第三十四話:その猫を捕獲せよ!
出笛荘から学校までのちょうど中間地点を横切る、この町一番の大通り。
その通りを沿って、鼠色の自転車はスイスイと転がっていく。
「なぁ、めいり」
「ん?」
「これって、朽咲さんの家に向かうルートだよな?」
「そうよ。そして我が家へ向かうルートよ」
「まぁ……うん、そうだな」
「……」
……いや、そうじゃなくてだな。
そう話を戻そうとした時には、
「涼介、ここで止まってちょ」
どうやらめいりの目的地に到着したようだ。
「え? ここは……?」
大通りの交差点を少し過ぎた辺り。その右手、少し細い通りをまっすぐ抜けた先にあったのは、こぢんまりとした商店街だった。
ほんの入口から見た限り、中高年向けの洋服店や八百屋、魚屋に肉屋などが肩身を寄せ合い並んでいる。
まだ人通りが少ない時間、ある店員さんはあくびをしながら軽く体操をしたり、ある場所では開いているのか閉まっているのかさえわからない。
まるで一世代ほど昔にタイムスリップしたような……寂しくも温かくもある景色だ。
「で、ここがどうかしたのか? てか朽咲さんの家じゃなかったのか?」
「お姉ちゃんとはじき学校で会うでしょ? 今は違うのよ」
本日、文化祭当日、涼介は真殊と一緒に見て回る約束を取りつけていた。
互いが休憩の時間……ほんの少しのあいだだが、真殊とめいりにとって重要な時間になるだろう。涼介はそう思っている。
もし今日が何事もなく終われば、この秋にずっと隣にいた白い幽霊は消えてしまうかもしれない。
未練も果たせず、なんの前触れもなく、目の前からいなくなってしまうかも……そう思うと怖くて仕方なかった。
「涼介」
「……え?」
めいりの呼び声で思考は中断される。
「どしたの?」
「あ、ああ……いや、なんでもないよ」
「うん。じゃあ、涼介はちょっとだけ待っててね」
めいりは、しばらく歩いたところにある魚屋、その店内の奥を覗き込む。
こいつは一体、何を企んでいるのか……。
涼介にはさっぱり見当もつかない。
「……ここに、何かあるのか?」
「うん。ちょっとこの店の人にお願いがあっ……て……?」
「ん?」
振り返って話す途中、めいりの青藍の瞳は涼介の肩を越えて後方へと泳ぐ。
つられて見ると、ちょうど路地裏のあたりから一匹の猫が歩いてきていた。
「あれは、たしか……ドラ」
「ドラ? ……ああ、たしかに」
大柄で小太り、小型の虎のようにも見える……ドラ猫だった。
ときおり周りをキョロキョロと伺いながら、どっしりとした足取りで魚屋の方へ近づいてくる。
「こっちに近づいてくるぞ……?」
「ドラ……前よりごっつくなってる」
「あ、知り合いなのか……。猫仲間ってやつか」
「ちょっと違うけれど、一度だけ見かけたことがあるだけなのよ。たしかあの時……」
めいりは当時の出来事を思い出すように、手を顎に添えて唸る。
「そうそう、たしかお魚を……はっ、そうよ! 涼介っ!」
「うおっ!? な、なんだっ?」
何かを思い出したのか、めいりは珍しく大きな声を出す。
「涼介、少しあっちに立っててくれる?」
そして白い指先がさす方には、商店街の通りよりも一段と狭そうな路地裏の入り口。
「え……あんな所に立ってどうしろと」
「一刻を争うのよっ」
「わ、わかった、押さなくてもわかったから……!」
急かすめいりに背を押され、涼介は言われるがまま路地裏へ向かう。
その際すれ違ったドラ猫は、人間である涼介に臆することなく、それどころか「フガッ」と鼻を鳴らし、それはそれは堂々としたものだった。
「なんて高慢な態度の猫なんだ……」
そして定位置に立つ。ちょうど路地裏への道を塞ぐ格好だ。
めいりはまだ魚屋の入口付近にいる。
これからどうすればいいのか、尋ねようと息を吸った……その直後。
「フガガ~ッ」
ドラ猫が、陳列された魚の棚によじ登っていた。
巨体らしからぬ俊敏さで、あの店でもひときわ立派な値のついた魚を一本口に咥え、すぐさま床に飛び降りる。
その間わずか一、二秒。
「いらっしゃ……って、ドラ! またお前良い魚を!」
この店の店主らしき男性が奥から出てきたが、事は済んだ後。
ドラ猫はその叫びをあざ笑うように、ぷいっと身を翻し、店前に立っていためいりを横目に来た道を駆けて戻る。
「待て! ドラ!」
「あにゃあ」
魚屋の店主と、その飼い猫らしき細身のブチ猫がその後を追いかけてきた。
「フガガ~ッ! ……フガッ?」
「お、お?」
その帰り道の先は……涼介がちょうど立っている所。
ドラ猫も、思わぬ障害物に驚いた様子だった。
「まさか、めいり……このことを見越して……」
涼介の想像通り、めいりは泥棒ドラ猫の逃げ道を塞ぐため、涼介をこの場に立たせたのだった。
「え、じゃぁ……僕はあいつを捕まえなきゃいけないのか?」
突然のミッション発生におののきつつ、涼介は頼りなく両腕を広げて構える。
「よ、よし……! 来やがれっ、猫!」
体全体に、いつになく緊張が走る。
足が武者震いでおぼつかない。
でも、めいりがせっかく敷いた防御網だ……僕がなんとしても死守してやる!
