表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

第三章

 ヴァルシール伯爵家の茶会に通うのはユーグの新しい日課になった。

「まぁ、ユーグ卿!」

とヴァルシール伯爵夫人が送る秋波をいなすのにも慣れ、

「……ユーグ様は物好きなお方ですわね」

 茶会の片隅に座るフラヴィとも少しずつ打ち解けてきた。フラヴィは茶会の前半はケーキに集中しているので、ユーグは黒子に徹する。話せるのは後半からだ。

「なんと。昨日は四時間も剣を振っていたのですか!? 公園の時は二時間が限界だったではないですか!」

「公園? 何の事か全く存じませんわ。ですが、私が他のお嬢様方のようにひ弱で体力がないと思われているならそれは間違いだと言っておきますわ。もし私に体力がないように見えるとしたら……」

 ぐぎゅるるるー。毎度おなじみの、毎度ユーグが聞かない振りをしている腹の音である。

「……ち、ちょっと朝食デジュネが少ないからだと。舞踏会やお茶会がある時、朝食に出てくるのは決まって半透明なバゲットとミルクだけなのですわ」

「半透明なバゲット?」

 そのような奇怪な代物をユーグは知らない。貴族同士だけで通じる隠語か? とユーグの頭上に浮かんだ疑問符を察して、

「向こうが透けて見えるくらい、うすーくスライスしたバゲットのことですわ。これがたった五切れ。仕方がないのでジャムやバターをできるだけたっぷり塗りますが、それでも少し物足りなくて」

 ユーグは絶句した。伯爵家の令嬢だから朝食もさぞ豪華なものを食べているのだろうと思いきや、なんと簡素な。

「それはいくら何でも少なすぎでは? 私でさえも朝はパンに加えてポテトくらいは食べておりますよ」

「何とうらやま――コホン、何でもありませんわ。とにかく、料理人に頼んでもそれ以上のものは出てこないのです。「旦那様にお嬢様の朝食を出し過ぎないよう言われておりますので」の一点張り。十六歳になってからはずっとそう。……理由は想像つきますけれど」

「?」

 確かに二百年以上前は女性は小食であるべし、という風潮もあるにはあったようだ。とにかく女性に細さが求められ、コルセットで過剰に腰を変形させるのが常識だった時代だ。

しかし衰弱した女性が出産を耐えきれず命を落とすのが社会問題となり、また剣舞の普及に伴って、ひたすらに「細さ」を追求する風潮は消え去ったはずだ。

(父親の命令か、一体何を考えているのか……)

 ユーグはフラヴィの方を盗み見る。夜会服ではないため、肩を露出するデコルテはないもののだいたいの体格は推し量れる。うなじから肩の線、腰回り、太ももをなぞるように視線を動かす。

 あくまでフラヴィの健康状態の確認のためだ。よこしまな興味など断じてないのである。

(華奢ながら骨が浮き出るほどではなく、血色もいい。三段重ねのケーキスタンド様々だな。これがなければフラヴィ嬢は剣を振ることはおろか、立ち続けることも難しかったに違いない)

「ケーキがなければお母様のお茶会になど顔を出そうとは思いませんわ。お母様の顔、ご覧になりまして? ふん、古い牡蠣みたい」

 「古い牡蠣」が何を意味するかは分からなかったが、フラヴィとヴァルシール伯爵夫人の仲はあまり良くないようだった。何度か茶会に足を運んでいるユーグでも、二人が会話しているのは見たことがない。

 フラヴィはイライラと、

「ああ、不本意ですわ。私、どうしてあの人から生まれてしまったのかしら……」


 この日のユーグは茶会の後、騎士団本部へと足を運んだ。

「ユーグ、任務の具合はどうだ?」

と尋ねるジュディットに今までのことを報告する。報告を聞いたジュディットは上機嫌で、

「そうかそうか、ちゃんとお嬢様と会話が出来ているじゃないか、安心したぞ」

「馬鹿にしているだろうジュディ副長。世間話すら出来ない人間が騎士をやれるか」

「ほうほう、ならば聞こうじゃないかユーグ卿。ここから標的とどうやって関係を進めていくのか」

「………………」

 ユーグは黙り込んで天井画を見上げた。そこには頭を抱えて座り込む甲冑姿の騎士が描かれている。忠義と己の信念の狭間で葛藤している、ように見えるが実は気になる貴婦人にどうやってアプローチしようか悩んでいるという絵である。

「なるほどなるほど、確かにお前はフラヴィ嬢と「お友達」になれたのかも知れない。だが、異性として意識されているかはまた話が別だぞ?」

「わ、分かっている」

 確かにフラヴィ嬢はユーグとの会話をそれなりに楽しんでいるようだ。だが、時折ユーグを見る目に剣呑なものを感じるのも事実だった。

 例えば剣舞について議論している時、例えばユーグが歩いている時など。

(そう……敵情視察という言葉が何故かしっくりくる。まるで俺の発言から、立ち振る舞いから、何か剣について学び取ろうとしているような)

 渋面で黙り込むユーグにジュディットは駄目押す。

「なら、「お友達」から「気になる相手」に格上げされるのには策が必要なことも分かっているな?」

「さ、策とは……?」

「あ? そんな当たり前のこと聞くのか。逢い引きだよ逢い引き」

「あ、逢い引き!? ふしだらな!」

「ふしだらなのはお前だよ童貞。デートって今風に行った方が分かりやすいか? フラヴィ嬢とどこかに出かけるんだよ」

「ああ……」

 デートと聞いて納得するユーグ。騎士道物語を読むユーグにとって「逢い引き」は建物の影や木々の合間で男女がアレコレすることを指す言葉だった。

「なるほどデートか、それなら簡単……なわけがないだろうジュディ副長!」

「何でだよ。約束して出かけるだけだろう?」

「それのどこが簡単なんだ! 伯爵家の令嬢だぞ、そう簡単に連れ出せるわけが……!」

「そりゃ場末の酒場とかに連れ込むわけにはいかないけどね。でも例えば今までお前が回ってきたルミエ宮やエリゼ大通りなどは貴族達の立派なデートスポットだ。そういった所に連れ出す分には何も問題はない」

