第一章
午後十時を過ぎてなお、ダンスホールは真昼のように明るかった。
時間が時間だから、窓からは一切の光が入ってこない。ホールを照らしているのはろうそくの小さな灯火だ。何十本ものろうそくを掲げ持つシャンデリアが、天井に十基以上。そこから投げかけられた無数の光が、鏡のように磨き上げられた大理石の床で反射し、ホールを贅沢な光できらめかせていた。
ホールが贅沢なら、そこに集う招待客の装いも贅沢だった。男も女も豪奢に着飾って、これから始まる舞踏会を心待ちにしていた。
「……まさか俺がこんな場所に来ることになるとはな」
ホールの片隅で様子をうかがっていたユーグ・コンラディンは居心地悪そうに呟いた。
二十歳前後の青年であるユーグの身なりは決して悪くない。真っ白なボトムスには汚れ一つ無く、黒地のダブレットにはふんだんに金糸の刺繍がなされている。騎士の正装だ。一般庶民が見ればため息をついてユーグをうらやむだろう。
だがそんなユーグの服装もこの場では見劣りした。何しろこの場の男ときたらセンスが研ぎ澄まされている。シンプルな燕尾服の内側に絹サテンのベストを合わせる紋切り型だが、ベストの柄やネクタイの色、極めつけにアクセントの薔薇……それらの合わせがこの上なく洗練され、はっきりとした個性を生み出している。
男ですらこうなのだから、女性達は言うに及ばない。華やかなイヴニングドレスは百人百様。この世のものとは思えない光景に、ユーグはただただ圧倒されていた。
「ここが今回の戦場か。この任務には難儀しそうだ……おっと、そろそろ始まるか?」
招待客でひしめくホールだったが中央にはぽっかりと空間が空いており、そこに妙齢の女性が進み出た。舞踏会の主宰者であるチュイルリー伯爵夫人だ。彼女のパートナーとおぼしき男性も同伴している。チュイルリー伯爵夫人は招待客に向けて挨拶を述べ始めた。
特に中身のある挨拶ではない。無駄な形式で膨れ上がった、定型文の塊だ。それが延々と続いた末、ようやく挨拶が締められる。
「……ではこの良き会の始めに私たちのダンスを一曲、ご笑覧下さいませ」
チュイルリー伯爵夫人はドレスの裾を軽くつまみ上げ一礼した。
鳴り響く拍手の中でチュイルリー伯爵夫人とパートナーの男性が向き合う。
数秒の沈黙の後、チュイルリー伯爵夫人は腰に佩いていた剣を抜き放った。
応じて、パートナーの男性も抜剣する。両者はお互いへ剣の切っ先を突きつけるように構えた。さながら決闘のようだ。
だがここは舞踏会。オーケストラが奏で始めたメヌエットが響き渡るダンスホールの中心で、両者はお互いに向かって斬りかかった。
剣と剣がぶつかり甲高い金属音を立てる。二度、三度、幾度なく切り結ぶ男女を見てユーグはもう一度だけため息をつく。
「全く舞踏会とは。どうして俺が……」
チュイルリー伯爵夫人達の剣戟を眺めながら、ユーグは自分がこの場に参加するに至った経緯に思いを巡らせた。
一ヶ月ほど前のことである。
スラフ王国騎士、ユーグ・コンラディンは任務を達成し、イスリの都へと帰還した。
イスリはスラフ王国の中で最も高貴で、最も華やかな都だ。
王の住まう宮殿を、臣下の貴族達の邸宅が取り囲んでいる。そしてその更に外側にはドレスの仕立屋やアクセサリーの細工師など、貴族の生活を支える一般庶民達が住んでいた。
イスリでは何もかもが王侯貴族を中心に回っているのだ。
だから当然「王の剣」たるスラフ王国騎士団の本部もイスリにある。
コンコンとユーグは騎士団本部は騎士団長室のドアをノックした。
「入れ」
ニスの塗られた重厚な扉は作りが良く、軋み一つ立てずに開いた。ユーグは部屋に入るとすぐさま敬礼をする。右手の甲を胸に付ける、スラフ騎士の略式礼である。
「ユーグ・コンラディンただいま帰還した」
「ご苦労」
団長室の最奥、赤革張りの椅子に座っていた女がねぎらいの言葉を返す。
女の名前はジュディット、通称ジュディ。騎士団の副長で、つややかなブルネットの髪をした麗人だ。中性的な凜々しい顔立ちと剣士としての技量から男女の双方から人気を集めており、ジュディットと会話した騎士は一日中幸せな気分でいられるという。
しかしユーグはその美人副長と対面してもかすかに眉を上げただけだ。
「ジュディ副長がその椅子に座っていると言うことは団長は不在なのか?」
「色々とお忙しいお方だからな。雑務は私が引き受けるしかなかろうよ。ユーグ、任務の報告を」
「了解」
今回ユーグ卿に与えられた任務は、イスリから少し離れた領地で発生した連続殺人事件の犯人を拘束することだった。
騎士は王家に仕える凄腕のエージェント達であり、この程度の事件で動員されることはない。しかし事件の犯人が町を管理する子爵家の息子とあっては話は別だ。
子爵は実質上の領主。だから領民達はその息子が連続殺人鬼だと知っていても逆らうことは出来なかった。
だからユーグは領民に代わって正義を執行した。息子を逮捕したのである。
王命を受け王国のために外敵を滅ぼし、内患を切除する騎士はまさに「王の剣」。従って騎士には相手が貴族だろうと拘束できるだけの権限があった。
「子爵の邸宅に出向いて被疑者に出頭するよう求めたが、穏便には行かなかったな。私兵を差し向けてきた。二十人ほど気絶させる羽目になったが、結局は被疑者も投降した。いつも通り、つまらない任務だった」
今回の任務で派遣された騎士はユーグ一人である。つまりユーグはたった一人で貴族お抱えの兵士たちに勝利したことになる。しかも相手を殺傷せずに。
それほどの大活躍をしておきながら「つまらない任務」と言い放ったユーグに流石のジュディットも苦笑する。
「お前ね、そのつまらない話を劇作家にでも聞かせてみろ。たちまち歌劇の脚本が出来上がるぞ」
「褒めすぎだ。『聖騎士アルガスの勲』のように竜の首級でも落としてこなければオペラ一本には足りないだろう」
四百年ほど前に成立した騎士道物語を引き合いに出すユーグ。ユーグが騎士道物語を愛好しているのはジュディットも知っている。ジュディットは口元を緩めつつ返した。
「ああ、それは良いな。もしかしたらお前なら出来るかもしれん。なんならついでに聖杯でも見つけてくるか?」
ジュディットの冗談にユーグは淡々と返した。
「任務なら、探してみせよう」
竜も聖杯も、実際に見たものは一人もいない。だがそれでもジュディットはユーグの言葉を笑い飛ばすことが出来なかった。
ユーグ・コンラディン、弱冠十九才にしてスラフ王国騎士団のエースの座を不動のものにしつつある青年。今はまだ未熟さもあるが、いずれはジュディットの想像など軽々と超えていくだろう逸材だ。それこそ、騎士道物語の主人公のような。
ジュディットは鳳雛の騎士に底知れなさと頼もしさを感じつつ、話題を切り替える。
「ま、とにかく今回の任務もつつがなく終わったようで何より。……では早速で悪いが、次の任務の話をしようじゃないか。お前を遊ばせておく余裕は今の我々にはないんだ」
「気に病むことはないジュディ副長。『難行を悉く打ち破る者、これを騎士という』。どんな任務でも俺は成功させよう。……だが、贅沢を言うのならもう少し刺激的な任務が欲しい」
「ほう、言うじゃないか。喜べ。今回の任務はかなり刺激的だぞ。まぁ、これまでとは少し毛色の違ったものになるが」
「聞かせてくれ」
先を促したユーグに、ジュディットは勿体付けてその任務を言い渡す。
「――恋愛だ」
「…………今、なんと?」
全く想像していなかった単語に、ユーグは思わず聞き返していた。だがジュディットの発言は変わらない。