なぜか本気モードの涼介だった。
「フゥ~……、フガガッ!!」
「なっ!?」
……だが、涼介のやる気は空回り。
なんとドラ猫は、その大きな体を一瞬縮こまらせたかと思うと、しなやかな足腰にて高く跳躍したのだった。そのまま、涼介の頭上を高々と舞う。
「し、信じられん……! あのデブな体でこんなに高く……!」
見上げた頭上に見えるは、丸々太った虎色の巨体、去勢手術の痕。
それはまるで未確認飛行物体のような神秘さ……はさすがに感じられなかったが、それでもすごい光景だった。
目を奪われる数瞬のあとには、ドラは路地裏の奥へと着地していた。
「あ、しまった……このままじゃ逃げられる」
涼介は猫の身体能力を侮っていた。
あんなデブなら簡単に捕まえられる……心の底で湧いていたそんな油断が、涼介の敗因だったのだ。
「フガッ」
もう一度小気味よく鼻を鳴らして、ドラ猫は奥へと進んでいく。
が……
「びっ――」
「――わっ!?」
「――フギャンッ!?」
涼介の頬を、何かが掠めて通過していった。
それはそのままドラのすぐ目の前の地面に穴をあける。
「び、びっくりした……。てか、ちょっと頬を掠めていきやがった……」
「ごめんね涼介。ちょっと狙いがずれたわ。てへ」
「てへ、じゃねぇよ! 危うく死にそうだったよ! ていうか、久しぶりだなそれ」
「うん。わたしも今の今までこの設定を忘れていたわ」
めいりのレーザービーム、久々の登場だった。
「でもこれで、泥棒はお縄についたわ」
したり顔のジト目でめいりが仰ぐ先……。
突然襲いかかってきた二筋の光線に驚き、ドラ猫は腰を抜かし、咥えていた魚を取りこぼしてしまっていた――
「君、ありがとうな。魚は歯形ついちまってダメだったけど、ようやくドラを叱ることができるよ」
「は、はぁ……」
しばらくして、涼介は魚屋の店主から感謝の言葉を頂戴していた。
どうやらこのドラ猫は、魚泥棒の常習犯らしい。
一応この魚屋さんで飼っている体になってはいるそうだが、どうにも懐かずこうして毎日のように良い魚を奪っていくのだそうだ。
まるでどこぞの国民的アニメのようだ……と涼介は密かに思った。
「でも、凄いな。どうやってあのドラをここまで怯えさせたんだい?」
店内の隅のスペースには、めいりと“ししゃも”と呼ばれるブチ猫……そしていまだガタガタと震えるドラ猫がそれぞれ座っていた。
「い、いやぁ……たまたまです」
涼介はそう言い逃れるしかない。
店主の話しに相づちをうちつつめいりの様子を見る。どうやら今はししゃもとのお話中のようだ。
「あにゃあ」
「そうなの。車に轢かれちゃって」
「あにゃあ」
「ありがとう。でも、こうして人間になれて良いこともいっぱいあるのよ?」
だがもちろん、涼介に猫語は理解できない。
猫に話しかける不思議少女の図だった。
「あにゃあ」
「うん……。今なら、あの時のあなたの言葉が、なんとなくわかる気がする」
「あにゃあ」
「うん。今日がとっても大事な日になるの。そこで今日はお願いに――」
「――君? ちょっと、君?」
「……え? あ、は、はい! すみません!」
気づけば、店主に肩を叩かれていた。二人の会話に意識がいっていたらしい。
「いやいや、いいんだけどね。……はい、これ。ささやかだけど今日のお礼だ」
「えっ、いいんですか……?」
「ああ晩飯にでもしてくれ」
そうして、涼介は思わぬ形で『新鮮お造りパック(¥五九八)』をゲットするのだった。
しばらくして、めいりの用事も終わったのか、ワンピースの中に何かを入れ終えテコテコと近づいてくる。
「お待たせ涼介。じゃ、学校行きましょう?」
「そうだな……。あの、僕これから学校あるんで、行きます」
「おう、今日はどうもありがと! 魚安くするからまた来てくれな!」
これからの高校生活……どうやら魚に困ることはなさそうだ。
泥棒猫を捕まえたことも相まって、朝から爽やかな気分の涼介であった。




