幕間:猫心と空
大通りのカフェに行った日から、しばらく経った。
メイリはここのところ、リビングのソファでゴロゴロと時間を潰す毎日を過ごしていた。
近頃はお姉ちゃんが家を空ける時間が多くなった。
朝と夜こそいつものようにお話をしてくれるけれど、お昼の間はほとんどいない。
どうやら“学校”という場所に行ってるみたいだ。
その日も夕方には「ただいまぁ……」と、お姉ちゃんの疲れ切った声。
明らかにヘコたれている様子。
学校、あんまり楽しくないのかな?
玄関に上がるなり、「べ……くちゅん! くちゅん!」と、全身を駆使しながらのくしゃみを連発するお姉ちゃん。
曰く“かふんしょう”という病気らしい。大きなマスク(実際はお姉ちゃん顔が小さいから大きく見えるだけだが)も相まって、見るからに重症らしかった。
……メイリは、嬉しかった。
お姉ちゃんは毎日のように落ち込んだ様子で、
「今日もクラスの子と上手く話せなかったんだよね……」
と、愚痴を零すこともしょっちゅうだったけど……。
でも、メイリは気づいていた。
そんなお姉ちゃんの大きな瞳は、ちゃんと目の前の自分を映しだしていること。
もう、初めて会った時のように、“どこも見ていない”なんてことはない。
虚ろじゃない。
お姉ちゃんは前を向いている。明日も頑張って生きようとしている。
「メイリちゃんだけが私の味方なんだよ~」
と、いきなり抱きつかれる時はたまに苦しかったりするけれど。
その優しい温もりを感じる瞬間こそ、メイリにとって、リビングのソファに勝る至福のひとときだった。
それでも、平日のお昼はどうしても寂しかったりするわけで……。
リビングのソファに飛び込んではゴロゴロ、ゴロゴロを繰り返す。
暇だな。
ゴロゴロ……。
寂しいな。
ゴロゴロ……。
お姉ちゃん、まだ帰ってこないのかな。
ゴロゴロ、ゴロゴロ……。
自分の中の孤独を持て余していた。
――ちょっと、家の外に出てみようかな。
そして、メイリの日常に“散歩の時間”が組み込まれるようになった。
いつしか、自分で玄関扉を開けるスキルを身につけていたメイリ。彼女の学習能力は一般の猫のそれを大きく上回っているのだ。
コースは、家と大通りのカフェの間の往復。
アスファルトの上をトコトコと、足音を鳴らして歩いた。
春にしては少し冷たい渇いた風が、雲ひとつない空を駆けぬけていく。
「あ! ちょっと、ドラ! 待て!」
「フガガァ~!」
道中、色んな小さなお店が並ぶ通りで、いきなり男の人の叫び声が聞こえた。
同時に、その方向から一匹の猫が飛び出してくる。
横切っていくその猫は、いかにも気性の荒そうな柄の大きなオス。その口には小太りなカツオが咥えられていた。
ドラと呼ばれるその猫は、すぐ側の狭い路地裏に潜っていった。
――なんだろ?
