第四十一話:わたし、めいりさん。
「ん……あ、あれ……」
真殊が目を開くと、そこは星凪高校の中庭だった。
ベンチから上体を起こして周りを見渡してみる。日はすっかり西に傾き、オレンジ色が真殊の視界全体を優しく染め上げていた。
「私……どうしたんだろ」
たしか、眠る人たちを保健室まで運んで、柳瀬先輩とここで一休みしてて。
然木先輩に飲み物を頂いて……。
「……そうだ、先輩たちは」
思い出してすぐさま隣を見やる。だが、さっきまでそこに座っていたはずの涼介の姿はなく。
立ち上がって周囲を見渡しても、近くには誰一人いない。
「あれ……せ、先輩? どこですかぁ……? せせ、せんぱぁーい……」
おずおずと涼介を呼ぶも、鼓膜に響くのは自分の頼りない声ばかり。
加速度的に心細くなっていく。
そこでふと、真殊は違和感に気づいた。
短く刈られた芝生。
校舎の、少し古ぼけたコンクリートと規則的に並ぶガラス窓。
いつもとなんら変わらない中庭の風景だけがそこにある。
だが、まるで造られた模型のように、その風景は一向に動く気配を見せないのだ。
風がない。
音もない。
空を舞う鳥たちも、その羽を広げたまま夕焼け空をバックにピタリと停止している。
「え……ど、どど、どういうことなの……?」
真殊はおののきながら、胸の前で両手を握り数歩後じる。
「ひぇっ!?」
すると突然、ブレザーの中で何かが震えだした。
一瞬肩を跳ね上げて驚いたが、ケータイの着信だと気づいて少し安堵の息を吐く。
「誰だろう……」
ディスプレイに浮かぶのは、十一桁の番号……登録されていない人からの着信だ。
真殊は慌てて受話口に耳を押し当てた。
少し不思議に思ったが、とにかく今は誰でもいい。今はただこの恐怖を紛らわせたかった。
「も、もしもし?」
『……わたし、めいりさん。今校門の前にいるの』
「へ?」
ブツッと、通話が途切れる。
真殊はしばしポカンとなったあと、徐々にカタカタと、小刻みに震えだした。
受話器から流れたのは、女の子の澄んだ声音。そしてそのフレーズも、どこかで聞いたことのあるものだ。
「……め、めめ……」
――メリーさんの、電話。
怖いものが大の苦手な真殊でも、有名なその話くらいは知っていた。
何度も電話が来て、最終的にすぐうしろまで来る、あの……。
「ひ、ひぃぃぃ……!」
思わず、持っていたケータイの電源ボタンを連打し、そのあと両手で強く握りしめる。
声もろくに出せず、代わりに奥歯がガチガチと鳴りひびく。
「せせ、せんぱ……せんぱいぃぃ……!」
軽くパニックになりながらも、キョロキョロと涼介の姿を探す。
ついさっきまでは近くにいたはずなのに、どこに行ったのか。
もしかして……すでにメリーさんから電話があって、すでに彼女に……。
「そ、そんな…………ぎゃっ!?」
すると再びケータイに着信が入る。さっきと同じ番号。
真殊は目に涙を浮かべながらも、絶対出まいと必死にケータイを抱きしめる。
『わたし、めいりさん……』
「なななな……!」
だが、通話状態にしていないはずなのに流れだす音声。
真殊はいよいよワケがわからなくなりケータイを放りだしその場でうずくまる。
『……今中庭の入口にいるの』
「いや……いやだぁ……」
感情の起伏が窺えないその声を聞きつつ、真殊はついに泣きだしてしまう。
顔は恐怖でぐしゃぐしゃに歪み、涙はボロボロと頬を伝う。
それでも女の子の声は、まるで脳内に直接語りかけるようにまっすぐ流れ込んでくる。頭の中にこびりつく。
どうして。
どうして私が狙われなければいけないのか。
そして先輩も……。
「先輩ぃ……助けてぇぇ……。お父さん、お母さん~……っ」
頭の中に必死に涼介の顔を思い浮かべる。あの球技大会の日からずっと追い続けてきた先輩の姿。
続けて、自分の中の思いつく限りの、大事な人たちの名を呪文のように何度も唱える。
「先輩……先輩……お母さん……メイリちゃん……」
そこで、真殊の体の震えが止まった。
ん……あれ?
メイリちゃん……?
何か…………変だぞ?
