第九話:大きなマスクと開かずの保健室
「えっ……。もしかして今、いる?」
「うん。ほら、あそこ」
めいりに倣ってうしろを確認する涼介。そのまま盛大に嘆息した。
この三ヶ月ほどですっかりこの身に染みついてしまった感覚が、遠くの方からビシビシ伝わってくる。
まっすぐな気配、視線……そして壁際からちらりと覗く小さな影。
間違いない。
ほぼ毎日涼介をつけてくるあの女子生徒だ。
今までハッキリと顔は見たことはないが、涼介は何度かその姿を目にしている。
「今朝はいなかったからもしかしてと思ったんだが、やっぱりまだいたか……」
「ねぇねぇ、涼介ってもしかして、ずっと前からつけられてるの?」
「うん……まぁ、実はそうなんだよ」
――あれは、今年の五月初旬。
ちょうど校内行事の一つ、“クラス対抗球技大会”が行われた日のことだった。
「涼介涼介」
「ん、なんだ?」
「“クラス対抗きゅーぎたいかい”って何?」
「ん? 知らないのか? まあ簡単にいうと、球技は“ボールを使ったスポーツ”のことだ。そのスポーツを通じて、クラス同士で試合をするんだ。ようは球技大会ってのは、クラスごとに球技で戦って勝ち負けを決める大会のことだ」
「なるほど。そこでは喰うか喰われるかのし烈な戦いが起こるのね?」
「まあ単なる学校行事だし、そこまで殺伐とはしてないけどな。ごく稀にそういう雰囲気のやつもいるけど……」
「喰うか喰われるか……。ちなみに、わたしはお肉より魚の方が好きよ?」
「お、マジか。実は僕もそうなんだ」
「でも、ゾウさんの方がもっと好きです」
「なんで球技も知らんでそんなネタ知ってんだよ」
大いに脱線していた。しかも実のところ、球技大会自体は本題とほとんど関係がない。
その大会では、二年Cクラスがサッカーの試合で見事優勝を果たしていた。
クラスメイトたちが一斉に集まって喜びを分かち合うなか、もともと影が薄く、さらにキーパーとしてピッチの端にいた涼介は、その輪から完全にハブられていた。
手持ちぶさたになった涼介は一人校内に戻る。
そのままトイレに向かい、洗面スペースで汚れた顔を洗っていた。
――最初にそれを感じたのは、その時だった。
ふいに、背中にビシバシ感じる視線。
なぜかものすごい勢いで見られている気がした。
少女の姿……。
涼介はひとしきり汗を流し終えて顔を上げると、その正面の鏡越しにそれを見た。
壁際からじっと、熱っぽくも不安そうにも見える眼差しでこちらを覗いている。
かなり小柄な少女だ。馬のシッポのような茶色い髪が一房、ひょこ、ひょこ、とうごめいている。
そして何よりも目を引いたのが、彼女が身につけるマスクだった。
耳元までありそうな、彼女の小さな顔には不釣り合いなほど大きなマスク。
その時は顔が丸見えだったのだが、そのマスクのせいで顔立ちや表情までは把握できなかった。
ふと、町中の辻で遭遇した途端、『わたしキレイ?』と尋ねてくる……そんな都市伝説を思い出した。
(然木にいつも変な話を聞かされるもんだから、ついに変なものでも見えるようになったか……?)
心の中では冗談を吐くも、涼介は不安になった。
流れる静寂。
その場には涼介とその少女以外誰もいない。
なぜかはわからないが、そんな時に限って自分の鼻は、トイレ独特のやや饐えた臭いを敏感に感じ取る。
ただ、よく見ると彼女はこの学校の生徒のようだ。
男子トイレの中を覗くという行為はすこぶる怪しいが、もしかしたら何か用があるのかもしれない。そもそも、涼介に用事がある人間というのも約一名を除いて非常に珍しいことなのだが……。
意を決して、涼介は振り返ってみた。万が一のことがあっても、二人の距離はある程度離れているし、なんとかなるだろう。そう思いながら……
「えっと……君は?」
軽く声をかけてみた。
「――!」
マスク女子はその声に反応して、びくりと肩を上げる。涼介に気づかれたことに驚いたのだろうか。
そしてそのまま……
「なななな……! ななんでもありませ~……」
何か言い切る前に、猛スピードで去っていってしまった。
(……。……なんなんだ?)
