8
ポツポツと街灯が白く灯る二車線の道をひたすらバイクを走らせる。夜の八時を過ぎた国道は帰宅ラッシュもそろそろ終わり、上下線ともだいぶ空いてきていた。いつものコンビニエンスストアが近付くと、広い駐車場に数台のバイクが駐まっているのが見える。恵也はそれがクレイジータイガーのヘッド、橘のものなのを確認すると、ドキドキしながら駐車場に乗り入れた。
橘と会うのは加藤の所で黒部に紹介されて以来だ。会い辛かったのは自分からバーに呼び出したのにすっぽかした形になってしまったこともあるが、それだけではない。自分でもまだ覚悟が出来ていなかったからだ。つまり、橘に『フラれる』覚悟がだ。
「ハァ……」
恵也は無意識に深い溜息をつく。そして、駐車場の反対端にバイクを駐めると、ヘルメットを脱いで胸前をくつろげた。そろそろ鬱陶しくなってきた髪をバサバサと手櫛で梳きながらチラと視線を向けると、向こうでもこちらを見ているのがわかる。いつもならニコニコ顔で『姫!』と言いながら歩み寄って来る橘も、今日ばかりは無言だ。無言でバイクの脇に立ち、ジッとこちらを見ていた。
(怒ってる……よな)
会いたいと言ったのは自分である。橘から突然会社に電話があった時、恵也はてっきり『姫』が自分であることが橘にバレたと勘違いしたのだ。しかし、橘にバレたのは姫が『里見恵也』という名前であることと、コア企画の社員であるということだけだった。そして、今も橘は自分のことをライバル会社の一営業社員としか思っていない。つまり橘はコア企画には『姫』と『沢村の上司である男』がいると思っているのだ。なんとも複雑な話である。いっそ自分が姫であることがバレてしまった方が楽なような気もするが、環と付き合っていると宣言してしまった手前、そうもいかない。
(グチャグチャだ……)
恵也はバイクを離れると、少し迷ってから店舗に向かう。すると、クレイジータイガーの方でも人影が動いて誰かがこちらへと歩いて来た。
「……ッ」
その人物にチラと視線を向けた恵也は、その場で足を止めて待つ。
「よお」
環は恵也の前で立ち止まると、首を傾げて笑った。
「ここで会うのは久し振りだな」
「この間は世話になった」
恵也が会場のことで礼を言うと、環が手を伸ばして恵也の金色の前髪を指先で摘まむ。
「あの男と付き合ってるのか?」
何の前置きも無く問われ、恵也は驚いて目を見開くと、すぐにムッと顔をしかめてその手を払いのけた。
「あいつはそんなんじゃない」
言いながら、沢村に告白された時のことを思い出す。
『じゃあ、俺も諦めません!』
好きな奴がいるから気持ちには応えられないと告げた時、沢村はそう言って微笑んだ。あの強さが今の恵也には羨ましい。チラと視線を向けると、橘は車止めに腰を下ろしてジッとこちらを見ている。環が恵也の視線を追うように後方を振り返ると、二人の視線に気付いた橘がスッと立ち上がった。
(あ……)
橘がゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。久し振りに見るライダースーツ姿は、やはり暴走族のヘッドらしくサマになっていた。
「この間は悪かったな……」
夜の駐車場は暗いので、少し離れていると表情がわからない。ようやく顔が見える距離まで近付いたところで気後れしながらも謝ると、その言葉に何か別のことを考えていたらしい橘が思い出したように「ああ」と答えた。
「気にするな。どうせ残業だったんだろ?」
その言葉通り、橘は全く気にした風もなくそう言うと、ところでさ、と言って全然別のことを切り出す。
「お前の会社にお前によく似た奴がいるだろ。お前よりもっと年上でハンサムな」
