第2章 第10話
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もみじさんとふたり外へ出ると、そこは車のヘッドライトだけが行き交う世界。
「一平さん、どうして教えてくれなかったの?」
「いや、僕も知らなかったんだ」
「一緒に住んでいるのに?」
「どうしてそれを……」
「分かるわよ。昨日、引っ越しのトラックがここに来るの見てたもん。じゃ、また明日」
自らの隠れた行動をあっさり吐露したもみじさん。
そんな彼女を見送ると、僕はまたリビングへ戻る。
綺麗に片付けられたテーブル。
さくらさんはキッチンに立ち食器を片付けていた。
僕に気がつくと笑顔を作る彼女、だけどその頬は濡れている。
「笑うでしょっ、さっきの話。あれがわたしの恨みの全て。わたしのこと嫌いになったでしょ、軽蔑したでしょ。だってわたしは鳥海おっぱい大臣の娘…… くくくっ…… 構わないのよ、笑っていいのよ、バカにしていいのよ……」
「ねえさくらさん、聞かせてよ、さっきの話を、もっと」
「えっ?」
「もっと話したいことがあるんじゃないの? 言いたいことがあるんじゃないの?」
「ええっ? でもいいの? こんなわたしの話、聞いてくれるの?」
「もちろん」
やっぱり。
彼女の強がりはイヤと言うほど見てきた。
でもきっと、心の中は違うんだ……
「ありがとう一平くん」
「……」
「あのね、母は…… わたしの母はね、わたしなんかと違ってとっても綺麗なの」
僕を真っ直ぐに見つめるその黒い瞳は、何ものよりも魅惑的で。
「えっ? さくらさんだってすごく綺麗じゃ」
「ありがとう。でも違うの。わたしは薄汚れているわ。いや、もう真っ黒かも知れない。そう、これは心の話。気持ちの話。見た目のことじゃないの」
「……」
彼女は頬を拭うと微かに口元を緩め、そしてまた僕から目を逸らした。
「昔、父の家は母子家庭で、彼のお母さんも病弱で、結局10年前に亡くなったんだけど、そんなんだから母は大学を途中で辞めて父のために働いた。父が金にならない大物議員の手伝いをしながら大学を卒業できたのも、超一流の大学院に行けたのも全部母がいたから。母は人生の全てを父に託した。父に賭けた。だから父も頑張ったんでしょうね。若くから頭角を現してどんどん出世した。母も幸せだったに違いないわ。父が外務大臣に抜擢されたとき、マスコミは両親の二人三脚を持て囃したわ。美談よね、親の七光りも地盤も持たない貧乏人が上り詰めていくさまは。わたしの家はね、裕福じゃなかったの。でもね、母はわたしに「将来は総理大臣の娘になるんだから」ってしつけは厳しかった。優しかったけど厳しかった。だからわたしも頑張った……」
「いいよ、お茶は僕が入れるよ」
「ううん、一緒に……」
開いた上の棚からお茶の葉を取り出すと急須に入れる。
僕の横に立つ彼女はお湯が沸くのを待ちながら少し楽しげに。
「わたしね、サンマの塩焼きをナイフとフォークで食べるのが得意なのよ。凄いでしょ! もちろん大根おろしと一緒にね。何度も母に教えられたのよ。今度一平くんにも見せてあげる」
「あ、ありがとう」
僕の言葉にまた寂しげに頷くさくらさん。
「それなのに…… そんなに頑張った母を、父は裏切った。母はいつも薄化粧をして、ハッとするほど綺麗にして待っていたのに。父は(おっぱいに負けた)って言ったけど、そんなの言い訳。父は絶対に許されないことをしたの。だから写真誌にスクープされて報いを受けるのも当然だわ。でもね、母は父を赦したのよ。言い訳すらせず頭を下げた父をあっさり赦したのよ! 挙げ句に「あなたの人生はこれからよ」って火消しにも走ったわ。わたしあんなお人好し知らない。バカよ、大馬鹿よ! でも、わたしは母を、そんな母を世界でいちばん綺麗だって思ったの……」
「案外さくらさんもそうじゃないの、かな」
「何言ってるのよ、一平くんバカじゃないの! わたしならそんな男、こ、殺すわよ!」
「……」
彼女は沸騰したポットから湯を注ぐ。
「あとは…… 一平くんも知ってるでしょ。父は政界から追放された。それはひとつに母の優しさが災いしたからよ。母の美談が足を引っ張った。全てを捧げ尽くした母を裏切った父は日本中の女の敵だという声になった。あの女はそんな風潮を利用して一気に上り詰めて総裁選に勝ったのよ。父のような男を断じて許してはいけないって主張して。じゃあ母はどうなるの? 全てを赦した母は? 父が裏切っても尚、綺麗で優しく父に尽くした母はっ! 母はね、自分のしたことが逆に父の首を絞めたって気がついておかしくなってしまった。自分がプレッシャーをかけたからこうなったって自分を責めた…… ふふっ、もうどうしようもないわよね。母のおっぱいがもっと大きかったら、日本の歴史は変わっていたでしょうね!」
僕らは急須と湯飲みを持つと食卓に座る。
こぽこぽこぽ……
「ありがとう一平くん、わたしの話を聞いてくれて。嬉しかった…… あのね、わたし本当はね、本当はあの女の首なんかどうでもいいの、辞任なんかしなくたっていい。ただ、ただ母に……」
「…………」
「一言でいい。母に謝って欲しいの」
「……」
一瞬、時間が止まった。
それほど彼女は暖かで、そして美しかった。
「ごめんなさい、こんなことに一平くんを巻き込んで」
「い、いや、ますますやる気が出てきたよ! うん、絶対やってやろうよ。あの女の額にXXXなマークを描いて、そして謝らせて見せようよ!」
「一平くん……」
「大丈夫、僕は絶対逃げたりしない。僕は絶対に裏切ったりしないから!」




