透明なポリ袋とビール缶
我が家には決まり事がいくつかある。
平日の朝食は夫が作り、夕食は妻である私が作る。休日の食事は全て夫が作ることになっている。洗濯は平日に二回と休日に一回、平日が夫で休日が私だ。朝のゴミ出しは私で、夜の風呂掃除は夫の担当。私たち共働き家庭なので、家事については他にも色々な決まり事がある。
我が家の決まり事は柔軟にできている。私が平日の夜に夕食を作れない日は、夫の休日の食事当番を一つ引き受けることで、代わりに料理をしてもらっている。出張などでゴミ捨てに行けない日は、風呂掃除と交換をする。
ある金曜日の朝、私は会社で使う資料が見当たらず、寝室の布団をひっくり返していた。昨晩、眠りに落ちる前にベッドの上で資料を読み寝落ちして以降の行方が分からない。資料は百ページを超える営業レポートで、全ページがカラー。印刷費用だけで千円以上がかかっている。出社してからもう一度印刷することもできるが、見つかったら口うるさい経理に何を言われるかわからない。何としてでも見つけ出さなければならなかった。
時計を見ると七時五十分。今日は空き缶と空き瓶のゴミ出し日で、午前八時までにゴミを出すのが私の住む町内のルールだった。
「ごめん、ちょっと手が離せないから缶ごみを出しておいて」
私は寝室のベッドの下に潜り込みながらリビングにいる夫に声をかけた。私の夫は経理マンとして大手の製造会社に勤めている。会社が近いため、出社はいつも私よりも遅い。おっとりとして性格で、家事に協力的。少し負けず嫌いなところはあるが、自慢の夫であった。優しい彼は、私の頼みをきちんと聞いてくれた。
「わかったよ。その代わり、今晩の風呂掃除よろしくね」
「任せて!」
ゴミ出しと風呂掃除ではかかる負担が違うのだけれど、贅沢は言えない。私はもう一度「お願い」と叫ぶと、今度はサイドテーブルの辺りで資料を探し始めた。
私の夫は大の酒好きで、毎晩、三本の発泡酒で晩酌をしている。一週間のお酒代は決まっていて、二千五百円の範囲に収めることが我が家のルールだ。夫は質よりも量派なので、大手スーパーのプライベートブランドの発泡酒、お値段は一本八十四円を愛飲していた。発泡酒はシンプルなオレンジ色のデザインをしており、一見するとオレンジジュースを飲んでいるように見える。毎週金曜日、私は一週間分の発泡酒の缶二十一本を透明なポリ袋に入れてゴミ捨て場に捨てに行っていた。それを今日は夫が捨てに行ってくれる。
夫は台所にあった空き缶のポリ袋を持って、ごみを捨てに行った。三分もしない内に戻って来て、開けっ放しの寝室の扉をノックした。
「ゴミ捨てて来たよ。あと探し物ってコレ?」
夫の手には私が探している資料があった。
「それ! どこにあったの」
「洗面所においてあったよ。寝起きで顔を洗いに行ったとき一緒に持っていったんじゃないかな」
「ありがとう! 愛してる!!」
私は夫に抱き着き、その頬にありったけの感謝を込めてキスをした。夫は照れ隠しでわざと明後日の方向を向く。
「あ、そういえば、この前引っ越してきたお隣さんの旦那さんにゴミ捨て場で会ったよ」
「へえ、そうなの。確か商社に勤めてらっしゃるんだっけ?」
「スーツを着ていたけど仕事についてはわからないな。軽く会釈しただけだからね。あ、僕と同じように空き缶のゴミ出しをしていたよ」
「へえ、そうなんだ」
「ウチとおなじ発砲酒を飲んでいるらしくてね。同じくらいの数の同じ色の缶を袋に入れていて、お互いにちょっとびっくりしたんだ」
「最寄りのスーパーが同じだから、飲むお酒も同じなんでしょ。もしかしたら気が合うんじゃない?」
「そうだね、今まであまりご近所付き合いをしてこなかったけど、たまにはいいかもしれない」
私と夫の間に子供はいない。いつか授かるだろうとは思っているけれど、未だにその気配がない。子供がいないと、PTAとか子供会とか、町内のお祭りとか、そういうイベントに関わる機会が少なくなる。その点を夫は少し気にしているようだった。
