いをするとは思わなかった」

「何、ジュディ副長ほどではない。それに事実は事実だろう」

 恋愛任務の真実を二度続けて聞かされたことで、ユーグはようやくその全貌が理解できた。だが腑に落ちたという感覚はない。その真逆だ。腹立たしい。馬鹿げている。その感情のままユーグは口を開く。

「恋愛任務だと? 笑わせる。やっていることは馬の種付けと変わらない。そんな下卑たことのために騎士団が動くとはな。『ああ、汝。騎士の誇りはいずこへ!?』。フラヴィ嬢はまだ十六歳なんだぞ。彼女がどうして社交場から遠ざかろうとするのか、伯爵も夫人も副長も、誰も知ろうとしないで……!」

 フラヴィがルミエ宮で語ったことがありありと思い返される。「清らかな恋愛など存在しない」「白馬に乗った貴公子など信じない」。一体フラヴィの心はどれだけ傷ついていたのだろう? フラヴィの思いを無視した下らない企てをユーグは嫌悪した。それに加担した自分も許せなかった。

 拳を握りしめるユーグに、ジュディットは冷たい刃のように言葉を投げる。

「どうしたユーグ・コンラディン。任務に私情は挟まないんじゃなかったのか。お前のその態度、まるでフラヴィ嬢に惚れているように見えるぞ」

 自分がフラヴィに惚れている? まさか。ユーグは即座に否定した。

「ふざけるなジュディ副長。これは私情などでは断じてない。騎士たるものが守るべき誇りの話だ。現代の騎士は血に汚れ影に紛れる。なら俺たちを騎士たらしめるのは誇り以外にあり得ない。「王の剣」として陛下に胸を張れるように生きることこそが騎士の誇り。俺が抱くのは騎士として当然の思いであって、私欲にまみれた感情などでは断じてない」

 だが力説するユーグを目にしてもジュディットは眉一つ動かさない。

「この前お前が言っていたことと矛盾しているが? とにかく頭を冷やせ。騎士の誇りがどうの以前に、そういうのを離れた自分の気持ちすら分かっていない奴と話すほど、私は暇じゃないんだ」

「俺の、気持ち? それこそ私情、関係のないものだ! 騎士の感情とはつまり騎士道に沿った行動理念。数式のような判断基準だ。便宜的に感情と呼んではいるが……!」

「いいからとっとと出て行け。これは命令だ。不服なら今ここで私と立ち会うか?」

 ジュディットの放った剣気にユーグは反射的に剣の柄に手をかける。手に冷たい鋼の感触が触れ、ユーグは我に返った。

「……失礼する」


 それからというもの、ユーグはずっと上の空であった。

(俺は間違っているのか? 確かに騎士たるもの任務に背いてはならない。だが主が、上司が誤っているのならそれを敢然と指摘すべきだ。フラヴィ嬢は未だ恋愛を嫌っている。そんな彼女を無理矢理社交場に連れ出して恋愛をしろなど到底容認できない)

「ユーグ様」

(だがよく考えてみればフラヴィ嬢が社交場に出るようになった理由もよく分からないままだ。伯爵はどうもフラヴィ嬢が俺に異性として興味を抱いていると思っているようだが、それはない。何せ伯爵はフラヴィが恋愛を嫌っていることすら知らない。フラヴィが恋愛をしないのはやり方が分からないからだと思っている。酷い勘違いだ。ふん、俺の方がもっとフラヴィ嬢のことを分かっている……)

「ユーグ様?」

(ああ、腹立たしい。伯爵も夫人も副長も俺自身も、下らない思惑を抱く人間全てに腹が立つ。この状況で俺が騎士の誇りを守ったまま任務を全うできる道は一つしかない。フラヴィ嬢の恋愛に対する嫌悪を取り払ってやることだ。もしフラヴィ嬢が彼女に相応しい男と心から恋愛を楽しめるようになれば、俺も諸手を挙げて祝福できる。できる……できるよな?)