首を傾げながらドラが現れた方を見ると、男の人が呆れた様子で立っていた。
腰にゴツめなエプロンを掛けていて、その手には数匹の小魚がぶら下がっていた。
「ったく、アイツは。なんでいつも良い品ばっかり盗ってくんだよ……」
ブツブツと文句を垂れる男の人。そのすぐ足元には、若いオス猫が佇んでいた。
さっきのドラよりも細身な、ブチ模様の猫だ。
「さっきの猫、どこ行ったか見てたかい?」
そのブチ猫はメイリの方へ歩み寄ってきて、立ち止まる前にはもう話しかけてきた。
「あの路地裏に入ってった。……あの猫と知り合いなの?」
「まあ、そんなとこだね。ウチの魚屋の“お得意様”なんだよ」
ハハ、と渇いた声で笑うブチ。
その皮肉は通じず、「どうやら仲良しらしい」とメイリは思った。
「店主さまがいつもエサ用の小魚用意してくれてるのにさ。アイツったら、商品ばっかり盗ってくんだよね。ほんと困ったもんだよ……ってゴメンね、初対面で変な話しちゃって」
「ううん、いいの。楽しそうね」
「え? 楽し……?」
メイリの返答が予想外だったのか、ブチはやや固まる。
だがやがて「はにゃにゃっ」と愉快に笑い出した。
「まあたしかに、アイツと店主さまの毎日のやりとり……見てて退屈しないね。ところで、君は? 退屈してるのかい?」
「えっ?」
……何も言ってないのに、どうしてわかるんだろう。
それに、退屈というよりは……。
メイリはどう答えようか少し悩む。
でも気さくなこの雄猫になら話してもいいような気がした――
「――なるほど。お姉さん、自分の道を進みはじめたんだね」
メイリの話を聞いて、ブチは頷く。
「それで、君はお姉さんのこと、好きじゃなくなったのかい? あまり構ってくれなくて」
「そ、そんなことない……!」
ブチの質問に思わずムキになってしまう。でも彼の笑顔を見てハッとなる。
彼はどうやら、この答えを最初から知ってて質問したようだ。
猫のクセに生意気な……。
メイリは密かに毒づいた。
「僕たちは猫、店主さまやお姉さんは人間。そもそも見える世界が違うから、どうしても“ずっと一緒”ってわけにはいかないね……」
ブチは空に向かって、ゆっくり語り続ける。
「でも、こう思うんだ。大事なのは、互いがちゃんと想い合ってるかってこと」
「想い合ってるか……?」
「そうだよ。僕らは種族も違えば、もちろん言葉だって通じない。でも、たとえ両方の間にそんな“見えない壁”があっても、相手を大切に想いさえすればそんなのは関係ない。いつでも、僕らはその人たちと繋がっていられるんだ」
ブチはとても頭が良い猫のようで、メイリですら彼の話す内容は難しかった。
メイリは混乱した。
遠くにいても。
一緒にいる時間がなくなっても。
大事な人とは繋がっている……。
……?
何度かブチの言葉を反芻してみるが、やっぱりよくわからない。
「むずかしい……」
「あまり深く考えなくてもいいよ。ただ“いつもそばにいる”って思えば、少しは寂しくなくなるよって話さ」
「ししゃもー。そろそろ家に入っとけよー」
しばらく近くを歩いていた魚屋さんが、ブチの頭を撫でながらお店の方へ帰っていく。ブチも「あにゃぁ」と一言鳴いて応える。
「ししゃも……」
「店主さまからもらった僕の名前さ。この脱力しそうな語感が気に入ってるんだ」
「じゃあまた遊びに来てね」と帰っていくブチ改めししゃも。
さっきの話をノドに引っかけたまま、メイリも今日は家に帰ることにした。
……結局、彼の言ってたことはあまり理解できなかったけれど。
――空って、広いんだなぁ。
なんとなく上に広がる水色を見上げて、なんとなくそんな風に思った。
――その日の夜。
マスクを取ったお姉ちゃんの顔はどこか赤く、少し頬が緩んでいた。
「今日ね、ある人に出会ったんだ……。学校の先輩なんだけどね」
てれっとした表情で、優しく頭を撫でてくれる。たまらなく嬉しくなる。
だけど、最近はそれと同じくらい、胸の奥がチクチクする。
「他の人たちがワイワイしてる時にね、その人、一人で静かに校舎に入ってっちゃうの。それがすごく自然で、なんていうか……そう、クール。一匹狼っていうのかな。とにかく『ああ、この人、一人でも気にしないんだなぁ、強いんだなぁ』って……」
どこか惚けたように、でも生き生きとした声で話すお姉ちゃん。
このままお姉ちゃんがもっと遠くに行ってしまうような気がして、チクチクが少し深くなった。
「私もあの先輩みたいに強くなりたいなぁ……でも今日は話しかけられて、逃げちゃった……。明日からどうしよ……」
さっきから赤くなったり青くなったり忙しいお姉ちゃん。
ちょっとしたことで嬉しくなったり。
かと思えば寂しくなったり。
……まるで自分みたいだ。
もし、わたしもお姉ちゃんと同じ……人間だったら。
もっと長い時間こんな表情を見てられるのにな。
そう思うと、なぜか昼間のししゃもの話が一瞬脳裏によぎった。




