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第二章

 舞踏会が終わるとユーグは騎士団が所有する馬車に乗って騎士団本部へと直帰した。

 本部へ到着し、馬車を所定の場所に返却する。ふと空を見上げると東の方が白み始めていた。

「徹夜か。舞踏会とは何ともハードな催しのようだ」

 ユーグはそのまま騎士団長室へと足を運ぶ。舞踏会の首尾の報告のためだ。

 早朝だが、昨日確認したジュディットの予定からすれば在室しているはずだ。

 果たしてジュディットはユーグを待っていた。ユーグは舞踏会の一部始終を報告した後、

こう質問せざるを得なかった。

「ジュディ副長、一体何者なんだあの娘は」

 だがジュディットはきょとんとした顔で、

「何者かって……この前渡した資料に書いてあるだろう。フラヴィ嬢はヴァルシール伯爵家の長女で」

「資料などとっくに暗記している。はぐらかすな。俺が聞きたいのは……」

「どうしてフラヴィ嬢があそこまで剣を使えるのか、か?」

「そうだ」

 フラヴィとの二度目のダンスにおいて、ユーグはほとんど本気だった。だというのにフラヴィはユーグの剣に全く押し負けなかった。

「無論、剣舞と剣術は別物だ。そして俺は剣舞自体は一ヶ月しか学んではいない。その意味では俺の剣舞は未熟なのだろう」

「正しい認識だユーグ。いかに実戦の剣術に優れていようと、剣舞で通用するとは限らない。むしろ実戦に長けたものほど、剣舞では実力が削がれるだろうよ。何せ剣舞は色々と窮屈だからな」

 ジュディットの言にユーグは大きな頷きを返しながら

「ああ、実感した。だがどちらにせよ剣を振るということ自体は変わらない。剣術の技法の一部は剣舞においても通用する。実際あの舞踏会でも、他の女性相手に無様を晒すことはなかった。だがフラヴィ嬢相手の時は違った。フラヴィ嬢の剣の冴えは凄まじかった。俺ですら合わせるのに苦戦するほどに。……おかしいとは思わないか」

「ただの貴族令嬢にしては上手すぎる、と?」

「『昇隼』と呼ばれているらしいこの俺と互角だぞ。何か裏があると考えるのが自然だ」

 どう考えてもただ者ではない。武人として育てられた人間が正体を隠していると考える方がしっくりくる。

 可能性としてありそうなのはユーグの知らない騎士、もしくは親衛隊士という線だ。さらに万が一を想定するなら暗殺者、他国からのエージェントということも考えられる。

「もしそうならこちらも相応の対応をしなくてはならないからな。ジュディ副長は何か知っているんだろう? 任務の達成のため、情報の開示を要求する」

 ただでさえ「恋愛」などという不可解な任務なのだ。ユーグが疑り深くなるのも当然だった。ジュディットの方もそれは理解している。大きく頷きながら、

「ああ。お前の懸念はもっとも。だが見当違いだ」

「どういうことだ?」

「フラヴィ・ド・ヴァルシールはどこにでもいる、ごくごく普通の伯爵家令嬢だということだよ。ただちょっと、ダンスがお上手なだけなのさ」

「剣で騎士に匹敵する貴族令嬢が普通でたまるか」

 思わず吐き捨てたユーグにジュディットは若干不満げに、

「「どこにでもいる」の方をつっこんで欲しかったなぁ……とにかく彼女は普通なんだ。一般貴族なんだ、素人なんだ。彼女は普通に貴族の嗜みとして剣舞を学び、その結果としてその実力に至ったに過ぎないんだよ」

「明らかに『剣に力を込めてはならない』の真理を体得していたが」

「いやはや、お前といい、フラヴィ嬢といい、最近の若者ときたら恐ろしい。私がそこに至ったのなんて二十歳過ぎてからだってのに」

「二十年近く前のことだな」

「もっと最近だ。手袋投げるぞ童貞野郎」

「ジュディ副長がおどけるからだ……つまり、何か? フラヴィ嬢はただの天才だってことか?」

「そ。お前はジュディ「お姉さん」よりは若いし、何より自分が「そう」だから分からないかも知れないが、この世界は時にそういう天才を産み落とすものなのさ」

「いいだろう。そこまでいうのなら納得しよう。いわれてみれば、フラヴィ嬢の剣舞の型は純粋だった。実戦の心得はないと見立てて良さそうだ」

 ユーグの肩から幾分か力が抜ける。

「ま、国防の危機などとは別の所にこの任務の目的はあるということだ。安心しただろう? お前は腰を据えてフラヴィ嬢を口説くことに専念しろ。幸い、お前の技量ならフラヴィ嬢の剣舞に合わせられる。そこをとっかかりに何とかやってみろよ、童貞……案外もう好かれているかもしれんぞ。基本、剣舞が上手い奴はモテるからな」

「ど、どうだかな」

 ユーグは舞踏会の最後にフラヴィが書いたメモの内容を思い出す。「スカした」とか「気に入らない」とか書かれていたような気がしたが

(い、一瞬だったしな……読み違いと言うこともあるだろう……だが「必ずブチのめす」は言ってもおかしくないのがな……)

 つい数時間前、フラヴィがダンスのパートナーや絡んできた少女を「ブチのめす」のを見てきただけに何とも言えない。

「任務だからな、最善は尽くすさ」

 先行きが不安だ。しかしそれは表に出さず、ユーグは泰然と団長室から出ようとする。が、ジュディットが突然、

「ああ、そうだ! 聞き忘れていたことがあった」

「なんだ? 追加情報か? 円滑な任務遂行のため、出し惜しみは控えて欲しいものだな」

「違う、そんなものよりもっと大事なことだ!」

「聞こう。言ってくれ」

「フラヴィ嬢はお前から見て…………」

「…………」

「……美人だったか?」

「帰る」

「あ、待て! 悪かった、ふざけすぎた! だが一応そこそこ真面目な質問なんだよぅ!」

「悪ふざけを三日三晩煮詰めたような先程の質問のどこに真面目があったか教えてくれ」

「いやなに単に部下の士気管理だ。いかにお前が童貞で年齢即ち彼女いない歴であろうと」

「ジュディ副長は俺をオモチャにしたいだけだろう」

「だから誤解だって。……いくらお前が童貞でも、もしお前にとってフラヴィ嬢の容貌が全く好みでなかったらこの任務は苦痛なんじゃないかと思ってな。お前がどう思ったところで任務は任務だ。必ず遂行して貰う。だが部下の不満を把握しておくのは上司の仕事だからな、お前がフラヴィ嬢に抱いた印象を聞いておこうと思ったのさ」