「ユー、グ、さ、ま?」

「は、はいっ! な、何でしょうフラヴィ嬢!」

 ユーグは飛び上がった。今ユーグがいるのはもはやおなじみのヴァルシール家の庭である。庭の片隅に置かれた席に座るフラヴィは側に控えるユーグに優しげに微笑んでいる。ただしその手にはフォークが逆手に握られておりチョコレートケーキを串刺しにしていた。フラヴィはこめかみをひくつかせながら

「何でしょう、ですって? まぁ、流石は『昇隼』。とっても勇敢でいらっしゃるのね? そんな当たり前のことを聞こうだなんて」

 言うまでもないことだがフラヴィを怒らせると相当面倒くさい、もとい大変なことになる。何しろ『無礼には無礼を』などと平然と口にする少女だ。ユーグは青ざめながら平伏する。

「すみません申し訳ありません話を聞いていなくてごめんなさい!」

 もはや体面も気にしない全力の平謝りだ。

(つ、ついにやってしまったか……)

 ユーグは今までフラヴィを致命的に怒らせたことはなかった。『昇隼』はそのような凡ミスをする騎士ではない。だが任務について考え込むユーグは人の話を聞き流すという大失態を犯してしまった。

 はっきり言ってこれは異常事態であった。常に理想的な騎士であることを心がけてきたユーグは見習いの頃はともかく、正式に騎士になってからは取り返しの付かないようなミスをしたことは一度もない。だから自分のミスが引き起こした修羅場にユーグ自身パニックになっていた。

 そんなユーグをフラヴィは容赦なく詰める。

「ねぇユーグ様。私の話はそんなに退屈だったかしら? だったら遠慮せずに仰って下さいな、そんな話耳に入れる価値もありませんって」

「ち、違います! これはですね、完全に俺の不徳といたすところでして、はい、本当に!」

「でも私の話を聞いて下さらなかったのには変わりありませんわよね。これは一体どういう事ですの?」

「慚愧に堪えません!」

 フラヴィはフォークを何度もケーキに振り下ろしており、ケーキは見るも無惨な姿となっていた。ちなみにフォークはケーキを貫き皿に触れる前に寸止めされており、音が立つようなことはない。極めてお上品な八つ当たりだ。

(素晴らしい動作の精度だ……ではない、何を考えている俺は!)

「ユーグ様は本当に酷い人ですわ。私、ユーグ様に、その、飽きられたかと思って……」

「フラヴィ嬢?」

「何でもありませんわ!」

 フラヴィによる詰問は三十分ほど続き、その間ユーグは誠心誠意謝り続けた。

「本当に、何と言ってお詫びしていいのか。許しを乞えるのなら何でもいたします」

「そう、だったら……」

 フラヴィはフォークの先端をユーグの顔に向けた。フラヴィらしからぬ下品な振る舞いだ。

「その辛気くさい顔をどうにかして下さらないかしら。こちらまで気が参ってしまいますわ。速くいつもの素敵な(スカした)顔に戻っていただけます?」

「……? 俺の顔に何か変わったところが……?」

 フラヴィは大げさにため息をついた。

「はぁ……これはもう駄目ですわね。ユーグ様、今日はお帰りになって。これではろくに話も出来ませんわ」

「お、お待ち下さい、俺は……!」

「じいや! ユーグ様がお帰りよ!」

 フラヴィが声を上げると、今まで影に徹してきた執事の老人が現れユーグを連行し屋敷の外へと追い出してしまった。

「またのお越しを、ユーグ様」

 執事の本音か社交辞令か分からないような挨拶と共に、ユーグの目の前で門が閉まってしまう。ユーグは顔に手を当ててへたり込んだ。

「しまった……これからどうすればいい……」

 自責の念と途方に暮れる思いで頭があふれそうだ。

「せっかくそれなりに良好な関係を築けてきたと思ったのに……これでは台無しだ。フラヴィ嬢は許してくれるだろうか」

 いや、何としてでも許して貰わねばならないのだ。自分勝手なのは分かっている。取り返しが付かないかも知れないというのも分かっている。それでもユーグの騎士道に敵前逃亡はない。

「諦めるなユーグ・コンラディン、立ってこれからの方針を考えろ!」

 ユーグは己を叱咤し立ち上がる。

「今日フラヴィ嬢に会うのは難しい。勝負は明日だ。確か今の時刻が……」

 ユーグが名誉挽回のために与えられた残り時間を確認するべくポケットに手を伸ばす。ポケットをまさぐるとそこには懐中時計の感触と、

「……ん? 何か紙が入っているぞ」

 取り出してみるとそれは綺麗に折りたたまれた紙片だった。良質な紙だが、端がちぎれているのを見ると手帳か何かから破り取ったものらしい。ユーグは紙片を開いて中身を確認する。