私はもう一度夫にキスをする。
「今日はキスが多いね」
「そういう気分なの。そろそろ出かけるね」
寝室の捜索で乱れた服装を直し、私は資料を持って家を出た。「行ってきます」というと、後ろで夫が「行ってらっしゃい」と返す。ちょっとしたトラブルはあったけれど、ごく普通の一日の始まりだった。
それから一週間後の金曜日、私がリビングでテレビのニュースを見ていると、朝食の皿を流しに下げに行った夫がカウンターキッチンから顔を出した。
「空き缶、僕が捨ててこようか?」
「いいの? 風呂掃除は代わらないよ」
「かまわないよ。お隣の旦那さんとまた会えるかもしれないし」
私は家でお酒を飲まない。夫はお隣の旦那さんが同じ発泡酒を飲んでいるらしいので親近感を持っているのだろう。暮らしている地域で特に知り合いがいない夫にはいい機会かもしれない。「じゃあお願い」と言うと、夫は軽い足取りで、オレンジ色の缶がつまった透明なポリ袋を持って外に出て行った。
五分ほどして、玄関の扉が開く音がした。夫が帰って来たのだ。
「どう、お隣さんには会えた?」
ちょうどテレビがコマーシャルになったので、私はリビングに戻ってきた夫の方を振き、少し驚いた。夫はうなだれ気味で、何かに打ち拉がれ気落ちしているようだった。
「どうしたの? ゴミ捨て場で何かあったの?」
「今日もお隣の旦那さんとすれ違ったんだ」
「もしかして何かひどい事を言われた?」
「いいや。簡単な挨拶をしただけだよ。でも、」
「でも?」
「お隣の捨てる空き缶がプライベートブランドの発泡酒じゃなくて、アサキのスーパートライになっていたんだ」
スーパートライは有名なビールで、お値段はプライベートブランドの発泡酒の倍以上する。銀色の缶ビールと言えば誰もが思い浮かべる日本を代表する缶ビールで、私のシンガポール人の同僚も大好きだと言っていた。
「あなたもスーパートライが飲みたいの?」
「僕はビールっぽい飲み物が飲めればそれでいいんだ。でも、ビールを飲んでいるお隣さんと、発泡酒を飲んでいる僕じゃあ友達にはなれないかなって」
「……そういうものなの?」
正直、お酒を飲まない私にとっては発泡酒もビールも同じ苦い液体でしかない。とはいえ、私の会社でも腕時計や外車でマウントを取り合っている男性社員はいるので、夫の気持ちもわからなくはなかった。男性にとって、身につけているものや食べ物の値段というものはプライドに関わる重要な物なのだろう。
「お酒、次からスーパートライにする?」
「でも、一ヶ月のお酒代は決まっているし……」
「これを機に減らしてみたら? 身体にもいいし、お隣と話す良いきっかけになるかも」
「確かに、そうかもしれないけれど」
夫はたっぷり時間をかけて考えてから「来週はアサキにしてみるよ」と言った。
その翌日の週末、私と夫は近所のスーパーでアサキスーパートライの缶ビールを十四本購入した。セールで一本百八十円だったので、一日二本で一週間分を購入した。予算を少しだけオーバーしていたが、帰りに嬉しそうにビールの入った袋を持つ夫を見れば、まあいいかという気持ちになる。
それから夫は毎日ビールを二本、晩酌で飲むようになった。お酒の量が減るのは単純に嬉しいことだ。将来のビール腹を防げるかもしれないし、健康にもいいだろう。
そして次の金曜日の朝、朝食を終えた夫は軽い足取りでキッチンに入ると銀色の空き缶が入った透明なポリ袋を持った。私はいつも通り、ソファに座ってテレビを見ている。
「今日もゴミ捨てに行ってくれるの?」
「うん。ビールを新しくしたからね。今日こそお隣さんに話しかけてみるよ。もし気があったら、ホームパーティとかしてみたいな」
「そうね、お隣さんもお子さんがいないみたいだし、話が合うかもしれないわね」
「じゃあ、行ってくるよ」
私は暖かい気持ちで妙に子供っぽい態度を見せながらゴミ捨てに行く夫を見送った。そして三分もしない内に、夫が帰ってきた。会えなかったか世間話に失敗したのか、見るからに元気が無くなっていた。
