哲学なき暴力装置
世界は、一度破壊され、再生されなければならない。
正義の定義が改められねばならない。
我欲を露悪的に許容しあうキリスト教倫理から、弱者を守るために命を顧みない武人的な倫理へと。
そのように武人的な倫理を指向することは、軍への愛好を誘う。
しかし実際には問題がある。
世界はかつて、東西冷戦によって定義されたからである。
すなわち、既存の軍隊は、近代的な国民国家思想を基盤にしている。
それは近代法を基盤にしていて、近代法は近代西洋に由来している。よってゴミである。
近代国家の軍隊はすべて、西洋キリスト教の歴史的な個人主義に深く汚染されているのである。
例えば、国軍の任務は国民の生命と財産を守ることだという。
公共の正義のためならば国民の生命と財産を売却せよとは言わないのである。
つまりこれは契約社会論に基づく利己主義でしかない。
既存の軍隊は本質的に、良心なき暴力装置にすぎないことになる。
義のために個人が犠牲となるべきときがあるように、義のために国が滅びるべきときもある。生命や財産などという物質的価値についてはなおさらである。よって、そのような倫理の本質的性格が加味されていない以上は、近代的な軍隊は倫理的な性質を備えているとはいえない。
そして、近代以前を見るならば、世界には軍事政権は稀である。
大国ではすでに官僚政治が、歴史的な国々らでも貴族政治が行われていた。
軍事政権の稀な例は、徳川幕府の侍達だ。
侍の精神によって世界は再建されるべきだ。
必ずしも日本の侍を模範とする必要はないが、侍という一例に恵まれていることは、日本の一つの長所である。
西洋の貴族は、富裕であることが貴族である証だと思っていた。
侍は、富裕を顧みないことが武人たる証だと思っていた。
そのような、物質的価値に対する超越的な価値観が、不公正な格差を招かないためには必要だ。
我欲は恥辱だと認識していることが、支配階級の要件なのだ。
現代社会の富裕層は、我欲を恥辱だと思っているだろうか?
上から下まで誰一人、思ってはいない。
マネーの哲学が世界を覆い、人類にはもうゴキブリしかいないのである。
それでうまくいっていると、ゴキブリ達自身は思っているのである。