「し、しかしフラヴィ嬢はそういった場所を好んでいないように思うのだが……」

「そんなこと言い出したらデートなんか一生出来ないぞ。多少強引でも誘ってみろよ。相手の顔色うかがってばかりの奴にキュンと来るもんか。全く女子の心を分かってない奴だ」

「女子? ジュディ副長はたしか」

「手袋投げるぞ童貞野郎! 女は死ぬまで女子だっての!」

と激論の末、結局ユーグは腹を決めた。

「まぁ任務だからな。騎士としてこの難行も成し遂げて見せよう。……ところでジュディ副長、聞いていいか?」

「ん? 何だ?」

 小首をかしげたジュディットに、ユーグはかねてからの疑問をぶつけた。

「任務の最終目的についてだ。ジュディ副長はこの任務の目的を「フラヴィ嬢を惚れさせること」と言ったな。だが何をもってフラヴィ嬢が俺に「惚れた」とするのか。何をもって任務の達成とするのかがよく分からなくてな」

 当初はその判断も含めての「恋愛任務」なのだと思っていた。だがこの任務にはユーグも知らない裏の目的があるようだし、やはりジュディットに一度確認しておくべきだと思ったのだ。

「ああ……そのことか。確かに「惚れた」ってのは曖昧すぎる。だがお前はそれを判断する必要はない。任務の達成、未達成を確認するのはクライアントだからだ」

「クライアント? 騎士団の任務は基本、王命によるものだが……」

 ユーグは眉をひそめた。騎士団は王の剣。よって騎士団を動かせるのは国王の命令か、そうでなければ王族の要請だけである。ゆえに「任務のクライアント」など存在しないはずなのだ。

 だが、

「ああ、本当ならばそうあるべきだ。騎士団がスラフ王家以外の誰かに私物化されることなどあってはならない……が、それは建前の話だ。前にも言っただろう、この任務は宮中政治の一環だと。この恋愛任務はとある貴族の要請によるものでな、私はお前からの報告を逐一そのクライアントに上げている。この報告を読んだクライアントが任務達成、と判断して初めてこの任務は完了されるというわけだ」

 ジュディットの説明を聞いて、ユーグは公園で名刺を渡してきた男の事を思い出した。任務のことを知っていたことや、ユーグの手助けをしたことなどを踏まえると、彼がクライアントなのだろう。

「そのクライアントについて聞くことは……出来ないのだろうな」

「ああ。その方が任務が円滑に進むと判断した。とはいえお前が勝手に察するなら仕方ないがな。その時はその時でクライアントの意向を汲んで動いて貰う」

「了解した。結局、フラヴィ嬢にアプローチし続けるほかにないということだな」

「とはいえ流石に抱くのは駄目だぞ? 嫁入り前だからな。お前と私の首が飛ぶ」

「そ、そんなことするか!」


 その後の数日間をユーグは作戦立案に費やした。戦場の選定、偵察、情報収集、物資の手配などやるべき事は山ほどある。無論デートの話だ。

 フラヴィとの約束は今日これから行われる第二の舞踏会で取り付けることにした。

 舞踏会の会場まで馬車で乗り付け、騎士団の力で得た招待状を見せて会場内へと入る。

既にホールは人であふれかえっていた。前回のユーグは彼らをキョロキョロと見回すだけだったが、今のユーグには貴族にも少ないながら知人がいる。彼らに挨拶回りをしながら舞踏会の開会を待った。

「さて、だいたい知人には声をかけ終わったか。任務の間とはいえ、良い人間関係を築いておくのは重要だからな……ん?」

「はわわ、お、押さないで下さ、ひゃ、た、助けて下さいぃー」

 人混みの中から聞いた覚えのある声がする。もしや、と思いユーグは人混みの中へ分け入りその少女を救出した。

「大丈夫でしたか、ルネ嬢」

 ユーグが初めて剣舞を踊った相手のルネである。背が子供のように低く、小柄なルネは人混みの中で押しつぶされそうになっていたのだ。

「や、やっと息が出来る……すみません、どなたか存じませんが助けて下さってありが――ゆ、ユーグ卿!? はわわ、私を助けて下さったのはユーグ卿なんですか、あの、えと、その、ありがとうございます!」

「いいえ、貴女の助けになれたのなら何よりです」

「はわわわわ……」

 ルネは顔を赤らめながら二本の人差し指をつつき合わせている。

(のぼせてしまっているな……無理もない。人混みの中はさぞ熱かっただろう)

 ユーグはルネのことを顔が赤くなりやすい体質だと思い込んでいた。ユーグの記憶の中で、ルネは初対面の時から赤い顔をしていたからだ。それは初対面で惚れられたからだと気付きそうなものだが、残念ながら鈍感クソ野郎にそんなことは期待できなかった。

「ええとですね……」

「はい」

 何事かを言おうとするルネを待つユーグ。だが、ルネの言葉が音になる前に、

「ルネ! 何をしているの、行きますわよ! まだクリスト伯爵のご子息達ににご挨拶申し上げていないでしょう! 長男のアムル様には貴女のことを覚えて貰わないと!」

「……あ」

 その声を聞いてルネは分かりやすくしょげ返る。

「お母様ですか」

「は、はい……ごめんなさい、ユーグ卿、私……」

「私のことはお気になさらず。機会があれば、今晩も一緒に踊りましょう」

「……! はい! 絶対ですよ!」

 ルネはやがて姿を現した母親に手を引っ張られてユーグの側から離れていく。ユーグはそれを見送りながら、

(そうだな。舞踏会では普通、未婚の令嬢には母親が付いているものだ)

 社交界デビューしたばかりの令嬢は母親を見て社交場での振る舞いを学ぶのが通例だった。母親は社交界の先達、娘が社交界に溶け込めるよう手ほどきをするのだ。また、母親は教えるべき事を教え終わったら今度はお目付役となる。娘が下賤げせんで貧乏な男に騙されないよう見張るのである。

(娘が高貴で裕福な良い男と結ばれる、というのは親たちの悲願だからな。それを娘が望むかは別だが)

 ルネの母親の望みは知らないが、ユーグとしてはルネの幸せを願うばかりだ。

 と、そうこうしているうちに開会の時間となる。ホストによるファーストダンスの披露を見届けてから、ユーグは行動を開始する。

(フラヴィ嬢、フラヴィ嬢はどこだ?)

