エレベーターの女
金曜だというのに、一人黙々と残業をこなし、気がつくと十二時をまわっていた。ハンドバッグに充電を終えた携帯電話と飲みかけのミネラルウォーターを放り込むと、消灯、戸締り確認して、部屋を後にする。
廊下には非常灯の灯りしか見えない。このフロアで私が一番遅くまで残っていたようだ。一人で暗い廊下を歩きエレベーターの前に着く。ボタンを押すと、エレベーターは一階からノンストップで上まで上がってくる。
私が働くこのビルは、フロアの真ん中にメインのエレベーターがあるのだが、それとは別に東側にも小さいエレベーターがある。夜間八時以降は省エネのためこの東側エレベーターしか使えない規則だ。
ビルは十八階建てで、わたしの所属は十六階。当然、毎日エレベーターで上り下りしている。十三階まで毎日階段で上り下りしている変な先輩もいるけど、私には無理。
うちのビルってけっこう変な噂が多いのだけれど、この東側エレベーターにも噂がある。あ、変な噂っていうのはあれ、幽霊とか心霊的なやつ。
それはエレベーター内で亡くなった女子社員の霊が出るという都市伝説的な噂。深夜に東側エレベーター内で男性社員が急死していたこともあって、東側エレベーターを呪いのエレベーターと呼ぶ社員もいる。
エレベーターでおかしな体験をしたという体験談もたまに聞くことがある。
多いのはエレベーターの窓に幽霊が映っていたという目撃談。また、夜中に一人でエレベーターに乗っていると、突然止まってしまったという話。
同期の子は、エレベーターに閉じ込められた際に、何か恐ろしい目にあったらしく二度と乗れないと言っていた。何があったのかは教えてくれない。彼女はエレベーターを病的に恐れて、東側エレベーターのみならず、あらゆるエレベーターを使わなくなった。
その子の話を聞いてから、私もしばらく東側エレベーターを一人では使わなくなった。中央エレベーターが使えない午後八時過ぎになったら階段を降りるのだ。といっても、一週間もすれば、便利さに負けてエレベーターを使ってしまっていたのだが。
そして、今日も深夜の十二時をまわったこの時間に私は東側エレベーターに乗り込もうとしている。そういえば、かつてエレベーター事故で女子社員が死んだ事故というのも丁度深夜十二時を回った頃だったらしい。そんな余計なことを思い出してしまったせいか、エレベーターが上がってきたとき、扉の覗き窓から黒い影が見えたような気がしてびくっとしてしまった。
乗り込んで一階のボタンを押すと、エレベーターが降り始める。ウオンウオンというモーター音が耳障りだ。
ライトの光量も控えめで薄気味悪い。呪いのエレベーターなどと呼ばれるのもわかる気がする。早く下に着いてほしいと思う。
途中、エレベーターが止まる。八階だ。
扉が開くが誰もおらず背筋がぞくっとする。いやな感じだ。
何か見えないものが乗り込んできたんじゃないかと想像してしまう。
いやいや、だれかがボタンを押したあとエレベーターが待ちきれなくて階段で降りたのだろう。それとも、ボタンを押したあと、忘れ物にでも気づいたか。なんにしても迷惑な話だ。
そう思っていると、たたたっと駆けてくる足音。小柄な女子社員が駆け足で向かってきた。
私が「開く」ボタンを押すと、微笑んで軽い会釈をしてくれる。かわいい子だ。私も小柄な方だが、さらに小さい。そして若い。高卒したてだろうか。
もう一度エレベーターが動き出す。
同乗者が増えたことで、ほっとする。嫌な空気が晴れた気がした。
一階に着くのが随分遅い。モーター音は聞こえるし、降りている感覚もあるのに、表示は八階のまま。あれ、さっきも八階だったような。
突然、エレベーターがガタガタと振動した。ライトが点滅するとふっと消えた。
「きゃっ」と声をあげてしまう。
