第十話:はじまりの交差点
秋の風が絶えず頬を撫でつけてくる。
つい数日前までの湿度をまるで感じさせない、カラッと爽やかな夕方だった。
涼介は背中にめいりをへばりつけながら自転車のペダルを漕ぐ。ごく一般的な二十六インチ、ややくすんだ鼠色のママチャリ。その平々凡々な見た目とは裏腹に、一度の踏み込みで結構な距離を進んでくれる。そんなところが涼介は密かに気に入っている。
(……そうだよ。よく考えてみれば当たり前のことだよな)
高校入学以来の相棒に歩を任せながら、涼介はぼんやりと考えにふけっていた。
さきほど下駄箱付近で聞いた生徒たちのやりとり。それが心の端っこ、まるで魚の小骨のように引っかかっていたのだ。
(誰かが亡くなれば当然、お通夜やお葬式が執り行われるはずなんだよ……)
その規模は大小様々あれど、よほどの理由がない限り、亡くなった人間はその身内によって弔われるのが自然だ。
……それはもちろん、うしろの幽霊少女にも当てはまる。
前方を注意しながらも横目でめいりの様子を窺う。
校舎を出てからというもの、めいりは一言も声を発していなかった。
口を開けばすぐに冗談をかます彼女が、今はまるで存在感がない。依り代である涼介ですら、たびたび確認しないとその存在がわからないほど、ただ静かに荷台に腰掛けている。
涼介がこれまで持っていた幽霊のイメージ……“何もないようにそこにいる”幽霊の像が、今のめいりとすんなり重なっていた。
結局何も話さないまま、二人を乗せた車輪は目的地……この町一番の大通り近くに差しかかる。学校からちょうど二十分ほどだった。
道沿いに立ち並ぶシンプルな外装の建物群、大型スーパーや家電量販店、その合間を行き交う人、車。
時刻はまだ四時半を回ったところ。さすがに仕事帰りらしき人影は少ないけれど、それでも賑やかという形容の似合う雰囲気だ。
「ここでいいのか?」
「うん。いいハンドル捌きだったわ」
「いや、ほぼ直線だったしな……」
学校からここまで、険しくもなんともない道のりだった。
開口一番に冗談を交わすも、会話はそれだけ。
めいりは表情を変えないまま大通りの交差点、その手前にある横断歩道の方へと駆けていった。
ペイントされてまだ日にちが浅いのか、ハッキリとわかる白と黒の繰り返し。その中心部分だけ、何か焦げついているようで、やけに赤茶色い染みがあった。
「あいつ……どうしたんだろ」
涼介は不思議に思いながら、横断歩道の上をウロつくめいりの方へ歩いていく。
出会ってまだ丸一日も経っていない二人。
それでも涼介には、今の彼女はやけに大人しく、そしてどこか真剣であるように感じられた。
日もゆっくりと西に傾きはじめる。空から零れる茜色の光が、彼女の髪とワンピースを柔らかく染め上げる。
涼介は何をするでなく、かといってめいりからは一定距離以上離れられず、交差点の傍らでぼんやりと彼女の動きを眺めていた。
しばらく、舗道と車道の境目あたりに座り込みゴソゴソと手を動かしていためいりだが、突然すっとその身を立たせる。
そこには安堵の表情。
小さく白い左手には、何やら細長いものが握られていた。
「……あった」
「ん、それは?」
尋ねながら近づくと、それは布のようだった。
ボロボロで、ところどころ泥や赤黒い何かで汚れてしまっている……細長い布。
めいりはそれを手にしたまま、細い両腕を自分の首のうしろへ運ぶ。
そして、髪をどかしながらそれを首に巻き付け、
「くび……ちょーかー」
顎をひょいと上向けてみせた。
その首元についていたのは、チョーカーだった。
ペールプルーのシンプルな形状のそれは、めいりの折れそうなほど細い首にぴったり収まっている。まるで、そこが元々在るべき場所であるかのように。
それに、不思議なことに、さっきまであった汚れのようなものが一切見当たらない。
傷一つないキレイなそのチョーカーは、めいりの白髪と一緒に、夕日を浴びてほんのりと彩りを変えていただけだった。
「お姉ちゃんにね、買ってもらったの」
夕暮れの町に溶けて消えてしまいそうな声でめいりが紡ぐ。
「おそろいのちょーかー。車に轢かれた時にここまで飛んじゃったんだと思う」
「お姉ちゃん……、車……」
確かめるように、その言葉を繰り返す。
そしてめいりの視線は、少し離れたところ、横断歩道の上の染みに注がれていた。
そこで、涼介も理解する。
――ここが“現場”なんだ、と。
鈍い頭痛がする。
昨日の夜、めいりと出会った時に感じたものと同じ。今まで何度も味わってきた、嫌な思い出だらけの感覚だ。
「涼介?」
「ああ。なんでもない……」
そう言って涼介は無理矢理前を向く。唾を一つ、痛みとともに呑み込む。この数年で身につけた、平穏に生きる術……。