その『もっと』が年上に係るのかハンサムに係るのかはわからないが、それが自分のことなのはわかる。
「え?」
恵也は思わずギクリとすると、視線を斜め上に向けた。
「さあ……そんな奴いたかな」
背中にドッと冷汗をかきながら言うと、橘が「いるだろ」と言って更に食い下がる。
「お前の会社で一番ハンサムなヤツだよ。沢村とかいうヤツの上司の」
「え……」
すると、その言葉に恵也ではなく環が口を開いた。
「沢村?」
「知ってるのか?」
橘に驚いたように尋ねられた環が、チラと視線だけ動かして恵也を見る。
「この間、姫が一緒にいた男だ」
「なに?」
その言葉に、橘も恵也に視線を向けた。
「そいつと付き合ってるのか?」
どちらかと言うとそれを望むかのように問われて、恵也は思わず眉を寄せる。キツい瞳で見上げながら、俺がそいつと付き合ってた方がいいのか、と問うと、途端に橘は「いや、そういうんじゃないけど」と答えてチラと環を見た。
「どうやらヘッドはその男に惚れたらしい」
環が橘の代わりに答え、口の端を上げてフンと笑う。
「どんな男なのかは知らないが、姫に似ているのならかなりの美形なんだろうな」
環が言うと、その言葉に途端に橘が「そうなんだよ!」と答えて嬉しそうに声を張り上げた。
「それがびっくりする程の美形でさあ!」
そしてそう言うと、どうやら受付嬢たちに『クールビューティ』と呼ばれてキャアキャア騒がれているらしいことを嬉々として話す。
「なんでそんなことまで知ってんだよ」
恵也が鼻白んで尋ねると、以外にも橘は赤くなって照れたように笑った。
「いや、ちょっと敵情視察をな」
その言葉から、どうやら橘が会社のあるビルにまで来たらしいことに気付き、恵也は動揺して「怖いから!」と叫ぶ。
「そういうのを世間ではストーカーって言うんだぞ!」
声高に責めるように言うと、橘が心外そうに眉を寄せた。
「別に姫に会いに行ったわけじゃないだろ」
そしてそう言うと、不意に上体を屈めて「ところでさ」と声を顰める。
「もしかしてそいつ、姫の兄弟か親戚なんじゃないのか?」
「えっ?」
いきなり耳元で囁かれた恵也は、近過ぎる顔と吹きかけられた息の生々しさに思わず赤くなって慌てた。
「いや、他人であんなに似てるなんてちょっとあり得ねえと思ってさぁ」
橘はそう言うと、「大丈夫、内緒にしてるんなら誰にも言わねえよ」と言って安心させるように笑う。
「俺には兄弟も親戚もいない……」
恵也は表情を硬くして答えると、そいつを探してどうすんだよ、と反対に尋ねた。途端に橘が一瞬沈黙してから困ったように笑う。
「たぶん……本気なんだと思う」
「え?」
その言葉に、恵也は一瞬何を言われたのかわからなくてキョトンとする。
「たぶん、本気で惚れちまったんだと思う」
橘がもう一度繰り返して言い、その言葉の意味を理解した恵也は次の瞬間ブワッと耳まで真っ赤になった。
「ええッ?」
いきなり真っ赤になって声を張り上げた恵也を見て、なんで姫がそこで赤くなるんだよ、と橘が不思議そうにツッ込む。
「う、うるさいッ!」
恵也は思わず牙を剥き出すと、橘に背を向けてザカザカと店に向かった。
「ナニやってるんですか、先輩?」
「うわッ……!」
いきなり後ろから声を掛けられ、大慌てで振り向いた恵也は、そこに沢村の顔を見てホッと胸を撫で下ろす。
「なんだ、お前か……」
恵也は眉を寄せて、驚かすなよ、と言うと、再び建物の陰から事務所のある大きなビルの入り口を窺った。
「もしかして隠れてるんですか?」
沢村の問い掛けに、恵也はちょっと言い淀む。
「そういうんじゃないけど……」