『明朝七時、ヴァルシール家ニ二人乗リノ馬車デ来ルベシ。フラヴィ』

 筆跡はフラヴィのもので間違いない。おそらくは茶会を追い出される時にフラヴィがユーグのポケットに入れたのだろう。

「いつの間に……」

 具体的にどの瞬間に入れられたか、手紙がいつ書かれたか、全く分からなかった。

「未熟な。今日の俺は一体どうしたと言うんだ」

 口では言いつつもユーグはどこか救われたような気がしていた。フラヴィはユーグに弁解の機会を与えてくれたのである。

「かくなる上は万全の準備をもって明日に臨もう」

 ユーグは決意をもって拳を固く握りしめた。


 貴族にとって朝の七時は早朝である。

 長い舞踏会は夜九時から翌日の四時ぐらいまで続く。そこから眠って起きる頃にはもう正午近い。だから基本は貴族が活動を始めるのは午後からだ。普通ならそんな時間に人を家に呼びつけたりはしない。

「が、俺が何かを言う権利はないな」

 馬車を走らせながらユーグは呟く。その顔に眠気は見られない。ユーグも恋愛任務を開始してからは貴族と同じ生活時間で動いていたが、元々騎士は夜ぐっすり眠れる職業ではない。睡眠を削ってもある程度パフォーマンスを保つ方法や、眠る時間を強引にずらす術などは身につけている。

 ユーグが駆っているのは一頭立て幌付き二輪馬車のキャブリオレである。あまりいい思い出はないが、この馬車が最も扱い易いのも事実だった。

 定刻の三十分前にユーグはヴァルシール家へ到着する。馬車を降り五分ほど待っていると、外出着に着替えたフラヴィが執事を伴って屋敷から出てきた。ユーグは今まで以上の緊張感をもってフラヴィに挨拶をする。

「フラヴィ嬢、おはようございます。ご機嫌はいかがでしょうか」

「まぁ、ユーグ様来て下さったのですね。良かったですわ、あの手紙も無視されたらどうしようかと」

「う……」

 初っぱなから鋭い一撃だ。何とか返事をしようと口を開くユーグだが、フラヴィの立ち姿に何か違和感を覚える。

(……そうか。妙に姿勢が綺麗だと思ったら。帯剣しているのか)

 騎士の礼儀としてほぼ常に帯剣しているユーグとは違い、貴族は舞踏会や公園以外では帯剣しない。が、今朝のフラヴィは何故か剣を差していた。

「フラヴィ嬢、腰の剣は一体……」

「ユーグ様、お話は後にいたしましょう。今の貴方と話していても時間の無駄ですわ。早く馬車に乗せて下さる?」

「そ、それは構いませんが……」

 フラヴィは返事を待たずユーグの乗ってきたキャブリオレに乗り込んだ。車体が揺れ、馬車を引く馬がぶるると鼻を震わせた。ユーグもすぐにフラヴィを追いキャブリオレに乗り込んだ。

「フラヴィ嬢、俺はどこに向かって馬車を走らせればいいのでしょう」

「エリゼ大通りへ。その後は私が案内をしますわ」

 フラヴィは簡潔に指示を出すと顔を逸らしてしまった。必要以上の会話をするつもりはないらしい。

「行ってらっしゃいませ、お嬢様」

 恭しく頭を下げる執事に見送られながら、ユーグはとりあえず手綱を振るった。


 以前ユーグが大渋滞で窒息死しそうになったエリゼ大通りだが、時間帯が時間帯だからか他の馬車は三台ほどしか見られなかった。通りを出歩くのも労働者や使用人といった様子の人間ばかりで貴族は見当たらない。

 フラヴィはエリゼ大通りを北上するように指示した。このまま進めばボルドの森と呼ばれる自然公園にたどり着く。

「森に入りますか?」

「入るには入るけれど、よく知られている入り口は使いませんわ」

 と言ってフラヴィが馬車を止めさせたのは、ボルドの森でもあまり整備がされていない区域だ。舗装路から一歩足を踏み入ればほとんど手つかずの森が広がっている。フラヴィは馬車から飛び降りると迷わず森へと踏み入っていった。ユーグは馬車を係留しフラヴィに続く。

