第1章 第4話
営業は夜の8時まで。
店の片付けを終えると僕は二畳院さんとカウンターに座った。
「疲れたね。甘い物とか飲む?」
「そうね、じゃあ一平くんは辛い物とか食べる?」
「ああ、夕食だね。大丈夫だよ、自分で作るから」
「いつも何を食べてるの?」
「えっと、昨日はカップラーメンで一昨日はカップ焼きそば。その前はカップうどんだったっけ」
「麵尽くしね。じゃあ今日はスパゲティにしましょうか」
彼女は席を立つと厨房に入り冷蔵庫の中と睨めっこを始める。
「大丈夫だよ、自分で出来るし……」
「あら、わたしは自分の晩ご飯を作るのよ。ここの材料ありったけ使って」
「はははっ、前にもこんなことあったよね」
じゃあ僕は甘い物を作ろうか……
黙って立つと厨房に入る。
「わたし、ミックスジュースがいいわ。バナナと林檎をたっぷり使ってね」
見るとバナナと林檎は結構余っている。
「はいはいわかりました。これ、命令ですよね」
「そうよ、一平くんは拒絶も謝絶も中絶も出来ないわ」
「うん、どうあがいても中絶は出来そうにないね」
僕は林檎を剥き始める。
彼女はたっぷりのお湯を沸かしながら、冷蔵庫からハムや野菜なんかを引っ張り出す。サンドイッチ用の材料くらいしかないのだけど……
「しかし今日は驚いたね」
「ええ、まさかカモがネギ背負ってやってくる、なんてね」
この店でバイトをしたいと申し出た総理のひとり娘、朝風もみじ。
彼女はその目的を、僕らを監視するためだと、ハッキリ明言した。
あの憎き傲慢女、朝風総理の娘に監視される。そんな危険分子を身内に採用する必要はミジンコほどもない。
しかし、二畳院さんと僕の意見は一致した。
採用だ。
彼女の申し出の後、僕は二畳院さんを手招きしてカウンターの隅へ行った。
「ねえ二畳院さんはどう思う」
ふたり近づきヒソヒソ、ごにょごにょウィスパーズ。
「わたしは採用すべきだと思うわ。だってこれは絶好のチャンスよ。彼女がわたしたちを監視するのなら、わたしたちもあの女を利用すればいいのよ」
「二畳院さんならそう言うと思ったよ。実は僕も同じ意見なんだ」
そうして、彼女には早速明日から来てもらうことにした……
湯が沸くとスパゲティを放り込み、フライパンではハムや野菜を炒める二畳院さん。
「しかし、いい気味だわ。あの女が泣くほど悔しがった、なん~て」
「だよね、まずはこの店の再開は大成功だったわけだ!」
バイト採用を伝えると、あの女のことを聞いてみた。
この店が再開したことを朝風総理は知っているのか、と。
「ええ、もちろん母も知ってますよ。ニュースになってますからね」
「で、どんな反応だった?」
「どんな反応って……」
彼女は首を傾げて暫く考えると。
「……泣いてた、かな」
「泣くほど悔しがるって、ざまーみろだ!」
「……」
「あ、ごめん。無神経だった。君のお母さんだもんな」
「ううん、構いませんよ」
「じゃあ、朝風さんがここへき」
「もみじ、でいいですよ。「朝風」じゃあ色々やりにくいので」
「あっそうか、珍しい苗字だもんな。わかったよ。じゃあ…… もみじさん、がここに来たのはなぜ? お母さんから監視してこいって言われたの?」
「いいえ、完全無欠にあたしの意志ですよ」
「意志、って?」
「興味があったから、かな。ねえ次はあたしが聞いていいですか!」
彼女は笑顔のままで、強引にターンを変える。
「あ…… ああ、もち」
「赤月さんはどうしてこの店を再開したんですかっ?」
「ああ、それは、何て言うか…… 君には悪いけど、朝風総理に教えてやるためだよ。何でも彼女の思い通りにはならないんだ、ってね」
「なるほどね。うん、わかった。正直に答えてくれて嬉しいですっ!」
二畳院さんは朝風もみじを逆に利用するため採用しよう、って言った。もちろん僕も同意見。だけど…… 何これ、彼女って! あの冷血無比な総理からこんな子が出てくるなんて信じられない。もしかしたら彼女は猫を被った悪魔で、僕は騙されているだけかも知れないけど。
しかし、僕にはどうしても彼女を嫌いになれない……
目の前ではフライパンにクリームスープを流し込み、卵を溶いていく二畳院さん。僕は大量に作ったミックスジュースを大きいグラスになみなみと……
「あ、わたしは少しでいいわよ。太るから」
「って、バナナも林檎もふんだんに使えって言ったの、二畳院さんだよね!」
「ええ、でも気が変わったわ。これは命令だから!」
「ええ~っ、せっかく美味しく出来たのに……」
悪魔はここにいた。
でも命令と言われちゃ仕方ない。先に彼女用として普通のグラス7分目に注ぐと、一番大きなコップに残りをなみなみと注ぐ。それでも余っちゃった……
「じゃあ先にあっちの席で待っててくれる? わたし、窓際の席がいいわ」
「はいはい、わかりましたよ、ご主人さま」
「この店のご主人は一平くんでしょ? わたしは悪魔、だから」
