第十九話:遭遇、ふたつ
薄明るい室内を照らすは、月明かりの他にもう一つ。
大きな実験用のテーブルに置かれる小さな透明の容器……アルコールランプである。
その先端から生える白い紐に灯る小さな火が、物悲しげに揺れている。
ゆらりゆらりと、隣に座る何者かの影を揺らしている……。
コトン……。
トクトクトク……
クイッ。
「「……」」
黙々と流れていく光景を前に、涼介とめいりはただ無言で立ち尽くしていた。
――結論から言えば、めいりの言う“何か”はすぐに見つかった。
それまで二人は、宿直室の奥に並ぶ特別教室を一つずつ順に確かめていた。
宿直室……ほのかにさっき飲んでいたコーヒーの香りが漂うだけで、異常なし。
物理準備室……異常なし。
地学室……異常なし。
生物準備室……異常なし。
「いや……異常あり、だ」
生物準備室の戸締まりがされていなかった。
まるで涼介たちを招き入れるように、アルミの引き戸はすんなりと開いたのだ。
涼介は恐る恐る中の様子をうかがう。……が、暗くてよくわからない。
「涼介、ここには何もいないと思う」
めいりは涼介の脇なら室内に入り、部屋の明かりをつけた。一瞬眩しさに視界を遮られる。目が慣れたのちによくよく見てみる。
奥の棚に並ぶホルマリン漬けの標本たちが不気味ではあるが、めいりの言うとおり、とくに何かがいるような様子はなかった。
「ただのカギの閉め忘れか……」
「そうじゃないってことは、涼介もわかってるよね?」
「……ああ」
さっきから、安心しては覆されを何度か経験していた涼介。不本意ながら、今回も似たような予感がしていた。
それに……
「この部屋で一番目立つ物が、なくなってるしな……」
標本棚のすぐ横にあるはずの“生物室のシンボル的存在”が今、ここにはなかったのだった。
「涼介、こっちよ」
めいりはすたすたと廊下に出て先を促す。涼介もすぐにその後を追う。
そしてすぐ隣の化学室。
わざわざ確かめるまでもなく、扉が全開だった――
アルコールランプの炎の隣に座る一人の男。
しっかりとは見分けづらいが、おそらく上半身裸だ。
背中には黒い翼のような模様。刺青だろうか、それは一対ではなく、なぜか左側にだけ描かれている。
そして彼が腰掛けるテーブルには、おそらく空であろうアルコールランプの容器が無数に転がっていた。
「……あっ!」
そこで、涼介はふと思い出す。
あれはいつのことだったか。
涼介の級友であり噂話の暴走特急――然木笑海が話していた中に、似たような話があったような……。
「アルコールランプ……減少現象だ」
「いつのまにか然木ちゃんの二つ名が変わってる……」
笑海が毎度話す、嘘か本当かわからないような話。
これまでは適当に流していた涼介だったが、その一つが今、目の前で展開されている。
初めて彼女の話に現実味が帯びた瞬間だった。
「……んあ?」
すると、テーブルに座っていた男の影が動いた。
そのまま怠慢な動きで振り返る。
どこから持ってきたのか、その右手には一升ビン、左手にはぐい呑みらしきものを携えていた。
……ここに来た時からそんな気はしていた。
それに、生物室での状況、数日前の然木の話を照らし合わせるならば、考えられる答えは自然と絞られていた。
「なんだぁ? なんでこんな時間にここの生徒がいやがる」
テーブルから腰を浮かせ、完全に振り返った男。
――いや、違う。
立ち上がった“それ”は、どう見ても全裸。
でも、まるでそれがデフォのようで、卑猥さや下品さはない。
それよりも目を引くのは、楕円にごっぞりと切り取られたお腹周り。その中から覗く、丸いやら細長いやら、大小さまざまな……臓器。
そう……今、涼介たちの前に立つのは男の形をした……模型。
生物準備室の主とされる、人体模型その人(?)であった――
* * * * *
「うぅ……、やっぱり怖いぃ……」
一方その頃……。
昇降口付近で一人取り残された陽菜は、自身の肩を抱きしめながら震えていた。
さっきまではなぜか、不思議な安心感に包まれていた。
無理矢理宿直に連れてきた生徒が、実は同じアパートの住人で、しかも陰陽師だった。
陰陽師については詳しく知らない。だが陽菜も映画などで見かけていて、なんとなくイメージできる。たしか、やたらオバケ退治に強い人だ。
そしてその陰陽師――“柳瀬の涼介なんとか”は今、学校にはびこる怪異を滅すべく、勇敢にもその身一つで廊下の奥へと消えていったのだ。
しかし、生まれながらある怖がりな性分はそう簡単には変わらない。
誰もいない廊下で一人きり。
どこからともなく迫り来る孤独と不気味な雰囲気……。
ついさっき、どこかの教室の明かりが、何度か点いたり消えたりした。
今では闇を取り戻した廊下の奥。その天井には、非常口を示す誘導灯がぼんやりと怪しい緑色を湛えている。
やはりこのシチュエーションは、陽菜にとっては耐えきれないものだった。
「やっぱダメだ。先に宿直室に戻っておこう。でも……」
陽菜には、どうしても先に行きたい場所があった。
今までは、怖さやら教頭への怒りやらでなんとか紛らわせてこられたが、そろそろ我慢も限界に達している。
秋もそろそろ折り返し地点。
そんな真夜中の校舎は存外に冷える。
それに、さっきのコーヒーで摂ったカフェインが今頃になって効いてきたのだ。
「やだな~、怖いな~。でも、行かないわけにもいかないしなぁ~……」
ブツブツと弱音を吐きながら、陽菜は宿直室とはちょうど反対方向にある女子トイレへと向かった。
一度行くと覚悟を決めると、不思議と心が落ち着いてきた。
「うん、ちょっと暗くて不気味なだけで、昼間とそんなに変わらないじゃんか」
うすく顔を綻ばせながら自分に言い聞かせる。
そんなあいだに目的地に到着。歩いて十歩ほどの短い距離だった。
陽菜はそのまま小走りで入口を曲がり、
「――っ!」
吹っ飛ぶように尻もちをついた。
「ひ、ひぃぃっ……!」
さっきまでの微笑みはどこへやら、陽菜先生の顔が全面恐怖で引きつる。とても他所様には見せられないほどに悲壮な表情で、そのまま後じさる。
角を曲がってすぐ、人が立っていたのである……。
トイレの入口すぐにある洗面スペースに、一人の少女。
小柄で、髪の毛を頭の両サイドで結っていて、大きくてまん丸な瞳をさらに大きく見開いている。
「ひ……ひ……でで、出た……出た……」
「はわ、はわわ……」
叫び声もあげられない状態の陽菜。もうお花摘みのことなどすっかり頭の外に放り出している。
手をバタバタと宙にさまよわせ、うわごとのように助けを求めた。
「か、かみ……かか神さま……っ、おたすけ……」
「やな……やや、柳瀬……、たすけ…………ん?」
だが、陽菜は途端に冷静を取り戻す。
突然現れた目の前の少女……彼女もまた、陽菜と同じように腰を抜かしていたのだ。
小学生にも間違えそうなほど小さな身体を、がちがちと一所懸命震わせている。
「あ、あなた……」
ブリキのおもちゃのように震えるその少女は、陽菜も何度か会ったことのある……この学校の生徒だった。