……結局、彼女は何者なのかわからず。
ただ一つわかるのは、毎日のようにビシバシと視線を浴びるようになったのが、その日以来だということだった――
「よく、わからない……」
めいりはぽかんとしていた。
その気持ちは涼介もよくわかる。なんせ自分でも、なぜこうなっているのか全く心当たりがないのだ。
「まあ、今のところは単に見られているだけで、あの子の行動がエスカレートしてるわけでもないから、そのまま放置してあるんだけどな」
それどころか、たまたまそちらに近づいたりすると当の彼女は一目散に逃げていく。明らかに涼介に目をつけているのはわかるのだが、被害もなければ逆に話もできないのだ。
そんな話をしている今も、バリバリ感じる怒濤の眼差し。
まあただ見てるだけなら、それ以上何もなければ、それでいい。
涼介はそんな風に割り切って、夏休みを挟んだこの数ヶ月を過ごしてきた。
前向きなようでつまりは、それ以上踏み込むのが面倒だったのである。
「……謎のストーカー女子。大きなマスク……」
眠そうな目をいっそう細めて、うにゃうにゃと考えにふけるめいり。彼女の呪文のような呟きをBGMに歩いていた涼介だが、やがて一階に辿り着く。
階段を下りて右手側には化学室、生物室……それらの準備室など、特別教室が並ぶ。涼介たちはその逆の、左手……職員室や保健室の前を通って昇降口へと歩を進める。
あと数歩で下駄箱というところで、二人の女子生徒とすれ違った。
一人は三つ編みの女子。具合が良くないのだろうか。顔色も悪く額に汗を浮かべている。そんな彼女をもう一人の細身の女子が支える格好だった。これから保健室へ向かうところなのだろう。
「え、ちょっと……大丈夫なの?」
すると、背後で別の生徒の声がする。二人の知り合いらしい。
「う、うん……ちょっと気持ち悪いだけだから……。これから少し保健室で休もうと思っ……て、あれ?」
「あ、保健室閉まってる……」
涼介もさっき見て思っていたのだが、どうやら今日は保健室が開いていないようだった。全く面識のない子たちだが、少し不憫に思ってしまう。
「あぁ……。あのね、さっき聞いたんだけど、陽菜先生……昨日から学校休んでるらしいよ」
「え……そうなんだ」
陽菜先生とは、今年から新しく赴任してきた養護教諭。
子犬を連想させるふわりとした雰囲気の女性だ。
まだ二十代前半という若さ、そして誰にでも穏やかに接するその優しい性格から、男子女子かまわず人気急上昇の先生である。
「なんでも身内の不幸事があったとか……。さっき職員室で先生たちが話してたんだ」
「ええ~、じゃあどうしよっか……」
「はぁ……はぁ……」
「ううん、仕方ないね……。とりあえず先生たちに相談しにいこうか」
「う、うん……ごめんねぇ」
女子生徒たちはしばらく何やら話していたが、そのまま三人揃って職員室の扉をくぐっていった。
そのやりとりを耳に入れながら靴を履き替えていた涼介だったが、その会話の内容にモヤモヤしたものを感じていた。
「……なんだろ。なんか、重要なことを見過ごしてるような気が……」
「涼介」
突然めいりに声をかけられ、思考が中断する。
校舎の玄関口に立っていためいりは外……どこか遠くの方を眺めていた。涼介の方からその表情は読み取れず、ただ幼い横顔が映るだけ。だが、自分の名を呼ぶその声はいつも以上に芯の通ったものだった。
「帰りに、寄ってほしいところがあるの」
「ん、いいけど……どこに?」
振り返るめいり。
「この町で一番大きな通り。その、交差点」
その双眸はどこまでも深く、底知れない蒼を宿していた。