あわわわわ、完全に根に持たれてる予感。もう、どうにでもなれだ。
「じゃあフォークと調味料も持っていきますね、悪魔さま」
窓際の席にジュースとフォークとストローと、それに調味料一式を持っていく。
やがて彼女はスパゲティを二皿運んでくると、僕の前に座った。
「カルボナーラか、結構ボリュームあるね、僕のは。それに引き替え……」
「何よその目は。こんなクリームとか卵を山ほどぶち込んだの食べたら太るでしょ!」
「これ全部、うちの店の材料だよね」
「当然じゃない。つべこべ言わずに食べてちょうだい。冷めるわよ」
彼女はお上品にフォークにスパゲティを巻き付け一口頬張る。やっぱりどう見てもいいとこのお嬢さまにしか見えない。僕は溢れんばかりのミックスジュースに口を近づけ半分くらいを一気に飲み干す。そして山と盛られたスパゲティをガッツリ頬張る……
「美味いっ! 二畳院さんってホント料理が上手いね」
「何言ってるの? これってこの店のレシピでしょ。あなたのお父さんの」
「あ、ははは。言われてみたらそうだね……」
「ちょっと具が多いだけよ」
……本当は分かってる。
僕の料理とジュースだけがやけに多い理由くらい。
だから、ちゃんとお礼くらい言わなくちゃ……
「二畳院さん、あのさ、ありが」
「さくら、でいいわよ。「二畳院」じゃ舌噛みそうでしょ」
「いや、そんなに長くないし大丈夫だけど」
「二畳院、じゃ色々やりにくいでしょ?」
「は? なんで?」
「なんで? じゃないわよ。どうして「あっそうか、珍しい苗字だもんな」って言わないの! こ、これは命令よ!」
出た、悪魔さまの理不尽な命令。
「いや、命令と言われたら仕方ないけどさ、二畳院って名前、カッコいいのに」
「カッコいい? どこが?」
「音の響きとか、文字列とか。きっとご先祖様はお公家様とか貴族とか、お殿様とかの血筋なんだろ?」
「何言ってるの、よく見なさいよわたしの苗字。二畳院よ二畳院。「二畳」なのよ! 「二条院」でも「二乗院」でもないのよ、「二畳院」なのよ!」
「は?」
「もう、察してよね。母の祖先は江戸時代の極貧な小作人らしいの。村で一番貧しくて家も粗末で狭くて二畳しかない、ってことで付いた苗字なのよ」
100年前は違ったらしいけど、今の日本では結婚しても苗字は変わらない。いや、法律上は結婚を機に相手の姓に変更する(夫婦同姓)も可能だけど、そんなことする人はまあいない。ちなみに子供はどちらかの姓を名乗るんだけど、多くの場合、男の子は父の、女の子は母の姓を名乗るのが普通だ……
「……」
「わかったかしら?」
「あ、あのさ、じゃあ、お父さんの方が名家とか?」
「父のことはどうでもいいでしょ」
ひいぇええええ~っ!
すっごい不機嫌……
「あ、ごめん、二畳院さん」
「一平くんっ、死にたいの? 苗字の由来を聞いてもまだ呼ぶ?」
「あっ、そうだった! ごめん許してさくらさまっ!」
「ね~え、一平く~ん」
「ひやああっ!!」
「一平くんの中のわたしって、そんなに怖い女?」
「あ、いやそうじゃなくって……」
「何なら手脚を縛りあげてムチでいたぶってあげましょうか?」
「いや、今のはその……」
「それともわたしの靴をぺろぺろしてみる?」
「あの、今のは間違いで、さ、さくらさんっ!」
「はい、ちゃんと言えました。あのね一平くん、わたしだって分かってるの、わたしが学校の一部男子に陰口を言われてることくらい。だけどわたしだって、男なんてみんな信じてないから」
「……え?」
「男なんて信じてない。信じられない、信じない!」
「って、でも、さくらさんって会話も楽しくて、気配りも凄いって男のお客さんにも評判いいじゃん」
「それは仕事だからだわ。お金のために利用してるだけ。男なんて利用するためにあるのよ」
「……(男の僕はどう反応したらいいんだ?)」
「だから一平くんも利用されてるのよ。わたしなんか所詮そんな女」
「それはウソだ」
「本当よ。今だって晩ご飯をタダで食べてるでしょ」
「材料はそうだけど、作ったのは君だよ」
「ミックスジュースは一平くんだわ」
「そんなことなら…… 僕は喜んで利用されるよ」
「……」
「……」
「……ほら、スパゲティ、冷めちゃうわよ」
「あ、そうだね」
僕は彼女に聞きたいことがたくさんある。
一番知りたいこと、それは彼女が朝風総理を怨んでいる理由。
あの女は彼女の家庭を壊した、と言っていた。でも、一体それはどんな話だろう。
しかし今は、今の彼女にはとても聞けそうにない。
細長い紙袋から白いストローを抜き出したさくらさん。微かな笑みと一緒に僕のグラスにそれを差し込むと、次に自分のストローも抜き出し、軽くジュースを啜る。
「ありがとう」
「これもあなたの家のストローよ」
今の彼女はこのストローのように儚く、今にも壊れそうな気がして。
「でも、嬉しいよ」
僕はそのストローで、残ったミックスジュースを一気に飲み干した。