真っ暗闇だ。本当に何も見えない。携帯電話を取り出して、その明かりを頼りに、エレベーターの開ボタンを押してみるが反応しない。
同乗した女子社員が「緊急通話はだめですか」というのでエレベーターの非常ボタンを押してみるがこれも反応がない。
「地震ですかね」
「地震だと最寄り階に止まるはずなんだけど、どうしたのかしら」
エレベーターの窓の外を携帯で照らすが、ここは階と階の間であるようだ。扉を開けられたとしても降りられないということだ。
携帯電話を覗くと電波は繋がってるようだ。しかし、ビルの管理センターにかけてみるが繋がらない。エレベーターに貼ってある管理会社のシールの番号もだめ。同僚も、先輩もだめだ。110番も試してみたが、どこにも繋がらない。
「うわぁ、まじで、なんでよ」
復旧を待つしかないのか。まさか、朝まで取り残されるのではないかと心配になる。トイレとかしたくなったらどうしよう。
「あ、あの、電話つながりませんね」
「そうね、私も全然繋がらないわ。どうしたのかしら」
「不思議です。電波はだいじょうぶみたいなのに、どこにも繋がらないなんて」
怯えた様子のその女の子は、小動物的な可愛さがある。それも周りの保護欲を掻き立てる天然のものだ。私と違ってもてるだろうなとそう思う。
見たことがなかったけど、こんなかわいい子がいたとは。
まずは、私から名乗っておくことにした。
「おつかれさま。私は、企画部の鈴木です。お互い災難ですね」
「はい、おつかれさまです。私、人事部で庶務やってる高橋です。入って一年目です」
そんなときだ、エレベーターの中で、がたっと何か音がしたのは。咄嗟に背後を振り向くが、何も見えない。携帯電話の灯りを四隅に向けるが、虫一匹見当たらない。
しかし、また音がした。
上か、と気がつく。蓋がずれていた。天井の救出口だ。職場の安全講習で聞いたことがある。あれは外からでないと開かないはず。
つまり、何かが入ってきたと、そういうことだろうか。
「今のなんでしょう」
「もしかすると、外から助けようとしてくれてるのかも」
自分でそう言いつつも、頭ではそんなわけないと思っていた。私は携帯電話のライトをもう一度扉に向ける。扉の窓に顔を近づけるが見えるのは壁だけだ。
扉から顔を離すと、窓に映って見えるのは自分の顔、のはずだった。
窓に映ったのは見知らぬ女性の顔。両目から、鼻から、口から血を流す髪の長い女性。その口元は確かに笑っていた。目があったと感じた。
「ひっ」
私はとっさに目を逸らし、扉から距離をとった。
「どうしました」
「いま、窓に、女の顔、血だらけの」
もう一度、窓を見るが、今度は自分の顔が映った。高橋さんも窓を覗いていたが、何もないようだ。
「鈴木先輩、ラッキーですね。それは噂のエレベーターの霊ですよ」
「ラッキーって」
「私、怪談って好きなんです」
「何を言ってるのか理解できないんだけど」
「だから、怪談とか怖い話が好きなんですよ、私。社内でもこのエレベーターは怖い噂で有名なんですよ。知ってますか」
「少しなら知ってるけど」
「例えば、そうですね、こんな話があるんですよ」
携帯電話のライトで、彼女の目が爛々と輝いているのがわかった。何でこのタイミングでこんな変な子と同乗してしまったのだろうか。
私は頭を抱えたくなった。
彼女は嬉々として話し始めた。
◆◆
一番うちのビルで有名な話と言えば、落ちるエレベーターの話ですよね。停まったエレベーターが落ちゃう話。これは有名だから聞いたことありますよね。
最近のエレベーターってまず転落しないはずなんですよ。
もし落ちたら衝撃吸収する装置もついてるんですよ。
でもさすがに十階から落ちたら一巻の終わりですよね。
頭ぐしゃっですよ。
んで、出るんですよ。頭ぐしゃってなった女の霊が。
「わたしを殺したのは誰?」って聞いてくるそうなんです。
