第四十話:然木の恩返し
「然木ちゃん。あなた、やっぱりわたしが視えるのね」
めいりは涼介の肩にかけていた手を離して立ち上がる。
そして正面。腕を組んで仁王立ちする然木笑海の方を見据えた。
警戒のジト目である。
文化祭の賑わいもすっかり消え去った星凪高校の敷地内。
昼間よりもいくぶん冷たくなった風が、両者のあいだを事もなげにすり抜けていく。
「おや? その様子だと、以前から勘づいていたようだな」
「ええ。確証はなかったのだけれどね……」
ふむ、と特に驚いた様子もなく、笑海は組んでいた腕をほどく。
「ところで、いつからそう思っていたのだ? ボクが視える人間かもしれないと」
「あなた、やけにオカルトな話に詳しいもの。“噂話”っていう枠を優に越えるほどにね」
「なるほど……だが、それだとボクがオカルトマニアだとすれば、何も変な話ではないぞぅ?」
「そうね。でも、それだけではないわ。そうね……一番に違和感を覚えたのは、あなたが涼介に連れられて保健室へ行った、あの日よ……」
――約三週間前。
めいりと涼介が無理矢理陽菜の宿直に付き合わされた日。
その昼間。
息を乱しながら涼介に肩を借りる笑海。その姿に、めいりはどこか既視感を覚えていた。
顔を赤く火照らせ、かと思うと真っ青にしてえずく。
たまに顔をしかめて頭をおさえ、足元もおぼつかずフラフラしている。
「あの症状……お姉ちゃんのパパも時々なっていたものととてもよく似ていたの。加えて、あの日のあなたは、辛そうにもかかわらず平熱だったわね?」
「ふむ、たしかにそうだった。だが、たとえば貧血や酸欠……発熱はなくとも調子を崩す時など、誰にだってあるが?」
「そうね。たしかに人間には、似たような症状は数多くあるみたいね」
試すような口ぶりの笑海に、めいりはなおも言葉を継ぐ。
「でもね。あの日のあなたからは、かすかに漂ってきていたの。調子が悪いだけでは出るはずのない、独特な匂いがね」
「匂い?」
めいりはジト目のまま笑海の質問に答える。
「ええ。お姉ちゃんのパパが大好きな飲み物。それと同じ匂い…………お酒の香りよ」
笑海の表情が、心なしか引き締まったようにみえた。
「あの日、わたしたちはワケあって、夜中の学校に来ていたの。そしてその時、偶然出会ったのよ。生物準備室の主……人体模型のトっつぁんに」
「トっ……つ? ああ、タツさんのことか」
「トシよ……。まぁそれはどうでもいいとして、あの日、彼は化学室で酒瓶片手に一人酔っ払っていたの」
トシの名前に関しては同レベルにずぼらな二人だった。
「あの時。酒瓶やぐい呑みから、嗅ぎ覚えのある匂いがしたの。お酒自体もそうだけど、もう一つ別の……」
そして、めいりは足を肩幅ほどに開き、ビシッと右手人差し指を笑海の方へ突き立てた。
「その日のお昼に嗅いだ……あなたの匂いがねっ」
その勢いに、笑海は無意識のうちに腰に当てて手を下ろす。代わりに静かに拳を握った。
その様子を確認して、めいりはつい饒舌になる。
「ここからはわたしの推測だけれど……。おそらくあなたはあの日の前日、トっつぁんにお酒とぐい呑みを提供して、そのまま少しのあいだ晩酌のお付き合いをした……。高校生にもかかわらずあなたはお酒を飲み、そして次の日、二日酔いになってしまった……。違いますか?」
「うむ、そのとおりだ。反論するつもりはない。……だがなぜ探偵気取りなのだ?」
すぐ調子に乗るのがめいりの悪い癖だった。
「然木ちゃん……白状しなさい。あなたは“人外の者”が視えるだけでなく、その者たちとコンタクトをとることができる……、あなたはいわば強い霊能力を持つ人なのねっ」