「お隣さんと会えなかったの?」
「うん、僕がゴミ捨て場に着いた時には隣の旦那さんは駅に向かって歩いていたんだ。後ろ姿は見えたんだけどね」
「そう。まあ朝の忙しい時期だもの。来週話しかければいいじゃない」
しかし夫は、まだ何か言いたい事があるらしく、リビングの入口でもじもじとしていた。
「どうしたの?」
「お隣の缶ビール、今度は金色のエビスになっていたんだ」
「……」
エビスビールは、スーパートライよりもさらに高価な缶ビールだ。缶の色は高級感溢れる金色。会社へのお中元やお歳暮としてよく送られてくるし、私のドイツ人の同僚もエビスビールを絶賛していた。
「ねえ、来週の缶ビール、エビスにしてもいいかな」
「その分飲める量は減るけどいいの?」
「うん、取りあえず、お隣と同じものを飲んで、話す切っ掛けにしたいんだ」
その翌日、私と夫はスーパーでエビスビールを購入した。一本当たりお値段は三百円近く、わずか八本しか買えなかった。一日一本しか飲めない。それでも夫は黄金色に輝く缶ビールを手にして嬉しそうにしていた。
それからの一週間、夫は今までよりもじっくり時間をかけて一本の缶ビールを消化していた。まるで何かと戦うかのように、テレビや新聞を見ながらちびちびとビールを飲む。今まで三本飲んでいた晩酌が一本に減ったことで、だいぶ苦しんでいるようだった。先週のスーパートライの時はまだ我慢できていたようなのだけれど、二週目、しかも今までの三分の一の量となるとかなり厳しいらしい。それでも、夫は頑張ってアルコール不足に耐え、ついに次の金曜日を迎えた。
金色の空き缶を七つ、小さな透明なポリ袋に入れてゴミを捨てに行く夫の背中に、私は嫌な予感を感じていた。欲望には上限はない。きっと今度は地ビールだとかドイツビールだとか、何かプレミアムなビールをお隣が飲んでいるという話になるに違いない。あるいはワインとかウイスキーとか別の種類のお酒になっているのかもしれない。週二千五百円のお酒代でまかなえなくなるのは時間の問題に思えた。
そして十分くらいの後、予想した通り夫は肩を落として帰ってきた。私は泣き出しそうな夫の顔を見て真剣に悩みはじめた。愛する夫のために、一週間のお酒代を増やしてあげるべきか。それとも、現状を維持させてお酒の量を減らさせるか。どちらも一長一短だ。取りあえず、状況を確認しよう、私はソファから立ち上がり夫に声をかけた。
「どうだった?」
「今日は、やっとお隣の旦那さんと話せたんだ」
夫は力なく答えた。ようやくお隣の旦那さんと話せたのにまったく嬉しくなさそうだった。おそらく、また男のマウントの取り合いに負けたのだろう。
「今度はどんなビールだったの?」
「それがね、お隣の旦那さんはお酒を飲まないんだって」
「え?」
「毎週捨てていたのは奥さんが飲んだお酒なんだって。ねえ、僕は何をしていたのかな」
「……知らないわよ」
私は取りあえず元気の無い夫の肩を軽く叩いて慰めてみた。競っていた相手がお隣の奥さんだと分かり、男同士で戦う必要は無くなった。そもそも、最初から戦う必要があったのかは大いに疑問だが、問題は解決したらしい。
「来週からのお酒はどうする? エビスのまま? それとも発泡酒に戻す?」
「……発泡酒にする」
その次の日から、夫の晩酌は再び一本八十四円の発泡酒に戻った。いつも通りの日常が帰ってきたのだ。そして夫に小さな変化もあった。時々、夫はスーパートライやエビスなど本物のビールを飲むようになった。それと、夫は隣の旦那さんと仲良くなり今度一緒に釣りに行くことになったらしい。結果的に夫に新しい友人ができたのだから一連のビール騒動に感謝だ。
私にも変化はあった。金曜日の空き缶捨てがいつの間にか夫の仕事になっていたことだ。代わりにどこかの家事を引き取ろうかと思ったが、本人が断ったのでそのままにしている。今度、夫とお隣の旦那さんが釣って来た魚でホームパーティすることになった。その時は日本の地ビールの詰め合わせを隣の奥さんに贈るつもりだ。