「だから、恋愛だよユーグ。男と女の、ある意味どんな殺し合いよりも刺激的なゲーム。より具体的には言うとだな。とある伯爵家の令嬢を口説き、魅了し、彼女の心を陥落させる。惚れさせる。それが今回お前に与える任務だ」
「……新手の冗談か? 笑いどころが分からんな」
ユーグは真意を問うようにジュディットの顔を見つめた。しかしジュディットは笑みを消し真顔で、
「大真面目だ。お前も知っての通り、剣を振るだけが騎士の仕事ではない。潜入や工作、交渉、諜報。そういったエージェントとして動く場合も多々ある。今回の任務もその一環だと思え」
騎士道小説の時代とユーグの生きる現代では「騎士」の役割も変化しているのだ。ユーグとてそれは理解している。だが、
「だからといって「恋愛」自体が任務になるとは解せないな。例えば、もしこれが「伯爵家令嬢からある情報を引き出せ」ならまだ分かる。そのために対象と関係性を築けというのも。しかし目的もなくその、恋愛関係になれ、彼女を惚れさせろとは理解しがたい。そんなことが王国のためになるのか?」
ユーグの私的にジュディットはばつが悪そうに髪を指で梳いた。
「それを言われると弱いな。正直なところ、この任務は王国への奉仕というよりかは宮中政治の一環だ。標的の令嬢とお前が親しくなることで騎士団に何らかの利益がある……と、今はそう思っておいてくれ」
「そういうことなら無用な詮索はしない。『忠義しか持たぬ者こそ、主の役に立たぬもの』。奉仕の前に組織が崩壊しては元も子もないからな」
「理解してくれて助かる。とにかく、この「恋愛」はスラフ王国騎士団副長ジュディット・オービニーがユーグ・コンラディンへ正式に与える任務だ。引き受けてくれるな?」
ユーグは大きく頷いた。
「ああ、断る」
「そうか! 引き受けてくれるん……はい? 今何て?」
ジュディットは思わず聞き返していた。ユーグは真顔で繰り返す。
「その任務、断ると言ったんだ。ジュディ副長。いや、正確には「ユーグ・コンラディンはこの任務への適性がない」と進言する。任務に拒否権はないからな」
「ちょ、ちょっと待て……お前さっきどんな任務でもやってやるって言わなかったっけ」
「確かにそう言った。任務なら竜だって殺すし聖杯だって獲ってきてやろう。言葉の綾ではなくな。それだけの力量はあると自負している。だが、その任務だけは俺には不可能だ。なぜなら――」
ユーグはそこで言葉を切って天井を見上げた。そこには、とある騎士道物語の一場面が描かれた天井画がある。
ハンカチを握り、立ち尽くす甲冑姿の騎士。ハンカチは病床の恋人から贈られたものだ。 騎士は主命により外征に行かねばならない。だが、そうすれば病に冒された恋人を残していくことになる。任務のために、自分自身の恋人を裏切らねばならない――これは愛と忠誠の狭間で苦悩する騎士の肖像なのである。
そして、今回ジュディットが言い渡した任務は「恋愛」であった。決められた相手との、ユーグ自身の事情を顧みない、強制的な恋愛。
「――そうか。そうだったな。任務を断りたくもなるのも当然か」
ジュディットが何かを悟ったように頷く。
「つまりお前は――まだ、童貞なんだな」
ゲフンゲフンゲフン! と激しくユーグが咳き込んだ。
「ジュディ副長、女性がそのような物言いをするのは」
平静を装ってジュディットをたしなめるユーグだったが、目が面白いくらいに泳いでいる。
ちなみにジュディットの指摘は事実だった。ユーグには恋人はいない。いたこともない。だから「この任務を受ければ恋人を裏切ってしまうのではないか……!」などという苦悩もしていない。天井を見上げていたのは単に任務を断る言い訳を探していたに過ぎなかった。
剣一本で二十人を叩きのめし、大貴族を前にしても怯まず、憂国の信念には曇り一つなく、いずれは伝説になるだろう騎士、ユーグ・コンラディンの唯一といってもいい弱点が色恋なのだった。
普段は不気味なくらいに完璧な部下が見せた弱みに、ジュディットはもう我慢できなかった。ケラケラと優雅さの欠片もない笑い声を上げる。
「マジか! 騎士団きっての俊英、ユーグ卿がまさか女を知らないとは! いや、それだけじゃないな。恋愛の経験すら無いだろ。いやはや、浮いた話を聞かないとは思っていたんだが」
「ぐぅ……」
「何だよー、可愛いところあるじゃないか。ここ最近のお前は完璧すぎてイジるところがなくてお姉さん退屈だったんだぞ?」
「お姉さん? 確かジュディ副長は今年でさんじゅ」
「手袋投げるぞ童貞野郎が! 三十代はまだお姉さんだっての。これだから童貞は」
「ど、童貞童貞と、貴女には淑女の嗜みと騎士の気品がないのか! そ、それに童貞だから何だと言うんだ! 『無欠の騎士も女には敗北する』。昔から騎士が破滅する時は女が原因と相場が決まっている。だから俺はだな」
「つまり童貞なんだろ」
「せ、聖杯に至れるのは童貞のみってよく言うじゃないか……」
「二百年前の騎士道小説ではな。ここは現代で現実だけど?」
「……グスン」
「まさかの涙目!?」
目頭を押さえ始めたユーグの姿にジュディットは若干嗜虐心をそそられたが、彼女にも情けはある。ジュディットは喉元に出かかった煽り文句を何とか飲み込む。
だが既に心を折られたユーグは完全降伏の姿勢で、
「そういうことでな、俺にはその、恋愛経験が、な、無いんだ。こ、今回の任務が婦女子を口説き落とすことだというなら……もっと、女慣れ、している者を……」
「もういい。私が悪かったんだ、それ以上自傷をするな。こっちまで悲しくなってくる! ……それにだな、たとえお前がアレ(どうてい)だったとしても、この任務、他に適任はいない」
任務という言葉に我を取り戻したのか、ユーグはいつもの真顔に戻った。ユーグは内心の動揺を封じ込め、冷静にジュディットに聞き返す。
「ここまでの話を踏まえてなおも副長は俺に「恋愛」をさせるつもりか。何故俺が適任だと?」
「そうだな、そろそろ任務の詳細を話そうか。これを見ろ」
ジュディットは机の上の書類の山の中から一部の紙束を引っ張り出すと、それをユーグに手渡した。ユーグは手渡された書類をパラパラとめくりざっと目を通す。
「この恋愛任務の標的はヴァルシール伯爵家の令嬢、フラヴィ・ド・ヴァルシール。年齢は十六歳で、今年社交界にデビューしたばかりだ。彼女の気を惹きたければ当然、こちらも社交場へと出て行く必要がある。が、やはりただの騎士が伯爵家令嬢にアプローチするのは難しい。身分を偽るのも面倒。そこでお前だ」
ジュディットはユーグの顔を指さす。
「舞踏会では若い美男子はそれだけで一定の需要がある。そして多分、騎士団で一番若く、一番顔が整っているのはお前だ。他の男ときたらオッサンか熊しかいないからな」
「それはもしかすると事実かも知れないが他の団員に謝れ。真面目に鍛えた結果だぞ。それに俺も絶世の美男子というわけではない……理由はそれだけか? 熊より顔がいいだけの童貞に高嶺の花を口説き落とせと、ジュディ副長はそう言うのか?」
「まさか。顔だけを理由に騎士団のエースを投入するほどの余裕はないさ。お前を起用した一番の理由、それはもちろん剣技だよ」
ユーグは首をひねった。恋愛にどうして剣技が関係してくるのか全く理解が出来なかったのだ。ジュディットはそんなユーグの反応を予想していたようで、こんなことを言い出した。
「ユーグ、どこでもいい。舞踏会の警備に当たったことはあるか? 貴族が足繁く通うショーリュー公園を巡回したことは? それか、ロマンス小説を読んだことは?」