「もっともらしく言い訳を取り繕っただけに聞こえるが」

「聞こえないな。で、どうなんだ。フラヴィ嬢は母親に似て世間からは器量よしと言われる部類だ。私個人としてはあの華奢でありながら損なわれない健康美がなんともそそるんだが……お前はどう思う?」

「さぁな」

「さぁな、って……」

「知っているだろう。任務に私情は交えない。標的が輝く白百合のように美しかろうと、俺には関係のないことだ」

 ユーグは断言した。それが騎士ユーグ・コンラディンの在り方だったからだ。

「もう行っていいか。そろそろ部屋に帰って休まねばならないんだ」

「ああ、引き留めて悪かった。良く休んでこれからに備えてくれ」


 ユーグが団長室を辞して、ジュディットは一人になった。

「……そうだよな。任務に当たっては私情を交えまいとする、それがユーグ・コンラディンだったな。遊びを知らず、恋に溺れず、忠義だけを生きがいとした、絵に描いたような理想的すぎる騎士。そんなもの存在するはずがないのにな」

 ジュディットは無感動に団長室の扉を見つめている。その向こうにユーグの姿を透視するような眼差しで。

「だから私はこの任務にお前を推したんだ。それがどちらに転ぶかはまだ分からないが……あー、やめよ。小難しいことを考えるのは。しわが増える。もう賽は投げられたんだ」

気持ちを切り替えるようにジュディットは伸びをする。

「確か、次フラヴィ嬢が招待されるだろう舞踏会は二週間後だったか?」

 その舞踏会にはユーグも招待されるように手配済みだ。騎士団の権力を持ってすれば、普通の舞踏会に騎士を一人ねじ込むくらいはなんてことはない。

「こっちは贅沢に『昇隼』を使ってるんだ。向こうも賑やかしになってありがたいだろうよ。だがまぁ、二週間か」

 ジュディットは腕組みをする。

「流石にそれまでに多少の進展は欲しいよな……関係を発展させるなら、会って話す以上の手はないが。まぁ、ユーグの奴、苦労するだろうなー」

 苦戦するユーグの姿が目に見えるようだ。ジュディットは面白がるように笑う。

「分かってるのか? 貴族のご令嬢に会うってのがどれだけ大変かってのがさ」


 ユーグが仮眠をとって目覚めた頃には正午近くになっていた。

「少し疲労が残っているか?」

 朝型の生活をしていたユーグにとって、今まで寝ていた時間に催される舞踏会は若干きつい。体のリズムが狂う。

「これは調整が必要だな……眠気でコンディションが落ちる」

 だが二度寝の誘惑に身を委ねるほどユーグは惰弱ではない。

 ユーグは簡素な朝食デジュネを食べながら今後の方針を考える。

(昨晩は標的を含めて、何人かと顔合わせを済ませた。ここからどうやって標的と関係性を発展させていくかだが……)

 そして愕然とする。ユーグは声を上げた。

「……待て! 舞踏会がなければ、フラヴィ嬢と会話する口実がないじゃないか!」

 理由もなしに女の子に話しかけるの恥ずかしい! なんて話では断じてない。もっと重大で深刻な問題だ。

 貴族男性が大して親しくない貴族女性と会話を持つには何らかの口実が必要なのである。他人からの紹介されたとか、お茶会に招待されただとか、あるいは舞踏会で男性の義務としてダンスに誘うだとか、そう言った口実である。

 そしてユーグにはフラヴィと会うための口実がなかった。

「舞踏会であまりにもすんなりと会話できたから失念していたな……確か次の舞踏会は二週間後だったか?」

 このまま次の舞踏会まで一度もフラヴィと会わなかったとする。果たして伯爵家令嬢は二週間もの間、騎士爵の男の顔など覚えていられるだろうか。

「……期待しない方がいいな。メモこそ取って貰ったが顔まではどうか分からん。多くの貴族にとって、騎士は空気のような存在だ。それに恋で身を滅ぼした騎士アルシバル曰く、『恋は熱いうちに打て』とも言う。となると何としてでもフラヴィ嬢と会わなければならないが、どうすれば」

 一番手っ取り早いのは家を訪問することだが、

「それにはフラヴィ嬢の口から在宅時間を聞かねばならない。在宅時間を教えると言うことは招待と同義。男が女性の家へと訪問する「口実」だ。これがない以上、家に押しかけるわけにはいかない……これが強制捜査の任務なら令状があれば事足りるのにな」

となると「偶然」出会うしかない。が、友人とばったり道で出くわすのとは訳が違う。相手は貴族令嬢なのだ。

「これに頼るしかないか……」

 ユーグは思案の末、懐から紙束を取り出した。任務の事前研修で使われたテキストだ。貴族の社交のマナーが一通り記されている。

 ユーグは紙束をバラバラめくり、目当てのページを探し出す。

「これか」

 開いたページには大きな見出しで「舞踏会以外で女性と出会う方法」と書いてある。ちなみにこのページの著者はジュディットだった。ユーグは正直胡散臭いと思った。

「いや、一応ジュディ副長も騎士団の任務で社交界には明るいはず……それに任務用の資料でふざけるほど分別のない人ではない、はず、かもしれない、多分」

 ぶつくさ言ったところで、ユーグには他に頼れるものがない。ユーグは覚悟を決めた。

「ふむふむ……」

ユーグはテキストを読みながら、フラヴィと会うための方法を考え始めた……。


「一、舞踏会と同じか、それ以上に重要な場所こそ歌劇場である。貴族達は劇場にオペラを見に来るのではない。客席の異性を見に来るのである」

「意味が分からないな」

 と、首をひねりつつもユーグはイスリ最大のオペラハウス、ルミエ宮へやって来ていた。

客席数およそ二千。階段状に並べられた通常の椅子席に加え、椅子席を取り囲むような配置のボックス席が三層に重なっている、文句なしの大劇場だ。

 鈍い黄金を基調にした内装に、椅子や緞帳の深紅が良く映える。夢のような空間だ。一つだけ難点をあげるとすれば、人が乗れそうな大きさのシャンデリアが落ちてこないか心配になってしまうくらいだろうか。