 今夜の舞踏会は少し時間が短い。出来るなら真っ先にフラヴィの元へ行きたかった。が、ユーグがフラヴィを見つけたのは三曲目が終わってからだった。しかも、フラヴィの方へと歩き出したユーグをある女の目線が絡め取る。

(ヴァルシール伯爵夫人……)

 フラヴィの母親ながら、雰囲気は全く似ていない社交好きの女の顔を見て、ユーグは歯がみした。

 正直、今はフラヴィと踊ることを優先したい。だが社交界のキーパーソンの一人の視線をむげにしては周りからなんと言われるか分からない。

(こうなっては仕方ない。前向きに考えよう。フラヴィ嬢と夫人の関係を探る好機とも言えるからな)

 ヴァルシール家の茶会でも何度か顔を合わせているが、周囲の目を気にして当たり障りのない話しか出来なかった。剣舞の最中ならもう少し突っ込んだ話が出来るかもしれない。 ユーグは夫人に歩み寄る。

「まぁユーグ卿、ここでもお会いするとは思いませんでした」

「ええ、こちらもです」

 と白々しいやりとりの後、二人はダンススペースに移動し剣舞を始めた。

 ゆったりと余裕を持った剣舞を踊りながら、夫人が話しかけてくる。

「ユーグ卿、最近我が家によくいらしているでしょう? フラヴィと話しているのをよく見かけますもの」

「ええ、フラヴィ嬢には良くしていただいています」

「わざわざ無理をしてあの子と話す必要なんてないんですのよ?」

「無理なんて事は……」

「だって、あの子冴えないでしょう?」

 夫人は薄笑いを浮かべていた。

「服や帽子のセンスも悪いし、気も荒いし……それに食い意地ばかり張って恥ずかしいったらないわ。私に似ているくせに、色気はこれっぽっちもありませんし」

 夫人がステップを踏むとフラヴィによく似た髪がふわりと広がり、フラヴィにはない豊満なバストがぶるんと震えた。ユーグはそれを極めて平静に見やる。

(今のは意図的だな。自分の発言に合わせた。夫人の剣は可もなく不可もない。だが、自分の体の見せ方を熟知している。髪、うなじ、肩、乳房、足先、そういった部位で男の欲情をそそる方法を知っているというわけだ)

 匂い立つような色気だ。並の男なら耐えられないはず。だがユーグはむしろむせかえりそうだった。

(一体何なんだ夫人は。一応は人妻であり、母だろう……なのにこう見境なく男に色気を振りまいて。慎みというものがないのか?)

「はしたない女と、そうお思い?」

「!? い、いいえ……」

 思考を読まれてユーグは呼吸を乱しかけた。夫人はいじらしく目を伏せて、

「構いません。分かってますもの。でも、私寂しくって。主人とは普段ほとんど会えないんですの。だったら、一体誰が私を愛してくれるの? 私はいつだって愛されていたい。誰よりも愛されていたい。なのに、誰も満たしてくれない……」

 先程とは一転、夫人の表情は貞淑な貴婦人そのものだった。その貞淑な顔のまま、扇情的な台詞を連ねる。夫人の変わり身の早さにユーグは舌を巻いた。

「ユーグ卿、貴方の剣は重くて、逞しくて、激しいのね」

「そんなことはありませんよ」

 実際、フラヴィと踊る時の十分の一の力も出してはいない。ハエが止まるような剣速だ。

「私は嬉しいの、貴方のような人と踊れて」

「そうですか」

 ユーグは素っ気なく対応しつつも、夫人の言動の意図を考えていた。

(ここまであからさまだと流石に分かる。夫人は俺を籠絡しに来ている。だが、一体何のために? 今まで夫人は俺に対してここまで大胆なアプローチはしてこなかったはずだが)

 そこで思い出されるのは夫人の最初の方の言動だ。

(フラヴィ嬢をけなし、逆に自分の色気を強調する。……まさか)

 ユーグは頭に浮かんだ突拍子もない考えに血の気が引いた。

(まさか……フラヴィ嬢に嫉妬しているのか!?)

 邪推であってくれと願わざるを得ないような疑惑だ。だが、次の夫人の言葉が疑惑を決定的なものとした。

「フラヴィのような不束者に『昇隼』は勿体ないわ」

 ユーグは信じられなかった。

(なんてことだ。夫人は娘が名の通った騎士である俺と親しくしているのが気に入らないのだ。だから今日強引なアプローチで俺の気を自分に引きつけようとした……!)