「ないな。何が言いたいんだジュディ副長」
「そうか。お前は優秀すぎるが故に任務が特殊なものばかりだったからな……では貴族達の「ダンス」について何も知らないのか。なら教えてやろう。「社交界」と聞いて我々が真っ先に想像すべき「舞踏会」、その実態について」
「? 舞踏会なんだから踊るのではないのか?」
「その踊りが問題なのさ。何せスラフ貴族達のいう「ダンス」というのは、ペアの男女が剣を使って行う「剣舞」なのだからね――」
この会話の後、ユーグは結局任務を引き受けることになる。
引き受けてしまった以上己が誇りにかけてユーグは任務を全うせねばならない。社交場の作法を学ぶ研修などの前準備に一ヶ月を費やしたユーグは今日、満を持してチュイルリー伯爵夫人の舞踏会に足を踏み入れた。
ユーグの「恋愛任務」の開幕である。
スラフ王国の伝統的なダンス、「剣舞」の起源は今から百年以上前、時の国王と女剣士の大恋愛に由来する。
親衛隊に所属していたというその女剣士はたぐいまれな美貌で知られており、国王は彼女に恋をした。だが恋慕を打ち明けた国王に、女剣士は剣を抜き言い放った。
「私は、私より弱い男のものになるつもりはございません」
首をはねられても文句は言えないほどの不敬だが、国王は構わず早速剣を携えて女剣士に勝負を挑んだ。が、結果は惨敗だった。
剣の握り方すら知らない国王と、戦いを生業とする女剣士。国王の敗北は絶対で、万が一にも番狂わせは起こりえない。つまり女剣士はそれほどまでに強い拒絶を国王に示したのだ。己が死罪になることすらも覚悟して。
だが国王は決して諦めなかった。力が足りないのなら鍛えればいい。空いた時間を使って剣を振り続け、幾度も女剣士に挑んだ。
政務はおろそかには出来ない。王としての義務を放り出すような男に、一体どうして彼女が振り向こうか。自然、国王は睡眠を削って鍛錬の時間を捻出することになる。
剣に充てられる時間はごくわずか。国王は素人で、女剣士は達人。絶望的な実力差を前に、国王は何を思ったのか。愚直に挑み続けてくる国王に、女剣士は何を思ったのか。後人は想像をたくましくしたが、真実はもう残っていない。
ただ記録だけが残っている。国王が剣を執ってから七年、国王の剣は遂に女剣士へと届き、女剣士は国王の愛を受け入れたのだと。
こうなると困ったのは周囲である。成就しないはずの身分違いの恋が成就してしまった。国王の伴侶として形式上の貴族である女剣士は全く相応しくない。故に周囲はあらゆる手を尽くして二人を引き裂こうとした。
だが国王は言った。
「朕が彼女に剣で勝ること以上の不可能が、この世の一体どこにあろう」
女剣士を打ち負かすという不可能を成し遂げた国王にとって、その他の障害など有象無象に等しかったのだ。
かくて万難は排され、女剣士は王妃に迎えられた。仲睦まじい国王夫妻の元、スラフ王国は繁栄を迎えたという。
つまり剣舞はこの故事の再現なのだ。
二人の恋にあやかろうとした貴族達はこぞって剣を習うようになり、意中の異性と剣を交える文化が生まれた。時代が下るにつれ、彼らの剣の技は形式的な「剣舞」に変わっていったが……ともあれ、スラフ王国の舞踏会で剣舞が踊られるのはこうした理由によるものだった。
「……ジュディ副長曰くそういう話らしいが。本当に剣を振っていたとはな」
ユーグは回想を止め、舞踏会の様子に意識を引き戻す。
目の前では主宰者のチュイルリー伯爵夫人達の「ダンス」が佳境に入っていた。
音楽に合わせて軽やかにステップを踏む二人は確かに「踊っている」。だが一方で彼らの手には立派な拵えの剣が握られており、弧を描くような斬撃をお互いへぶつけ合っているのである。
パートナーの男が袈裟懸けに剣を振り下ろせば、チュイルリー伯爵夫人は剣を掲げて防御の姿勢をとる。剣と剣がふれあった瞬間、チュイルリー伯爵夫人はくるりと手元を返して反撃に出る。それをパートナーが受け、返し、また伯爵夫人が受け……息のぴたりと合った攻防が繰り広げられている。
きらびやかなダンスホールで切り結ぶ男女は美しいと形容するほかない。息をピタリと合わせた流麗な剣舞も美しければ、ステップに合わせひらりと翻る燕尾服も、シャンデリアに照らされ艶めくシルクのドレスも、何もかもが美しい。
ユーグは唸った。剣は人殺しの道具であり、どのように振るったとしても血の匂いがするものだと思っていた。たとえ見目麗しい貴族の手にあっても、剣の無骨さは変わらないものだと思っていた。任務の前準備として剣舞の作法を学んでいる時でさえそう思っていた。
しかしどうだろう、この剣舞は。絢爛でありながら洗練されている。この場において剣は一切血に汚れていない、ただ美しいだけのものなのだ。
騎士としては複雑だが、それでもこの剣舞が一つの芸術であるのはユーグも認めざるを得なかった。ユーグは二人のダンスをフィニッシュまで見届け、他の参加者と同様に心からの拍手を送った。
女主人によるファーストダンスが終わればいよいよ舞踏会の始まりだ。一斉に参加者達が動き出した。挨拶回りをしている者もいれば、早速剣舞のパートナーを探し始めている者もいる。
「俺も動かなくてはな。だがその前に今日の目標を再確認しておこう」
任務の最終目標はフラヴィという名の伯爵家令嬢を惚れさせること。そのため今日の舞踏会で顔合わせくらいは済ませておきたい。
だがユーグはすぐには標的を探さない。
「いきなり本命、というのは短気すぎる。『猪を狩りたくばまずウサギを仕留めよ』。騎士ならば順序はわきまえなくては」
研修を受けたとはいえユーグは舞踏会に出るのはこれが初めてだ。標的の前で完璧に振る舞うためもう少し場の空気に慣れておきたいところである。
ユーグは自然な動作で周囲を見回す。既に何組かペアが成立しているようだ。女の手を引き、ダンスホールの中央へとエスコートする男の姿が見受けられる。
「そうだな、何はともあれまずは踊ってみるか」
舞踏会において、剣舞に誘われない女性のことを「壁の花」という。ダンスホールの壁の方で花のようにたたずんでいる、という意味だ。
ユーグの近くにも、不安げにきょろきょろしている「壁の花」が一輪。正確には舞踏会は始まったばかりなので「壁の花」予備軍というべきだろうが。
真新しいスタンダードな白のドレスで身を包んだ少女だ。顔立ちは非常に可憐で、男心をくすぐらずには置かないだろう。ただしあと五年待てばの話である。現在の少女の容姿は少し幼すぎる。舞踏会に参加しているということは十六才以上なのだろうが、十三才くらいの子供に見えた。
ユーグは最初のダンスパートナーにこの少女を誘うことに決めた。躊躇ったりまごついたりせず、自然な足取りで少女へと歩み寄る。
ユーグは別に女性に免疫がないわけではない。仕事と割り切ればどんな美女相手でも平然と話しかけることが出来た。
ユーグは勇敢な騎士だ。人に話しかけるのを臆したりはしない。ただ、
「そう、騎士に色恋沙汰は不要だ。任務で出会った女性とプライベートな関係になるなど不純すぎる。聖杯も遠ざかる。女性とのやりとりは任務が求める必要最低限でいい」
決して必要以上に距離を詰めるのが恥ずかしいとか、断じてそういうことではないのである。ともあれユーグはこの一ヶ月間みっちり練習した笑顔を浮かべて少女に話しかけた。
「失礼いたします、お嬢様。もしよろしければこの俺に貴女の剣を受ける名誉を下さらないでしょうか?」
「壁の花」の少女は「え、私?」と目をしばたかせた後、