 木の根や石ころで地面は良くない。にもかかわらずフラヴィはつまずいたりせずひたすら森の奥へ進んでいく。疑問に思ったユーグがフラヴィの足下を見ると、フラヴィは剣舞用のレッスンシューズを履いていた。貴族令嬢が持つような婦人靴の中では最も歩きや運動に適した靴である。

 急にフラヴィが足を止めた。足下に目を落とし、じっとたたずんでいる。フラヴィの先には

「おや……リスですね」

 小さな体に大きな尻尾をはやした茶色いリスがユーグ達を見上げていた。

「人を見て逃げないとはボルドの森のリスは人なつこいのですね。フラヴィ嬢はリスはお好きですか?」

「…………」

 ユーグの声かけは無視された。

(昨日の意趣返しと言うことか。……本当に悪いことをした)

 友人だと思っていた相手に話を無視されるのは存外に堪える。ユーグは一層罪悪感を強めた。

 程なくしてリスは去ってしまい、フラヴィも移動を再開する。

(しかしフラヴィ嬢はどこに向かっているんだ?)

 これまで歩いた距離から推定すると森の未開発区域の中心地へ向かっているようだ。当然人気はない。

(若い男女がこのような場所に踏み入ると無用な噂が立つ。そうか、だからフラヴィ嬢は人のいない朝早い時間に俺を呼んだのか)

 不埒な輩が潜んでいる可能性もなきにしもあらずだが、そこはユーグの騎士としての実力を信頼しているのだろう。仲違いの最中でも自分に向けられた信頼にユーグの気持ちは浮きだつようだった。

(いかんいかん、気を引き締めねば。フラヴィ嬢の意図は分からないが、俺は昨日のことを許して貰わねばならないのだから)

 それからだいたい五分後。遂に目的地へたどり着いた。

「良かったですわ。まだこの場所が残っていて。小さい時に遊んで以来だったから」

 フラヴィが独りごちる。だがユーグは眼前の光景に気を取られていた。

「これは、広場?」

 そこだけ森がぽっかり無くなってしまったかのようだった。円形状に広がった空間には背の高い植物が一切はえておらず、短い雑草だけが芝生のように地面を覆っている。森の中の広場、あるいは草原。そんな表現がしっくりくる場所だ。

「誰かに手入れされている……? 違うな、偶然か。土壌のせいかここではあまり植物が育たないようだ」

 地面を足でつついてみると妙に固い。その様子を見たフラヴィは、

「大昔、この場所は舗装された広場だったようですわ。そのせいか、ここには木が生えないのです。石畳の上に土が重なっているのか、地面は柔らかすぎず固すぎない。足を取られるほどではなく、転んでも怪我をするほどではない。剣を振るのにぴったりの場所だと思いませんこと?」

「!?」

 ユーグの鼻先に剣の切っ先が突きつけられる。フラヴィが抜剣したのだ。

「ユーグ様、剣を抜いて下さいませ」

「ま、待って下さい」

 急な話にユーグはついて行けない。

「察しの悪い俺をお許し下さい。ですが俺をここに連れてきた理由を教えて下さいませんか? 昨日の無礼が原因だというのは分かるのですが、それがここにつながる理由は分からない」

「理由、ですの?」

 フラヴィは呆れるように、

「それを知りたければよくよく思い出して下さいませ。どうして『昇隼』ともあろうお方が人の話を聞き流すような振る舞いをなさったのか」

「そ、それについてはもう何と謝罪していいか……」

「謝罪はもう結構。山盛りのホイップみたい。私は理由を聞いていますの」

 だがそう聞かれてもユーグには答えられない。本当に分からないのだ。昨日の自分が普段の自分とどう違っていたのかがユーグには未だ分からずにいた。

「申し訳ありません。お恥ずかしい話ですが、分からないのです。言い訳にしかなりませんが、何故か昨日の俺は本調子ではなかった。貴女からの手紙も後になって気付く始末で」

「……とぼけているのかしら。それとも筋金入り? どちらでも構いませんわ。いいですわ、当てて差し上げます。貴方は昨日何事かを悩んでいたのですわ」

「俺が、悩んでいる?」

 ユーグは心底不思議がった。

 実のところ、ユーグはフラヴィと対する時いつも何かしらを悩んでいた。ユーグにとっては貴族の令嬢とここまで親密に関わるのは初めてのこと。頭を休めている暇など無い。

 だが頭では色々と考えていても、外面は完璧であるのが騎士という生き物だ。

(事実、昨日以外に俺の態度があそこまで崩れたことはなかったはずだ)

