憎悪の哲学
世界はすでに腐っていて、人々には良心が見られない。
自分に害が及ばない限りで善人のような態度はとるが、害を恐れればすみやかに立ち退く。
お遊び程度の偽善ばかりで、他人のために痛みを引き受ける気高さはもうどこにも見当たらない。
そして、自分の生活を第一に生きることに満足している。
限界まで貧しくなどないくせに、そのことを言い訳にして常に満足する。
つまり、世界にはゴキブリしかいない。
公正世界仮説と権威主義に大衆は染まっていて、だから苦しむ者を見捨てることに皆、慣れてしまっている。公正世界仮説と権威主義に染まった内側からでは、それが罪だと自覚することができないのだ。
公正世界仮説に染まっているから、自己犠牲的な良心などなくても、世界はうまく運営されていくように見える。良心や義の尊厳はどこまでもゼロに近づく。
すなわちモラルは軽視され、マネーの哲学が世界を覆う。
大衆は経済単位として純化されていき、家族の内ですら利己や不和が起こるようになる。
では、自己欺瞞に陥るような愚鈍と邪悪が問題の根源だとして、何によって世界を改めることができようか?
憎悪だけが力だ。
愛情によって世界を変えることはできない。
なぜならば、人が人である以上、愛情は他人よりもまず身内や自身のためのものであるからだ。
だからそこには、好都合な認知への認知バイアスが生じてしまう。キリスト教道徳の自己欺瞞から抜け出せない。
憎悪だけが力である。
自分の身が滅ぶ結果になろうとも、一矢報いてやりたいという復讐心だけが、正義を生む。
なぜならそれは、個人としての合理的な利害を超越しているからだ。
そのとき初めて、自分さえ助かればいいという我欲を超えて、人は倫理的矛盾を本当に憎むことができる。
どこかにシワ寄せすればいいという馴れ合いを超えて、天下から倫理的矛盾を排除しようという武人的精神に至ることができる。
例えば、社会に格差があったとして、権力者の改心を待ってその不公正を正すことなど、かなわない。
既存の世界体制で利益を得ている人々は、自己欺瞞のループから抜け出す力を持っていない。だから、本質的には間違った哲学の中にあって、そこから抜け出す進歩には至らない。
他人事として他人に同情の念をいだくとしても、くだらない偽善に終わる。
本当の優しさを持つことができるのは、自分自身の身体で痛みを知っている者達だけである。
痛みを受けても、もし寛容を正義だと思えば、世は正せない。
寛容は正義ではない。不寛容が正義である。
寛容が正義だとは、自己愛である。
腐った世の中を腐っているともし言えば、侮辱と攻撃と嘲笑を受ける。
許容し合い肯定し合うべきだとする奴隷道徳を侵害するからである。
そしてその自己愛の体制は、自尊心を守るためならいくらでも残酷になる。
口先で偽善を言う者達ほど、その裏では冷淡で残忍なのだ。
他者への言葉にごまかしのない者ほど、自分自身にも正しく厳しい。
痛みや苦しみや憎しみ。それらは必ずしもマイナスの価値ではない。
喜びや幸福もまた、必ずしもプラスの価値ではない。
そのように、個人主義的な幸福観を超越すべきだ。
人間の社会や人間の人生が、各々の幸福を目指すレースにすぎないということはない。
葛藤こそ糧であり、限りない苦しみにすら意義がありうる。