「も、勿論です! あの、お名前をお聞きしても……?」
「これは申し遅れました、俺はユーグ・コンラディンと申します」
「ユーグ様って、あの『昇隼』のユーグ卿!?」
「おや、俺はそのように呼ばれているのですか。存じ上げませんでした」
「はわわわ……ほ、本物だぁ」
のぼせ上がった少女と共に、ユーグはダンススペースへと移動。その際に聞き出したルネという少女の名前をユーグはしっかりと記憶する。
(にしても……俺の名前がこのような少女に知られているとは)
任務の前、ジュディットが言っていたことを思い出す。
「ユーグ、お前はイスリの都を留守にすることが多いから気付いていないのかも知れないが、『昇隼』のユーグ卿といえば若者や女性達の間ではちょっとした有名人だ」
「そうなのか?」
「ああ。お前が立ててきた華々しい武勲を、我々が積極的に周知した結果だ。名前が売れているというのは大きな武器だからな。お前が『昇隼』を名乗れば、社交界でも最低限の立ち位置は確保できるだろう」
(吟遊詩人は既に滅びた。騎士の名前など玄人にしか知られないものだと思っていたが)
ともあれ少女に袖にされなくて何よりである。
ユーグがルネを伴ってホール中央まで進み出ると、丁度曲が始まろうとしていたところだった。
周りの男性達に合わせて、ユーグは腰に佩いた剣をなめらかな動きで引き抜く。
片手持ちを基本に、両手で握ることも可能な両刃剣。切ってもよし、突いてもよし、あるいは殴ってもよし。比較的軽量で最も扱いやすい剣である。ユーグが普段使っているのもこれだ。剣舞ではこの剣の刃を潰し切っ先を丸めたものをつかう。
ユーグに続き、ルネも若干ぎこちない動きで剣を抜いた。ユーグのものと比べて細身の刀身に茨のような彫刻がされているのが特徴的だ。
(彼女の剣は耐久性が不安だな。へし折ってしまわないよう気をつけなくては)
「準備はよろしいでしょうかルネ嬢」
「は、はい。よろしくお願いします!」
ペア達が皆剣を抜き放ったタイミングで楽団が二曲目を演奏し始める。ユーグの初剣舞の始まりだ。
「参りますよ」
ユーグは剣を大きく回しゆっくりとルネへと打ちかかった。
いくら剣を使うとはいえ剣舞はあくまでダンスである。そしてダンスがダンスとして成立するにはいくつものルールが必要だ。
例えば「決められた型以外を使ってはいけない」。
「えいっ」
ルネは可愛らしい声を発し、ユーグの斬撃を自身の剣で打ち落とす。その反動を利用し、ルネは剣を自身の正中線に構え直し、刺突を放ってくる。『揺花』と呼ばれる技だ。
ルネの突きをユーグは半身になって軽やかなステップで躱し、上段からの斬り下ろしで応じた。『落雁』の型である。
これらの型は王族や上級貴族が『王国式剣舞法』として定めたものだ。こうして『王国式剣舞法』の型を互いに出し合いながら剣舞は進行していく。
ここで重要なのは相手との息を合わせることだ。剣舞は戦いではない。相手の考えを読み取って、お互いがより美しく剣を振るえるように配慮し合うのが理想的な剣舞である。
故にユーグはルネを導くように戦う。いや、踊る。相手が打ち込みやすいよう構えに隙を作ってやったり、攻撃の予備動作を大きくしてやったり等など。
何の事はない。似たようなことは後輩騎士を指導する時にやっている。決まった型しか出せないのが窮屈だがそこは『昇隼』。ルネと踊るぐらいならば造作もない。
だからユーグは余裕を持ってルネの様子を観察できた。第一印象は「思ったより悪くない」。
ルネのきらめく笑顔がキュートとかそういう話では断じてなく、もちろん剣の話である。いくら細身にしたところで剣は金属製でそれなりの重量を伴う。それをルネは少女の細腕で扱い、ちゃんと狙った場所に切っ先を届かせる。これはなかなかレベルが高いことなのだ。
(案外貴族は剣の扱いに習熟しているのかも知れないな)
とはいえ少女であるルネはまだまだ未熟なところも多い。
「あっ!」
声と共にルネの体がつんのめる。ステップの時に自分のドレスの裾を踏んでしまったのだ。
これを見たユーグの反応は素早かった。今までのゆったりとした動きとは違う風のような踏み込みと共に腕を伸ばし、自分の剣とルネの剣を触れ合わせた。そのまま軽く剣を押し込むと、転びかけていたルネの姿勢が安定する。剣を介して相手の重心に触れる……剣の極意の一つだ。
ルネも自分がユーグに救われたことに気付いたようで、
「はわわわ……ユーグ卿、ありがとうございます」
と感謝を述べるが、
「さて、何の事でしょう?」
と涼しげに返されてはたまらない。ぽう、とルネの顔は真っ赤になった。
ユーグは今自分が一人の少女の心に起こした劇的な変化には気付かないまま、剣舞について自分なりに分析してみる。
(案外剣舞は社交の道具として合理的なのかも知れないな)
『剣は口ほどにものを言う』というのがユーグの持論だが、剣舞も例外ではないらしい。
曲の流れる間、剣を振り続けられる体力はそのまま健康さの証明となる。相手の呼吸にぴたりと合わせる能力は気遣いと要領の良さを測る指標となる。
舞踏会は貴族達の恋愛の場だ。不健康で、相手への気遣いが欠け、要領の悪い人間が結婚相手としてはよろしくないのは言うまでもないだろう。
(つまり俺は測られているわけか)
そう思うとただの一風変わったダンスだと思っていた剣舞が途端に真剣勝負のような緊張感を帯びてくる。ユーグは気を引き締め直した。
そうこうしているうちに流れるワルツの曲も終わりに近づき、フィニッシュのことを考えなくてはならない時間となった。
形式化したとはいえ、剣舞は昔の国王と女剣士の恋の決闘を模している。だから剣舞におけるフィニッシュとはつまり決闘の決着だ。
決着には勝つ、負ける、引き分けの三種類しかない。そして故事をなぞるのであれば、国王……男側の勝利は恋の成就を、敗北は女性からの拒絶をそれぞれ意味する。
ダンスのペアはこの故事に従い、お互いへの印象を決闘の勝敗として表すということに建前上なっているが話はそう単純ではない。
例えば女性の方は男を拒絶したくとも、男の方が剣の技量に優れていれば強引に女性を負かしてしまえる。逆も然り。またお互いの息が合わず望まぬ勝敗になってしまう場合もあるだろう。
こうした事情や更に貴族同士のゴタゴタも絡み合い、剣舞の勝敗は外野にとっては意味がないものとされている。
だが当人同士だけは違う。剣を合わせる当人達には相手がどの結果を望んでいたのかが分かる。外から見ているだけの人間には分からなくともお互いだけには分かるのだ。
人目をはばかることなく己の思いを告げられるのだ。
(何故剣舞が舞踏会で踊られるのか分かるような気がする)
弦楽器がフィナーレへのカウントダウンをするようにリズムを刻む中、ユーグはルネの動きを注視する。ルネがフィニッシュに選択した型は『つがい蜂』。相手の喉元を狙った刺突の打ち合いだ。
ルネの動きに先んじて、ユーグは真っ直ぐな、それでいて芯の抜けた突きを放つ。今までの剣舞を通してルネの腕前は見切った。これくらいに手加減をすればルネに決着の選択権を委ねられるだろうと考えてのことだ。
(女性側を尊重するのが礼儀らしいからな。特に大事なければ無難に引き分けで終わるはず)
ユーグとルネの剣が交錯し、甲高い金属音が一度。
果たしてユーグの剣は――ルネの喉元へと突きつけられていた。
(……む?)
ルネの剣はあらぬ方向を向いている。ユーグの突きに負けたのだ。つまり剣舞はユーグの勝ちである。
(ど、どういう事だ……?)