「満員じゃないか。たいしたものだ」

 ユーグはボックス席に座っていた。ボックス席の中でも人気の座席は有力な貴族が年間予約しており、外様には一生座ることが出来ない。が、ユーグは騎士団の伝手を使って比較的穴場の席を確保することが出来たのだ。

「とはいえ舞台からは遠く、角度も悪い。……が、それでもありがたい。経費で落ちるのだからな。そうでなければ観劇などするものか。『清貧こそ騎士の美徳である』」

 ケチなのではない。清廉な生き方をしているから財力がないだけである。本当に。

 オペラはまだ始まってはいない。幕が上がるまでの間、ユーグは客席の様子をうかがう。

「……ん?」

 ユーグは早速、違和感に気付く。観客の三割くらいだろうか、観劇用の眼鏡を使ってどこかを見ている者たちがいる。

「劇はまだ始まっていないぞ……一体何を見ている」

 眼鏡の観客達の視線は皆バラバラだ。ユーグはここでテキストの内容を思い出す。

「客席の異性を見に来る、か……どうだ?」

 そう意識すると、観客同士の視線のやりとりが矢印になって現れてくるようだった。何も難しいことはない。普段ユーグが敵の狙撃手の射線をイメージしているようにやればいいのだ。

「あれはチュイルリー伯爵夫人か。昨晩の舞踏会の主催者。多くの男性の目を集めている……が、逆に彼女に見られている男性は少ないな。哀れなことだ」

 行き交う視線は社交界の相関図のようで、観察しているとなかなか勉強になる。

 中には見知った顔もいて、ユーグが初めて踊った少女ルネも母親と共に客席に座っていた。目が合ったので軽く会釈を返すと、ルネは眼鏡を取り落とす。これにはユーグも苦笑いだ。

「少しそそっかしいところがあるな彼女は。……だが、フラヴィ嬢は見当たらない。角度的に見えない座席にいるのか、それとも」

 これでは何のためにルミエ宮に来たのか分からない。ユーグはより真剣に客席を見渡す。

そして見つけた、白百合のように美しい髪……

「あそこか! って、なんだ。ヴァルシール伯爵夫人か。フラヴィ嬢の母親。親子だけあって、外見はよく似ている」

 が、醸し出す雰囲気は全く別物、というより正反対だ。フラヴィがありのまま美しい少女だとすれば、ヴァルシール伯爵夫人はどこまでも艶めかしく作り込まれた女だった。

 夫人がこの劇場で男に向ける視線などその極みだ。あざとく、媚びと分かっていても逆らいがたい妖艶な視線。夫人に見られた男は鼻息を荒くし、逆にそっぽを向かれた男はこの世の終わりのように絶望する。

 ユーグは眉をひそめた。

「流石に露骨過ぎないか?」

 ヴァルシール伯爵夫人の態度は男に見られていなければ気が済まないと言わんばかりだった。人妻が若いツバメに熱を上げるなど珍しくも何ともないが、他の既婚者はもう少し上品に視線をやりとりしている。

「下手な男は容赦なく切り捨てるフラヴィ嬢とはまさしく正反対だ。……で。そのフラヴィ嬢はどこだ?」

 ヴァルシール伯爵夫人の周囲を探してみるが、どこにも姿が見当たらない。そうこうしているうちに緞帳が上がり、オペラが開演する。

 フラヴィを探すユーグは知らない。この時フラヴィは自宅の庭で剣舞のレッスンをしている事を。いくら客席を探したところで見つけようもないことを。

 ところでこの後ユーグは初めて見たオペラにドハマリする事になるのだが……それはまた別の話である。


「二、貴族達は小型の馬車をエリゼ大通りに走らせることを好む。もし、目当ての異性とすれ違えたのなら、挨拶と称して関係を深める好機である。……もっとも、馬車があるならば、だが」

 ということで、ユーグはキャブリオレと呼ばれる一頭立ての二輪馬車に乗って馬の手綱を握っていた。

「常々思っていたが、このキャブリオレに存在意義はあるのか? 二人までしか乗せられない馬車など一体何の意味がある? 普通に鞍で乗ればいいではないか」

と、「騎士」であるユーグはぼやく。

 が、貴族にとって馬車は時と場合によって使い分けるものなのだ。軽い散歩には二輪の無蓋もしくは幌馬車、遠くまで行く場合は四輪の有蓋馬車。場違いな馬車に乗っていると馬車を一台しか持っていない、つまり金なしと見なされ相手にされない。まして、馬車を持たない人間など虫けら以下である。

「このキャブリオレですら生活費十年分に当たるというのに」

 さもしい計算をしながらエリゼ大通りを行く。エリゼ大通りは馬車が何台もすれ違えるほど幅の広い通りだ。そこにずらりと並んだ馬車の大行列。そのただ中にユーグはいるのだった。

