序章 第3話
僕は厨房の明かりを点けるとポットにお湯を沸かす。
父の手伝いをしていたからコーヒー淹れるのはお手のものだけどさ。彼女の希望通り美味しいと思うタンザニア産を中挽きにする。うちはマシンを使わない。他の店との差別化のためだ。僕は昔ながらのネルドリップを準備する。
しかし、これから一生、彼女の命令に従えだなんて。
まさか?
もしかして!
二畳院さんも朝風総理を恨んでいる。
家族を引き裂かれ、特待生をも断って、あの女に一泡吹かせようと言うほど、強く深く恨んでいる。
まさか毒矢で総理を暗殺しろだとか、爆弾持って特攻しろだとか、そんな指令を出すつもりじゃ……
女子には優しい彼女だけど、男に対しては、とても冷徹だって噂も聞く。
彼女にコクったサッカー部のイケメン森山も、野球部エースの黒沢も、けんもほろろに断られ、彼らのプライドは木っ端ミジンコで再起不能になったと聞く。
理想はキャビアや松茸より高く、捨て方は残飯のように屈辱的に。女神みたいな容姿でも、心は悪魔、それが彼女のホントの顔だ、と陰口を言うヤツもいる。
そんな彼女の命令で、あっさりコーヒーを淹れ始めたけど……
胸の辺りで不安が騒ぐ……
しかし。
その二畳院さん、何故か僕と一緒に厨房へ立つと卵と砂糖を混ぜている。卵白はメレンゲにし、棚から粉を取り出すとふるいにかける。
「何してるんだ?」
「見たら分かるでしょ? これが季節外れのバレンタインチョコに見える?」
「見えないね。パンケーキかな?」
「ご名答。さすがはデザート評論一筋300年の一平くんだわ」
「そんなに生きてねえよ、悪魔じゃあるまいし」
「そうね、でもわたしは悪魔よ!」
なんだかすっごい根に持たれた予感……
その悪魔さまは生地が出来るとフライパンで焼き始める。
いつもヒラヒラのメイド服を着て接客専門だったのに、すごく手際がいい。
やがて、パンケーキが焼ける甘い匂いが鼻をくすぐって僕の空腹に染みてくる。
「二畳院さんって料理うまいんだね」
「さっき言ったでしょ。わたし、ひとり暮らしだから」
僕はコーヒーを2杯淹れるとテーブルへ運んだ。
「片方のコーヒーにはミルクを入れてね」
「はいはい」
注文の多い悪魔さまだ。
ミルクをピッチャーに入れて、席に運ぶと命令通りにたっぷり入れてやる。やがて彼女は2皿のパンケーキを持って来た。
そうして丁寧にテーブルに並べると自分も席に着く。
「お腹が空いたわね。さあいただきましょう」
目の前には4段にも積まれ、たっぷりのバターが載った大きなパンケーキ。
その向こう、彼女の前には2段の小さなパンケーキ。
彼女はふたつのコーヒーの内、何も入れてないそれを黙って僕の前に差し出すと、パンケーキを頬張った。
「これ、食べていいの?」
「当然でしょ。この状況で食べなかったら慰謝料ふんだくるわよ」
彼女の声はどこか楽しげで。
「ありがとう、二畳院さん」
「あら、材料は全部あなたの家のものよ」
「はははっ。確かにそうだね」
彼女が作ったきつね色のパンケーキはふんわりとして甘みも程良く、夢中で食べた。
すごくお腹が空いていたからかも知れない。
だけど、こんなに嬉しいパンケーキは食べたことがない。
食べながら、ふと顔を上げる。
僕が食べる様子をじっと伺う彼女の瞳に何故だか顔が熱くなって、また下を向いて夢中で食べる……
「お、美味しいよ」
「ガツガツ貪るように食べながら「不味い」なんて言ったら偽証罪で訴えるところだわ」
「ははははは……」
「このコーヒーもいい香り、とっても美味しいわ」
「そでっ…… んぐんぐんぐほっ!」
「あっ、大丈夫? 無理して喋らなくてもいいから」
「ん~~~~~ ふ~~~っと…… 今度はミルクに合うように淹れるね」
「わたしなんかには、これで充分よ」
「……」
やがて。
「ところで、一平くんはこのお店を再開させるのよね」
「ああ勿論だよ。あの女がどんな顔をするか、想像出来るだけでも価値があるよ」
「そんな一平くんに次の命令があるんだけど」
「次の命令?」
「そうよ、一平くんには拒否権も黙秘権も、前売り割引券もないわ」
「何の前売りだよ!」
パンケーキの山を食べ終えた僕に、澄ました顔で命じる二畳院さん。
「このお店に、新生ツインフェアリーズに、今すぐわたしを採用しなさい!」
「えっ?」
「ちゃんと時給は奮発するのよ!」
「ちょっと待って。そりゃあ、そうしてくれたら、二畳院さんが一緒に働いてくれたら僕は心強いよ。ダントツの一番人気だった君が店にいてくれたら商売繁盛は約束されたも同然だ。でもさ、でも、どうして?」
「さっきも言ったでしょ。わたしにはもう食べていく手段がないのよ。だから、この店の後継者として、一平くんにはわたしを雇用する義務があると思うの」
「義務って。店さえ再開すればあの女の顔に泥くらいは塗ったことになるんだよ。君には国費特待生の……」
「一平くんだって三つ葉の話があったんでしょっ!」
「……(全部知ってるんだ)」
「一平くんはどうするの? あの女の温情に頼るつもり?」
「いや、それはない」
「じゃあ収入にアテはあるの? わたしには、ないわ」
「……本当にいいの?」
「だから、さっきから命令だって言ってるでしょ!」
「ごめん。わかった…… ってか、なんか、ほんとうに、その……」
さっきまでは、たったひとりだった。
ずっとひとりかなと思っていた。
でも……
「ありがとう」
「お礼なんかいらないから、バイト代、奮発してよね」
「あ、うん、勿論だよ」
「じゃあ、誓いのタッチ!」
「うん!」
パチン!
僕は両手でタッチを交わすと、何かが溢れて零れないように、思いっきり笑って見せた。