困惑するユーグの前で、ルネはうつむいている。
ユーグ達を取り囲むように、弦楽器の残響がダンスホールに響いていた。
繰り返すが、ユーグには恋愛経験がない。男女の機微に疎いというのも確かだが、それ以上に自分が異性からどう思われているかを察する能力がないのだ。世間一般では鈍感クソ野郎とも言う。
そのためユーグは先程の剣舞でルネ嬢が敢えて負けたとはこれっぽっちも考えず、自分が手加減の具合を間違えたのだと認識した。
間違った認識からは、間違った行動が生まれる。「自分が手加減をし損じたのはまだ剣舞に慣れていないからだ」と結論したユーグはルネと「何事もなく」別れた後、他の女性の相手も務めた。しかし女性達は
「あぁん、狙いがそれてしまいました!」
「うぅ、なんて激しいお方……」
「なんてお上手なの! 流石は『昇隼』様ですね!」
等と言って、ユーグに勝ちを譲る。
ここまで来ると流石のユーグも違和感に気付いた。ルネを含めた九人もの女性の屍を踏み越えた先でようやく悟る。
「あの女性達はもしかして敢えて負けたのでは? 一体何故」
自分の意思でユーグに勝ちを譲るなど、まるで女性達がユーグを好ましく思っているようではないか。
というか実際そうなのだが、ユーグはそこまで考え至らず、
「剣舞とはいえども、『昇隼』に剣で引き分けを演じさせてしまうのははばかられたのだろう。……となると、気を遣わせてしまったか?」
だが逆に言えば気を遣われる程度にはユーグが尊重されていることになる。初対面の女性に嫌われるようなことはなかった、ということだ。
ユーグは思案した挙げ句、「懐中時計」を取り出した。王室お抱えの職人が試作したばかりの小型時計で騎士団にも三個だけ流されてきた逸品だ。それによると現在午前一時。もうすぐ折り返しである。
勝負を仕掛けるには良い頃合いかも知れない。
ユーグは標的のフラヴィ・ド・ヴァルシールの人相をよく知らなかった。が、フラヴィはその母親のヴァルシール伯爵夫人によく似ているという。ヴァルシール伯爵夫人は非常に社交的かつ匂い立つ色気を感じさせる美女で、この舞踏会においても彼女の周りには常に人が集まっていた。ユーグは職業柄こういった「キーパーソン」を見つけるのは得意だったから、ヴァルシール伯爵夫人の人相は既に覚えている。
となれば標的を探すのには苦労しない。ユーグの目は木々に紛れた狩人すら捉える。ユーグはすぐに彼女を見つけ、息を吞んだ。
(これは、驚いた)
光輝持つ白百合。それがフラヴィだった。
ドレスが華美なわけではない。奇抜な髪飾りをしているわけでもない。化粧が巧みなわけでもなければ、コルセットで過剰にウエストを絞っているわけでもない。
そうした作為など必要ない。花はただ咲いているだけで美しいものなのだ。
純白でありながら薄く黄金の輝きを帯びたプラチナブロンドの髪。新芽のような色の瞳。胴体や腕はほっそりとして華奢な印象を与えるが、ドレスのデコルテからのぞく柔肌は血色が良く生命力に満ちあふれている。
だが何よりユーグを感動させたのはその立ち姿だった。背筋は芯が入ったように真っ直ぐに伸び、歩く時は氷上を滑るかのように足を踏み出すのだ。帯刀した状態でだ。普通は剣を腰に下げれば姿勢は崩れる。それは剣舞を嗜む貴族も例外ではない。特に若年者達は剣の重みを持て余し少し不格好な歩き方になっている。だがフラヴィはこの場の最年少でありながら帯剣した姿が誰よりも整っている。剣士であるユーグは何よりもそこに美を見いだしていた。
ユーグはフラヴィに見入っていたが、しばらくするとあることに気がついた。
フラヴィは一人なのだ。ダンスホールの端に用意された女性専用の椅子に腰掛け、完全に「壁の花」と化している。
「妙だな……確かに周囲と比べると地味なドレスだが母親似の美少女なのだから、男は放っておかないはずだが」
舞踏会の様子を見る限り貴族の男達は成熟した女性を好むようではある。だが見た目が完全に子供だったルネとは違うのだ。誰一人寄りつかないなんてことがあるだろうか。
「人を寄せ付けない理由があるのか?」
だが考えていても始まらない。ユーグはフラヴィへ向かって歩き出す。
「『勝負に臆するは騎士にあらず』。全く、至言だな」
多くの人で賑わうホールだが、フラヴィの周りには誰もいない。自然とフラヴィに意識が集中する。さながら本当の決闘を挑む時のようだ。
緊張を感じつつも微笑みは絶やさない。ユーグは抜剣するようにフラヴィに声をかけた。
「お暇のようですね、お嬢様」
虚空を見つめていたフラヴィがユーグへと目を向ける。近くで見ると磨いた翠玉のような瞳だ。美しく、若い活力がたぎっている。だがその一方でどうも倦んだような印象を受けるのはユーグの気のせいだろうか。
眼差しの意味はともかくフラヴィが口を開く。
「騎士の正装……ああ、貴方が噂の『昇隼』でいらっしゃるのね」
年頃に似合わず落ち着いた声だった。聞いていて心地がいい。すっと耳に染みいるようだ。
「貴女も俺をご存じなのですね」
「噂の七割は聞こうとしなくとも耳に入ってくるものですわ。一ヶ月前は大立ち回りを演じられたとか。本当なんですの?」
「『薄汚いカラスも羽根だけ見れば美しい』。事実ではありますが皆様が想像されているほど華々しいものではありませんでしたよ」
「そう? でもその噂のおかげで随分と女性に気に入られているようですのね。まるで色鮮やかなシャーベットみたい。そんな貴方が私みたいな「壁の花」と時間を潰していていいのですか? 貴方は騎士爵ですわよね。何か使命があってここにいらしたのでは?」
騎士爵は「王の剣」である騎士に与えられる形式上の爵位だ。いわゆる真の貴族である公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵とは違う。
舞踏会は真の貴族のためのものであり、そこに騎士爵の人間が参加しているとなるとやはり訳ありに見えるのだろう。
まさかここで「貴方を口説けという任務がありまして」などと言うわけにはいかない。ユーグは前もって用意していた「設定」をすらすらと話す。
「俺がこの場に参加させていただいているのは一種の研修みたいなものです。どうも上司は俺に社交場での任務もこなせるようになってもらいたいようでしてね。今シーズン一杯は社交場の作法を学ぶようにとのことのようです」
「そういえば以前一度だけ舞踏会で騎士の方を見かけたことがありますわ。確かジャンメール子爵の側に控えていたような」
「おそらくその騎士は護衛の任務に当たっていたのかと。……そういうわけで今の俺の任務は舞踏会の作法を学ぶことです。どうでしょう。お嬢様、この俺に一曲剣舞の指導をして下さる気はありませんか? 剣舞の型は拙いかも知れませんが、剣自体は振り慣れております。無様は晒さないつもりです」
ユーグは誘いをかけると、フラヴィの目が輝いた。
だがそれは夢見る乙女の輝きではなく、獰猛な獅子の眼光だった。フラヴィはニッコリと笑う。ユーグは直感的にこれがフラヴィの本当の笑顔なのだと察した。
フラヴィは椅子から立ち上がり一礼した。
「私ごときが『昇隼』に剣を教えるなどおこがましいとは思いますが、それではこのフラヴィ・ド・ヴァルシールにお付き合い下さいませ、ユーグ・コンラディン様」
皆踊り疲れてきたせいか、ホール中央に集まったペアは比較的少なかった。おかげで多少動いても他のペアと接触する心配はなさそうだった。
既に抜剣しているユーグの前でフラヴィが剣の柄に手をかける。そのまま一息で引き抜かれた刀身はしっかりとした厚みを持ち鋼の重厚感をまとっていた。フラヴィはその肉厚の剣をたおやかな腕で難なく構えた。
ユーグは今まで踊ってきた女性の剣を思い出す。
(ルネなどはもっと細身の軽い剣を使っていたはずだが。あの剣は俺のとそう重さが変わらないだろう。あれをあんな細腕で振るのか? 構えは美しい。が、敵の攻撃に備える実戦の構えとは違い、剣舞の構えは形だけ取り繕えていれば美しく見えるからな……)
が、全ては始まれば分かること。ユーグとフラヴィは静かに曲が始まるのを待つ。
やがて流れてきたのはレントラーと呼ばれる舞曲。タイミングを合わせてユーグが動き出す。
(さて、お手並み拝見だ)
一刀目の力加減にも慣れてきた。ユーグは下段からすくい上げるように斬り込む。対するフラヴィは『歓喜の子犬』の型に従ってユーグの剣を弾き飛ばそうとする。剣と剣が、がちんとぶつかった。
その瞬間、ユーグの体は衝撃に打たれた。
(何!?)
受けたユーグの肩が外れるかと思うような衝撃。フラヴィの『歓喜の子犬』の一撃はまるで大男が振るう両手剣のようだった。
一瞬ユーグはこれが剣舞であることを忘れた。「気を抜けば殺られる」と意識せざるを得なかった。騎士としての本能が反射的に眼前の「敵」を切り捨てようとするのを、ユーグは必死に押しとどめる。
(これは剣舞だぞ、ユーグ・コンラディン!)
混乱は一瞬。ユーグはすぐ任務を思い出した。が、フラヴィの『歓喜の子犬』は終わっていない。首を刎ね飛ばさんとする薙ぎ払いが続いてユーグを襲う。
心に隙を作ってしまったユーグはフラヴィの追撃を不安定な姿勢で迎え撃つこととなった。しかし流石は『昇隼』。フラヴィの首狩りを自分の剣を添えるようにして上方へと逸らす。後は軽く腰を落とし、頭を低くすればフラヴィの剣は空を切る。空振りによって一転、ユーグの手番だ。
直前の攻防の結果、ユーグの剣は振り上げられている。ならばそのまま振り下ろすのが自然。が、
(確かこの型に対しては……!)