 ユーグは職業柄凶悪な犯罪者と相対することも多く、常人には理解しがたい思考をする人間を少なからず見てきた。だが彼らに並ぶくらい、夫人も理解できない人間だった。

(俺が男だからなのかも知れない、が……)

 相容れない人種だ。

「ああ、もうフィニッシュだわ。まだまだ物足りないのだけれど……私の剣、受け止めて下さいましね?」

 そう言って夫人は剣を振り下ろす。その斬撃には芯がない。敢えて負けるつもりなのだ。

(誘惑のダメ押しか。もし俺が「その気」なら拒まないという意思表示)

 このまま行けばユーグがどれだけ剣の力を抜いても、夫人の望む通りの結果になるだろう。だからユーグは本気で自分の剣と夫人の剣を触れ合わせる。決着がつく。

「えっ?」

「おや、引き分けですね」

 斬り結ぶ剣は見た目上拮抗していた。

「な、なぜ……?」

 予想外の結果に呆然とする夫人だが、何と言うことはない。ユーグほどの騎士になれば自分の剣だけでなく相手の剣も自在にコントロールできる。その技術を使って無理矢理引き分けに持ち込んだのだ。

 夫人はそれを察すると唇をわななかせる。ユーグが夫人を拒絶したことを理解したからだ。美貌に自信を持ち、それの使い方も心得ている夫人にとって、手玉に取れるはずの若い男に拒絶されるのは屈辱だろう。

(これでいい)

 ユーグには夫人のご機嫌を取るという選択肢もあった。だがユーグは夫人の誘惑をきっぱり拒絶する方が任務に有益だと考えたのだ。夫人に嫌悪を覚えたなど、そうした私情などでは断じてないのである。

 しばらく夫人は震えていたが、「仕方ないわ」と呟くとケロリとして、

「つれないお方。今回は駄目なようね」

「さて。何の事かさっぱりです」

「とぼけるのもお上手ね。でも有意義な時間でした」

 夫人はそのまま一礼して去って行った。

「ふぅ……」

 ユーグは冷や汗を拭ってダンスホールの端へ移動、壁に身を預けた。精神的な消耗が激しい。すると隣から、

「酷い女でしょう、お母様は」

「フラヴィ嬢ですか。今日もお会いできて光栄です……酷い、ですか。それは言い過ぎにしても、仰りたいことは分からないでもありません」

 椅子に座り「壁の花」となっていたフラヴィは肩をすくめる。

「相変わらず外面がいい……もとい、紳士的ですわね。ですが否定しないだけましだと思っておきますわ」

「恐縮です」

「それにユーグ様はお母様にはっきり言ってやったようですし。少しだけ胸のすく思いでしたわ」

「先程の剣舞ですか。もう少しやんわりとこちらの思いを伝えられれば良かったのですが」

 なあなあにして後々問題になるよりは、と思ってしたことだが、夫人に逆恨みなどされてはそれはそれで任務に差し障る。

「気になさる必要はありませんわ。お母様は殿方に囲まれているのが好きなのであって、殿方個々人に執着しているわけではありませんもの。そうすることで自分の女としての価値が上がるとでも思っているのでしょう。切り分けられるローストチキンみたいに。だからお母様がこのことでユーグ様に何かをする、ということはないと断言しますわ」

「それを聞けるとこちらも少しは気が休まるというものです」

 だがヴァルシール母娘間の確執は根深いようだ。母親が男にこびる姿を見たくない、というフラヴィの感情は理解できる。一方の夫人はフラヴィが少しでも男性の目を集めるのが気に入らないのだろう。

(何しろ外見だけはよく似ている。己の美しさを自覚する夫人にとって、フラヴィ嬢は仮想敵の一人なのだろう。それでも貴族の男性受けが良いのは夫人なのだろうが……)

 ユーグの感覚としては、

「貴女の方が綺麗です」

「そう。お上手ですわね」

「加えて、貴女との剣舞が一番楽しいと思います」

「ほ、褒めても何も出ませんわよ!?」

と素っ頓狂な声を上げたフラヴィだが、一秒後には「なんて素敵な(スカした)笑顔……そこが気に入らない……ブチのめす……」などとブツブツ呟き始めたので、ユーグは慌ててフラヴィを剣舞に誘う。

 今回の剣舞もまた拮抗した。手加減なしのフィニッシュが引き分けに終わり、ユーグは感嘆する。

(この二週間で俺の剣舞に対する理解度は増したはずだが……それと同じくらいにフラヴィ嬢の成長がめざましい)

「あ、あんなに特訓したのにどうして!? クッ、流石はユーグ様……覚えてなさい……」

フラヴィはむくれ上がっていたが、幸い今のユーグにはフラヴィをなだめる切り札がある。

「あぁ! そうだフラヴィ嬢! これから休憩室に行きませんか!? お疲れでしょう、ささ、こちらへこちらへ……」

 休憩室では丁度ハムサンドとアイスクリームが提供されたばかりだった。これにはフラヴィも笑顔である。フラヴィはユーグの前ではもうあまり空腹を隠さなくなっていた。目を輝かせながらハムサンドにかぶりつく。

「厚切りのハム、貴方こそは幸せそのもの……!」

と、小声で呟いてすらいる。フラヴィ嬢にこのような一面があるとは、出会った時は想像も付かなかった。

(この姿を見せてもらえるとは俺も多少は信頼されてきたのだろうか。もっとも、腹の音だけはかたくなに認めないが……)

 だがフラヴィが上機嫌なのは確かだ。ユーグはここが機と見て単刀直入に斬り付ける。

「フラヴィ嬢、オペラを見に行く気はありませんか?」

「ああ、麗しのアイス。どうして貴女とは舞踏会でしか会えませんの……ユーグ様? 何か仰いましたかしら?」

(クッ……めげるなユーグ・コンラディン!)

「ですからオペラを見に俺とルミエ宮へ行くつもりはないか、と」

「? どうして?」

 キョトンと聞き返すフラヴィ。素で疑問に思っているその様子はアプローチする男の精神を粉砕せしめる鋭さを秘めていたが、ユーグが数日かけて立案した作戦に穴はない。ユーグは迷いなく切り返す。

「実は上司がある貴族の方との会談のためにルミエ宮のボックス席を予約していたのですが、急に予定が変わってしまいましてね。どうせなら俺の社交界研修に使ってくれと二席譲り受けたのです。そのため貴女をお誘いした次第です」

「そうでしたのね……申し出感謝いたしますわ」

 大嘘だったがフラヴィは納得した様子だった。うんうんと何度も頷きながら、

「でもお断りさせていただきますわ。どうか他の方をお誘い下さいな」

「えっ」

「ああ、勘違いなさらないで下さいな。ユーグ様と行くのが嫌というわけではありませんの」

 とフラヴィは口では言う。だが多少でも常識を持ち合わせている人間は人の誘いを断る時「お前が嫌いだから行かない」とは絶対に言わないものである。

(デートに誘うのは時期尚早だったのか? いや、そもそも嫌われているのではないか?)

