第八話:めいりの本懐
放課後にもなると涼介は満身創痍といった様子だった。
今はめいりと二人、二年の教室が並ぶ三階廊下を歩いている。
「あいつ……今日は五割増しで話してやがった……」
彼の鼓膜にはいまだ、然木の声が残響として焼きついている。
めいりも笑海の話しっぷりにはたいそう驚いたようで、この日の後半は教室徘徊も忘れ彼女の話に聞き入っていた。
「あの人、『。』の存在を知らないのよきっと」
「『句点』っていうんだ。間違っても、めいりは然木みたいにならないようにな」
素直に頷きながら涼介のすぐ右隣を歩くめいり。
彼女は前から歩いてくる生徒にぶつかりそうになるも、まるで何もないかのようにその体をすり抜けていく。
そんな様子を不思議そうに見ながら、
「それにしても、めいりっておかしいよなぁ」
涼介は独り言のように呟いた。
「涼介の顔だけには言われたくない」
「あ、ごめん。悪い意味で言ったんじゃないんだ……って、顔っ!?」
思わず両頬に手をやる。自分では、特別イケメンでもないがそこまで酷い顔でもないとも思っていた。実際、小さい頃からこの中性的な顔をネタに近所のおばさんたちからイジられてもいた。
そんな涼介の自己評価が突如歪んだ瞬間だった。
「わたしの何がおかしいの?」
「え……ああ、だってさ。めいりって僕以外の人には見えないし、ぶつかりもしないだろ?」
「うん」
「それなのに、ごく普通にご飯食べたり地ベタ歩いたりする。あとは色んな物に触れたりできるし……」
「そうだね。レーザービームは出せるけど、空を自由に飛びたくても飛べないし」
そして知識がおかしな方向に偏っている。と言おうとしたが、これは今の話に関係ないので黙っておいた。
「わたしにも、よくわからない」
めいりはそのまま前に向き直る。何を考えているのかわからない、でも無表情ともいえない……そんなふわふわした横顔だ。
しばらくそのまま沈黙を弄びながら歩いていたが、涼介はふと本題を思い出す。
「まあとりあえず、今日は有力な話が聞けた」
「有力な話?」
「あ、そうか。めいりは聞いてなかったもんな……」
そもそもこいつは、今の事態をそれほど深刻に考えてないような気もする。そんな風に思いながらも涼介はさっきの話を振ってみた。
「めいりって、未練とかあるのか?」
「ん、未練?」
何それ? といわんばかりに首を傾げられる。この仕草だけでも、とくに何かに頓着している様子は感じ取れない。
「なんていうか……めいりが『生きてる時にこれだけはやっておきたかった』って思うようなことだよ」
「やっておきたかった……それは、今やりたいこと……ってこと?」
「ん……そうなのか? まあ、似たようなもんだ」
今やりたいこと。つまりは、生きてるあいだにできなかったことだ。
「ある」
たが予想以上に早くめいりは答える。しかも、その凜とした声には全く迷いがなかった。
涼介は少したじろぎつつも尋ねてみる。
「……たとえば?」
「人生を謳歌する」
「さっそく無理ゲーじゃねぇか」
すでに試合は終了していた。それが未練というなら、今すぐにでも輪廻の環に還るのがいい。
「でも、昨日と今日だけでも楽しめてるよ」
「ん?」
気づくと、めいりは再び涼介の方に顔を向けていた。そして、いつもは平坦なそれよりいくぶん温度のこもった声でもって続ける。
「お茶や牛乳飲んだり、学校を見たり、色んなもの触ったり……それにこうして、涼介と歩いたりしてても、楽しいのよ」
ひとりでに零れ落ちたかのようなめいりの言葉に、さっきまで脳内で暴れていた残響が消し飛んだ。
まさか……そんなこと言われるとは思ってもみなかった。
涼介は自分の頬がほんのりと熱くなるのを感じながら、隣の少女の表情を窺ってみる。
めいりは、微笑んでいた。
光にとけて消えてしまいそうなほど白く透き通った髪が、時折窓から吹き入る風に揺れ、その幼い頬を撫でている。
たまに見せる悪戯心溢れるそれではなく、純粋に、心の底からそう思っているといった様子で、穏やかに……優しく頬を緩ませていた。
昨日の夜にも見た表情だった。
涼介は数瞬その光景に目を奪われるも、
(こんな顔するやつが人を恨んだり呪ったり……そんなことするわけないよな)
数時間前、ほんの少しでもそんな不安を抱いた自分をどうしようもなく恥じた。
「なので今後とも……存分にわたしを楽しませてくれたまえよ?」
「どこの悪役だよ」
色々と台無しになるのももう慣れた涼介だった。
ただ。
ただ、なんとなく……。
もう少しくらいこんな日が続いても、悪くないかもしれない。
そんなことを思うのだった。
* * * * *
「ん……?」
涼介をからかい頬を緩ませるめいりだったが、ふと違和感を覚えた。
来た方向を振り返る。
雑談しながら各々の方向へ歩く生徒たち。皆が皆、自分たちの話題で一生懸命盛り上がっている。
その光景はとても楽しそうだが、それぞれがほんの少しだけ無理をしているような……言い換えれば、どこか背伸びをしているようでもある。
この年頃の少年少女というのは、このようにして少しずつ心を成長させていく。それがごく自然なことなのかもしれない。
だが、めいりが感じ取った違和感はそれとは全く別のことだった。
視覚を研ぎ澄まし、行き交う生徒たちのあいだを縫っていく。
すると廊下の奥、二年Cクラスの教室よりもさらに奥にある階段口。
……その壁際で、何者かがこちらを見つめていた。
たしかにこちらを見ている。コンクリート壁にその半身を隠してこちらの……涼介の様子を窺っている。
時折その壁際から、学校指定のスカートがチラチラと覗いては隠れる。
どうやら女性のようだ。
彼女のいる辺りは、他の生徒たちから発せられる喧騒の空気からは完全に浮いていた。
めいりは普段眠そうな青藍の瞳を大きく見開いて、しばらくその階段口を凝視する。だが、存在はわかるまでも、その姿をはっきりと捉えることはできない。
めいりはそのまま、もう少しそちらに近づこうと足を前に出して、
「ん?」
首を傾げた。
「あれ? めいりー? 何してんだー?」
気づけば、涼介は結構前に進んでいってしまっていた。
これ以上離れると、またあの“見えない壁”に鼻をぶつけてしまう。あれは幽霊のめいりでもかなり痛かった。もしかしたら、幽霊だから、かもしれないが……。
「涼介、待って」
遠くの彼女の様子を気にしながらも、めいりは小走りで涼介の元に駆け寄る。
そして、彼の元に辿り着くかどうかといったところで、
「涼介って……誰かにつけられてるの?」
尋ねてみた。
涼介はあからさまに顔をしかめた。