ユーグは脳天打ちを放つ、と見せかけて剣を胸の前で正眼に構え直して、胸突き。
呼吸を合わせづらいフェイントの型。だがそれに対するフラヴィの対応は簡潔だった。手首を返す。ただそれだけの動きでユーグの突きを絡め取る。フラヴィのあまりに鮮やかな技前にユーグの額に冷や汗がにじむ。
(冗談だろう……? ホストのチュイルリー伯爵夫人ですらここまで自在に剣は扱えていなかったぞ)
一般的な貴族女性のレベルを逸脱している。にもかかわらずフラヴィは息一つ乱していない。まだ本気ではないのだ。
「流石はユーグ様、剣舞もお上手ですわ」
剣を振るいながら、フラヴィが艶然と笑う。
「でも、まるでジャム入りのマドレーヌみたい。まだまだ見せていないものがあるのではなくて?」
「……ほう」
この上なく挑発的なフラヴィの台詞にユーグの中で闘争心が熾った。
フラヴィ嬢は今のユーグの剣では満足できないと仰せらしい。こんなに遅く、軽い剣では楽しめないと。この挑戦から逃げればそれはまさしく騎士の恥だ。
(いいだろう。望み通り全力で踊らせて差し上げよう、フラヴィ嬢!)
ユーグが遠慮を捨てたことで、フラヴィとの剣舞は右肩上がりに激しさを増していく。
想像通りフラヴィは本気を隠していた。単純に剣が早くなったのに加え、剣の型をランダムに使うようになったのだ。
一応剣舞の型にも順番というものがある。この型を使ったらこの型で返す、そして次はこの型、と言う具合にである。
大抵のペアはこの順番に従って剣舞を進行する。暗黙の了解のようなものだ。この了解がなければ貴族然とした優美な剣舞などごく一部の人間にしか踊ることが出来なかっただろう。
なぜなら互いが順番など気にせず好きな型を好きなように打ち合う。それは――
(それは、ダンスなどではない。試合だ。鎧なしで試合をするのは、騎士ですら躊躇するというのに……)
だが今フラヴィが仕掛けてきているのはそうした剣舞だった。型をランダムに使えば相手の動きが予想しづらくなる。型が失敗する可能性が増える。それなのにフラヴィは全くミスをしない。
(この速度で打ち合っても流麗さが損なわれないとはな)
周囲の貴族達にも二人の剣舞のレベルの高さは伝わっているようだった。彼らは
「はわわ……す、凄い」
「二人ともまだ若いのに、何と美しい剣舞だろうか」
「まさか『じゃじゃ馬のフラヴィ』に合わせられる殿方がいらっしゃるとは思いませんでした。流石は『昇隼』ですね」
と囃し立てる。しかし中には、
「全く気に入らない、どうしてあの『じゃじゃ馬』の小娘は剣を振っていて腕が太くならないの。何かの間違いよ」
と嫉む声もあった。
しかしフラヴィの剣を受け止め続けたユーグにはその理由が分かった。
(『剣に力を込めてはならない』、か)
剣を学ぶ者は常にこの言葉を師から投げかけられる。しかし力を入れなければそもそも剣は持ち上がらない。古今東西、あらゆる剣士を悩ませてきた難問である。
物心ついた時から剣を振ってきたユーグですらこの問いの答えにたどり着いたのはほんの二年前のこと。
(この言葉の意味は『見えない筋肉を使え』だ)
深層筋というものがある。外からは見えず、意識するのが難しい筋肉のことである。逆に、普通の人間が「力を込めよう」として使う筋肉は表層筋という。
剣を振るにはこの両方の筋肉を活用する必要がある。が、深層筋を最初から意識できる人間はまず、いない。だから『剣に力を込めてはならない』。分かりやすい表層筋に頼らず、見えない深層筋を使えるようになれ。
深層筋が十分鍛えられれば外から見える筋肉などごくわずかでいい。騎士団の先代団長などは枯れ木のような腕をしていながら誰よりも重く速い剣を使う。
フラヴィが細腕で剣を縦横に振るえるのはそういう理屈であった。
多くの者がたどり着くことすら叶わない剣の要訣の一つである。ユーグは戦慄する。
(この娘、一体どれだけ剣を振ってきた!?)
フラヴィの剣は一合ごとに重く速く、美しくなる。いつになったら全力に達するのだろうか。ユーグは剣士として純粋にフラヴィの全力を見てみたいと思った。
しかしそれは叶わない。舞曲が終わりかけている。
(ならば、せめて……!)
ユーグはフラヴィに怪我をさせないと確信できる最大の力でフィニッシュに挑む。
だが――、
「やはり、か」
互いにフィニッシュに放ったのは袈裟斬り。しかし二人の袈裟斬りは相殺され、つばぜり合いの形になっていた。つまり、引き分け。
ユーグは歯がみした。引き分けという結果自体はいい。問題なのはその過程だ。
結局ユーグの動きにフラヴィは最後まで付いてきた。フラヴィに全力で剣を振らせることが出来なかったのだ。
もちろんユーグにはいくつかハンデがあった。特に本来の剣技を封印していたのが大きい。ユーグは騎士として戦いのための剣を骨肉に刻んでいる。一方、剣舞の型は一ヶ月の付け焼き刃だ。余裕がなくなってくれば本来の剣技が反射的に出そうになってしまうのはごく自然である。そのためユーグは常に自制しながら剣を振る必要があった。
例えるなら水の中で剣を振るような感覚だ。本領を発揮できるわけがない。むしろいくつも枷をはめられながらもここまでやれたことはユーグの優秀さの証である。
だがそれでも不本意な結果だ。ユーグは深く息を吸ってから剣を収めた。
「もう終わってしまいましたか。剣舞のご教示ありがとうございました。フラヴィ嬢」
感情を押し殺して一礼するユーグに対して、フラヴィは低い声で
「……不本意ですわ。朝食の薄いバゲットみたい」
不満を隠すことなく、ユーグを睨み付けている。
「フラヴィ嬢? 私の剣舞に何か失礼がありましたでしょうか」
「いいえ? 気配りに満ちた素晴らしい剣舞でしたわ。相手に怪我をさせないよう、陶器を扱うように剣を振っているところなど、特に。優しいのですわね。食後のブドウみたい」
「……恐れ入ります」
額面通りに受け取るほどユーグは馬鹿ではない。フラヴィにとって、その点こそが最も不本意だったのだろう。
(俺は最善を尽くした。たとえ何があろうとフラヴィ嬢に怪我をさせるわけにはいかない。ただでさえ不慣れな剣舞の型を使っているのだから、慎重にならざるを得なかった……)
だがそのせいでフラヴィの本気を引き出せず不完全燃焼に終わったというのも否定できない。故に弁明はせずユーグはフラヴィの言葉を待った。
ユーグの殊勝な態度を見て、フラヴィは
「まぁ、初めて剣を合わせたにしては上手く行きましたわよね? 流石はユーグ様。なかなか楽しい時間を過ごさせていただきました。感謝いたしますわ」
「そう言っていただけると」
ユーグはフラヴィの言葉を素直に受け止めた。踊っている間フラヴィが終始笑顔だったのもまた事実だったからだ。
(愛想笑いではないと思う。フラヴィ嬢は満足はしなかっただろうが、退屈でもなかったはず。むしろ、先程の態度は剣舞が終わったのを惜しむ意味合いだったのだろう)
何しろ実力の釣り合った相手と切り結ぶのはたとえようもなく楽しいことなのだ。「それ」が出来るかも、と予感しながら曲の方が先に終わってしまったやるかたなさが「不本意」という台詞になったのだとユーグは解釈した。
ユーグの前でフラヴィが一礼する。
「では私は少し席を外しますわ。ユーグ様におかれましては研修を楽しまれますよう」
「ええ、ありがとうございます。フラヴィ嬢も良い夜をお過ごし下さい」
フラヴィとの剣舞の後、ユーグは一旦ダンスホールを出て休憩室に移動した。標的との初接触も終え、一息つくにはいい時間だった。
休憩室では軽食や酒などが供されている。ふわふわのクリームがのったケーキや、肉厚のハムを挟んだサンドイッチは見るものの食欲をそそったが、ユーグはとりあえずオルジャと呼ばれるアーモンド・シロップ入りの飲み物だけをもらって喉を潤した。
「ふぅ」
体力には自信のあるユーグだが、舞踏会という不慣れな場所に長時間いれば少しは疲れてくる。優しいアーモンドの甘みと香ばしさを味わいしばし疲れを癒やす。
「それにしても標的のフラヴィ嬢、凄まじい技前だった」
ユーグがジュディットから貰ったフラヴィのプロフィールには確かに「特技:剣舞」と書かれていたが、あそこまでとは思ってもみなかった。