「ひどい渋滞だ。これでは馬車を駆る喜びも半減する。だが……ある意味合理的ではある」

 ユーグの目が鷹のように細められる。つまりこれは貴族達が自分の富を誇示するための場なのだ。馬車は高い。車自体も高ければ、健康な馬を維持するのにも財力がいる。

 良い馬車に乗ってすれ違う異性にアピールをする事こそが、この大行列の真の目的なのだ。

「そういう意味では無駄足か。このキャブリオレには騎士団の紋章が入っている。俺自身の持ち物ではないのは周りから見ても明らか。貴族達の気を惹くことは出来まい」

 先のルミエ宮ではオペラの幕間に他の貴族と話す機会もあった。が、馬車の価値がものを言うこのエリゼ大通りではユーグが貴族達と会話するのは難しそうだった。

「だったらせめてフラヴィ嬢の顔を見てからさっさと帰るぞ。退屈だし時間の無駄だ」

 と思うユーグだったが、この大行列のどこにフラヴィがいるか全く見当が付かない。

「………………もしかして、このまま会えずじまいか?」

 蹄の音はのったりと、大行列はまだまだ続く。

「一体、いつになったら帰れるんだ」

 頭を抱えるユーグは知らない。この時フラヴィは自宅の庭で剣舞のレッスンをしている事を。この行列の果てに、彼女の姿はないということを。

 ところで、この後ユーグはキャブリオレに乗るのがトラウマになってしまうのだが……それはまた別の話である。


「七、月曜、水曜、金曜のショーリュー公園は貴族達の闊歩する憩いの場。同時に、異性からの印象を確認する絶好の場でもある。また――」

「どうしたものか」

 これまでにルミエ宮、エリゼ大通り、更にその他の社交場を経ても、ユーグはフラヴィの横顔すら拝むことが出来ずにいた。

「けして収穫がないわけではない。この一週間で随分俺も貴族の生活に通暁した。必要な一週間だった。だが、結局フラヴィ嬢に出会えなければ口説くも何もない」

 ユーグは早急に次の策を練るべく、テキストを開く。

「ふむ」

 これまで通りテキストの内容に目を通す……かと思えば、

「この」

 いきなりパタンと閉じ、

「役立たずがぁあああああああ!!」

 思い切りテキストをぶん投げた。ユーグには珍しい、心の底からの咆吼だった。

「一体何なんだ! フラヴィ嬢は冬ごもりの熊か何かか!? イスリの都で貴族が集まるような場所は全て回った! なのにどうしてどこにも一度も顔を見せない!?」

 運が悪い訳ではないはずだ。例えばこの一週間でヴァルシール伯爵夫人を見ない日はなかったし、フラヴィと同年代のルネも三度は見かけた。ということは特に約束などしなくとも、大抵の女性には「偶然」出会えるものなのだ。

 となるとフラヴィ嬢が極度の出不精なのだと考えるほかない。

「舞踏会でもフラヴィ嬢は社交を楽しんでいるようには見えなかったな。元々一人を好む質なのか……チッ、なかなかどうして難物じゃないか」

 ユーグは舌打ちしながら投げ捨てたテキストを拾い上げた。先程は読み飛ばした部分に改めて目をやる。

「ショーリュー公園は貴族達の闊歩する憩いの場。同時に、異性からの印象を確認する絶好の場でもある。また広場で剣舞の型を披露すれば、もれなく周囲からの視線を浴びることになるだろう…………何、剣舞?」

 剣舞という単語にユーグは目を惹かれテキストの先を読み込む。

 なんとショーリュー公園では抜剣が許されているらしい。というより、そもそもが貴族達が剣舞を練習するための場所として作られた公園だという。流血沙汰が起こらないよう、騎士や親衛隊による巡回警備が行われるという徹底ぶりだ。

「知らなかった。俺はイスリ外に派遣されるばかりで、イスリ都内での警備の任務はほとんどやったことがないからな……」

 だがこれは朗報だ。剣舞のための場所にならばフラヴィ嬢も現れるかも知れない。ユーグは剣舞用の剣をひっつかんで自室を飛び出した。


「ゆ、ユーグ卿!? ど、どうしてこのショーリュー公園に!? まさかここで何か大変な事が……!」

「俺がここにいるのは任務のためだ。だが、卿が危惧しているような事態が発生したわけではない。卿は普段通り巡回を続けよ」

「りょ、了解しました」

 公園を警備していた騎士の狼狽を収めると、ユーグはそのまま園内を歩く。

 居心地の良さそうな場所だ。派手さはないが、植え込みは丁寧に手入れがされ、舗装路の掃除も行き届いている。そのためか、散歩をする人々がちらほら見受けられた。

 が、ユーグは散歩をしに来たのではない。木立の間の路を抜け、噴水のある広場へと出るとそこには。

「まるで騎士団の合同稽古のようだな」

 ユーグはそう評しながらも、自分のたとえが適切でないことを分かっていた。

 確かに一定の間隔を保って剣の素振りにいそしむ人々は騎士団の鍛錬場でも見ることが出来るだろう。だがそこにいた男女達は着飾っていた。

 舞踏会での装いとは違って皆シンプルな外出着だ。しかしシンプル故に洗練されたセンスが如実に表れる。特に外出時のマナーとしてかぶる帽子が目を惹く。男性ならシルクハットや中折れ帽、女性ならフリルが主体のボンネットなどなど。

 ユーグは広場にさっと目を走らせ、その中にフラヴィがいないのを確認する。

「今はいないか。だが構わない。剣なら何時間でも振っていられる。待ってみるさ」

 ユーグはすらりと剣を抜いて構えた。相手はいない。一人で行う型稽古である。

まずは最も基本的なステップから一つずつ剣舞の動きを確認していく。

(俺は騎士だ。たとえ剣術ならぬ剣舞でも、剣と名の付くものでそう簡単に負けてたまるものか。型を体に刻み込んで反応の遅滞を減らさなくては……)

 ユーグは己の剣舞が十六歳の貴族令嬢と互角であることに存外悔しさを感じていた。もともと稽古は苦にならない方だから、一人で繰り返す型にも自然と熱が入る。

(剣舞は美しさ優雅さ優先で実戦は目的としない。が、先入観を捨てて見ると、型の基本設計自体は堅実だ。一対一の決闘に特化した剣術と考えればよく練られている。かの女剣士を負かそうとした国王の労苦の結晶か)

 ユーグはついつい剣舞の奥深さに熱中してしまう。そのためユーグの剣捌きをうっとり眺める女性達にも、舌打ちしながらやっかむ男達にも気付かない。

 だからユーグにとってそれは不意打ちだった。

「……え?」

 勇ましい三角帽トリコーンを乗せた白百合のプラチナブロンドがひらひらと舞っている。きらめく斬撃は風のように速く、巌のように重い。

 その少女はまさしくフラヴィ・ド・ヴァルシールだった。フラヴィはいつの間にかユーグの近くで剣を振っていたのだ。この一週間ずっと追い続けた少女の姿にユーグの心臓は跳ね上がる。

 が、フラヴィの方はユーグが視界に入っていないような様子で剣を振り続けている。やはりユーグのことなど覚えていないのだろうか。ユーグは落胆を感じながら型を続ける。

が、一分と立たないうちに気付いた。

(間違いない……フラヴィ嬢は、俺の型に合わせている!)

