幕間:真殊のココロ(三)
気づけば、真殊は自室のベッドにもぐりこんでいた。
別に気を失ったとかじゃない。玄関を通ったことも、お風呂に入って寝間着を着たことも、おぼろげに思い出せる。
ただ、他のことで頭がいっぱいで、今自分が何をしているのかさえわからなくなっていた。
「メイリちゃん……」
毛糸のように丸くなって、いつも真殊と一緒になって寝息を立てていたメイリ。
あの温もりは、もう隣にはない。
あの時。
カフェの事務室で、一匹猫の亡骸を見た時。
はじめは違うと思った。
あの箱の中には真殊とおそろいの、あのペールブルーのチョーカーがなかったから。
ちょうどメイリと同じくらいの大きさの、灰色に汚れた躯体がそこにはあったけれど。
微かに残った白い毛が、あの子と重なって見えたけれど。
これはメイリちゃんじゃないって……そう思いたかった。
「……でもね」
また涙が出そうになり、枕に顔をうずめる。濡れた布の感触と一緒にほのかにメイリの匂いがして、結局またボロボロと両目から雫が溢れ出した。
「わかるんだよ……?」
たとえ、あなたがどんな姿になっていたって。
あなたを示す証し……そんなのなくたって。
「メイリちゃんのこと……私、なんだってわかっちゃうんだよぅ……?」
あの箱で眠る猫がメイリであることを、真殊にはとうにわかっていた。
勉強中、暇なのか突然参考書の上にのぼってきたり。
膝の上に乗せて、たわいない愚痴を聞いてもらったり。
こうしてベッドで寝てる時も、急に脇にお尻をひっつけて甘えてきたり。
メイリと過ごした時間は、何ものにも代えがたいほど深く濃密に、真殊のココロに刻み込まれているのだから。
「ひっぐ……」
次々と流れ出る涙が枕の中へ染みこんでいく。
「寂しいよぅ……メイリちゃん……」
しばらく嗚咽としゃっくりを繰り返し、やがて真殊の意識は底のない泥沼のような闇に沈んでいった。
――次の日の朝。
お父さんが庭の隅に四角い穴を掘るのを、真殊は呆然と見つめていた。
昨日は結局うまく寝つけず、おかげで頭がぼんやりとしている。顔も見事にやつれ、疲労やら何やら、ごちゃごちゃになった心が表面に現れていた。
隣に立つお母さんも、真殊と似た表情で佇んでいる。目が充血して少し腫れぼったい。
お母さんがどんな風に夜を過ごしたのか、簡単に想像できる。そして想像してしまうと、真殊の視界はまたぼやけた。
やがてあいた穴。その底に毛布にくるまれたメイリを寝かせる。
彼女のお気に入りだったオモチャも一緒に。
真殊、お母さん、お父さんと、順に少しずつ土をかけていく。
毛布が土に埋まるたび、真殊の中に色んな感情が巡っていく。
それは、妹として一緒に過ごしてきてくれたことへの感謝か。
痛い思いをして逝った妹への労いか。
そんな妹を助けてやれなかった自分への憎しみか……。
もしかしたら全部なのかもしれない。
本当のところは、真殊自身にすらわからなかった。
穴があった場所は小さな山になり、その上に大きめな石が置かれる。
線香とお水を供え、三人でしゃがみ、目を閉じて手を合わせる。
そうして、朽咲家の家族のお見送りは静かに執り行われた。
「……じゃあ、支度するね」
しばらく静寂と一緒に時間を過ごしたあと、真殊は立ち上がり学校へ行く準備をはじめる。
午後十二時半。
これから行けば、午後の授業はなんとか全部受けられそうだ。
「ほんとに、行くの?」
お母さんが心配そうに尋ねてくる。
中学の頃、学校に行くのが嫌で嫌で不登校になった真殊を、いつでも一番心配してくれていたお母さん。
ああ、今回もまた同じ表情させちゃったな。
真殊の胸から罪悪感がにじみ出る。
「なんなら、今日くらいはお休みしても……」
「行くよ」
遮るように、少し強めに声を出す。
いつも心配かけてごめんねお母さん。
私と同じくらい、メイリちゃんを可愛がってくれたお母さん。
今日はお母さんだって辛いはずなのに、それでも私のことを一番に想ってくれる。
……でも、大丈夫だよ。
中学の時は自分で何一つしようとしなかったけど。
ずっとどこも見ていなかったけど……今日は違うんだ。
「今ね」
真殊は母をまっすぐに見据えながら、しっかりとした口調で言葉を継ぐ。
「私がこうして学校に通えてるのって、メイリちゃんのおかげなんだよ」
あの日。
姉妹おそろいでペールブルーのアクセサリーを身につけた日に、気がついた。
自分には、こうしてちゃんと心から安心できる場所があるってこと。
メイリはどう思っていたかはもちろんわからない。
それでもメイリがいつも側にいてくれたから、真殊は今、前を向けているのだ。
「だからね。ここで私がふさぎこんじゃったら、きっとまた、昔の私に戻っちゃう。また何も見てない自分になって、メイリちゃんがいてくれた時間がなかったことになる。……だから」
だから……私は行くって決めたんだ。
メイリちゃんが創ってくれた私を殺さないために。
メイリちゃんがいた証を自分の中で守るために。
「……うん、わかった」
自分の思いを伝えた真殊。
それを黙って聞いていたお母さんは、それまで真剣だった顔をふと、綻ばせた。
「でも、無理はだめ。それと、どうしても辛くなったらお母さんたちに言うこと。いいわね? 私たちも正真正銘、あなたの家族なんだから」
一度俯き目元を指で拭ったあと、お母さんはぱっと顔を上げて言う。
そこには満面の笑み。
いつもの、冗談が好きな明るいお母さんだった。
真殊もそれに、笑顔で応じた。
制服に着替え、支度を終えた真殊。
ブレザーを軽くはたき、リボンを締め直し、両手で頬をぱしんと叩く。
「うん……じゃあ、行ってきます!」
そして元気に声を出して玄関のドアをくぐった。
今日も自分を一歩前に進めるために。
その小さなココロに、もう一つの大事なココロを抱きしめながら。