そこで、上手く答えられないと「同じ目に合わせてあげる」って言われて、エレベーターが落ちちゃうんですよ。うわっ、たいへんだと思ってもどうしようもない。エレベーターが一番下まで落下していくんです。
なんて答えればよいかって。
うふふ、実はこれ助かる答えが知られてないんですよねぇ。普通こういう話って、正しい回答とセットなんですけどね。これは、だれも正解は知らないんですよね。困った話です。
え、事故なんてほんとにあったのかって。ええ、ちゃんと事故はあったんですよ。
それに、このエレベーター内で夜中に失神した人や心臓発作おこした人が実際出てますから、きっとエレベーターの霊の仕業だと思うんですよ。
◆◆
知ってますか。
扉があいたままエレベーターが動いて体挟まれる事故ってあるんですよ。そして、そのままエレベーターが上昇して身体がちぎれちゃう事故が昔あったんです。うちのビルの話じゃないですけど。高速エレベーターのある大きいビルの話。
その被害者の女性「カナコさん」がですね、上昇したエレベーターに挟まれて苦しんだ挙句に急降下したエレベーターで身体が半分にちぎれちゃったんです。
その「カナコさん」がですね、上半身だけで身体を引きずってエレベーター内に侵入してくるんですよ。天井の脱出口から入ってくるんです。エレベーターの中の下半身を探してるんだそうです。捕まっちゃだめなんですけど、狭いエレベーター内じゃ逃げられないじゃないですか。狙われたら絶望的ですよ。
エレベーターの外に出れればカナコさんは追ってこないそうですけど。扉から出ている途中で亡くなったので、扉から出入りすることはしないんだそうです。
え、てけてけのパクリじゃないかって。類似は否定できませんね。
でも、エレベーターの天井から、にょきっと女性が出てくるところを想像してみてくださいよ。しかも下半身がない。てけてけとは違う怖さですよ。逃げるところもないし。
このエレベーターの救出穴もずれてましたね。さっきの音はカナコさんかもしれまんよ。もうここにいるのかも。
あ、忘れてましたけど。この話を聞いた人の前には、夜に一人でエレベーターに乗るとカナコさんが現れるんですよ。でも、私たちは二人だから大丈夫ですね。
◆◆
知ってますか。
このエレベーターが異世界に繋がっている話。最上階からスタートして、特定の階に順番に停めて、最後にエレベーターから降りると違う世界に繋がってるんです。条件がなかなか厳しくて、上に行ったり下に行ったりたいへんなんですよね。あと、途中で、人が乗ってきたらだめなんですよ。一からやり直しになるんです。私も詳しくは知らないんですけど、資格がある人にだけ、どの階にどう止まったらいいか伝えられるんです。
そこは、元の世界と似ているんですけど、微妙に違う世界で、ストレスなくハッピーな毎日を過ごせる楽園なんです。
うちのビルって何人も失踪者がいるって知ってますか?悩みを抱えた人や仕事で疲れはてたような人たちばかり。このエレベーターで消えたんじないかって私思うんですよ。
でも、この話にはデメリットもあるんです。もし停める階を間違うと悲惨な世界に飛ばされちゃうんですよ。それはもう悲惨なんです。自分がこちらの世界で嫌だったことが毎日続く悲惨な世界なんです。
それなら元の世界と変わらないんじゃないかって。いえいえ、この世界なら、常に改善の可能性があるじゃないですか。希望があるじゃないですか。あちら側ではそんな希望が全くないんですよ。
だから、絶対に押し間違えちゃだめなんです。
◆◆
嬉々として怪談を話し続ける彼女を前に、私はため息をついた。
それに合わせて、小さい声が聞こえた気がした。
女性の声。
天井の非常脱出口に目がいく。そういえば隙間はどうなったんだろう。
ふと思いついて、天井に携帯の光を向けてみた。
そこから、顔が覗いていた。