頭の中に、突如大きなクエスチョンマークが浮かび上がる。
今まで真殊を支配していた恐怖を吹き飛ばすほどの違和感。
その違和感を確かめるため、真殊はもう一度、その名を唱えた。
「メイリ……ちゃん?」
すとんと、真殊の胸の奥で何かが落ちる音がする。
同時に、みたび聞こえる女の子の声。
「わたし、めいりさん」
「……え?」
「今、あなたのうしろにいるのよ? ……お姉ちゃん」
そして柔らかな感触が背中越しに伝わってくる。白い糸のような髪が、真殊の幼い頬にかかる。
懐かしい匂いと温もりが、うずくまる真殊に覆い被さるように抱きついてきた。
一瞬、息がとまるかと思った。
でもかろうじて、真殊はもう一度、その名前を呼んでみた。
「め……メイリちゃん?」
「うん、そうよ」
「ど、どうして……」
いきなりの出来事に、真殊は言葉を詰まらせる。
真殊の胸元で組まれる細い手。
人の手だけど……違う。
真殊にはなんとなくわかる。
そのきめ細やかな白は、いつも真殊が羨みながらも愛おしくて仕方なかった……彼女の手だ。
「メ……メイリ……ちゃん、メイリちゃん……」
いっそう震える声で、その名を確かめるように、何度も呟く。
「お姉ちゃん、ごめんね。わたし、勝手にお外に出て。お姉ちゃんを悲しませて……ごめんね」
どうしてここにいるのか、とか。
なんで人の形をしてて、人の言葉を話しているの? とか。
真殊の中から疑問が浮かび上がってくる。同時に、今まで溜め込んでいた思いが一気に体の中を駆け巡り、濁流のように押し寄せてくる。
どうしてあの日、勝手に外に出ちゃったの?
あなたの変わり果てた姿を見て、辛くて悲しくて、寂しくて、次に会ったらいっぱい叱ってやるって、何度も思ったんだよ?
頼りないお姉ちゃんで、そのせいであなたに痛い思いさせちゃって、ごめんって謝りたいって、今も思ってるんだよ?
でも、結局は会えなくて。庭にある石の塊を見つめる以外には何もできなくて。それでもずっと会いたくて……。
あなたがいなくなったことが、いまだに夢のように思えて……。
でも、そんな疑問や怒りや悲しみは、背中越しに伝わる温もりが全て洗い流してしまう。
メイリの抱擁を通じて、全てが伝わり、そして伝わってくる。
「お姉ちゃんの気持ち、受け取ったわ。ごめんね……ありがとう」
「メイリちゃん……っ、メイリちゃん……っ」
ぐずった子どものように泣きだす真殊。その様子を見て、めいりはふっとほくそ笑む。
「お姉ちゃん……怖がりで泣き虫なの、変わってないね」
「……っ。だって……」
「人間が泣くのって、悲しい時だけだと思ってた。お姉ちゃんはいっつもそうだったから」
事故に遭う前の日の夜。
お姉ちゃんの眠る布団に潜り込んで、脇に頭をすり寄せた。
あれが、めいりが最後に感じたお姉ちゃんの温もり。
でも今、こうしてもう一度感じることができる。
それがこれ以上なく、たまらなく嬉しい。
「でも、今はわかるわ。嬉しい時でも……人間って泣くんだね……」
そして、めいりは泣いていた。
お姉ちゃんと同じように、涙で濡れた顔を精一杯、ぐしゃぐしゃに歪めて。
青藍の瞳はゆるゆると揺れ、映しだす真殊のうしろ姿がみるみる滲んでいく。
真殊のブレザーその背中部分に、一粒二粒と雫が落ちる。
「お姉ちゃんにもう一度会えて、嬉しい……」
「メイリちゃん……っ、私も、私も会いたかったよぅ……」
言葉にしようと思えば、まだまだこれだけじゃ足りない。
でも、言葉がなくても伝わる思いは、互いの中にしっかり行き届き、二人の心は満たされた。
だから、これ以上はいらない。
今はただ、震える手を取り合って、再会を果たした姉妹は喜びの涙を流し続けた。
二人以外誰も存在しない世界で、真殊とめいりはベンチに腰を下ろす。
手を繋いだまま、黙って夕日のオレンジ色に頬を染める。
めいりの首元では、ペールブルーのチョーカーが揺れている。いつかあの大通りのカフェで買ったおそろいのアクセサリー。
それを見て、ああ、やっぱりメイリちゃんなんだと、真殊は改めて実感した。
「メイリちゃんと会えたのって……柳瀬先輩のおかげなんだね」
しばらくして、真殊は口を開いた。
はじめは不思議に思っていたことも、めいり越しに全て伝わった今では納得できる。
「うん。涼介も然木ちゃんも。あの人たちがいなかったら、こうしてお姉ちゃんと再会できなかったかもしれない……」
「みんな、いい人たちばかりだね」
「うん。わたしたち姉妹は幸運なのよ。……でも、そもそもちゃんとお姉ちゃんにとり憑いてれば、こんな苦労しなかったんだけれどね」
笑うめいり。
それは、お気に入りのソファで幸せそうにゴロゴロしてた時とおんなじ……柔らかな表情だった。