「道理で俺が起用されるわけだ。剣舞という場に限るなら、彼女の剣は下手な騎士を凌駕しかねない。一体なにゆえフラヴィ嬢はあそこまで剣に熟達している? それに「壁の花」となっている理由も分からないし、何度か聞こえた『じゃじゃ馬』というフラヴィ嬢のあだ名の理由も知りたい。……やはり、書類だけでは情報不足だな」
足りない情報は自分の足で集めるしかないようだ。これで舞踏会後半の方針は決まった。
「少しフラヴィ嬢の様子を探ってみるか。盗み見るようで気が引けるが」
ユーグは休憩室を出てフラヴィを探す。
(見つけた。……おや、男性に声をかけられているな。当然か。フラヴィ嬢のような少女が「壁の花」となっていることがおかしい)
ユーグはフラヴィに気付かれないようさりげなく身を隠して様子を見守る。ユーグの見守る前で、フラヴィと男性は軽い雑談をしながらダンススペースに移動した。
(ふむ。人当たりが致命的に悪いというわけではなさそうだ。『じゃじゃ馬』などというからもっと気性が荒いのかと)
しかしここからが本番だった。ひとたび剣舞が始まるとユーグは何かを悟ったように息を吐く。
(これは……パートナーの男が哀れになってくるな……)
何というか、男の自尊心をへし折るような剣舞だった。
見たところ男の剣舞の実力は平均をやや下回る程度で、フラヴィは男に合わせるためかなりの手加減をしている。
(手加減するのは何も悪いことではない。相手の実力を超えた剣を振り、剣舞を破綻させてしまうのは非礼に当たる……と、研修で習った。だから手加減自体はいい。だが)
ここで問題なのは二人の年齢だった。
男は見たところ二十代の半ば。一方、相手をするフラヴィは十六歳だ。
(十六歳は社交界デビューの年齢。そんな小娘が大の男相手に露骨な手加減をしては……)
フラヴィは軽やかにステップを踏みながらも眉一つ動かさず、息一つ乱さない。これではいくら鈍感な男でも、フラヴィが手加減をしているのを察する。実際男の顔は引きつっていた。
(男はプライドの生き物。剣舞で女性に劣っているなど認めがたいだろう。だから剣舞の上手い女性は手加減する時もさりげなくやるものだ)
しかし腹芸が苦手なのか、わざとやっているのか、それとも気が回っていないのか、とにかくフラヴィの手加減は露骨だった。しかも単に手加減するだけにとどまらず、
「ああ! そんなステップでは足を踏んでしまいましてよ!」
とか、
「そちらに動いては他の人に剣が当たりますわ、何を考えていらっしゃるの?」
とでも言う風に、女性のフラヴィが逆に男性をエスコートする始末である。
(ひ、必要なことだ……男が下手なのが悪い……が、流石にこれは)
自分のミスを十六歳の小娘にフォローされる屈辱はいかに。
男とて自分が悪いことは分かっているはず。だからしばらくは何も言わず耐え忍んでいたが、我慢しきれなくなったのかフラヴィに何事かを言った。おそらくは皮肉だろう。「小娘のくせに生意気な」という趣旨の言葉を三回捻ってベールに包んだような、そういう負け惜しみだったに違いない。
が、その瞬間フラヴィの表情が変わる。「は?」と眉を吊り上げると、太刀筋を一変させる。男の剣の未熟なところをあげつらい、けなし、さらし者にする、そんな剣である。男は慌てて謝罪らしき言葉を並べ立てているようだったがフラヴィは止まらない。こうなると男はもう滅多打ち……精神的な意味で……にされるしかなかった。男はもう既に死に体だ。
だがフラヴィは最後のとどめまで念入りに刺す。フィニッシュで男の手から剣を叩き落としたのだ。当然フラヴィの勝ちである。今回技量が勝っていたのはフラヴィだから、勝敗の意味は解釈するまでもない。フラヴィは男性を徹底的に拒絶したのだ。
「あら、ごめんあそばせ。手元が狂ってしまって。怪我をなさらなかったかしら?」
この瞬間、男の自尊心は粉みじんに砕け散った。男は放心してがっくりと膝を突く。
(……えげつないな)
立ち直れない男を尻目にフラヴィは剣を収め、憎たらしいほど典雅な一礼をした。その様子を周りの男達はおののくような目で見ている。
(なるほど、これか。フラヴィ嬢が「壁の花」に甘んじているわけは)
今の剣舞で先に無礼を働いたのは男の方だ。自分の未熟さを棚に上げ、年若い少女に大人げなくも突っかかった。フラヴィはそれに受けて立っただけだ。
(ただ、やり口がスマートではない。これでは周囲からはフラヴィ嬢の方が暴走したように見えてしまうだろう)
反撃するにしても侮蔑するにしても、表向きは男を立てるのが貴族女性のあるべき姿とされている。フラヴィのように激しい反撃を行う女には男は近寄りたくないだろう。
(『じゃじゃ馬』のフラヴィか……)
あの剣舞の後、フラヴィは再び孤立した。
そんな彼女の前に一人の少女が現れた。フラヴィと同年代に見える少女はフラヴィに話しかける。
「あら、フラヴィさん。「こんなところ」に「お一人」で何をなさっているの?」
丁寧な口調に反して、少女の口元には嘲笑が浮かんでいる。
フラヴィは声をかけてきた少女の顔を見て、「うわ、来やがりましたわ」とでも言いたげに一瞬眉をひくつかせた。が、それ以上不快感をあらわにすることはなく、
「貴女でしたのね。……ご覧の通りです、私は少し疲れたので休んでいたところですわ」
「一時間以上も? たった一人で? もうすぐ今宵の会も終わろうとしているのに? まぁ、それはそれは……」
少女は手にしていた扇子で自分の口元を隠した。
「私はてっきり、『じゃじゃ馬のフラヴィ』が殿方に相手されず退屈を持て余しているのかと思ってしまいましたの」
(ふむ、これは……)
遠目から成り行きを見守っていたユーグは顎に手を当てる。もしかして女の争いという奴だろうか。ユーグは二人の会話がはっきり聞こえる位置まで近づく。当人達には悪いが、こうした小競り合いは人間関係を把握するための格好の材料となる。
観察されているとはつゆもしらず、少女はなおも挑発するようにフラヴィに語りかけた。
「だって貴女ときたら、装いは地味だし、話は面白くないし、女としてダメダメなんですもの。そして、何よりいけないのは剣舞ですの。ちょっと剣を振るのが上手いからって調子に乗って殿方に恥をかかせてばかり。もう私見ていられませんの」
もう遠回しな皮肉はかなぐり捨てたようだ。少女は意地の悪い顔で、貴族令嬢が知りうる限りの侮辱の文句を並べ立てていく。が、
「貴女はそれをわざわざ私に教えに来て下さったのかしら?」
「ええ、そうなの。ヴァルシール伯爵夫人の娘ともあろう人が、「壁の花」になっているのがあんまりにも哀れだから……魅力的な女が舞踏会で暇になれるはずなどありませんでしょう? ねぇ?」
「まあ、ありがとうございます!」
いきなりフラヴィは立ち上がって少女の手を両手で握った。しかも笑顔で。予想していなかった反応に少女が「え? え?」と困惑する。
「貴女もお忙しいはずなのに。「魅力的な女が舞踏会で暇になれるはずがない」? 全くその通りですわ! 「魅力的な」貴女とダンスを踊りたいという男性は尽きないでしょうに、私のような「壁の花」を哀れんで時間を作って下さるなんて。このフラヴィ感激いたしましたわ!」
「こ、この、言わせておけば……!」
フラヴィの猛烈な皮肉に少女が気色ばむ。少女はあっさりと激高し反撃を試みるが、その前にフラヴィが
「ああ、でもそこまで気を遣われては私も何かお礼をしなくてはいけませんわね。ですが貴女のおっしゃるとおり私は冴えない女ですからお返しなんて……ああ、そうだわ! 貴女の苦手な『跳ね猫』のステップを教えて差し上げますわ! 先程も失敗していらしたし、丁度良いのではないかしら!」
「な、なんで私が躓いたのを知ってますの!? まさか「壁の花」だから、ここから私の剣舞をずっと見て……?」
おそるおそるといった様子で少女がフラヴィに尋ねる。が、フラヴィはそれには取り合わず、
「貴女みたいな女性が剣舞のせいで恥をかくなんて勿体ないですわ。これは何が何でも直しておかないと。安心して下さいな、私が殿方役になって、みっちり、きっちり、バゲットにジャムを塗るみたいに、手取り足取り教えて差し上げますから……」
「ひ、ひぃ!」
剣の柄を撫で始めたフラヴィを見て少女は縮み上がった。無理もない。離れているユーグも背中に若干冷たいものを感じたくらいだ。
(さて、どうなる……?)