私は、声もあげられず後ずさって壁にぶつかった。
心臓が止まるかと思った。いや、むしろ心臓がどくどくと鳴っている。呼吸が苦しい。
見間違えじゃない。確かに顔が覗いていた。にたっと笑った女性の顔。
「先輩、どうかしました」
「今、顔がそこから」
私は天井を指差した。
「ちょっと隙間があいてますけど、何もいませんよ。先輩もしかしてカナコさんを見たんじゃないですか。ずるい、先輩ばっかり」
この子はどこかおかしいんじゃないかしらと思うのはしょうがないことだと思う。
「まだ復旧しないの。もう一時間も経ってるじゃない」
「外の世界は、たいへんなことになってたりして」
また、この子はわけのわからないことを言う。
「なによ、それ」
「映画とかであるじゃないですか。ふと病院で目覚めるとだれもいない。実は、病院で寝ている間に世界はゾンビだらけになって滅びかけていたんです。主人公は、何も分からずサバイバルに突入していくことになる」
「ああ、そんな映画あったわね。でも、そんなのお話の中だけよ。もちろんあなたの好きな心霊現象もない。あるのはただの管理会社の怠慢よ。絶対クレームいれてやるんだから」
「本当に」
「え」
「本当にそう言い切れますか。先輩さっきから、女の顔を見たとか言ってるじゃないですか。まさに、いま心霊現象のただ中にいるんじゃないですか。」
「それは、ちょっと疲れて見間違えただけで」
「でも、管理センターに繋がらない。電話だって電波があるのに誰にも通じない。おかしいですよね」
高橋さんの声のトーンが下がった。真剣な口調で、私があえて気にしないようにしていた嫌なところをついてくる。
暗闇の中で、高橋さんの目が、こちらを見つめているのを感じる。
そう、確かにおかしいのだ。なにかおかしなことが起こっているのだ。認めたくないけれど、何か私の常識で計り知れないことが起こっている。そんな気がしている。
頭がじんと痺れてくる気がした。どうしたらよいのだろう。このまま待っていてよいのか。何か動かなければならないのか。
頭がぐるぐるとまわってきたとき、ハンドバッグから振動を感じた。
携帯電話の着信だ。電話、誰からでもいい。この状況を脱出できるなら。
「ほ、ほらっ、電話きたわよ。先輩だわ。これで助かる」
高橋さんが「なんで」と呟いたように聞こえたが無視してまずは電話に出る。
「先輩、よかった。ぐすっ、聞いてください。今エレベーターに閉じ込められてるんですよぅ」
「なにやってんだ。管理センターに電話しろよ。それより俺の用事をだな。今度の合コンなんだけど」
「そんなの後にしてください。あ、絶対切らないでくださいね。まじピンチなんです。エレベーター動かなくて、停電で真っ暗で、こっちからは誰にも電話繋がらなかったんですから」
「停電て、おれまだ社内だけど電気着いてるぜ」
「本当ですか。ちょっと管理センターに連絡してもらえませんか」
「ちょっと待ってろ」
「あ、切らないでくださいよ」
がさがさと動く音だけが聞こえた。
「管理センターに連絡したけど異常なしだってよ」
「そんなはずないです。ちゃんと調べてもらってくださいよ」
「それなんだけどな」
言いにくそうに先輩は言葉を続ける。嫌な予感がする。
「東側のエレベーター普通に使えてるんだよ。おれ今十三階から上にあがってきたとこで、これから1階まで降りてみるとこ」
「ええっ、じゃあいったい私どこにいるんですか」
「鈴木、お前ほんとにこのビルにいるのか?夢見てるわけじゃないよな」
「間違いないですよ。それに私だけでなくて、人事の高橋って子もいるんです」
「異次元にでも迷い込んだか。あ、まさかの中央エレベーターってことはないよな」
「落ち着いて言わないでください。広さが全然違いますし、窓もありますから間違いなく東側エレベーターですよ。ああ、もうどうなってんの」