柔らかくて、ふわふわと幻想的で、儚げで……。
そして彼女の体から透けて見える背景が、ほんの少しずつその姿を鮮明にしていく。
「……って、めいりちゃんっ!? ど、どうしたのっ!?」
「うん?」
「か、体っ! 透けてきてるよっ!?」
慌てる真殊につられて、めいりは表情を変えずに自分の体を見下ろす。
そして納得したようにボソリと呟いた。
「……伝えたいことは、全部伝えられたから」
「そ、そんな……」
やっと落ち着いた真殊の心が再びオロオロとざわめく。
「てことは、めいりちゃん……もう、消えちゃうの?」
「お姉ちゃん……」
めいりはベンチから腰を浮かせ、怯える真殊の正面に膝をつく。
そして繋いだままの手、その上にそっと空いていた方の手を重ねる。
「お姉ちゃん。わたしは、お姉ちゃんに飼ってもらえて、お姉ちゃんの妹になれて嬉しかったわ」
「わ……私もだよぅ……。メイリちゃんがいなかったら、私はずっと家に引きこもったままだった……」
小さなペットショップで出会ったあの日から、二人は幸せを与え合って生きてきた。
一人は前を向く勇気を。
一匹は孤独をかき消す温かさを。
お互いに貰ったものは、会えなかった期間もずっと心の中で生き続けていた。
「わたしはしばらく、お姉ちゃんの前から姿を消すけれど……今のお姉ちゃんだったら、安心」
めいりの肩あたりからポツポツと、光の粒が舞い上がりはじめる。
それに比例するように、めいりの輪郭がさらにぼやけていく。
「それに、あなたの側には涼介がいるわ。彼がお姉ちゃんを守ってくれる……」
「メイリちゃん……!」
「お姉ちゃんも、涼介のこと助けてあげてね。あの人はぼっちだから」
「う、うん……っ、私にできることならなんだってするよ! 約束!」
その言葉を聞いて、めいりは目を細めた。
「……あ、それと」
そして思い出したように声を出す。
「わたし、プレゼントを持ってきていたの。お姉ちゃんの膝の上に置いておくからね」
「……え? プレゼント?」
「うん。わたしがお姉ちゃんに直接渡せる、最後のありがとうの気持ち……」
「め、メイリちゃん……っ。ありがとう……今まで一緒にいてくれて、ありが、とう……」
「泣かないで、お姉ちゃん。遠くにいっても、わたしはずっとあなたの近くにいるのよ?」
――じゃあ、またね。お姉ちゃん。
そう言って、少女の形をした白猫の霊は光の粒となり、夕暮れの世界に溶け込んでいった。
「メイリちゃん……メイリちゃん……」
最愛の妹が消えゆく様を見届けて、真殊はしばらく嗚咽を漏らしていたが、やがて落ち着いて袖で涙を拭う。
「ありがとう、メイリちゃん。私、あなたと出会えてとっても幸せ」
そしてまっすぐな思いを彼女が溶けていった空へ吐き出した。
前を向いて、オレンジ色を見上げて、まだ脳裏にいるメイリに向かって、感謝の思いを――
「ん……あ、あれ……」
真殊が目を開くと、そこは星凪高校の中庭だった。
西の空に浮かぶ夕日に、オレンジ色に染まる芝生や校舎の建物。そして活気をなくした出店たち。
つい今まで見ていた景色とほぼ同じ。
でも、ここが現実だとすぐにわかった。
ひんやりした風が真殊のおさげを揺らす。
遠くから町の生活音が聞こえる。
それに空の上、真殊の視界に鳥たちが急ぐように横切っていくのが映った。
「う~ん……」
そして何より……隣には先輩がいた。
まだしっかり眠りについているようで、ときおり唸りながらもぞもぞと動めいている。
「さっきのは……夢?」
今でも真殊の脳裏にはさっきの情景が、少女の姿をしたメイリの姿が浮かび上がってくる。
最愛の妹は、自分を散々おどかし、泣かせて……謝って、ありがとうって言ってくれた。
そして最後に……
「……ううん。あれは夢じゃない」
真殊はベンチに再び背中を預けて微笑みを零す。
その膝には、これまで感じたことのない種類の重みがあった。
「ふふっ。でも、これはさすがにないよ~。メイリちゃん」
膝元の重み……その正体と目が合う。
青黒くて、丸くて、カッチカチに固まった……
……冷凍マグロ。
そのあどけない目と。
その側面には紙が貼られており、
『わたし、めいりさん。今もこれからも、あなたの心の中にいるの』
「……もう、メイリちゃんってば」
その文字を見て呆れた表情を浮かべながら、またひとつ温かい気持ちが真殊の頬を流れた。
すぐさま袖で目元を拭い、真殊は勢いよく息を吐き出す。
「私……これからも頑張って生きていくから。そばで見ててね。めいりちゃん」
そして隣。
いまだ眠りにつく、自分とメイリちゃんを再び引き合わせてくれた恩人。
安らかに寝息を立てる涼介を眺めながら、真殊は再び前を向いて歩いていくことを誓うのだった。