 フラヴィとの間には二十歩近い距離がある。が、ユーグとフラヴィの型はまるで実際に剣を合わせているかのように同期していた。それに気付いた時、ユーグは思わず小躍りしそうになった。

(よし! 彼女は確実に俺を覚えている! 手探りで望んだあの舞踏会、剣舞は間違いじゃなかった!)

 それは難解な謎かけ(シャレード)を解いた時の喜びに似ている。任務達成へ小さな一歩を踏み出せたというささやかな達成感だ。断じて、美少女に顔を覚えられていて嬉しかったなどという軽薄な感情ではないのである。

 だが軽やかな気分はそう長く続かない。ユーグはすぐに思い出した。あの夜フラヴィが手帳に殴り書いた「必ずブチのめす」の文字を。

(……い、いや! 完全に忘れられているよりはましだ!)

 しかしどうしたものか。まさか剣を振っている最中に話しかけるわけにも行かない。

(いつからフラヴィ嬢があそこで剣を振っていたのかは分からないが……待つほかないか)

 その場に突っ立って待つのも不自然だ。従ってユーグはそのまま型稽古を続行することになる。しかしユーグの型が続く限り、フラヴィも剣を休めない。

(だが、いつかは剣を収めて休むだろう。その時に話しかければいいか……)

 とユーグは暢気に考えていた。

 そして二時間後。

 ユーグとフラヴィはまだ型稽古を続けていた。

(ま、まだやるつもりなのか)

 周囲で剣を振っていた他の貴族達ももう三度は入れ替わっているというのに、フラヴィは一向に休もうとする気配がなかった。

(騎士団の稽古で鍛えた俺ですら汗ばんできたぞ。なのにフラヴィ嬢は何故休まない!?)

 お嬢様であるフラヴィ嬢の体力はもう限界のように見える。大分動きが鈍くなってきていた。しかし、

「ここからが……本番ですわ……そう、息が出来なくなってから……頭が真っ白になってからが……! ビーフ・オリーヴの後の七面鳥みたいに……!」

 ブツブツつぶやきながら一心不乱に剣を振り回している。

(何という執念か。一体何がフラヴィ嬢を突き動かすんだ!?)

 踊り続けるフラヴィの目はらんらんとしている。そしてその目が時折ユーグへと向けられるたびに、

「……か……ず、ブチ……す……」

 という怨嗟の声が聞こえてくるのだった。それを聞いてユーグは思い当たる。

(まさか、俺への対抗心なのか?)

 ユーグが内心悔しさを感じていたように、フラヴィの方もユーグに対抗意識を燃やしているのだろうか。

 身の程知らずとは思わない。たとえユーグが『昇隼』と名高き達人であっても、剣舞においてはフラヴィと互角なのだ。フラヴィにはユーグに張り合い、嫉妬する資格が十分にあった。

 だがだからこそユーグはフラヴィに引導を渡してやらねばならない。

(フラヴィ嬢、確かに貴女の剣舞は素晴らしい。技を持って俺と張り合うというのなら受けて立ちましょう。だが今貴女が挑んでいるのは体力勝負。武人である俺に対してだ)

 万に一つも勝ち目はない。なのにあの伯爵家令嬢は疲労に乱れたはしたない姿を公共の場で晒してでも剣を振ろうとしている。

(終わらせてやるのが、俺の役目か)

 ユーグは剣を振る速度を速める。フラヴィを絶望させ、剣を収めさせるために。

「まだ……まだですわ……!」

 二倍速にする。

「あ、ああ……」

 三倍速にする。

「…………」

 そして四倍にしようとしたところでフラヴィはようやく剣を止めた。振るえる手つきで剣を鞘に戻すと聞こえるか聞こえないかの声で、

「お、覚えてらっしゃい……!」

 と呟くと足早に出口に向かい、馬車に乗って去ってしまった。

「……ふう。やっと諦めてくれたか」

 ユーグは額の汗を拭った。ユーグにとっても二時間の型稽古はそこそこいい運動である。

「だが見上げた根性ではないか。己の限界に挑みながらも剣を手放さない……そうして重ねた努力こそが、あの美しい剣舞を支えるものなのだろう。これは俺も負けてはいられないな」

 気持ちを新たにしてユーグは型稽古に戻ろうとしたが、はたと気付く。

「せっかくフラヴィ嬢と会えたのに、会話していないではないか……」

 何という間抜け。剣に熱中して当初の目的を忘れるとは。

「『剣こそ騎士の本懐』……俺が騎士でありすぎたが故の失態だな」

 ということにしておくユーグ。しぶといフラヴィ相手にムキになったとか、そういうことでは断じてないのである。

 が、思わぬ出会いもあった。

 中途半端に終わってしまった型稽古をどうせならやりきろうと再び剣を振り始めたユーグに声がかけられる。

「いやはや、素晴らしい剣舞だ」

「おや、貴方は……?」

 ユーグが振り向くと、そこには身なりのいい紳士が立っていた。見覚えのない男だ。男は優雅に一礼をして見せた。

「君がユーグ卿だね? 私のことは知っているかな。いや、知らなくても構わない。むしろ好都合。恐縮されても困るからね。……そうか、君か。私の依頼を担当してくれるのは」

 男の発言にユーグの目が鋭さを増した。

(依頼だと?)