が、そこでユーグは致命的なミスを犯した。フラヴィと目が合ってしまったのだ。
フラヴィはユーグの存在に目を見開いたようだった。ユーグは咄嗟に目を逸らそうとしたが、フラヴィの方はユーグを見つめ続けている。
(これは……話しかけに行かなければならないか)
舞踏会で女性に話しかけるのは男性の義務。ここで知らんふりをすればユーグの心証は悪くなってしまい、任務の達成が難しくなってしまう。
(慣れぬ場所で隠形の精度が落ちたか……不覚)
ユーグの気が重いのは自分の失態を恥じるが故である。フラヴィと少女の女同士の戦いの間に割って入るのが怖いとか、断じてそんな惰弱な話ではないのである。
「ああ、フラヴィ嬢! そこで休まれていたんですね!」
「まぁ、ユーグ様。またお会いしましたね。どうかしら、今日の会は楽しめていらして?」
「ユーグって……『昇隼』のユーグ卿!? ちょっとフラヴィさん! どういうことなの!? いつの間にお知り合いになったの!? 私にも紹介……」
「あら? 良く聞こえませんでしたわ。もう一度おっしゃって下さるかしら。貴方のような「魅力的」な女性が、私のような女に一体何を言おうとしたのかを」
「……きぃいいいいい!」
少女は奇声を上げてその場を去ってしまった。ユーグはフラヴィと二人きりになる。なんと言うべきかユーグは悩んだが出てきたのは何とも冴えない台詞だ。
「談笑をお邪魔してしまいましたか?」
「いいえ、そんなことありませんわ。きっとあの子、有名な『昇隼』様に会えて恥ずかしかったのですわ。ゆでたシュリンプみたい。気を悪くなさらないで下さいね?」
「ははは……」
ユーグは乾いた笑いを返すしかなかった。
「それに、ユーグ様は知っていらっしゃるかしら。昔の王族の方がおっしゃった言葉なのですけれど……『己を守る最も単純な手段。それ即ち、無礼には無礼を、侮辱には侮辱を、嘘には嘘を』」
フラヴィは「赫炎王子」と呼ばれた人物の言葉を引用した。
(彼の王子は側室の子であったが、徹底的な報復行動により己が立場を確立したという。なるほど、フラヴィ嬢も王子のように激しい気性のようだ)
そしてこの言葉にはまだ続きがある。ユーグはそれを口にした。
「そして『剣には剣を』。良かった、騎士修業の時の退屈な座学も役には立つようです。さて、フラヴィ嬢。再び私の剣を受けて下さるでしょうか」
こうして成り行き上とは言え、ユーグはフラヴィと二度目の剣舞に挑むことになった。
通常ならば、一夜のうちに同じ相手と二度以上踊ると言うことには極めて恋愛的な意味がある。が、ユーグとフラヴィの間にそれは当てはまらない。
(フラヴィ嬢は俺との剣舞の後に言った。「初めて剣を合わせたにしては上手く行った」と。つまり二度目はより高い水準を求めてくるだろう)
ユーグはフラヴィをエスコートするためフラヴィと腕を組んでいた。触れ合うフラヴィの腕から高揚が伝わってくるようだった。
(次こそは必ず満足させてみせよう。フラヴィ・ド・ヴァルシールを惚れさせるのが、今の俺の任務なのだから)
オーケストラが曲を奏で始める――。
二人の剣舞は周囲の度肝を抜いた。
激しくリズムを刻む足音、唸る剣風。一度目の剣舞を通して二人の間には相手の技量に対する信頼が生まれている。故に両者は安心して剣速を上げることが出来た。
そして分かったのは剣舞においてユーグとフラヴィは全く互角の能力を持っているということだった。
「くっ!?」
型のハンデはありつつも、ユーグは本気だった。フィニッシュに放った逆袈裟斬りも、フラヴィの剣を跳ね飛ばすつもりで放った。
しかし迎え撃つフラヴィの垂直切り下ろしに抑えこまれてしまう。ギチギチと悲鳴を上げながら押し合う二振りの剣は拮抗し、二度目の引き分けを告げていた。
音楽が終わった後、二人は荒い息を吐きしばし見つめ合っていたが、どちらからともなく剣を収めた。
楽しい時間だった。ユーグは心からそう思う。任務であればこそ、剣舞であればこそ、そしてフラヴィが相手であればこそ、ユーグは本気を出し切ることが出来たのだ。ユーグの専門とする実戦剣術の立ち会いではないのが少々残念だが……それでもいつぶりか分からない刺激的な戦いだった。
(だというのに……何故だ? 何とも収まりが悪い気がするのは……)
それはユーグの剣を遂に捌ききったフラヴィも同様のようだ。
「舞踏会に出てから初めて、加減なしに踊れた気がいたしますわ。ええ、貴方との出会いは本当に喜ばしいものだと心からそう思いますわ」
言いつつも、フラヴィは収めた剣の柄をぎゅっと握りしめる。何らかの不満が燻っているのは間違いない。
「……いくらユーグ様が手練れとはいえ……剣舞に関してのみは私に一日の長が……実際反応が少し遅かったですし……でも剣は本当に重くって……不本意ですわ…………朝のカフェみたい……」
「フラヴィ嬢? 何か仰いましたか?」
「い、いいえ。何も。それよりもユーグ様、名前の綴りを教えて下さる? 今日の出会いを手帳に記しておこうと思いますの」
フラヴィは手帳を取り出した。覚えておくべき事が何かと多い舞踏会に、手帳を持参するのは半ばマナーとなっている。これと女城主と名付けられた飾り鎖に下げられた鉛筆を使えばメモには困らない。
「記憶に留めておいていただけるとは光栄です。喜んでお教えしましょう」
無論フラヴィの陥落を狙うユーグはこれを拒む理由はない。
(俺の名前を覚えておきたい、か。ということはフラヴィ嬢が抱いた俺への第一印象は悪くなかったと考えていいだろう……むしろ好かれたまであるのではないか?)
ユーグが綴りを教えるとフラヴィはその手帳に鉛筆で「ユーグ・コンラディン」と書き込んだ。それに続けて何事かをつらつらと書き添える。
ユーグからそれが見えたのはほんの一瞬。だが視力、動体視力双方に優れるユーグは内容を読めてしまった。
『ユーグ・コンラディン……スカした笑みを浮かべ、女達にちやほやされてるいけ好かない奴。の癖して剣技は凄い。気に入らない。いつか必ずブチのめす』
(…………うん?)
思わず目をこすったユーグの前で、フラヴィはこれ以上ないくらい優雅に礼をする。
「それではご機嫌よう、縁がありましたらまた一緒に踊っていただけると嬉しいですわ」
以上がユーグの「恋愛任務」の初日。およびに標的のフラヴィ・ド・ヴァルシールとの初接触の一部始終だった。
光り輝く百合のような容姿をしていながら、今一つ地味な格好をした少女。
絢爛なダンスホールの片隅で、椅子に座りながらぼんやりとしていた少女。
しかし言い寄る男は切って捨て、絡んでくる女には徹底反撃を行う極めて気性の激しい少女。
何より、剣舞というフィールドにおいてユーグに引けをとらないほどの剣捌きを見せる少女。
この時のユーグがフラヴィについて知っていたことはこれだけだ。
この時は、まだ。