 だが思い返してみればあの時ユーグが処理しようとしていた情報量は膨大だった。明らかになった恋愛任務の真の目的を前に、ユーグは今後どうやって騎士らしくあるか検討せねばならなかったのである。

「そうですね。確かに俺はあの時普段以上に悩みを抱えていました。もしかすればそれが失態の原因かも知れません。言い訳にもなりませんが」

「やっと認めましたのね。ではもう一つお聞きしますわ。その悩み、もう解決して?」

「いいえ。なかなかの難題ですゆえ。そう簡単に解決するとは思えません」

 フラヴィは「そう」と素っ気なく頷いた。

「ではユーグ様は昨日みたいなことをまた繰り返すおつもりですのね」

「そんなことは……」

 ないと言い切れればどれほど良かったことか。「恋愛任務」にまつわる諸々をユーグが解決するのは難しい。ユーグに可能な手はフラヴィの心を癒やすことだが、それだってどうすれば上手く行くのか見当も付かないのだ。フラヴィの指摘に反論する言葉をユーグは持たなかった。

 ユーグはうなだれた。これではフラヴィの怒りをなだめることも出来ない。

 だがフラヴィは不意に口元を緩めた。

「教えて差し上げますわ。その悩みに対処する方法を」

「え?」

「どうしようもないことがあるのでしょう? どうしたらいいのか分からないことがあるのでしょう? 私にだってそういうことはありますわ。私がそういう「どうしようもないこと」に悩んだ時、どうしているのか教えて差し上げます」

「……是非」

 何も言えることがないユーグは先を促した。フラヴィは堂々と答えを口にした。

「悩んだ時は、剣を振ればいいのです」

「……は?」

 間抜けな声を出したユーグにフラヴィは淡々と語り出した。

「世の人は悩みがあったらまず親しい人に相談するのでしょうね。「聞いて貰うだけで楽になれる」。みんなそう仰います。でも私には悩みを打ち明けられるような相手はいませんでしたわ」

 フラヴィの剣から力が抜けて地面に向かって垂れ下がる。

「お父様やお兄様は忙しいし、お母様は論外。じいや達は良くしてくれるけれど立場の違いが壁になってしまいます。本当に小さい頃はお友達もいたのだけれど、成長してからは疎遠になってしまいましたわ」

 年頃の娘の話題の定番と言えば恋愛だ。だがフラヴィは母親の影響で恋愛を嫌悪していた。ならフラヴィはだんだんと友人達と分かり合えなくなっていったはずである。

「いつからか、私は一人でした。悩みを誰にも打ち明けられず悶々とする日々は正直思い出したくもありません。ですがいつだったか気付いたのですわ」

 フラヴィは剣を誇示するように掲げた。

「悩んだのなら剣を振ればいいのだと。それもいつものレッスン程度では足りませんわ。何時間も剣を振り続けて、汗だくになって、はしたなく舌を出して、自分が何をやっているかも分からないくらいにくたくたになって。……そうするとまるで晴れ渡る青空のような気持ちになれるんだって気付いたのですわ」

「!」

 灯台下暗しとはこのことだった。

 どうして忘れていたのだろう。くたびれるまで剣を振ることで至れるすがすがしい気持ちを、騎士であるユーグは誰よりもよく知っていたはずなのに。

「私が剣舞をするのはそれが理由ですわ。詳しい理屈は分からないのですけど人の体と精神の間には強い結びつきがあるみたいですから。剣を振れば振るほど私は嫌なことを忘れられたのです。お母様と知らない殿方が睦言を交わしている光景も、ひとりぼっちの心細さも。それに難しい型を綺麗に決められた時の達成感も素晴らしいですし」

(そうか、だからフラヴィ嬢の剣はあれほどまでに強く美しいのか)

 ユーグは納得した。フラヴィの言葉を表面上だけで理解するなら、フラヴィは現実逃避のために剣舞をしていたように捉えられる。だが逆である。家庭状況などのどうにもならない現実を前にして、それでも自分らしく生きるためにフラヴィは剣を欲したのだ。

 それは立派な剣の道だ。確かな信念を持って振るわれる剣には言葉では言い表せない力が宿る。だからユーグはフラヴィを美しいと感じたのだ。

「もうおわかりですわね。ユーグ様にはここで嫌なことを全て忘れていただきますわ。私の体力で『昇隼』の悩みを払えるかは分かりませんけれど、精一杯お相手を務めさせていただきます。だって……」