「うむ……まぁ、そもそも最初から全く否定していないのだがな……。でも、なかなかの推理力だ。意外に鋭いな白猫少女」
他意で冷や汗をかく笑海に、勘違い全開のめいりはニヒルな笑みで呟いた。
「これが……猫の嗅覚ってやつよっ」
――決まった。そう思った。
少し呆れた表情でその様子を眺めていた笑海は、再び腕を組む。
「ふぅ。君は面白いな。なんというか……やはり、柳瀬にとり憑いた霊が君でよかったよ」
「?」
ため息のようなその呟きは、晩秋の風に煽られてめいりの鼓膜に届いた。
「……どういうこと?」
探偵ごっこを堪能しためいりは、再び疑惑のジト目で笑海に質問を投げる。
「それにどうして、涼介とお姉ちゃんを眠らせたの?」
そもそも笑海の目的はいったいなんなのか……。笑海が“視える人”だと確信した今でも、その真意は読めない。
だが、笑海はいとも簡単に、
「柳瀬の助けになりたいからだ」
さも当たり前のように言い切った。
「さっきも言ったが、今回柳瀬に一服盛ったのはミスだ。眠らせるのは朽咲嬢だけでよかったのだからな」
「お姉ちゃんだけを……?」
めいりは軽く困惑した頭で考える。
然木ちゃんはお姉ちゃんのことを知ってはいるようだが、ちゃんと顔を合わせたのは今日は初めてだった。
そんな浅い関係のはずなのに、いったいお姉ちゃんを眠らせてどうするつもりなのだろうか。
「う~む……」
たしか、然木ちゃんは独自でお姉ちゃんの名前やクラスを暴いていた。その意図は……。
「はっ、まさか……!」
そして結論に至った。
「あなた、お姉ちゃんに一目惚れしたのね? そして今回、眠らせたお姉ちゃんの服を景気よく剥いであんなことやこんなことを……」
「実に想像力たくましいが全然違う。それにボクは『柳瀬の助けになりたい』と言ったばかりだぞぅ?」
「うー……っ」
即否定されて沈黙。
以前真殊が見ていた漫画雑誌を参考にして論を立ててみたのだが、どうやら的外れだったらしい。
めいりは軽く唸った。
「ボクはな、柳瀬が大好きなのだ」
「え?」
すると、突然の笑海の告白。
めいりは思わず聞き返してしまう。
「……ああ、言っておくが、純粋に一人の人間としてだぞぅ? あいにくボクは恋やら愛やらには疎いのだ」
そう付け加えて、笑海はぽつぽつと話しはじめる。
「君が憑く以前から……この学校に入った頃から、柳瀬には人との関わりを避けたがる傾向があったのだ」
「なんとなく……わかるような気がするわ」
二ヶ月ほどの付き合いながら、めいりも涼介の性格はよく知っている。
ちょっとぶっきらぼうで、面倒事が苦手で、ぼっちで、人の多い所が苦手で、意外にヘタ……思い返そうとするが、途中で哀れに思えてきた。
「でもな。最初に出会った時に、なんとなく思ったのだ。『こいつは一見孤独で一匹狼に見えるが、実は心根の優しいやつなんじゃないか』……とな。そして数年付き合って、それは確信に変わった」
笑海は過去を懐かしむように、黄昏に染まりはじめる空を眺めた。
「柳瀬はなんだかんだでボクの話をちゃんと聞いてくれるし、それに内容もしっかり覚えていてくれて……嬉しかったんだ。それまでボクの話を聞いてくれたのは身内くらいしかいなかったからね」
「然木ちゃん……涼介以外には全然話さないもんね」
めいりの知る限りでも、笑海が涼介以外の人間に噂話をする場面など一度たりとも見たことがなかった。
「ああ、みんなボクを変人扱いして……まぁそこは柳瀬も同じだろうが……でも、まともに取り合ってくれたのは柳瀬ただ一人だったのだ」
「あなたも苦労してるのね」