 ユーグの最終目的はフラヴィを惚れさせること。嫌われてしまっては話にならない。任務失敗という文字が頭の中をぐるぐる回る。ユーグの動悸が止まらないのはそれが理由だ。デートを拒絶されたのが辛かったとか、そういう軟弱な話では断じてないのである。

 次の一手を考えるユーグの前でフラヴィは続けた。

「ただ私、どうもオペラというものが分からなくって」

「どういう事でしょう」

「小さい時にお父様に連れて行ってもらったのですけれど、何で歌いながらお芝居をするのかがどうしても理解できなかったのですわ。それにお話は陰鬱で悲しいだけで、つまらないと思ってしまうのです」

 その瞬間、ユーグの脳内で何かがはじけた。

「お言葉ですがフラヴィ嬢、貴女はオペラの魅力を分かっておられない」

 ユーグ自身は気づけようもなかったが、この時ユーグの目は据わっていた。異様な様子にフラヴィがたじろぐ。

「な、何ですの急に」

「なぜ歌いながら芝居をするのかというのは簡単ですなぜなら感情の高ぶりを歌にするのは人間の本能であるからですそして芝居は人の姿を演じるものですならば人の本当の姿を表現するのに歌と芝居の組み合わせは最適まさに『宝剣には宝鞘を誂えるべし』ですこれに気付いた三百年前の劇作家ヤコブ・リヒテンは知人の作曲家リヒャルト・ペーリと協力して」

「ええと……」

「それに悲劇ばかりというのも間違いですきっとお父様の趣味だったのでしょう確かにオペラ最初期は古代グリス悲劇を元にした正歌劇ばかりでしたが時代が下るにつれてより幅広いニーズに応えるブッファという喜劇的な作品も流行しはじめ現代ではそれはもうあらゆるジャンルが」

「わ、分かりましたわ! 分かりましたから……ち、近いですわユーグ様!」

「ハッ!? これは失礼」

 憑き物が落ち、ユーグは我に返った。弾かれるようにフラヴィから顔を離す。

「…………」

「…………」

 少し気まずい空気である。ユーグは取り繕うように、

「その、俺は貴女の気分転換になればと。フラヴィ嬢はあまり外を出歩かれないご様子ですが、家にばかりいるのも退屈でしょう。その、家の中では何か嫌なことがあっても逃げられませんから」

 夫人と顔を合わせざるを得ない家の中は気が重いのではないか、という心配をぼかしながら伝える。

「そ、それはそうかもしれませんけれど」

「それにフラヴィ嬢がオペラを最後に観られたのは幼少の折なのでしょう? ですが今の貴女は立派な淑女です。また違った感想があるかも知れませんよ」

「立派な淑女って、よくそんなことを平然と……」

 フラヴィは「なんて素敵な(スカした)台詞……そこが気に入……ブツブツ」と口ごもっていたが、

「分かりましたわ。そこまで仰るのなら行きましょう。エスコートをお願いしてもよろしいかしら」

 と笑みをこぼしながらデートを承諾したのだった。


 ユーグがルミエ宮を選んだ理由は複数ある。

 まず第一に話題が尽きづらいと言うこと。困ったら劇の話をすればいいだけだからだ。

 また第二にユーグが最も行き慣れた社交場がルミエ宮であると言うこと。この「恋愛任務」が始まってから、ユーグはフラヴィだけと関係を築いていたわけではない。情報収集の一環として他の貴族とも親交を結んでいた。そのために最も使いやすい場がルミエ宮だったのである。

 何かと理由を付けてオペラを観たかったなど、そんな私欲では断じてないのである。

 約束の日、ユーグは馬車でフラヴィを迎えに行き雑談をしながらルミエ宮へと向かう。

 ユーグが今回のデートに選んだ演目は『厨房戦争』。笑いあり、涙あり、活劇あり、恋愛あり、そして最後には大団円で終わる、きわめて大衆的な内容だ。邪道とそしられる向きもあるが、多くの要素を含むが故に大失敗はないだろうと踏んだ。

 ルミエ宮へ付くとユーグはフラヴィを一階のボックス席へと連れて行く。苦労して取った席に二人で並んで腰を下ろした。

 程なくして幕が上がりオペラが始まる。二人の男が口論している場面が導入部のようだ。

 フラヴィは柄付きの眼鏡で舞台を眺めながらユーグに話しかけてくる。勿論マナーに反しないよう小声である。

「でも意外でしたわ。ユーグ様がオペラ鑑賞を嗜まれるなんて」

「俺もまだ観るようになって日が浅いのですがね、どうしてかオペラは俺の心を引きつける。……役者に憧れているのかも知れませんね」

 ユーグは言ってからしまった、と思った。

 ユーグは任務中に誰かと話す時、常に「何を言うべきか」を考えている。だが、先程の台詞はわざわざ言う必要がないように思えたのだ。

(無論不自然な台詞でもないが、このような事を言ってしまえば自分語りになってしまう。……『勲は語るものでなく、自ずと広まるもの』。少し、口が滑ったな)

「どういう事ですの?」

 だが時間は巻き戻らない。ユーグは諦めて自分語りをすることにした。舞台上を指さして、

「例えばあの主人公役の男です。もしかするとあの役者は私生活ではだらしなく、酒場で飲んだくれるようなどうしようもない男かも知れない。だがひとたび舞台に上がれば彼は格好のいい主人公です。役者は自分の人間性などお構いなしに、どんな役にもなりきってみせる。それが俺にはまぶしく感じられる」