しかし、明らかに今の自分の姿は怪しいに違いない。恵也はゴホンと小さく咳払いすると、それとなく周囲に目を配りながら建物の陰から出た。
「誰か会いたくない人でもいるんですか?」
恵也の後ろを付いて歩きながら、まさか俺じゃないでしょうね、と言って沢村が情け無い顔をする。
「なんでお前に会いたくないんだよ」
恵也はムッと顔をしかめると、交差点を渡り始めたところでハッとその理由を思い出した。
「す、すまない……」
そういえば自分は沢村をフッたのである。すっかり忘れていたので恐縮して謝ると、沢村がいつもと同じ笑顔で「何がですか?」と返す。そして不意に前方に視線を向けると、「あれ?」と言って指差した。
「あれって……」
言われて視線を向けた恵也は、次の瞬間凍り付く。
「よお」
紫がかった派手なスーツにエナメルの靴。群衆の中でもやたらと目立つそのハンサムな男は、恵也に向かってヒョイと片手を上げると、嬉しそうに目を細めて笑った。
「橘……」
それは紛れもなくクレイジータイガーの橘だった。橘は恵也が交差点を渡り終えると、隣にいる沢村をジロリと見る。
「悪いな、ちょっと借りるぞ」
挑戦的な目で凄まれた沢村は、それに負けないくらいの目で睨み返すと、恵也の手首を掴んだ。
「行きましょう、先輩」
恵也が隠れていた理由が、橘の待ち伏せを警戒してのことだと気付いたのであろう。沢村はそう言うと、恵也の腕をグイと引いて自分の後ろに庇おうとする。
「悪い……」
恵也はその手をそっと外すと、躊躇いながら橘を見た。
「この後、クライアントとの約束があるんだ。それほど時間は取れないが……」
「構わない」
恵也の言葉に、橘が短く返す。
「じゃあ、少しだけ……」
恵也はどちらにともなくそう言うと、事務所のあるビルに先に立って入った。
「いらっしゃいませ」
そのビルのロビーの一角には喫茶店が入っている。壁もドアも無いオープンスペースなのと、椅子ではなく応接セットが置かれているので、ロビーの一部のようにも見えるが、所々に置かれた観葉植物がロビーと店舗スペースとを仕切っていた。恵也たちが窓際のソファに腰を下ろすと、すぐにメイド服姿の若い店員がやって来て注文を尋ねる。
「コーヒーを」
二人分のコーヒーを頼もうとした恵也は、当然のように隣に座った沢村を見た。
「なにサボッてるんだ、沢村」
眉を寄せて追い払おうとすると、野生の感なのか沢村が「イヤです」とキッパリと答える。
「俺はここにいなきゃいけない気がします。だから同席させていただきます」
沢村はそう言うと、勝手にウェイトレスに三人分のコーヒーを注文した。
「かしこまりました」
ウェイトレスが頭を下げて後方に下がり、恵也は溜息をついて橘に向き直る。
「それで? 今日は何の用で来たんだ?」
尋ねると、恵也の言葉に橘が真面目な顔で答えた。
「ヘッドハンティングに来た」
予想外の言葉に、恵也は一瞬目を丸くして橘を見詰める。途端に沢村が「はあッ?」と声を張り上げた。
「なに考えてんだ、お前!」
沢村はそう言うと、ガタッと立ち上がって恵也の腕を掴む。
「行きましょう、先輩!」
「待て、沢村」
恵也は沢村の手を掴むと、再び椅子に座るよう目で示した。
「理由を聞こう」
再び正面に向き直ると、硬い表情で沢村を見上げていた橘が恵也に視線を戻す。
「腕の立つブレインが欲しい」
橘はヒタと恵也を見詰めると、身を乗り出してテーブルの上で両手指を組んだ。
「来年を目途に、資金が何とかなり次第、起業しようと思っている。一緒にやらないか」
橘の言葉に、恵也はジッとその顔を見返す。
「この不景気に、正気か」
硬い表情のまま尋ねると、橘がその言葉に口の端を片側だけ上げて笑った。