「こっちは一階に着いたぞ。とりあえず落ち着いてエレベーターに乗ってからのこと、詳しく話してみろよ」
先輩から細かいことまで突っ込まれながら、エレベーターに乗ってからのことを事細かに話す。
「ふーん、ちょっとさ、高橋って子に変わってくれないか」
「高橋さんと、何で」
「いいから」
「はい、まあいいですけど」
「高橋さん、先輩が代わって欲しいって。柚木さんって言うんだけど、人事部だから知ってるかな」
「え、たぶん」
高橋さんは私の電話を耳に当てた。先輩と会話をし始めるが、高橋さんの声は随分と不機嫌そうだ。
「はい、私、高橋といいます」
「課長の名前は石田ですよ」
「柚木なんて聞いたことないし」
「なに言ってるんですか」
何を話しているんだろう。
高橋さんは少し声を荒げている。
突然、高橋さんは、携帯を耳から話しボタンに触ってから私に預けてくれた。
「切れちゃったみたいです」
自分で切ったようにも見えたけど追求はしない。先輩が何か怒らせるようなことを言ったのだろうとそう思う。
「柚木さん、何て言ってた?」
「さあ、よくわからなかったです。あの人、本当に人事課なんですか。私、一応課の職員の名前と顔くらいは覚えているつもりですけど、全く聞いたことない」
先輩に電話をかけてみるがやはり繋がらない。
だがすぐに、先輩の方から電話がかかってきた。
「おい、無事か」
「無事です。なんで先輩は電話通じるんですか」
「知らねーよ。そっちからかけられなくなってるだけじゃないか。あと、おれ霊感強いから関係あるかもしれないけど」
「うわ、初耳です」
「それより、まずその高橋って子の言うことはもう聞くな。人事部に高橋なんて、いないんだよ」
エレベーターが揺れた。
「おれ、前に施設保全課にいたから詳しいんだけどな。最近だとエレベーター内で心臓発作おこした人もいたけど、うちのビルで起こった大きいエレベーター事故は過去に一件だけだ。十年前、扉が空いているときにエレベーターが動いて人が挟まって首の骨が折れちまった」
私は無言で聞き入っていた。
「それでな、その女性の名前が高橋だった。しかも人事課だったんだ。その事故のあとだ、東側エレベーターの怪現象の噂が始まったのは」
「人事課の高橋、さん」
高橋さんの方を見る気になれなかった。見てはいけない、そんな気がした。
「さっき、その子に聞いた人事課長の名前もおかしかった。お前、今の人事課長の名前知ってるか」
「吉田課長ですよね」
「そうだ。でだ、お前の隣の高橋がさっき口にした人事課長の名前は石田だった。うちで石田といえば、お前んとこの総務の石田部長だろ。あの人はちょうど十年前、その事故のあった年に人事課長だったんだぜ」
わけがわからなかった。
「お前といっしょにいるそいつ、何者だよ」
えと、エレベーターに乗ってきた女子職員が人事課の高橋を名乗ってるけど、人事課にいる柚木先輩は高橋なんていないって言っていて。
それまで黙っていた高橋さんが口を挟んできた。静かな強い声で。どこか怒っているように感じる口調で。
「鈴木先輩、その電話の人の言うことに惑わされちゃだめですよ。おかしいですよ、さっきまで電話通じなかったのに。この電話も怪奇現象の一つかもしれません」
「あ」
確かにそうだ。
でも、柚木さんは私の先輩で、頼りになる人で、ちょっと気になる人でもあるのだ。
電話で声を聞いている限りでは、違和感は感じない。
たしかに電話が突然通じたのは不思議だったけど、先輩が先輩だって確認できれば、それでもう迷わなくてすむ。
「念のため、念のためです。柚木先輩が本物か確認させて下さい」
「おい、そんな場合か。まあお前が安心するってならいいけど」
「好きな音楽は何ですか」
「アンセム」
「好きな女優は」
「仲間由紀恵」
「彼女の名前は」
「今いねーよ。知ってるだろ」