 ユーグが今請け負っている案件は「恋愛任務」のみ。もしや、この謎の男はユーグの「恋愛任務」について何か知っているのだろうか。

 男の言葉を一言一句聞き漏らすまいとするユーグの前で、男はなおも続ける。

「確かに君ならあの子を動かせるかも知れないね。……となると私は思ったより大変な頼み事をしてしまったようだ。勇名轟く『昇隼』を一貴族の極めて個人的な悩みの解決に使おうというのだから」

「……恐縮です」

「ああ、そう警戒することはない。私は君に敵対するものじゃない……本当はそんな言い方おかしいんだけどね。だって君にやってもらっている依頼は本当に個人的で些細なものなんだ。時間さえあれば、私自身でどうにかすべき問題。そんなものについて敵対とか、そういうのは大げさすぎるだろう?」

 一応、男はユーグの味方でいるつもりのようだ。が、それを鵜呑みにするほどユーグは間抜けではない。発言の真意を探ろうと男の顔をうかがうユーグだったが、そこには穏やかな表情が張り付いているばかりだ。

「今こうして君と話しているのは偶然君を見かけたからだ。私は普段は多忙でね、依頼についても君に全面的に任せるつもりでいたが……『昇隼』の手をあまり煩わせても後が怖い。割増料金を取られそうだ。ということで君の助けとなるよう、これをあげよう」

 男は胸元から一枚のカードを取り出し、ユーグに差し出してきた。ユーグは表向き謹んでこれを受け取る。

 カードには「ヴァルシール伯爵夫人」という名前と住所、在宅時間がシンプルに記されていた。

「これは……」

「見ての通り、ヴァルシール伯爵夫人の名刺だよ。名刺は社交場でまた流行り始めていてね。明日のその時間、ヴァルシール家を尋ねてみるといい。彼女が小さなお茶会を開いているはずだ。そこに行けば、フラヴィと話すことも出来るだろう……用はそれだけだ。慌ただしくて済まないが、私はもう行かせてもらうよ」

 男はまた一礼し、ユーグが引き留める間もなく去って行った。

「一体何だったんだ?」

 ユーグは一人、男から貰った名刺を眺める。

「あの男の正体は分からないが……」

 少なくともこの名刺がフラヴィと会話する「口実」になるのは間違いない。

 ユーグに選択権はなかった。


 ヴァルシール家の邸宅はエリゼ大通りからほど近い、貴族用住宅地にあった。

 ちょっとした集合住宅並の大きさで、庭まで備わっている。

「これが別荘だって言うんだからな」

 ヴァルシール伯爵はスラフ王国の北方に領地を持っているから、当然そちらにも居城を持っている。一方、眼前の邸宅はイスリで開かれる議会や、社交界に出席するための拠点だ。ヴァルシール伯爵に限らず、領地持ちの貴族は屋敷を二つ以上持っているのが普通だった。

 門の前には立派なお仕着せの使用人が立っており、使用人に名刺を見せるとユーグはすぐさま邸宅の敷地内へと案内された。

 日和がいいからか、茶会は庭で開かれているらしい。青々とした芝の上にテーブルや椅子が置かれ、十数名の参加者がティーカップ片手に談笑していた。勿論、その中心にいるのはヴァルシール伯爵夫人だ。

「まずは伯爵夫人に挨拶をしなければな」

 この茶会は招待状が出される正式なものではない。茶会のことを知っていて、名刺を持っている人間なら誰でも参加できる小規模な会だ。

 社交好きのヴァルシール伯爵夫人を訪ねてくる客は多い。彼らに一人一人お茶を出すよりは、茶会という形でもてなす方が双方にとっていいだろう……ということらしい。

 挨拶の機を見計らっていたユーグだったが、なんと夫人の方から声をかけてきた。

「まぁ、意外な来客だわ。皆さんご覧になって。『昇隼』のユーグ卿の登場よ」

 一斉にユーグを射貫く視線の数々。だがユーグはたじろがずに、

「お声がけいただけるとは光栄です、マダム。俺ごときがこのような場に来るのはどうかとは思ったのですが……」

「そんなことおっしゃらないで。私、カードを配る相手は選んでいますから。どなたかからの紹介なのでしょう? でしたら貴方も間違いなく私の客人。どうぞこちらにおいでになって、武勲などのお話をお聞かせ下さいな」

 しなを作って手招きする夫人に対し、殺気立つのは夫人を取り巻く男達だ。

「くっ!? 下賤な騎士爵の若造が! 我が女神の気を引きおって生意気な」

「落ち着かれよ、ボリア卿。貴方はそうやってすぐ感情を露わにする。だから彼女から愛想笑いしか授かれないのだ。それと貴方の、ではなく、私の女神です。お間違えなきよう」

「おやおや、お二人とも情熱的でいらっしゃる。ですが優雅さを忘れておられるご様子。ここは私の度量を見せるべき所……ユーグ卿、お気になさらず私のめが……ゴホン、伯爵夫人へ挨拶なさるがよろしい」

「え、ええ。お気遣いありがたく……」

 ユーグは乾いた笑いを浮かべる。伯爵夫人とは一言二言挨拶程度にしか話さないつもりだったのだが。流し目の夫人に、嫉妬に狂う男達。どう考えても挨拶程度ではすまなさそうだった。

(これも任務、無心で、無心で……)


 なんとか「挨拶」を終えてユーグは自由の身となった。これでやっとユーグは本来の目的に戻れる。

「さて、フラヴィ嬢は……」

 いた。庭の片隅の置かれたテーブルで、優雅にビスケットをつまみ薄桃色の口元へと運んでいる。

 フラヴィとの言葉での会話は一週間ぶりだ。そのせいか、ユーグは妙に緊張していた。

(ここまで長かったからな……気負っているのやもしれん)

 しかしそこまで肩肘を張る必要がないとも分かっていた。ユーグは社交用の笑みを取り出して、丁寧に顔に貼り付ける。

(舞踏会や公園でのことを踏まえると、フラヴィ嬢が俺に多少なりとも興味を持っているのは確実。ど、どんな興味かはともかく……)

 全く相手にされないと言うことはないはずだ。いざ、ユーグはフラヴィに話しかける。

「フラヴィ嬢、またお会いしま――」

「ごめんあそばせ、後にして下さる?」

 全く相手にされなかった。

 硬直するユーグ。何せフラヴィの周りには誰もいないのだ。完全に暇を持て余しているように見える。その状況での対話の拒絶、それはユーグという存在への拒絶に等しい。

(な、何故だ!?)

 全く予想外の事態だ。ユーグは慌てて、

「何か、俺に無礼が……」

「いいえ」

「では、一体……」

「くどいですわ。薄めないオルジャ(アーモンド・シロップ)みたい」

 フラヴィの態度にはにべもない。こうなるとユーグはお手上げだ。

(た、確かにフラヴィ嬢は愛想が良い方ではなさそうだが……それでも舞踏会では話せたし、二度も踊ったじゃないか!?)