「もしかしてそれはご自身に似ているから、ですの?」

 随分と察しがいい。ユーグは先を続けた。

「そうなのかもしれません。俺が騎士道物語を好んでいるのは以前に話しましたよね? 主に忠実で、他者に対して寛大で、敵に対しても勇敢。窮地にありては知恵と誇りを持って決然と剣を執る。彼らが時代遅れ? とんでもない。彼らの姿は今でも通用する騎士の手本です。俺は騎士としてかくありたいと思いました」

 いや、正確には超えようと思った。物語の騎士には女性に弱いという弱点がある。騎士達が身を滅ぼす時、それは禁断の恋に溺れた時。ユーグは騎士達を信奉しながら、この点についてのみはそうなるまいと誓ったのだ。

「ですが、彼らを目指すには子供だった俺はあまりにも卑小でした。だから演じることから始めたのです。あの騎士達ならこの時どう考えるだろうか、どう行動するだろうか。何を良しとし何を悪しとするだろうか、と」

「その経験が今のユーグ様を作ったのですわね」

「ええ。幸い、今の俺は『昇隼』と呼ばれるまでになりました。物語の騎士にもかなり近づけたと思っています。もう彼らを演じている感覚はほとんどありません。演じようと思うまでもなく、俺という人間は彼らの精神性や行動基準を再現する。俺はもう騎士ユーグなのです。ですが……」

 舞台の上では役者達が躍動しながら朗唱している。ユーグは彼らの姿に目を細めた。

「どうも、何か大切なことを忘れている気がしてならない。俺は忘れた何かを、役者達は持っているような気がしてならない。役者達はそれを持ったまま、役を演じきってみせる。その姿に俺は憧れているようです。漠然とした話で申し訳ありませんが」

 ユーグは苦笑しながら軽くフラヴィに頭を下げる。だがフラヴィは思いのほか真剣な声色で、

「そう。だから貴方の笑顔はそんなに素敵なのね」

「フラヴィ嬢?」

「何でもありませんわ……あ、あの人達剣を抜き始めましたわよ」

 フラヴィはめざとく舞台を指さした。フラヴィの言う通り二人の男が剣を抜いて今まさに決闘をしようとしている。

「ええ、活劇の場面ですね」

「活劇? オペラに活劇なんてありましたの?」

「これがあるんです。まだ歴史は浅いのですが」

 スラフ王国のオペラに活劇、具体的には剣での殺陣が取り入れられるようになったのは半世紀前からだ。剣舞が貴族の必須技能として扱われるようになり、オペラのありかたも変わっていったのである。

「役者は貴族の方々ほど剣を振り込んではおりませんし、そもそも殺陣自体が魅せるためだけのもの。フラヴィ嬢には退屈かも知れません。なので、彼らの剣の裏を読み取るようにしてみて下さい」

「裏、ですの?」

「つまり彼らの指導をした殺陣師が何を考えていたか、ということです。聞くところによれば殺陣師は剣術と剣舞の双方を修めているものが多いとか。よく目をこらしてみて下さい、貴女ならば役者達の剣から殺陣師の考えが読み取れるはずです」

 そういわれては気の強いフラヴィは俄然やる気になる。柄付き眼鏡をのぞき込むようにして殺陣をにらみ据える。

「そういえばあの二人の戦い、相手の胸元に切っ先を向ける『白鳥』の構えが多い気がいたしますわ」

「ええ。つまりこの場面で殺陣師は『白鳥』の構えを重要視していると言うことです。単に見栄えの問題と言うこともありますが、剣術的にこの構えは防御重視の構え。ということは……」

 やはり剣についての話題を振ると話が弾む。フラヴィもすっかりオペラに見入っていた。

 殺陣の場面を分析するのは当然として、コメディアスな場面では口元を押さえながら笑い、大道具の仕掛けが動くと息を飲む。

(悪くない反応だ。最初はオペラが苦手だというようなことを言っていたが、やはり最初に見せられた演目と相性が悪かったのだろう。それにその時は幼いせいで話が理解しづらかったのかも知れない)

 これで少しはフラヴィとの距離が縮まったはずだ。少なくとも失敗ではない。

 だがフラヴィの反応が良かったのは前半の方だけだ。幕間を経て話がクライマックスに入るとフラヴィはだんだんと無表情になる。カーテンコールの後にはもうすっかり楽しげな様子は見られなかった。ユーグはつい尋ねてしまう。

「フラヴィ嬢は今回の演目はお気に召しませんでしたか。三幕からは退屈そうでいらっしゃったように見えたもので」

 聞いたところで気を遣わせるだけの野暮な質問である。だがフラヴィは答えてくれた。

「いいえ。退屈だったわけではありませんわ。ですが……どうして物語はいつも男女が結ばれて終わるのでしょう?」

 質問というより嘆きのような口調だ。ユーグは質問の意図が分からないながらも、

「そうですね……あまり好きな台詞ではありませんが『恋愛は全ての人の関心事』ということなのでは?」

「だったら……私は人ではないのかしらね」

 フラヴィは自嘲するように笑った。初めて見るような弱々しい表情だった。

「どういう事ですか?」

「恋愛は尊いもの、憧れるもの。ほとんどの方がそう仰いますし、私ぐらいの年の女の子なんてお菓子と恋愛の話しかしていませんわ。でも実際の恋愛なんて憧れるようなものじゃないでしょう?」

「そうでしょうか」

「私はそう思いますわ。お母様と周りの殿方を見ていれば分かります。情欲と金銭欲と権力欲に承認欲、そうしたむき出しの欲望をお互いに押しつけ合うのが現実の「恋愛」ですもの。私はそんなものに関心はありませんわ」