「彼女に振られた理由は何ですか」
「おま、それ言わせるの」
「本人確認のためですから、早くおねがいします」
「アニメ見るのがキモイって……」
「オーケー、本物みたいですね」
よしよし頭がはっきりしてきた。
やはりこの高橋という子はおかしい。
何と言うか、私を怯えさせて怪異を信じさせようとしているようなところがある
「よし、なら直接、その高橋って名乗る女に、お前の正体はわかったって言ってやったらどうだ。強気でだぞ」
先輩の言葉のおかげか、このときの私は何か勝ち誇った強気な気分になっていた。高橋さんの正体がわかったという高揚感に満ちていた。
「あなた何者なの」
私は高橋さんに向かって強い口調でまっすぐに疑問をぶつけてみる。回りくどいのは苦手なのだ。
暗い密室の中でも、高橋さんがこちらを見つめているのがわかる。
無言の圧力を感じる。
「電話の先輩は本物よ。そして、その先輩が、あなたの存在に疑問を持ってる。あなたいったい何者なの。いえ、言わなくてもいいわ。あなたは、このエレベーターの事故で亡くなった高橋さんよ。なんでか知らないけど、化けて出てきて、私を怖がらせようとしてる。早く消えてよ。」
「く、けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ」
笑い出した。
笑い続けていた。
そして。その首が徐々に曲がっていって、ありえない方向に折れていって、体から頭がぶらさがったような状態で、でもその瞳はしっかりとこちらを捉えている。
「た、高橋さん」
先ほどまでの高揚感が、嘘のように消えていく。
ぜえぜえと自分の呼吸が荒くなっていくのがわかる。
突然、エレベーターが動き出した。ウォンウォンとモーター音が聞こえ、下へ下へと降りていく。
そして止まる。扉が開く。その先に見えるのは闇。
高橋さんは、エレベーターから降りていく。
「今回は、先輩に免じて見逃してあげますね。あと石田課長は総務部長になったんですね。あの人嫌いだったから、今度あいさつしてあげようかな」
笑顔で告げて降りていく。闇の中で人影が高橋さんを待っている。高橋さんを待っているのは、複数の人影。そのうち一人は頭の潰れた高橋さんだ。それに下半身がちぎれた高橋さん、これはさっきの話の「カナコさん」に違いない。高橋さんの名前はカナコさんだったのかもしれない。
「先輩さんによろしく」
扉が閉まり、明かりが点く。一階と表示されている。
「開」ボタンを連打した。
早く早く扉よ開いて。気が急いて仕方がない。扉が空くと、エレベーターから飛び出す。
目の前に人影があり、ぶつかりそうになる。
「危ね」
「先輩」
「よ、無事だったか」
私はその場にへたりこんだ。
ここは、いつもの私の世界でいいんだよね。ちょっとだけ不安になる。
「無事、みたいです。いったいなんだったんでしょう」
「さあな、お前、幽霊に気に入られたのかもな」
「うげ、もうこのエレベーターには乗れないなぁ」
外を見るとすでに空が明るくなっていた。
ん、夜明けって。
「先輩、おかしいですよ。もう朝です」
「おかしくねーよ。一晩たってんだからよ」
「二、三時間くらいにしか感じられなかったんですけど」
「時間の流れが違ったのかもよ。得したんじゃないか」
「てか、先輩、一晩中待っててくれたんですね。なんか感動しちゃうな」
「うっせ、帰るぞ」
「あ、じゃあ朝マック行きましょ。お腹すいちゃった。私、おごるんで」
「ファミレスにしよう。腹減ったんだよ」
「うーん、いいですよ。特別ですよ」
苦しいな。ワンアイデアでさらっと読める内容を目指したけど、ごちゃごちゃしてしまいました。
先輩から電話が繋がる理由をもっと理屈付けしようと思ったけれど、理屈臭くなって雰囲気壊れるからやめておいた。その辺はご都合主義とのバランスが難しい。