 フラヴィは何故か空腹の獣のように気が立っているようだった。さっきからユーグの方には一瞥もくれず、お茶を続けている。フラヴィは先程までかじっていたビスケットがなくなったので、ケーキスタンドから帝国風プディングを取って、これまた優雅に口に運ぶ。

その間にユーグは頭を猛回転させる。

(考えろ……考えろ……俺は何をしくじった? どうすれば挽回できる? そもそもフラヴィ嬢の拒絶の意図は……!?)

と、その時である。

 ぐぎゅるるるー、と間の抜けた音をユーグは聞いた。

(……は?)

 ユーグはこのような音を出すものを一つしか知らない。腹の虫だ。

(無論俺の腹からじゃない……)

 ユーグとフラヴィは他の貴族からは離れている。となると、発生源は一つしか考えられなかった。

(いや……まさかな?)

 ユーグは嫌な汗をかきながら抱いた疑惑を否定する。

 妖精のように可憐な貴族令嬢とて人間である。腹も空けば排泄もする。

 だがフラヴィは先程食べていた甘ったるいビスケットに加え、プディングをつついている真っ最中なのだ。なのに、腹の虫がなるなどあり得るのだろうか。

(幻聴だろう)

 そう考え直そうとしたが、気付いてしまう。テーブルの上に置かれたケーキスタンドや大皿の大半は、

(空、だと……)

 脳天を木剣で打たれるような衝撃の事実。ユーグは咄嗟に他のテーブルへと目を走らせた。各テーブルには五人が三十分談笑しても尽きないだけの紅茶と菓子類が置かれていたはずで、実際他のテーブルにはまだまだ菓子が残っている。

 フラヴィのテーブルも皿の大きさ、数は同量だ。だというのに、菓子の量がやけに少ない。

(ここにあったはずの菓子は……一体どこに行った!?)

 そして極めつけに、再度のぐぎゅるるるー。

「…………」

「…………」

 二人の間を気まずい沈黙が支配する。ユーグは恐る恐る、

「……フラヴィ嬢、今、その、カエルが潰れたような音がしませんでしたか?」

「存じませんわ」

「そうでしょうね」

(そうだよな。俺の幻聴に違いない…………って、ごまかされんぞ!)

 何食わぬ顔でプディング最後の一口をすくい上げようとしているフラヴィだが、フォークの先がぷるぷる震えている。

 フラヴィと目が合った。

(殺気!?)

 思わず剣の柄に手が伸びるような寒気である。キッ! とまなじりを吊り上げた表情は可愛らしいはずなのだが、冷や汗が止まらない。

(へ、下手なことは言えないな……ぶちのめされる)

 が、これでフラヴィの不機嫌の原因が空腹のせいだと分かった。三段重ねのケーキスタンドのうち二段を空にしても飽き足らぬ食欲とは恐れ入るが。

(しかしそれなら悪いことをした)

 人間、ひもじくなると余裕がなくなるものである。ユーグは飢えを経験したことはない。だが子供の頃、ジュディットにさんざんに稽古でしごかれた末、「下手くそ! 罰として素振り五千本するまで夕食抜き!」をされた絶望は知っている。もっとも今ではそのしごきに感謝している。だから時折ユーグがジュディットの年齢をイジるのはこの時の怨恨が理由、などということは断じてないのである。

 とにかく空腹の時怒りっぽくなるのは自然なこと。だからもうフラヴィの冷たさも気にならない。

(むしろ意外な一面に……。おや、俺は今何を考えていた? とにかくせめてもの詫びに……)

 ユーグは考えがあって、一旦フラヴィのテーブルから離れることにした。


 ユーグが席を外してからも、フラヴィは菓子を食べ続けていた。これだけ見ると食い意地が張りすぎているように思えるかも知れない。しかし擁護するなら、フラヴィは極度の空腹にあってもがっつくような下品な真似はしなかった。

 一口で食べきれるようなビスケットもかじるように少しずつ、ケーキを切り分けるフォークはゆったりと、あくまで外見は貴族然として優雅にお茶をしている。

 ユーグとの会話を拒絶したのはこれが理由だった。愛想がない、というのも良くないが、品性がないのはもっと悪い。ゆっくり優雅に食べなくてはならないが、茶会の時間は限られている。誰かと話せば話すほど、食べられる菓子が減る。

 プディングの次に取ったカラメルブリュレを攻略した後、フラヴィはティーカップに手を伸ばしかけ、止める。カップもポットも、とっくに空になっていた。

 いかに空腹だろうと、飲み物なしで甘ったるいスイーツを食べ続けられるほどフラヴィの舌は子供ではなかった。野菜のサンドイッチ等があれば良かったのだが、その手のものは真っ先に食べ尽くしていた。

 お腹が減った……けれどお茶がない……でもやっぱりお腹が減った……。待っていてもお茶はやってこない。使用人はこの茶会ではほとんど動かないからだ。他のテーブルに移動する事は出来ない。フラヴィの母がそれを望まないからだ。

 仕方ない、これ以上は夕食まで我慢しよう。そう決意したフラヴィだったが、

「……え?」

 フラヴィは目を見張る。

 いつの間にかティーカップが紅茶で満たされていた。


「どうして……」

 呆然とするフラヴィの背後に、ユーグは控えていた……新しいティーポットと共に。

 フラヴィは今日初めてユーグの方へ振り向いた。

「他のテーブルからポットを取ってくるなんて。そんなの出来るはずがありませんわ! お母様や他の方々に見咎められて……」

 驚愕を隠さないフラヴィに、ユーグはふっ、と口元を緩める。

「ご安心を。誰も気付いてはおりませんので」

「……そ、そうですの?」

「ええ。気配を断ち、密やかに目的を遂行する。これも騎士の仕事ですから。ポットをすり替えるなどと言うのはさして難しいことではありません」

 実際にはユーグだから出来たことなのだが、それは今関係のないこと。

「どうか俺のことはお気になさらず、貴女はお茶の時間をお楽しみ下さい」

 一礼するユーグをフラヴィは目をぱちくりさせながら見つめる。が、やがて目を伏せると

「……ユーグ様、こんなことをしていただいても、私にはヴァルシール伯爵夫人への口利きは出来ませんわよ」

「はい?」

「お母様は私のことを何とも思っていませんから。お母様に何か用があっていらしたのですわよね? その仲介を私にさせたくて、お茶を注いで下さったのですわよね?」

(ああ、成る程。彼女はそういう風に受け取ったのか)

