第十二話:保健室の天使
「はぁ、はぁ……、早起きは三文の徳、という諺が、あるだろう……? この言葉が生まれた当時、“徳”とは損得の“得”と同義だったらしい……。そこでようやく、いくつかある由来が、意味を持ってくるのだ、が……ぐふぅ……」
「いやお前、ただのうんちくになってるって……。調子悪い時くらいその口閉じとけ?」
フラフラのくせに無駄に饒舌な笑海。彼女の肩を支えつつ、どうにか一階に到着した。
そのまま左に折れて廊下を進む。
……ううん、どうしたもんか。
笑海の状態も心配ではあるが、涼介は他にもう一つ、気になることがあった。
ふと、隣についてくるめいりの方に目をやる。
「……ん、どうしたの?」
「あ、ああ、いや……なんでも」
思わず目が合ってしまい、つい言葉を濁してしまった。でも、このままだとじき保健室へ辿り着く。
「なぁ、めいり。もしアレなら……部屋の外で待っててくれてもいいんだぞ?」
なので、少し遠回しに伝えてみた。
今から向かう場所にはもしかしたら、めいりが会いたくて……同時に会いたくない人物がいるかもしれない。
もちろん、それはただの推測でしかないのだが、タイミングやこの前の話からして十分にありえると涼介は考えている。
だが涼介は――笑海は一人で歩ける状態ではないし――彼女を休ませるために必然的にその場所に入らなければならない。
……そこで、この提案だった。
いずれは、ここに来るとは思っていた。
でも今は、それ以前に大きな問題がある。
だからこそ涼介は笑海に質問をしていたのだが……
「わたしも入るよ」
予想通りに平坦な声が、予想以上にあっさりと返ってくる。
「い、いいのか……?」
「うん。保健室ってどんなのか見てみたいし」
「そうか……」と頷いて応える。
まぁ、本人がいいと言うなら無理にどうすることもないか。
涼介も、ある程度めいりの事情を知っている自負はあるが、どうあがいてもめいり自身にはなれない。自分の知らないところで、彼女にも何か思うところがあるのだろうし。
あっというまに『保健室』と書かれたプレートが視界に入る。
そのすぐ下、まさに保健室の入口からちょうど二人の生徒が出てくるところだった。
大人しそうな男子が二人。何やらボソボソと話をしながら脇を通り過ぎていく。
「さすがの彼奴も、かの刻印は封じることはできまいて」
「だな。部位の紋章をかき消した彼奴だ……刻印でさえ消し去るやもとは思ったが、ひとまず我が学舎は安泰だ」
「「「……」」」
二人のうしろ姿を無言で眺める涼介たち。
「なるほど……わけわからん」
率直な感想だった。
よく見ると、男子生徒の一人の制服……その袖口(まだ世間は暑いのに冬服だ)からは、手ではなくプラスチックの“ものさし”が飛び出ている。おそらく手を袖の中に引っこめて、中でものさしを持っているのだろう。
ちなみにもう一人は、指と指の隙間に色とりどりのチョークを挟んでいる。
そしてさっきの会話から察するに……。
「ぜぇ、ぜぇ……、あれは……相当こじらせているな……」
「ああ、さすがに中二病は保健室で診てもらっても治らんだろうに……」
通りすがりの中二病二人組を見送り、保健室入口の扉に手をかけた。
「失礼しまーす……」
扉を開けると、消毒の匂いとともに柔らかい香りが鼻腔をくすぐった。
開け放たれた仕切りカーテン。
清潔な白で統一された室内。
そして、すぐ前の丸椅子に腰掛けてデスクに向かう一人の女性……。
まるでその場所だけ、特別な時間が流れているかのよう。それほどゆったりと柔らかい雰囲気が広がっていた。
ふんわりと茶色がかった髪から覗くのは、まるで人形のように整った横顔。
ぱっと見、涼介たちの年代と区別がつかないほど若い容姿の女の人。
涼介もこれまで何度か保健室には来たことがあったが、実際ちゃんと見るのは初めてだった。
今年からこの学校に赴任してきた養護教諭……陽菜先生――。
噂どおりの……いや、噂以上にキレイな先生だ。
少なくとも、涼介の思考を一旦フリーズさせるほどには……。
「……あら? どうしたの?」
こちらに気づき笑顔で迎えられる。横顔とはまた違って、正面から見ると子犬のように愛らしい微笑みだった。
「あ、あの……、ちょっとクラスメイトの具合が悪くて……」
声をかけられ一瞬心臓が跳ね上がる。も、涼介はぎこちなくも用件を告げる。
「あ、ほんと、顔が真っ赤ね。さ、ベッドに寝かせてあげて」
言われるがまま、陽菜先生の手を借りつつ一番近くのベッドに笑海を横たえる。
先生は笑海の額に手を当てて、
「ううん、熱はそこまで高くないのかなぁ……。ちょっと計ってみよっか」
棚から取り出した体温計を片手に、いまだうぅうぅとうめく笑海のカッターシャツのボタンを一つ、二つと外していく。
全くそつのない動きだった。
平均よりやや小柄な陽菜先生。少し大きめの白衣が余計に彼女を幼く見せているけれど、そんな仕草の一つ一つからは溢れんばかりの母性が感じ取れる。
「ところで、君?」
「あっ……は、はいっ」
すると、急に声をかけられる。そこで涼介は無意識に陽菜先生に見とれていたことに気がついた。
「もしかして君、この子の彼氏かな?」
「は? い、いえ違いますけど……」
「じゃ、ちょっと外してくれるかしら? お年頃だし、女の子に興味があるのは仕方ないけどね」
悪戯っぽい笑みでカーテンの外側をちょいちょいと指さす先生。
涼介は首を傾げるが、少し遅れてその意味を理解する。
横目に見えるは、シャツをはだけた状態の笑海。きめ細やかで少し赤らんだ鎖骨が、妙に艶めかしい。
「あ……ああっ! すみません!」
大慌てで涼介は回れ右、そそくさとカーテンの外に瞬間移動。
「……何やってんだ、僕」
しばらく頭を抱える。
恥ずかしい……。
それもある。いや、白状すればそれが九割強だ。
だが残りの一割弱は、涼介が気づかされた思わぬ事実によるものだ。
……正確にはもともとわかっていたことだが、改めて自覚した事実。
「まずい……。これじゃ確認どころか、まともに話すらできないぞ……」
涼介は異性と会話をした経験がほとんど皆無だった(幽霊であるめいり、女として認識していない笑海は例外)。
特に陽菜先生のような年上の女性と話したことなど、ほんの一度きりもない。
ましてや、あんな癒やし全開の笑顔で見つめられると、息が詰まってうわずった言葉しか出なくなってしまう……。
ようはヘタ……初心なのだった。
「あれれ~、体温計壊れてたよ~。他のあったかしら……」
突然カーテンの向こうから現れた先生。一瞬視線が交錯しただけでも頬が熱くなるのを感じる。
体温計を求めて棚を漁る陽菜先生。ほんの数歩分の距離なのに、そのうしろ姿はやたら遠くに思えた。
普通の世間話でもE難度だというのに、いきなり亡くなった妹の話など……
(うおおお…………無理っ!)
涼介には到底不可能なミッションであった。
結局、このまま笑海を保健室へ残し、涼介とめいりは教室に戻ることになるのだった。