こうした現実を突きつけられるたびに起こるんだ。軌道を修正するのもすっかり慣れた。
それより今は、めいりの話の先が気になった。
「もうないかもって思ってたけど、あってよかった。誰にも見つけられなかったのね……」
もう一度「見つかってよかった」と、笑みを零す。何度もチョーカーに手で触れ、輪の流れに沿って優しく撫でている。
それはめいりの髪、肌、ワンピース……その白い容姿によく馴染んでいた。
今朝もめいりの口からほんの少し出ていた“お姉ちゃん”の存在。
めいりの首に巻かれたそのチョーカーは、その人との思い出の一つらしい。
わざわざこうして自分の元に取り戻しにくるくらいには、お姉ちゃんもチョーカーも……そして、それらと自分を繋ぐその思い出も、大事なものなんだろう。
そのままふと、
めいりは視線を大通りの向こう側に流した。
涼介も彼女の視線の先を追う。すると、そこには小さな店があった。
小洒落たブティックやファーストフード店が並んでいる通りの一角。周りの建物よりほんの少し背の低い、木目調の壁が可愛らしい建物。
落ち着きがあってこぢんまりとした……カフェだ。
ちょうどその出入口から若い二人の女性が談笑しながら出てきた。何か楽しいことでもあったようで、キャッキャッと浮き足だっている様子。
そのまま遠ざかっていく二人を横目に、
「あのカフェが、どうかしたのか?」
涼介はめいりに尋ねてみた。
めいりはその問いにゆっくりと言葉を返す。
「一度ね、お姉ちゃんにあのお店に連れていってもらったの。とっても美味しいお菓子を食べたわ。それで、『また来ようね』って二人で約束してたの」
めいりは言いながら、カフェの入口を懐かしむように眺めている。
「もう一度、お姉ちゃんとあのお店に行きたい。それも、さっき話してた“したかったこと”の一つなの」
視線はカフェに向けたまま。
いつものように抑揚のない声で。
それは、涼介とほぼ変わらない年頃の少女が持つような、ほんの些細な願いだった。
でも、めいりにとっては大事なんだろう。
その証拠に、今のめいりは「人生を謳歌する」なんて戯れてた時よりもずっと真面目な顔をしている。
まったく……と、涼介は心の中で毒づく。
はじめはあんな突飛な登場の仕方をするし、勝手に他人である僕を依り代にしちまうし。
それに今日なんて、ほんの一瞬だが、誰かを呪い殺すつもりなんじゃないかって不安にさせられた……。
はたしてどんな未練を抱えてるのかと思えば、“お姉ちゃんともう一度思い出のカフェに行きたい”んだと言う。
その小さな願いがなんとも年相応で、可愛らしくて、純粋で……。
……ほんと、めいりは変なやつだ。
過去に思いを馳せているのか、マリンブルーの瞳を細めるめいり。
その横顔を見つめながら、涼介はつい頬を緩めてしまった。
「めいりって……お姉ちゃんのこと、大好きなんだな」
なんとなく、独り言のように出てしまった言葉。
めいりはハッとした顔で涼介の方を向くと、その表情のままこくんと頷く。
彼女にしては珍しく、ほんの少し照れた笑みを浮かべていた。
「でも」
と、めいりは一度唇を結ぶ。
少し強い風が涼介とめいりの合間を通り抜け、めいりの糸のような髪をふわりと吹き上げた。
なびいた白髪が再び華奢な肩に流れ落ちた時、めいりは再び口を開く。
「今日、お外に出てわかったの。わたしは、涼介以外の人には見えないってこと。だから、今お姉ちゃんに会えたとしても、お姉ちゃんはわたしに気づかない。あのお店にも、一緒に行けない」
そして、どこか達観したような、諦めたような表情で言った。
「ほんとはね。幽霊になってすぐ、お姉ちゃんのところに行こうとしてたの。失敗して涼介のところに出ちゃったけど」
「そうだったのか……」
なんとなく予想はしていたが、めいりのいう“ターゲット”……それはやはり、彼女のお姉ちゃんのことらしい。
でも、何か違和感がある。
それは嫌な予感ともいう。
今の話からするに、めいりは姉のことが大好きだ。
本人も認めている。
だとすれば…………どういうことなのだろう。
「じゃあ、あの“メリーさん”のモノマネは……?」
「お姉ちゃん、怖いの苦手だから……。ちょっとビビらせてやろうかと」
「おいおいマジかよ……」
不敵な笑みを浮かべて右手親指を突き立てるめいり。涼介は全身の骨が抜けたのかと思うほど呆れた。
まさか悪戯だったとは……。
それに、大好きな姉に対してなんたる所業……! おまけに失敗して、結果あかの他人の僕に憑いてるし! 心許しあえる仲だからそんなことできるのかもしれないけど、それで他に被害こうむってちゃ世話ねぇ!