 ユーグがフラヴィのために茶を取ってきたのは夫人のためではない。「恋愛任務」のためでもない。

 ただ「物語の騎士ならばそうする」というだけのこと。いわば純粋な親切心だ。だがフラヴィの方はまさか自分に打算なしの親切が向けられるとは思ってもみなかったらしい。卑屈と言えば卑屈だが、貴族社会に生きていれば仕方ないのかも知れない。

「いいえ、用という程のことは。単にこの会のことを聞き及んだので、ご挨拶に伺っただけですが」

「そうですの? てっきり任務か何かだと。まさか貴方のような方があのイス・ワイヤルを歩いていそうな女に個人的な興味があるとは思えませんし……」

 ちなみにイス・ワイヤルはイスリの歓楽街の名である。

(母親を娼婦呼ばわりとは……仲が悪いのだろうか)

「でも、だったらどうして私などに親切にして下さるのですか?」

「ふむ」

 フラヴィの翠玉の双眸は警戒心そのものだった。ユーグは慎重に言葉を選ぶ。

「『義を見てせざるは騎士に非ず』、ということでいかがでしょうか。俺が手本にする騎士道物語の一節ですが」

 任務のことは伏せたが、一応はユーグの本心だった。

「そう。腑に落ちませんわ。油の悪いカツレツみたい」

「……そうですか」

 だが、フラヴィはくすりと笑った。

「でもそういうことにしておきましょうか。お気遣い感謝いたしますわ、私はユーグ様の厚情に報いる何物も持ち合わせておりませんが……」

 フラヴィの花の香りがするような笑顔をユーグは少し意外に思った。

(なんだ。フラヴィ嬢はこのような顔も出来るのか)

 礼儀としての愛想笑いや、剣舞の時に見せた好戦的な笑みとは違い、何とも柔和な表情だ。

 こんな顔をする少女が、「必ずぶちのめす」などと乱暴なことを思うはずがない。ユーグは公園でのことをすっかり忘れた。

 これは行ける。何が行けるのかは分からないがとにかく行ける。そう考えたユーグは一歩踏み込み会話のつなげてみることにする。

「はは、紅茶を注ぐくらいのことで見返りを得ようとは思いません。ただ、もし良ければ貴女のことをお聞かせ願いたいですね。剣舞と剣術は違うものながら、貴女ほどに剣の扱いを知るものは騎士団の中でも半分程度です。一体どなたに剣舞を習ったのです?」

 すると一転、フラヴィは鼻で笑うような顔になる。

「まぁ、私の話の好みをよく分かってらっしゃるのね。嬉しいですわ。まるでマトンのロインみたい」

(し、しまった、態度があざとすぎたか……)

 フラヴィの興味を引けるような話題を選んだつもりが、逆に相手の警戒心を呼び戻してしまったらしい。フラヴィにはユーグが自分に取り入ろうとしているように見えたのだ。

「でも少し悲しいかしら。ユーグ様には私が剣舞の話さえしていればご機嫌が取れるような、そんな女に――」

 三十秒後。

「ユーグ様やはり『舞い散る白露』の斬り下ろしの際には薬指を締めて支点にすると冴えが増すと思うのですけれどいかがかしら、で、それに対して相手が『つむじ風』で返した時については臍下に力を入れて腕を半月状にして真正面から受けるようにした方が泰然として素敵ではないかしらと私は思ったりするのですけれど、でも白鳥の足取りのようにいなしてしまうのも悪くありませんわね、一体どうするのがいいかしら、ねぇユーグ様はいつもどのようになさっているのどうしたらあそこまで質実な剣が……」

「し、質問は一つずつお願いできませんか!?」

 フラヴィの質問攻めに、ユーグは完全に防戦一方だった。

(くっ……これが中身のない会話なら適当に合わせることも出来るが)

 しかしフラヴィの質問は内容的に重たすぎた。フラヴィは剣舞においてユーグと互角だ。それはつまり単純に「剣を振る」「足を捌く」等の動作だけをみればフラヴィは練達の剣士と比較しても遜色ないということだ。

(剣士の力を二つに分けるなら「戦術」と「体の動かし方」となるが、剣舞で問われるのは「体の動かし方」の方だ。こちらについてはフラヴィ嬢は俺とほぼ同等……!)

 そんな実力者からの剣に関する質問に適当に答えるわけにも行かず、ユーグは必死だった。もはや戦いである。一通りフラヴィの質問に答え終わった時、ユーグは安堵を禁じ得なかった。

「いや、フラヴィ嬢は本当に勉強熱心でいらっしゃる。今でも剣舞はお達者なのに、まだ上を目指そうとは」

「当然ですわ。ユーグ様をぶちの……失礼、ユーグ様のような剣を振るためにはやはり日々の積み重ねが大切ですもの」

「はは……。ほ、本当に剣舞がお好きなんですね」

 しかしユーグのこの言葉にフラヴィは頷かなかった。

「好き……好きなのかしら。よく分かりませんわ」

「?」

「確かに剣を振るのは楽しいけれど、でもそれは剣舞が好きだからではなくて……」

 フラヴィの剣に対する思いは複雑なものらしい。ユーグはそれを敢えて聞き出すつもりはなかった。

「……また紅茶が切れてしまいましたね。取って来ましょうか?」

「いいえ、もう十分です。ユーグ様はそろそろお帰りになった方がよろしいと思いますわ。お母様がまた貴方のことを思い出す頃合いですから。捕まっては大変ですわよ」

「ヴァルシール伯爵夫人とお話しするのが嫌というわけではありませんが、確かに長居をしたようです」

 この手の茶会の滞在時間の目安は三十分。だがユーグが来てからもう一時間経つ。

「名残惜しいですがお暇させていただきます。ごきげんよう、フラヴィ嬢」

「ええ、ユーグ様も」

 ユーグは一礼して席を離れる。去り際、フラヴィ嬢が言った

「またいらっしゃるといいですわ」

 その言葉に胸を高鳴らせながら。

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