「景気も不景気も関係ない。どんな時代でも稼ぐ奴は稼ぐしツブれる奴はツブれる。一度きりの人生だ。俺は自分の力を試したい」
橘の橘らしい言葉に、恵也は思わず苦笑する。だが、答えはノーだった。
「悪いが、俺は今の会社が好きだし、社長にも恩がある。辞めるつもりはない」
恵也のきっぱりとした言葉に、沢村が安心したようにホッと息を吐く。
「そうか」
橘は短く答えると、体を起こしてニヤと不敵に笑った。
「まあいい。だが俺は諦めない。絶対にお前を手に入れてみせる」
「何だと!」
橘の挑発とも取れる言葉に、途端に沢村が再びカッと眦を険しくする。
「沢村」
恵也は今にも掴みかかりそうな勢いの沢村を手で制すると、再び橘をまっすぐ見た。
「そういうわけだから申し訳ない。だが、同年代としてエールは送らせて貰う。頑張ってくれ」
言いながら右手を差し出すと、橘が手を伸ばしてその手をギュッと掴む。
「華奢な手だな。力を入れたら握り潰しちまいそうだ」
橘は小さく笑ってそう言うと、ウェイトレスがコーヒーを運んで来たのを機にソファから立ち上がった。
「飲んでいかないのか」
立ち去ろうとする橘に、恵也は咄嗟に声を掛ける。橘はその言葉に振り返ると、目を細めて笑った。
「これからクライアントと待ち合わせなんだろ。時間を取らせて悪かったな」
「ああ……」
橘の言葉に、恵也は午後の予定を思い出す。そして、こういう気遣いも出来る橘を不思議に思った。ワンマンでオレ様タイプかと思えば、不意に繊細な優しさを見せる。そのギャップに恵也はいつも戸惑わされる。どちらが本当の橘なのか。そして、自分はどちらに惹かれているのだろうか……。
月が替わり、加藤の博多支社長就任の報が小さく紙面に載る。その電話があったのは、その数日後のことだった。
「はい、里見ですが」
事務員からの取り次ぎで電話に出た恵也は、その声を聞いた途端にゾクリと肌を粟立たせる。
『やあ、久し振りだね』
「いつもお世話になっております」
恵也を名指しで電話して来たのは、加藤の後任の黒部だった。
「申し訳ございません。担当の沢村は只今外出しておりまして……」
携帯から至急連絡を入れさせようとした恵也に、いやいや、と黒部が猫撫で声で答える。
『今日は君に用があってね』
「わたしに、ですか」
眉を顰めて尋ねると、受話器の向こうで黒部が楽しそうにクックッと笑った。
『何もそんなに警戒しなくてもいいだろう』
「いえ、そのようなことは……」
答えながらも、胡散臭さに恵也は思わず身構える。
『実は折り入って君に相談があってね』
黒部が気持ち悪いほどの上機嫌な声で言い、恵也は警戒しながら、はい、と答えた。
「実は、新しく決まった会場の下見がしたいので君に同行して欲しいんだよ」
「わたしに……ですか」
それなら担当の沢村の方がいいだろう。そう言うと、黒部が「それなら」と言って声音を低くする。
「担当者を替えて貰おうかな」
「え?」
黒部の言葉に、恵也は受話器を握り締めたまま返答に詰まった。
「元々我が社は君が担当していたわけだし、それなら文句は無いだろう?」
黒部は揶揄うようにそう言うと、受話器の向こうでハハハと笑う。
「冗談だよ。心配しなくてもいい。下見には他にも二、三人同行するし、君の知っている橘クンも来る」
(橘も?)
なぜ橘が、とは思ったが、確かに彼も一緒なら黒部も変なことはしないだろう。
「わかりました」
恵也は渋々答えると、待ち合わせの場所と時間を尋ねた。
「時間は一時間後。場所はホテルのロビーでいいだろう」
「わかりました」
電車の乗り継ぎを考えても、今から出れば十分間に合う。恵也は時計を確認しながら了解すると、一時間後に合流する約束をして電話を切った。