プロローグ:退屈な幸せのなかで
お越しいただきありがとうございます。
これからしばらくの間よろしくお願いします。
――暇だ。
お昼をちょうど過ぎた頃。
お父さんもお母さんも、お姉ちゃんも。自分以外の家族がいない家そのリビングで、小さなため息が響き、木霊するでもなく消えていく。
彼女はお気に入りのソファの上に寝そべり、ゴロゴロと無為な時間を過ごしていた。
以前なら、ほどよいクッションと肌に馴染む革地の心地よさ……そのおかげもあってついウトウトとしてしまっていた。だが、ここ最近ではその感覚も少しずつ薄れてきていた。
たしか、今年の春頃からだ。平日の昼間、こうして留守番を任されることが多くなったのは。
それまではお姉ちゃんがずっと一緒にいてくれたのだが、“学校”という場所に行きはじめてから家を空ける日が増えた。
以来、くつろぎの時間だったはずの昼下がりは一転、暇で寂しい時間となってしまっているのだった。
――お散歩でも、しようかしら。
これまでも何度かお出かけはしているけれど、家族にどうこう言われたことはない。
そもそも、みんなが帰ってくる頃にはちゃんと家に戻っているから、誰も気づいていないだけかもしれないが。
――うん、お出かけしよう。
そうと決まれば、次は目的地の絞り込み。
さて今日はどこへ行こうかと、首を捻って考える。
――そうね……、人の一番多いところ。
一応それらしく考えてはみたものの、彼女の脳内で思い浮かぶルートはごく限られている。結局いつもお馴染みの散歩コースに落ち着いたところで、彼女は一つ大きなあくびをしながら立ち上がる。
そうして、玄関の鍵を開けるのに苦戦を強いられつつも、彼女は家の外へと小さな一歩を踏み出した。
やってきたのは、町の中心部。
比較的小さいらしいこの町の、一番大きな通りがある場所だ。
彼女はこの場所が好きだった。
常に誰かが道を行き交い、笑い声や信号機、車などの賑やかな音が耳を楽しませてくれる。自分がまだ知らない沢山の情報が絶えず空間に溢れている。この場所に来るたび自分が物知りになっていく……そう思うと、彼女の胸はワクワクを抑えきれずに高鳴った。
最近胸に巣くいだした寂しさも、この時だけは嘘のように消え去ってくれた。
道の向こう側には、白で統一されたシンプルなデザインの建物がある。カフェだ。かすかに香ばしい匂いが漂わせながらひっそりと営業している。彼女も一度、お姉ちゃんたちに連れられて入ったことのある店だ。
あの日は突然の出来事で戸惑ったけれど、美味しいお菓子や“フサフサ”した物体がお出迎えしてくれて、すぐにお気に入りの場所になった。「今度また行こうね」と、すでにお姉ちゃんと約束もしている。
――今度は、わたしからお姉ちゃんを誘ってみようかしら。
甦る情景に懐かしく目を細めながら、彼女は吸い寄せられるように歩を進めた。
すぐうしろから視線を感じる。
それも大勢の人の視線。
それが自分に向けられている気がする。
ただ、それはいつものことだった。
幼く、小柄な彼女。おまけにその白肌は透き通るように儚げである。
一見目立たなさそうなその容姿。それがかえって珍しいようで、周囲の視線を一手に集めてしまうことは少なくなかった。
彼女はそれを意にも介さず……と言いたげに顎をつんと上げ、背筋を伸ばして、横断歩道の上を歩く。
周囲からのざわめきが一層大きくなる。
道路の向こう側にいる人たちも、その場に留まったまま目を見開いたり、何やら慌てたように叫んだりしている。
――みんな、どうして歩かないのかしら……。ここは横断歩道よね?
どこかいつもと違う雰囲気を感じ、彼女は不安を覚える。
その時、「わっ!」と誰かが一際大きな声を発した。
その声に驚き、反射的に振り返ろうとして、
――目の前に、大きな鉄の塊が迫っていることに気づいた。
平日昼間の町に響き渡る派手なクラクションとスキール音。
それが彼女の耳に届いたのはほんの一瞬だけだった。
ガンッ、と不快な音が全身に響き渡る。同時に彼女の視覚、聴覚がその機能の一切を放棄する。辛うじて感じるのは、何か焦げたような臭いと、身体中を走る熱さ。そして感じたことのない浮遊感。
大型車のぶ厚いタイヤが二度、彼女の身体を踏みつけ、押し潰し、通り過ぎていった。
――あ……熱い……。
意思とは関係なく彼女の身体は震え、跳ね、そして熱い何かを次々と噴き出す。
それからしばらく、地の底から這い出してくるような痛みが彼女の全身を襲う。が、それもすぐに痺れに変わっていった。
いつしか、ざわめきは悲鳴に変わっていた――
自分がどうなったのかわからない。
わかろうとするのさえひど億劫で、辛い。
朦朧とする意識の中、「ああ、わたしはこれで終わるんだ」と他人事のように思った。
――こんなことになるなら、散歩なんてしないで家でゴロゴロしとけばよかった……。
とめどなく膨張する絶望に押し出され、なんとも場違いで些細な後悔が赤黒い塊として流れ出ていく。
もう、どんな小さなことも叶わない。
何もかも……全てが望めないことだと、直感がそう告げてきた。
……それでも、願わずにはいられない。
徐々に白んでいく景色の中で、彼女は必死に心を震わせる。
――せめて……もう、少し……一度だけでも……
だが、潰れた肺の奥底から出てきたのは、かすかな空気だけ。
すでに元の形を失った小さな彼女は、そのまま心臓の鼓動を止めた。
※2014.12.29 文章を一部編集しました。ストーリーに変更はありません。