 フラヴィははにかみながら

「貴方が悩んでいるのを見るのは悲しいですから」

「フラヴィ嬢……!」

 ユーグは己のふがいなさを恥じた。フラヴィにここまで言わせてしまうとは、自分は何と無様な騎士なのだろうか。

 ユーグは自分の悩みで手一杯になりフラヴィへの礼儀を忘れてしまった。なのにフラヴィの方は怒りを堪え、逆にユーグを気遣ったのだ。『じゃじゃ馬』と呼ばれるあのフラヴィ・ド・ヴァルシールがだ。

 ユーグはフラヴィに深く感謝した。

「お気遣い、感謝いたします」

 言葉は少なく、代わりにユーグは剣を抜き放つ。

「この剣の相手に、貴女が不足であることなどあり得ません。こちらこそお相手お願いいたします!」

 ユーグとフラヴィは同時に互いへと斬りかかった。

 音楽はない。観客もいない。

 ここにあるのはユーグとフラヴィと二振りの剣だけだ。

 自然のダンスホールの中央で、ユーグとフラヴィは人目をはばからず剣を交えた。

 誰も見ていないからやりたい放題だ。服の端がほつれても、靴が泥をかぶっても、二人は踊りたいように踊り続けた。

 自由な剣舞が始まってどれだけの時間が経っただろう。思う存分踊りきったユーグとフラヴィは二人そろって地面に仰向けに倒れ込んでいた。

「すぅ……すぅ……」

 フラヴィはユーグの横で規則正しい寝息を立てている。疲れて眠ってしまったのだ。ユーグはフラヴィの無防備な寝顔を見て呟く。

「不用心な」

 だが台詞とは裏腹にユーグの顔はほころんでいる。

「ここまで体を動かしたのは久々だな」

 恋愛任務に従事してからは忙しくまとまった鍛錬はしていなかった。

 ユーグは寝転がったまま空を見上げる。晴れ渡る青空だ。

「少し疲れた。どうしてだろうな」

 確かに先程の剣舞はいい運動だった。だが本来ならばユーグがあの程度で疲れるはずがないのだ。

 フラヴィの体力は十六歳の貴族令嬢としては刮目に値するが、騎士として訓練を受けたユーグとは比較にならない。だからフラヴィが倒れ込むまで剣舞に付き合ったところで、ユーグが疲労を感じると言うことはありえない。ありえないのだが……

「想像以上に俺はこの任務について悩んでいたようだ」

 フラヴィが言ったように体と精神は分かちがたく結びついている。精神が乱れていれば体も疲れやすくなるもの。どうやらユーグは精神のバランスを大きく欠いていたらしい。

「だが今はすがすがしい気分だ。適度に疲れたおかげで、いらぬ事を考える余力がなくなったのだろう」

 問題は何も解決していない。相変わらずユーグは下衆げすな恋愛任務を課せられているし、ジュディットは分からず屋で、ヴァルシール伯爵は娘の思いを分かっていないし、夫人は男漁りを継続している。

 また馬車に乗り込む頃にはユーグはこれらの問題と向き合わなくてはいけない。

「だが今だけは空を見ていようか」

 せっかくフラヴィがユーグにここまでしてくれたのだ。晴れ渡る青空のような気持ちを教えてくれたのだ。ここは素直に何も考えず寝転がっておくべきだろう。

ユーグはフラヴィの寝顔に向かってささやいた。

「ありがとうございます、フラヴィ嬢」

 名を呼ばれてフラヴィがまぶたをピクリとさせるも眠ったままだ。その脇に寄り添って、ユーグはずっと空を見上げていた。


 フラヴィが目を覚ますと二人は軽い昼食を取った。フラヴィが使用人に作らせたサンドイッチを持ってきていたのだ。二人でサンドイッチを食べる至福のひとときを終え、帰りの馬車に乗る頃には二人の間にわだかまりはなくなっていた。

「問題は多い。だが何とかやって行けるはずだとも」

 ユーグはそう確信した。恋愛非恋愛はともかく、ユーグとフラヴィとの間には既に確かな絆が生まれている。

 それはユーグの勘違いではない。事実確かにそうだったのだ。

 だがその翌日からフラヴィはユーグと口を聞かなくなった。


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