「それは」

 語られたフラヴィの恋愛論にユーグは言葉をつまらせる。

 極端な考え方だと言いたかった。ユーグは恋愛自体を嫌悪しているわけではない。男と女が想い合い結ばれる、そんな人々の営みを守るのもまた騎士の職分だ。ユーグ自身は騎士として恋愛を遠ざけてきたが、他人の恋愛には口元を緩ませるくらいの感覚はある。

 だがフラヴィは違う。フラヴィは恋愛に全く希望や憧れを抱いていないのだ。生理的に嫌悪していると言ってもいいだろう。多感な時期に実の母親の極端な恋愛を見たせいでフラヴィの恋愛観は歪んでしまったのだ。

「お母様はお父様と語り草になるような恋愛の末結ばれたというけれど、今ではお母様とお父様は他人同然ですわ。私が物心ついた時からお母様は常に殿方と「遊んで」いました。恋多きお母様に憧れる女性は少なくないと聞きますが、少なくとも私はお母様を醜いとしか思えませんわ」

 視野が狭いと言ってしまうのは簡単だ。だが親を頼れない伯爵家令嬢がどうやって己の視座を広げればいいのだろうか。

「オペラやロマンス小説はあくまで作り物。ああいう清らかな恋愛なんてどこにも存在しないのですわ」

 狭い世界の中で醸造された恋愛に対する絶望がそこにはあった。

「白馬に乗った貴公子なんて私は信じませんわ。信じない……信じないけれど……」

 うわごとのように呟くフラヴィを見てユーグはフラヴィをルミエ宮に連れてきたことを後悔した。

(何がデートだ。何が恋愛任務だ。『籠手は女性の心を包むためにある』だろう、ユーグ・コンラディン! 下らないことを思う暇があるのなら、彼女に笑顔を取り戻す方法を考えろ!)

 任務はひとまず忘れる。ここまで恋愛を嫌っている少女をどうやったらユーグに惚れさせられるのかは後回しだ。

 ルミエ宮の出口は近い。このままではフラヴィを暗い気持ちにさせたまま、ヴァルシール伯爵夫人のいる家に帰してしまうことになる。ユーグはそれだけはしてはならないと思った。物語の騎士は涙する女性を放っては置かない。下心なしに彼女の涙を拭うのだ。

 幸運にも先程のオペラは昼の回だったため、まだ日は落ちていない。

 ルミエ宮を出て馬車に乗る寸前ユーグはフラヴィに申し出た。

「フラヴィ嬢、もし俺を信頼していただけるならもう少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか」

 

「ユーグ様、どうされましたの? 少し様子が変ですわ」

「お気遣いなく。俺自身に問題はありません」

 馬車の中でユーグは気を張り詰めていた。

 これからユーグがフラヴィを連れ回そうとしている場所はそれほどお上品ではない。そんな場所にフラヴィとユーグが一緒にいれば妙な噂になってしまう。

だからユーグは潜伏の技術を駆使する必要があった。フラヴィを同伴しているからあまりはしたないまねは出来ないが、それでも経路の選択や歩き方などは工夫できる。

「それでユーグ様、これからどこに行かれるおつもりですの?」

「色々です。が、まずは軽食を取りましょうか」

 食事さえちゃんと取っていればフラヴィは体力がある方だ。多少連れ回しても疲れることはないはず。

 だからユーグは本当にフラヴィを色々なところへと連れて行った。

 まず手始めに連れて行ったのはお嬢様はまず入らないような肉料理専門のレストラン。

「け、軽食と仰いましたわよね!?」

「ええ。流石に夕食には早いですからね」

「そうではなくて、普通軽食といったら紅茶サロンなどではありませんの?」

「おや、軽食に肉は食べられませんか?」

 フラヴィはお嬢様としての外面と肉料理のどちらを取るか悩んでいたが、結局はぐぎゅるるるーに屈し、アンドゥイエットと呼ばれるソーセージを心ゆくまで堪能する。レストランを出る時には

「ああ、私、堕落してしまいそうですわ……」

 と幸せそうにお腹をさすっていた。

 腹ごしらえの後は買い物だ。と言っても、ユーグは貴族の女性が買い物するような店をほとんど知らない。唯一研修のテキストに乗っていた帽子屋へとまず連れて行く。

 帽子はオーダーメイドが基本となるドレスと違い、既製品も多い。実はフラヴィは帽子にはこだわりがあるようで、

「帽子はあご紐なしのものと決めていますの」

「何故です? 紐で結ぶボンネットなどもお似合いだと思いますが」

「だってボンネットは何をやっても頭から落ちないんですもの」

「それの何がいけないのです」

「だって帽子って外で剣舞を練習する時、頭が上下していないか確かめるものに被るものでしょう? だったらほどほどに落ちやすい方がいいと思いますわ」

「気にするのそこですか!?」

 貴族向けの店はもう残弾がなかったので、あとは本屋などユーグ自身が知っている店に限られる。フラヴィの喜ぶ店の傾向はよく分からない。ユーグがこれは、と思った店には反応が悪かったりするくせに、駄目だろうな、と思った店で思いのほかはしゃいだりする。

 移動の途中で路上の大道芸を見たりもした。フラヴィが剣を飲み込む男を見て「あれはどういう仕組みなのかしら……やってみたいですわ」と半分本気の目で言い出したので途中で切り上げたが。

 そしてそろそろ家に帰した方がいい、と言う時間になるとユーグはある場所にフラヴィを連れて行った。煤けた石造りの、工場のような建物だ。

「さて、ここが今日は最後ですね」

「ユーグ様、ここは……?」

「見れば分かりますよ」

 ユーグが扉を開けると、筋骨隆々の巨漢が店の奥に座っていた。

「あ? 誰かと思えばユーグの野郎じゃないか。ん? そちらの別嬪さんは……」

「気にするな」

「けどよ」

「気にするな」

 巨漢とユーグがやりとりしている間、フラヴィは店内を見回し、感嘆の息をつく。

「凄いですわ……」

 フラヴィの感想を聞いてユーグは内心で快哉を叫んだ。

 この店は鍛冶屋だった。それもはさみや包丁のような小物ではなく、剣や槍、戦斧など武器を専門に扱う鍛冶屋なのだ。ユーグの腰の剣を鍛えたのもここの鍛冶屋、もっと言うなら目の前の巨漢だった。