「まあ、もう慣れたさ」
それに最近では、涼介の方からめいりのことで頼ってくれるようになり、笑海はさらに嬉しかったという。
視線を落とし、ベンチで眠る涼介を見つめる笑海。
その眼差しはまるで思い人を慈しんでいるように、そうめいりには見えた。
「ボクが柳瀬に貰った時間は、とても大きい。だから、こいつが困った時は全力で協力してやると決めていたのだ」
そして、今がその時だという。
自分を認めてくれた友人のために、自分のできる限りの恩返しを。
涼介に憑いた霊……めいりの未練を晴らす手助けをすること。それが笑海なりの、涼介への感謝の伝え方なのだと。
「なるほど……でも、一つだけわからないわ。そこまで思える涼介に、なぜ視えることを話さずにいるの?」
「ん? まあ……ちょっと怖かったのだ。打ち明けるのが」
笑海は気まずげに俯き、口元をもにゃもにゃと動かす。
「怖い? でも、涼介ならきっと大丈夫よ?」
「うむ。頭ではボクもそう思っているのだがな。そこは単にボクが臆病なだけ……。それに、君が憑く前は柳瀬ももっと“人を寄せつけないオーラ”を出していたしな」
「なるほど」
それにわざわざ自分から言うことでもないしな。
そう呟き、笑海は話を戻す。
「まあ、なんだ。君に憑かれてから、柳瀬は随分丸くなった。少なくとも以前のように“自分の平穏のため”でなく、ただ君のために動こうとしている。それが柳瀬の本来の心なのだろうがな」
だから……柳瀬に憑いたのが君でよかった。
そのおかげで、柳瀬は心を偽らずに生きられるようになったから。
そう笑海は顔を綻ばせた。まるで少年のような屈託のない笑顔。
風が、その短く揃えられた前髪を舞い上がらせる。
「まあ、そんなところだ」
そしてもう一度、色を濃くしていく夕空を見上げたのち笑海は足を踏み出す。
「然木ちゃん? どこ行くの?」
「ボクのやることはもうないからな。先に戻るよ。次は君が、君の大事な人に感謝を伝える番だぞ?」
そのまま足を一歩、また一歩と、校舎の方へと進めていく。
笑海の背中がめいりから少しずつ離れていく。
「幽霊というものはな……。肉体を失って魂だけで現世に戻っても、そもそも生前の目的を見失っていることが多々あるのだ。そのまま何をするでもなく、地上を彷徨い続ける者……。そして、思いが薄れてあっさりと消滅してしまう者……。ボクはそういう者たちを何人も見てきた」
話しながらも、笑海の足は止まらない。
愁いを帯びた声音が、草を踏む足音とともにめいりの耳朶を打つ。
「でも、君はそうじゃない。今でもしっかり自分の意思を保っているようだしね」
中庭の端まで歩み、渡り廊下の入口に辿り着いたところで、笑海は振り返った。
「だから……今あるその思い、しっかりお姉ちゃんに伝えるんだよ? 悔いのないようにさ」
そこには優しさとも悲しさともとれる、今にも消えてしまいそうな柔らかな笑みが咲いていた。
「然木ちゃん……」
「さて、ここまでだ。あとは頑張ってくれ」
そのまま、少年のような少女は校舎内へと消えていった。
「然木ちゃん……ありがとう」
そのうしろ姿を眺めながら、感謝の言葉を呟く。
そして振り返り、ベンチに眠る我が姉の姿を見つめ、めいりは心をひとつにまとめた。
「お姉ちゃん……」
真殊のすぐそばに膝をつき、そのあどけない頬を撫でる。
「今から、そっちに行くからね」
自分の中のお姉ちゃんへの想いを、一つ残さず伝えるために。
両手で真殊の頬を包み込み、そのまま目を閉じる。
そして再び開くと同時に、めいりの意識は真殊の心の中へと溶け込んでいった。