くそう、今の雰囲気ではツッコむにツッコめないぞ……。
涼介が葛藤しながら両手をまごまごと上げ下げするあいだも、めいりは言葉を継ぐ。
「もちろん今でも、お姉ちゃんに会いたい気持ちはあるの。けど、無理。わたしのこと気づいてもらえないのはちょっと嫌だから。だからお姉ちゃんには、今度どこかで会えたら、密かにお礼だけでも言おうと思う」
「……」
ほんとは、会いたくて仕方ないはずなのに。
大好きなお姉ちゃんに会って、話したいことも沢山あるだろうに。
そんな素振りを微塵も見せず、あっけらかんといった様子で話すめいり。
涼介は、なんとも不思議な感覚で彼女を見ていた。
夕日のせいか、ほんのりと頬や髪を赤らめるめいりという少女は、本当にこの世のものではないんだ、そんなことを今更ながらに思った。
――もうこの世に実体をもたない、幽霊。
昨晩から、頭ではそう理解していた。
けれどこの時ようやく身をもって、自分の中のあらゆる細胞でもって納得できた気がした。
それほど今のめいりは儚く見えた。そして美しかった。
愛しさ、恋愛感情、下心……。そういった概念の一切を捨てた存在。
それでいて現世に生きる者にはけして手の届かない、逆にそちらからも干渉することができない。
そこにいるようで、本当はいない。
脆く透明な美しさだった。
そんな人外な存在のために、なんの能力もないただの高校生がいったい何をできるだろう。
何もできっこない。しいて言うなら、依り代として彼女の未練を晴らす手伝いをしてやるくらいだ。
なんだ……。
あるじゃないか。
自分にできること。
「涼介、帰ろう?」
めいりの呼びかけに涼介は我に返るも、声の主の姿はすでにそこにない。
気づけば、めいりは舗道の端に停めてあった自転車のサドルに跨がっていた。
「帰りはわたしが運転してあげる」
「いや、それじゃ僕が荷台に座ることになるだろ」
ひとりでに動く自転車。その荷台に座る少年。想像しただけでも異様な光景だ。
それは遠慮願いたかった。
めいりを荷台に追いやり、来た道を再びなぞって帰路に就く。
空は徐々に紺色に染まっていき、風もついさっきよりも少しひんやりとしてきた。
「ふん、ふふんふん、ふ、ふ、ふーん」
すぐうしろで鼻歌を歌うめいり。抑揚が全くないからお世辞にも音痴である。
そんな声を背中に浴び、涼介は今日一日を振り返っていた。
――めいりの未練を晴らす。
それが自分にとっても、めいりにとっても一番の方法だ。
そして、学校の下駄箱で聞いた生徒たちのやりとり。ついさっきめいりが話してくれた“お姉ちゃん”との思い出……。
涼介の中では、ある一つの可能性が浮かんでいた。
(……まあ、何もしないよりはいいよな)
明日からの予定を頭で泳がしはじめる涼介。
チョーカーに手を添えながら、上機嫌に歌うめいり。
それぞれの思いを抱く少年と幽霊……。
そんないびつな二人組を乗せた鼠色の自転車は、人で賑わいはじめた町中をゆっくりと駆け抜けていった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第三章以降、少しずつ登場キャラも増えていきます。
今後ともどうぞよろしくお願いします。