 壁には片手剣や、両手大剣、ハルバードなどがかけられ、いかにも物々しい。武器に見入っているフラヴィにユーグは

「フラヴィ嬢は確か、重い剣が好みでいらっしゃいましたよね」

「ええ。というより、重くて分厚い刀身でないと折れてしまうのではないかと不安なのですわ」

「でしたらここの鍛冶屋で一振り剣舞剣を鍛えて貰うのはいかがでしょう。ここの剣の頑丈さは保証します。何しろ俺が行きつけにするくらいですから」

「ユーグ様の剣を鍛えた鍛冶屋ですのね……、そうしますわ」

 そこで会話に巨漢が割って入る。

「おいおい待て待て。ユーグに別嬪さんよう。あんたら剣舞用の剣を探してるのか? そりゃあ畑違いだぜ。ここは儀仗鍛冶じゃねえんだ」

 儀仗鍛冶とは「魅せる武器」を専門に鍛える鍛冶屋である。国王が戴冠式の時に持つ宝剣や、宝杖などを鍛えるのも儀仗鍛冶だ。だが、儀仗鍛冶のもっぱらの仕事は剣舞用の剣を打つことだった。

「剣舞用の剣ってのは普通の剣とはまるで作り方が違う。刃を付けねぇ代わりに刀身は軽くなきゃいけねぇ。貴族様方が振っても疲れねぇようにな。場合によっちゃ、刀身を肉抜きすることだってある。それでいて剣舞で折れない程度には強度が必要だ。それだけならまだ何とかなるんだが……」

 剣舞用の剣にはもう一つ求められる性能がある。それは外見だ。剣舞用の剣は男なら燕尾服に、女性なら夜会服に合わせるもの。相応の美しさ、豪華さが求められるのだ。

 だが巨漢にフラヴィは言う。

「それは問題ありませんわ。剣に装飾なんて必要ありませんもの。重さと、頑丈さと、重心の位置、柄の握り心地。これだけがしっかりしていれば他に何もいりませんわ」

「けどなぁ」

 巨漢がフラヴィの腕を見る。

「その細腕でうちの武器はちと難しいと思うぜ。何しろ騎士団の奴らだって……」

「フラヴィ嬢、こちらを試しに振ってみてはいかがでしょうか」

「分かりましたわ」

 フラヴィはユーグから受け取った剣をぶんぶん振り回して見せた。

「うーん、軽すぎますわ。もっと重くないとユーグ様に勝て……ごほん。殿方と競り合った時に負けてしまいますわ」

「な……に……?」

 絶句する巨漢。

「というわけだ。フラヴィ嬢に遠慮はいらない。いい剣を見繕ってやってくれ」

「お、おう……」

 気勢を削がれた巨漢はそれでもフラヴィにいくつかの剣を見せていく。だがどれも実戦用の剣なので剣舞には不向きだ。結局オーダーメイドで新たに鍛えることになった。ユーグも交えて三人で検討を重ねて、正式に注文を出す。

「どれくらいかかりますの?」

「二週間くらいだな。一応余裕を持って三週間ってことにしておくか。ほら、こいつが引換証だ。受け取る時にゃ別嬪さんが直接来な。調整をするからよ」

 巨漢から剣の引換証を受け取って鍛冶屋を出る頃にはもう辺りは暗くなっていた。流石に疲れたのか、馬車に乗ったフラヴィは口数少なだった。だがぽつりと、

「今日はありがとうございました、ユーグ様」

「はい?」

「ルミエ宮の後、私を色々なところへ連れて行って下さったのは私を元気づけようとして下さったのですわよね」

 流石にユーグの目論見は見抜かれていたらしい。だが隠すことでもないので、

「はは、空回りでないといいのですが。俺には女性の喜ぶような場所が分かりませんので」

「空回りなんて。そのお気遣いが嬉しいのです。どうしてそこまでして下さるのか分からないくらい」

「何故って、貴女を笑顔にしたかったからですが?」

「そ、そうじゃなくって!」

「!?」

 ユーグの返答はフラヴィの望むものではなかったらしい。フラヴィは頬を紅潮させながら「信じない……信じない……信じない、けど……」とよく分からないことを言っている。ユーグはフラヴィの様子を不思議がったが、話題を変える。

「ところで、剣の納期は三週間後でしたか? なら何とかフラヴィ嬢の家の舞踏会に間に合いそうですね」

「ああ、そういえばそうでしたわね。忘れていましたわ」

 自分の家の舞踏会の予定を忘れているというのはなかなか信じがたいが、父親が多忙で母親と不仲なフラヴィならそういうこともありうるのだろう。

「だったらそこで新しい剣を使えるといいのですけれど。ちゃんと注文通りに仕上がれば今使っている剣より重くなるのですわよね? フフ、思い切り振り下ろすのが楽しみですわ……フフフフフ」

 ユーグは何故か背筋が寒くなった。

「ああ、でも剣は私が受け取りに行かなくては駄目でしたわね。ちゃんとまたあそこへ行けるかしら」

 ちらり。ちらり。とフラヴィがこちらを見ている。ような気がした。

(これはもしや……だが……?)

 ユーグはそれを言うのを躊躇った。しかし無意識に口をついて出る。

「ご安心下さい。剣の受け取りの際には俺もまた同行します」

「……本当ですわね?」

「はい」

 念押すフラヴィにユーグは力強く頷いた。するとフラヴィは照れたように、

「約束ですわよ、ユーグ様」

 とささやき声で言うのだった。

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